*名前変換されていない名前がありますが仕様です。






 治療を終えたと連絡が入り、クラウスとスティーブンは真っ直ぐに病院に向かった。
 死にかけの女が病院に搬送されてから優に丸一日以上経っていた。
 面会謝絶の個室にいる彼女は二人が訪れたときには見えるところに外傷はほとんどなく、ただ静かに眠っていた。
 元々彼女に関しての事務的な事項はすべて済ませた後で、後は本人の目覚めを待つのみだった。だから特に目覚めるまで病院に向かう必要はなかったのだけれど、それでも治療を無事に終えたのならと、クラウスは彼女を見舞おうと、病室でその眠る姿を確認していた。

「スティーブン、彼女の名前は本人に同意なく決めてしまっていいものだろうか」
「まだ絶対安静で意識も戻らない。どちらにせよ彼女の身柄は僕たちの監視下にはなるんだ。元の名前で暮らしてもらうにもリスクが高い」

 怖いもの知らずというのはいつの世の中にもおり、大抵は踏み込んではならないところにたどり着く前に痛い目に遭うものだがその日彼らが保護した女性のいた団体はそうではなかった。
 それは彼らが優秀だったからでも何でもなく、ようやく治療を終えてなんとか一命を取り留めた彼女の調査能力がずば抜けていたからだ。
 彼女自身がとても優秀な情報屋というよりは、彼女は探しているものを探し当てる能力に非常に特化していた。
 だから牙狩りの背景はろくに把握できていないのにライブラの情報はかなり肉薄し、ライブラを知るために、ライブラが必要としていた血界の眷属に関した情報をピンポイントで引き当てた。もちろんそれがあれば彼女たちはライブラと何かしらの交渉の猶予があっただろう。それをする前に当の血界の眷属にこの世から退場させられてしまったけれど。
 それに気がついたスティーブンと、彼女自身に敵対意思がないどころか巻き込まれ体質だと知ったクラウスの表立った行動は一致した。つまり彼女が望むなら彼女を助けるということだ。もちろん、クラウスは彼女がその才能があってもなくてもあの状態であれば助けただろう。彼はそういう人間だった。

「それで、彼女の名前は決めたのかい?」
「ああ。彼女にはこれからエレナと名乗ってもらうつもりだよ」

 クラウスは知らない。彼女をスティーブンの麾下に置くことには承知しても彼の個人的な部下としても雇うことを、スティーブンは知らせるつもりは毛頭なかった。残念ながら彼女は彼女の意思とは裏腹に、場合によっては非常に厄介で、場合によっては非常に有用な、便利な存在だったのだ。
 だからせめて、死にたくないのかと聞いてしまったのだからせいぜい利用してやるしかなかった。それが、スティーブンが問いかけたことに対する今できるアンサーで、それ以上もそれ以下もなく、そのために必要な名前を与えるだけだった。

「エレナ……名前は君が? スティーブン」
「ああ」
「良い名前だ」

 当たり前のように微笑むクラウスにスティーブンは思わず苦笑いだ。名前一つで彼の意図を掴んでしまわれてはどうしようもない。はぐらかしても無駄なの最初からわかりきっていた。

「お世辞にもこの世界は日向を通れる道からは遠いからね。せめてそれぐらいは第二の人生に餞だよ」
「彼女の新しい人生に多くの光に溢れることを私は祈ろう」
「それはきっと、何よりの言葉だと思うよ」

 スティーブンの贈る新しい名よりも、クラウスのその真っ直ぐな祈りの方が彼女に光をもたらすだろう。
 未だ目覚めない彼女がその名前を選び取るかどうかもまだ誰にもわからないけれど、もしも彼女が死なないことを選んだとしたら。
 皮肉にもその名前を選んだスティーブンが彼女をその名前の通りの光ある世界へは一生連れ出せず、彼の影で生きる幽霊にさせてしまうのだ。
 だからせめてクラウスのその真っ直ぐな言葉だけは今彼女のどこにいくかわからない人生への祝福へなればいい。
 あの日幽霊になっても死にたくないという彼女が本当にただ生きていたいごく普通の、極悪とは程遠いただの人間だと気づいてしまったスティーブンの、これは気まぐれな餞だった。



(新しき人生へ餞を)







「番頭と助手女って結局あれヤッてんの?」
「アンタって人はもう少し言い方ってもんがないんですか」
「男と女がいりゃヤるこた一つだろうが」

 昼休み、天気が良いからと公園で、テイクアウトをしたハンバーガー片手にレオナルドとザップは昼食を味わっていた。
 周りも昼時なのでテイクアウトできるサンドイッチや彼らと同じようなジャンクフードを口にする者も多く、にぎやかな昼下がりだ。

「……まあ、最近ちょっとだけ、雰囲気変わった気がしますけど」
「だろーが」
「でもザップさんの言ってるのとちょっと違うというか」
「ア?」

 レオナルドは言いながら最近少しだけ変わったような気がする二人のことを思い出す。
 二人とも変わらず淡々と仕事をこなし、何かあれば一言二言、そしてまた仕事に戻っている。スティーブンがいない時は内緒ねと、持ってきたおやつを少しのんびりと、レオナルドとツェッドの三人で食べることもある。
 レオナルドも呼び出されて現場から帰ってきた時は彼女は大抵事務所に残っていて、おかえりなさいとみんなのことを出迎える。
 それこそ何も変わりのない日々のままな気がするのだけれど。
 暖かな日差しに少し気が緩むのを感じながらレオナルドはどうそれを言葉にすればいいのか迷っていた。

「少し前、スティーブンさんが妙なこと聞いてきたじゃないですか」
「妙なこと? 番頭はだいたい俺には聞いてくることなんて……そういやあったな」



 その日はエレナが休みで、スティーブンは事務所で何やら事務仕事に勤しんでいた。
 レオナルドはクラウスに勧められた本を読んでうとうととしていたし、ザップもソファで携帯をいじっていた。

「氷漬けになった人間が目の前にいたら少年、君はどうする?」
「……へ? 氷漬け?」
「番頭とうとう一般人に手を出したか」
「お前の答えはどうでもいいよ、ザップ」

 一刀両断されるザップはへいへいともはやどうでもいいという顔で携帯に向き直る。どうせ今晩お邪魔する女性の当てをつけようとしているのだと、レオナルドは知っている。この男の何がいいのだと思うのだけれどザップを泊める女性は入れ替わりはすれどいなくならないのだからレオナルドは内心ほんの少し、ほんの少しだけ羨ましい。ああなりたいとは思わないけれど。
 そうしてもう一度レオナルドは質問を反芻する。氷漬けになった人を想像する。

「……ありったけのお湯かけるとか?」
「お湯か」
「え、そういうんじゃないんですか?!」
「いや、いいんだ。それでも溶けなかったら?」

 一体これは何のテストなんだとレオナルドは突然始まった質疑応答に挙動不審だ。この問いかけにそもそも何の意味があるのか。レオナルドにとって正解はなんなのか。一切わからないこれといって表情が見えないスティーブンの顔に答えを見出そうにも見出せるわけもなかった。
 なのでレオナルドと言えば肩に乗っているソニックがひょいと降りて室内で遊び始めるのを見ながらも自分なりの答えを言うしかなかった。

「他の皆さんにも声をかけて、もっとたくさんお湯を沸かしてバケツリレーみたいにお湯かけていく、とか」
「……ちなみに、氷漬けなのは?」
「スティーブンさんの逆鱗に触れたザップさんです」
「ア?! てめえなんだと?!」
「あ! ちょっとなんでそんな都合のいいとこだけ聞き取りに来たんだよアンタ!」

 突然ソファから飛び起きてレオナルドの胸倉を掴んでシェイクし始めた男はどうも今日のベッドの都合がまだつかないらしい。少々機嫌が悪いところをすべて都合よくぶつけられてレオナルドは呻いた。吐きそうである。
 質問者であるスティーブンはそんな二人のことなどもうなかったかのようにしてなるほど、と口元に手を当ててふむ、と頷いていた。
 助けてくださいよとレオナルドは口にしたかったけれど口を開くと昼食が飛び出しそうだったしレオナルドの必死の視線をスティーブンは見てすらいなかった。嗚呼、無常。

「そうだな。全員でお湯をかけるのか。いい考えだな、少年」
「!!!!!!」
「おいザップ、そろそろ止めないと吐きそうだぞ」
「げ!」

 うっぷ、といきなり放り投げられながらも口を手で覆ってレオナルドは耐えた。健気である。
 結局その時スティーブンが聞きたかったことは何かわからなかったけれど、レオナルドはふと思ったのだ。
 質問された時、レオナルドはたまたま目の前にいたザップを連想した。
 じゃあ、質問したスティーブンはその想像をしたとして、氷漬けになったのは誰だったのだろうかと。
 おそらく、その日休みだった彼女のことだったのではないかと、レオナルドは想像した。



「多分、スティーブンさんは氷を溶かしたいんだと思うけどな」
「氷使いが氷溶かしてどーすんだよ。頭大丈夫か? 糸目がとうとうくっついたか?」
「違いますって!」

 結局答えも何もわかったものじゃなかったけれど、レオナルドはやっぱりあの二人の少し変わった空気は付き合うとか付き合わないとかよりももっと微妙な、なんとなくまだ名前の付けられない何かなのじゃないかと、彼にしては珍しく敏感な感覚でそう思う昼休みなのだった。