*名前変換されていない名前がありますが仕様です。
「幽霊になっても死にたくないって思うかい?」
それはそう思うだろう、なぜって、それは私が生きている限りそう簡単に死にたくないという願望は捨てられないからだ。
生きたいか、ではなく死にたくないか、と問うたこの声は頭上から降ってきた。
もはや意識も朦朧としていた当時の私ははいそうですね、とそういう意思表示のために頷いて、そのまま意識を手放したと思う。
思うというのはほとんど記憶になく、起きたら病院で、死にかけていた記憶は鮮明に、体だけは完治して、目の前の医者にはほとんど体総とっかえしたけれど生き返ってよかったねと言われた。それはもはや私ではない別の人間では、なんて思ったら、本当に別人になっていた。
顔こそほとんど本人だったものの気づけば私の名前は死亡者として処理をされ、病室の名前は見たこともない人間の名前だった。
「おはよう、幽霊くん」
「おはようございます……あなたシャーマン?」
「あいにくそういう異能は持ち合わせていないね」
私が起きてから一日ほど経ってその男は現れた。
黒髪スーツの優男、と思わせてその立ち姿がどこまでも堅気のそれではないことを私は早々に理解した。
相手が特にそれを隠してもないし、血まみれで死にかけた私の頭上から落ちてきた声の主と思えば一般人と言われる方が信用ならない。
ただ、死にかけていた私をわざわざ助けたということは何かしらで使えると思ったに違いなく、ろくな使われ方をしそうにないのは経験上本能が訴えていたしその顔が物語っていた。
「では、幽霊にどんなご用向きで?」
「話が早くて助かる。都合良く理解良く使いやすい幽霊を探していたんだ。この世界で生きるのは今の君には大変だろう? どうかな、俺の幽霊になってみないかい?」
「死にたくなければその手を取る以外にないのでしょう? 私、あなた知ってますよ、スカーフェイスでしょう?」
顔に大きな傷のある男は柔らかく微笑んでみせた。
何しろ私、この人たちのことを調べるためにやってきて、おそらくこの人たちのことを知るついでに知ったもののせいで死にかけた。
少しばかり後ろめたい仕事についたのは自分の意思と反していたけれど足を突っ込んだら抜けさせてくれるような世界ではなく、使えるからと、幸運にも平和的に重用された私は自分が調べたついでに知ったもの的に所属している団体ごと墓場行きだなと先日諦めた。
私が引き当てた彼らに付随する情報は血界の眷属のものだった。それも特定の存在の、本人といえばいいのか、その存在が暴かれたくないものを、何の因果か引き当てた。
それのヤバさは一部の人間は察していたけれど、残念ながら悪用しようと軽率に行動した人間から順番に殺されていった。私がこのろくでもないと噂の街に旅立つ日にはもう団体の人間のほとんどは消息不明になっていた。死体はあがってないだけで、この世から消滅しているだろうことはその常軌を逸したスピードで理解せざるを得なかった。
そうしてこの情報を知り得そうな全ての人間がこの世からいなくなった時、調べもの担当の私が最後に選ばれた。後回しにされたのはその個体の気まぐれか、私が一番沈黙を守っていたからなのかはわからない。
それでもなんとか私は逃げようと、この街へやってきて、そして予想通り死にかけて、予想外に助けられた。
「そういうことだ。せっかくここまで秘密にたどり着いたんだ。第二の人生を楽しんでくれたら嬉しいよ」
「まっとうな待遇をいただければ何でもお仕事するように躾けられてますから」
「ははっ。君のおかげで厄介者を引きずり出せたからそこは当然考慮するさ」
ろくでもない世界の多少マシな団体からマシかもしれない組織へ渡り歩くはめになった私は望むともなく目の前の男の幽霊になったのだった。
「エレナさんって昔からライブラにいるんですか?」
素朴な疑問を浮かべた少年の名前はレオナルド・ウォッチ。平々凡々のようでいてこの異能力博覧会みたいなライブラという組織の中でも希少価値の高い神々の義眼を有してなお健気に生きるお見事な胆力の持ち主である。
対して呼ばれた私はそうだね、と返事をしながら考える。考えるまでもないけれど。
「前の私が死んだ時からだから何年前かな?」
「前の私が死んだって、え? なんすかそれ」
にこりと笑って私の直属の上司を見た。つまり、スティーブン・A・スターフェイズ氏のことである。
彼は我々の会話なんて端から無視して仕事を決め込んでいるがイコール話を聞いていないというわけではない。
ライブラとしては比較的平和な本日、上司たちは事務仕事をしたり休憩を挟めたりと貴重な内勤日和である。
「昔ライブラのこと調べていたら当時ライブラのターゲットだった血界の眷属の地雷踏み抜いて死にかけたんだけど戸籍抹消されてそこのスティーブンに雇われました、って感じかな?」
「感じ? ってどころじゃなくない?! それ大ごとですよね?!」
「そもそもエレナって第二の名前だからね。レオ君、ちなみに前の名前は聞かないように。聞いたらそこの氷の上司に沈黙の肉塊もどきにされちゃうからね」
肉塊もどき経験者もといザップ青年はあいにく本日外回りという名のサボりだったが事務仕事の邪魔が入らないというだけで彼は仕事を全うしているので問題はなかった。誰も彼がいないことに文句も言わなければどこに行ったのかも聞かないくらいだ。
それよりも目の前のレオ少年にとっては私の話の方が興味津々らしい。混乱、を頭の上に浮かべて視線は私の方を外さない。一瞬その義眼でも使うのかと思ったけれどあいにく別に名前が浮かび上がるということはないと、思うよ。
「え、ちょっと、スティーブンさん、何してんスか?!」
「まあそうした方が彼女安全だったからね。当時は人も今より少なくて有能な部下は欲しかったところでね」
レオ君の手前私は黙っていたけれど、都合の良い、理解の早い、利用しやすい駒が欲しいという感じに生き返って早々言われたことを私はきちんと覚えている。覚えているけれど青少年の育成上よろしくないので黙っていることにする。スティーブンはどうもライブラの面々にそういう面は極力感じさせたくないのようなので。
そんな雑談も一区切り、それぞれ仕事に戻ったり出掛けたり帰ったりと、定時という概念があまり働かない職場の午後は淡々と過ぎていった。
クラウスさんも帰り、残りは私とスティーブンだけになる。
私は仕舞っていた別の端末を取り出し、そちらのお仕事も行う。
私はライブラの人間であると同時にスティーブンの都合の良い幽霊でもあるのだ。
いつでも最新情報を無作為に抽出して精査するのもお役目なので今日は気の向くまま、危なくない程度にネットの海に潜り込む。
仕事はいつでも終わらないし幽霊はいつまでも彼に取り憑いたままだ。案外居心地が良くて、困っていた。居心地の良さの名前はとうに知れていたけれど、それはまだ口にしたことがない。
「飛び込みで一件、血界の眷属関連の可能性が高い。よろしく」
「かしこまりましたよ」
まあ平和などそうそう長くは続かず、今日は切り上げようと思えば仕事が増える。
彼の端末には世界中から情報が飛び込み、時差は関係なく、時折この男はいつ寝てるのか不安になる。
そして言われるがままその最新情報を探し続ければ時間なんてあっという間に過ぎていく。
平和なことは続かず、集中力も不確かになった頃、少し手を緩めて、休憩がてら昼間レオ君に話していたことを思い返していた。
たまたま、私の勘が人より良く、それがスティーブンにとって使える勘の良さで、その形のない私にとっても掴みかねるそれによって過ごすことになったこの数年は思ったよりも幽霊の私は生を謳歌していた。
それは元々血界の眷属を追っていたクラウスさんたちも私のことを最初から知っていて、幽霊でありながら本当に幽霊ではなく、ライブラの幽霊も兼ねることになったからかもしれない。だから私は仕事に打ち込むスティーブンだけではなく、ライブラの中にいるスティーブンを知ることができた。それは私にとって自分を拾った相手のことをより知るチャンスとしては十分すぎた。
どこまでも冷酷になれる顔をする瞬間を私は都合上知っていたけれど、それと同時にライブラにいる時のスティーブンのこともよく知っていた。
クラウスさんと話すときにふと笑うその顔が安堵を含んでいるし、いつも通りのザップに対しては笑顔で躊躇いなく締め上げて、それを時折楽しんでいるふしがあるし、チェインやK・Kにはフェミニストよろしく、効果があるかはともかく優しく接してその反応を実は気にしているし、ギルベルトさんには親愛と敬意を持ちつつほかの人とはまた違う表情をみせる。レオ君には少しからかうように時折冗談を言い、たまに冗談のような本当を言い、それに怯えているレオ君をよそにその肩に載っているソニックに意識を向けている。最近入ってきたばかりのツェッドに対してはなんだかんだ馴染んでいるのかと気にして声をかけたり、みんなで話ができるようにさりげなく話の流れをコントロールしている。
そんな風にわかりにくくわかりやすい上司の顔を近くで見るのは幽霊だからできることで、だから、私はこの人生を人が思うよりも楽しんで、そして慈しんでいた。
そんな風に手と目だけを動かして、つらつらと思いをはせていたらなんとなく、考えていた分だけ胸の底に何かが薄く、けれど確実に積もっていき、そうしてそれは言葉という形でなんでもないような様子で勝手に落ちる。思考力の低下はろくでもない。
「私、あなたのこと好きなんですよ」
カメラ映像に潜り込めないかなとタイピングをしながらなぜ口走ったかわからない言葉に呆然としていた。一応隠すつもりはあったのに。あ、と思ったのに発言は覆せない。音も文字も、出してしまえばないことにはできないのを、私は知っている。
「知ってるよ」
ほとんど間も置かず、日常会話のようにその返事はやって来た。
返答があることは予想していたが確認のようでも受け入れられるのは想定外だった。冗談と流されるのがせいぜいのはずだったのだ。間の抜けた顔を横の上司に見られることは不可抗力だろう。そうだろう。
「は」
「僕もそれをわかっていて不快な人間を置くほどではないことだけは伝えておくよ」
疲れてるみたいだから今日は終わろう。どうせ使い物にならない事をわかっている気遣いに声にならない悲鳴を上げるしかなかった。
夢を見た。
そこは薄青色の世界で、彼の足元には氷で覆われた地面がある。彼にとっては慣れ親しんだ視界だった。
白い氷の大地は遠く、空も晴れでもなく曇りでもなく、明るくも暗くもない、薄青色が広がっている。白い大地との色彩の差が空と地面の境界線だった。
何もない、地平線だけの世界に彼、スティーブンは視線を一周させてみる。
それでも何もなく、音もない世界が現実ではないことはわかりやすく、それだけはスティーブンにとって幸いだった。こんな何もない世界に取り残されるのは困ってしまう。やりたいこともやるべきことも山ほどある。こんなところで立ち尽くす暇なんて夢ですらなかった。
早く目が覚めないだろうかとあちこち視界を変え、ある時ふと視線を変えると、突然目の前に氷の塊が現れた。
透き通るその氷の中には今まで薄青色だけだった世界にスティーブン以外の色をもたらした。
氷の塊は胸元より少し下の高さぐらいで、大きさは人一人が入るような、つまり棺桶の大きさで、そしてその所感を抱いたのは氷の中の存在のせいだった。
「……君、もう幽霊なのに死んじゃったのかい」
氷の棺に入っているのは人が一人。まるで今も生きているように目を閉じているその人の胸元にはむき出しの花束が凍る前に無造作に置かれていたのだろう。不揃いに花が彼女を飾っていた。
氷が溶ければ寒くて死にそうだったなんて言いながら目を開けそうな顔色なのにその氷を溶かす術をスティーブンは知らなかったし氷の中の彼女は怪我なんて一つもしていなかったのに胸の上で手を組み静かに横たわり、そこからもう動かないこともスティーブンは知っていた。それはいくつも見てきた動かなくなった人間と同じ、もうそこに本人がいない存在になってしまっていたから。
「夢だとわかっていてもあまり気分が良いものでもないな」
わざと確認するように彼はそれを口にする。誰もおらず、彼だけしかそれを聞いていないのに、ひとつひとつ丁寧に。
この氷を溶かす術をスティーブンは持ち得ず、できることといえば彼女のその死が進まないようにこの氷が溶けないようにすることだけだ。
「こういう時、少しだけ嫌になるな」
こういう時、この氷を見て人はどうするのだろうか。
その力強くもあたたかな拳で彼女を傷つけることなくこの氷を砕くのだろうか。粗野に見せかけて繊細な、あるいは秩序だって緻密な炎を風にくべて厚い氷を溶かしてしまうのだろうか。それとも手がかじかんで傷つこうともその手で棺に触れ続けるのだろうか。祈るのだろうか。
スティーブンにはこの氷を砕くことも溶かすことも、その手を氷の棺に添えることも、祈ることもできていない。
どうしたいのだろうか。氷が溶けないようにしたいわけではない、それはただの先送りで、それは誰の望むところでもなければ答えでもなかった。できることで、彼の願うことではなかった。
そうしてどのぐらい経ったのか。
目を離せない、彼女だったものに、幽霊ですらなくなった存在に、スティーブンは音のない言葉を送る。
それは意図したものでもなんでもなく、それでいてもうこの世には彼ぐらいしか知りようのない、幽霊の人のかつての名前だった。
もちろんそれを口にしたって彼女が氷の中で目を開けることも、その棺から起き上がることもない。名前を呼んだぐらいで何が変わるわけではない。それは彼の口から音になり、そうして彼の耳に入り、ただ彼女がいたことをスティーブンがもう一度確認するだけだ。それ以上もそれ以下もなく、名前に意味はない。その名を呼ぶことにスティーブンが意味を見出したいだけだ。
「エレナ」
もう一度、幽霊であった彼女の名前を口にする。
一歩も近づけない彼の声はいつもよりも小さく、やはり確かめるようだった。
「幽霊になっても死にたくないって思うかい?」
もちろん答えなんてなくて、スティーブンは笑みをこぼした。
「この夢が覚めないなら、幽霊でもいいから俺は君に会いたいよ」
早く目が覚めないだろうか。
そう願うスティーブンの視界の向こう側、明るくも暗くもない世界に太陽は姿を見せ、そして世界は光に満ちた。