雲間に交じる陽射しにふと目を向けたは一人で歩いているはずなのに誰かに話しかけるように口を開けた。

「レプリカ、ユーマはガッコーとやらにちゃんと着いた?」
『ああ。今学校に着いたようだ』

 一人のはずの彼女に返事は返ってきた。彼女の耳元で返された音声はよほど近くにいなければわからないだろう。自律型トリオン兵であるレプリカのものである。
 今はここにいない遊真とは今日、目的地だった玄界に辿り着いた。

 傭兵としてある国で遊真と出会ったはそこで過ごしていたある日の夜、遊真と一緒に玄界に向かうことに決めた。
 その時一緒に行こうと約束した通り、戦争が終わり仕事を終えた二人は国を渡り歩き、とうとう遊真の目的地である玄界にやって来たのは玄界の季節でいう冬の頃だった。
 本当に来るのか?
 きょとんと首を傾げられながらもは頷いたし、遊真も頷かれたのでわかったと頷いた。玄界に向かう前の晩のことだった。

「ミニレプリカつけてくれるなんて、私随分と株が上がったなぁ」

 頷いた遊真ははぐれたら大変だからと、その日初めて、レプリカが本体を分割させて小さなトリオン体を並列で動かせることをに明かした。
 今までの渡り歩いていた国とはまるで違うらしい玄界に対しての不安は少なからずあった。けれどの不安はその一瞬でどこかに吹き飛んだ。新しい土地への不安よりも遊真からの信頼の方がにとっては何よりも大事なことだった。

「けど遊真、あの調子でガッコー大丈夫?」
『それもまた勉強だ』
「それもそーか」

 玄界の世界に渡るにあたってはレプリカから玄界のことを学んだ。レプリカの知識もまた彼を作った遊真の父を通してのものだったけれど十分にの役に立った。
 玄界に行くと言い出した遊真よりもの方がレプリカの授業には熱心で、遊真がなんとなく聞き流している中であれこれと気になることを聞いては話を脱線させていた。それでも遊真の心配ができる程度には彼女は玄界を少しは学んでいる。
 その学びの中、はユーマが遊真という字を玄界で持つことを知った。真に遊ぶで遊真という名前は、今の彼にはまだ少し遠いけれどもうすぐその名前の通りになることはまだ誰も知らない。

は学校へ行かなくてよかったのか?』
「だってコーコーセーって聞いた限り高等教育ってやつじゃん。玄界のベンキョーはよくわかんないからいいよ。こっちで私の歳で働いてもおかしくないんでしょ?」
『少ないようだが問題はなさそうだ』
「じゃあいいよ。のんびり考えたいし勉強は苦手なの」

 遊真はこの玄界では子どもとして学問を修めなければならず、大人たちはそうさせる義務があるとは聞いていた。遊真も玄界のルールには従うようで、だから学校へ向かったのだ。恐らくは時間通りにはたどり着けてないはずだが。
 今朝、学校へ行く前にまずはボーダーの基地を二人で確認していたのだが思ったより時間がかかったのだ。時間は大丈夫なのかとが聞けばそこでやっと遊真は遅刻だと言いながら学校へ向かっていき、は呑気にそれを見送った。
 別れる時、遊真は街を探検すると言ったのことを少し羨ましそうに見ていたけれど学校に行くと言ったのは遊真自身だった。そのこともわかっているらしく、制服とやらに身を包んだ彼は仕方ない、とレプリカと共に軽快な足取りで学校へ向かったのだった。

 学校へ向かうために遊真は制服を身に着けていたけれど、特に服装の制限もないはこの玄界ではおかしくないようにとレプリカが事前に調べていたの年頃の少女が着ていそうな服を身に纏っていた。
 黒の薄手のセーターに少し大きめの黒いパーカー、それに細身のスキニージーンズ。黒くて動きやすいものがいいというの希望に沿った格好だ。
 愛用のトリガーはいつでも取り出せるようにはしているけれど今のところ命の危険がない限り手を伸ばす予定はなった。
 それよりは目下生活のための知識が必要だった。遊真は都度知ればいいというおおらかすぎるスタンスだったがは流石にもう少し溶け込んだ方が良いだろうと思っている。
 だからこちらに来る前に用意していた玄界の通貨も把握しておかなければならなかった。お金とは生きる上で非常に大事なものなのだ。
 それをやって来てから考えるも遊真と同じレベルのおおらかさであることを指摘する人間は幸か不幸か誰もいなかった。

「レプリカ、ユーマが持っていたあの紙束って私たちのところだとどのぐらいの価値があるの?」
『我々が質素に暮らしても優に数か月は暮らせるだろうな』
「えええ。そんな大金ユーマに持たせたの? 絶対わかってないじゃん」
『それもまた勉強だろう』

 自律型トリオン兵であるレプリカは知識はあってもそれを過剰に遊真に与えることはない。必要であれば提示するが選択肢はいつも遊真に残している。彼の選択を彼の相棒は全面的に支持し、サポートするだけである。
 そして遊真が一緒にいてやってくれと望んだから、のそばにも今レプリカがいる。のパーカーのフードの部分にそっと隠れて彼女の耳元に端末を伸ばしている状態だ。
 空に向かって会話をする怪しい人間だったが幸い彼女が歩いているのはこの三門市での警戒区域の間際で、人は誰もいなかった。だからこそのんびりと歩きながらレプリカと会話をしているのだが。

「市街地も見たいけどこのいかにも線引き、っての見たらちょっと確認しないと落ち着かないよねえ」
『どうやら安全区域との線引きのようだな』

 時折道をこれ以上進ませないための有刺鉄線に巡り合いながら、同じような看板が点在しているがどれも穏やかなものではなく、文字は読めずともどうにも危ないことを知らせたいのだということがにもわかる。

「レプリカ、これ、なんか危険って目印だよね?」
『そのようだ』
「トリオン兵とかが出やすいってこと?」
『これだけではまだ判断がつかないな』
「だよねえ」

 これ以上は人のいない近辺で探検をしても収穫はないだろうと、昼食も調達しなければならなかったはその場から離れることにした。
 幸いにもそのしばらく後、そこにはトリオン兵が誘導され、本日の防衛任務に当たっていた隊が現れたのだががそれに気づくことはなかった。



「美味しかった!」
「それはよかった。また食べにきな」

 は人通りのある方へと向かい、そしてある店の前からどうにも美味しそうな匂いがしてそこに立ち寄ることにした。お金ならば遊真ほどは持っていないけれどレプリカの話から推測するに十分に食べられるほどには持っているはずだったので足取りは迷いがなかった。
 ただ問題はそこがテーブルの上に鉄板の備えている店で、基本的には全て客が自分で材料を焼くところだった。おこのみやきという玄界の料理らしい。幸い昼食とはいえ昼時のピークを過ぎた後だったらしく、メニュー表を手に困って座りつくしていれば店の人間が呆れながらもおすすめを焼いてくれたのだった。はペロリと二枚食べ、その食べっぷりに店の女性は嬉しそうに笑って、店を出るのを見送ってくれた。

「おこのみやき、うまし」

 店を出た後、その独り言は見た目通り独り言になった。人通りもあるからか、特に返事も必要なものでもなかったからか、レプリカは反応しなかった。もすでに意識は周りを歩く人々に向けられている。
 すれ違う人々はからしてみれば随分と無防備で、の知る世界の普通の人々よりものんびりとしていた。
 戦争中の国でも街中はある程度の安全が確保されていたもののこの玄界の街の人のように無警戒に街を歩く人はどの街でもいなかった。無意識でも危険はいつやって来るかわからないと、その身で理解していたのだ。それが全くないとは言わないものの随分と平和的な住人であることには変わらない。

「赤ん坊や小さい子を連れ歩けるなんて本当平和。少し離れて走っても焦りもしない」
『この国では戦争をしていないらしいからな』

 店が並ぶ通りを抜ければ住宅も多くなる。地図はないが目印としては大きすぎるボーダーの基地があるためそれと太陽の傾き具合で大雑把にあちこちに歩き回っていく。にとっては建物も人々の衣服も立ち並ぶ店もすべてが真新しく疑問の尽きないものだ。己の知識と当てはめても合っているかまではわからないがそれもまた面白い。玄界はの世界とは違いすぎてしばらくは毎日楽しめそうだった。
 そうして歩いていた道沿いに建物のない広い空間が現れた。そこは木が整えられた中で生え、下にはこれもまた整った芝生がある。の歩いている舗装された道沿いからその敷地らしい中は区分けするように平らで固い土の道広がっている。奥にはどうやら何か体を動かすような設備があり、十もいかない子やさらにちいさな子どもたちが親に見守られながら遊んでいる。

「遊び場?」
『幼い子が集まれる場所のようだ』

 肌寒い季節だが今日は午前中にあった雲も流れていったらしい。日差しもあって子どもが走り回るにはちょうど良い気候である。動かずに見守る親にとっては少々寒さを感じることもあるかもしれないが女性たちの多くはおしゃべりに夢中のようだった。

「どこも女はおしゃべり好き、と」

 その団体とは別に一人の女性がいることには気が付いた。彼女にはよくわからない、台車のようなそれはこちらでいうベビーカーで、女性は優し気なまなざしをその中に注いでおり、はなんとなく、そっとその女性に近づいた。
 気配を絶ってしまうのは傭兵としての癖だったがそう止められることではない。

「……赤ん坊だ」
「わ! びっくりした!」

 すぐ隣にまでやって来たにまだ年若い母親は大きく体を仰け反らせた。
 はそんな母親には気にも留めず、ただベビーカーの中でぱちぱちと瞬きする小さな命に釘付けだ。
 日除けされたその小さな、その子どものためだけに用意された空間。その中でその手は覗き込んだに気が付いたように空に伸ばされた。
 恐る恐る、その小さなミニチュアのような手のひらに向かってそっと人差し指を差し出せば、きゅっと小さな手のひらがの指先を湿った手のひらで掴んだ。

「つかんだ」
「お姉ちゃんが遊んでくれて嬉しいのねえ」

 我が子の様子を見守る母親の隣では棒立ちだった。いつでも離せるほどにか弱いその手は今もしっかりとの指を掴んで、赤子は言葉もままならないまま音でしかない何かを声に出している。
 空いているもう片方の手で恐る恐る、今度はその赤い頬を人差し指でとん、と優しく触れればやわらかくて温かな感触がの指先に伝わってくる。

「やわらかい」
「いいわよね。こんなにつるつるすべすべだった頃があったのにって……あなたはまだつるつるすべすべね」

 羨ましいわ、なんてのんびりとした口調でと我が子の触れあいを見守る彼女のまなざしは慈しみに満ちている。
 はその目が母親独特の子どもへのまなざしなのだと知っていた。昔々、もう忘れそうなぐらい遠い昔、はそのまなざしを注がれた記憶があった。

「……いきてる」
「小さくてもあなたとおんなじよ」

 慈しむ瞳が子どもに向けられたあと、そのままに向かう。も声に釣られるようにそちらに視線を向け、そしてそのやわらかくあたたかな瞳にどうしていいかわからず、ただ頷くままだった。





「ユーマ、ガッコーどうだった?」
「ガッコーはまあまあだったな」

 夜、学校が終わるには遅い時間だったが遊真とは合流した。
 遊真の話を聞けば学校とやらは遊真が着ている制服を同じ年頃の子どもたちが同じように着ているらしい。軍のようにある程度の規律のためにそうしているのだろう。遊真ぐらいの年頃の子どもたちをまとめるにはそうした仕組みも必要に違いない。
 初日からちょっかいを出されたらしいがその点は遊真曰くなんとかなったらしいがトリオン兵を倒した話には目を丸くした。

「新天地で早々に戦闘? 大人しくするんじゃなかった?」
「オサムが危なかったから仕方がなかった」
「親切にしてくれた子?」
「そう。弱いのに突っ込んでいくから驚いた」

 遊真の言葉にも驚いた。弱い者が強者に挑むなんて無謀なことだ。確実に生き残りたいのならそんなことは馬鹿でもしない。
 けれどそれを語る遊真はご機嫌だったし、その弱者であるオサムという少年はきっと良い意味で馬鹿なのだろう。も話を聞きながら笑みが零れる。

「その子、気に入った?」
「いろいろ教えてくれたからな」
「そっか。いい子がいて良かった」
は? いつもの探検は済んだのか?」

 の探検は新しい土地に滞在する時には必ず行われることだった。はいつもある程度滞在地を調べ、時折遊真もそれに付き合ったが、そうではない時は遊真にその日見たことを伝えていた。今日も別行動だったのでは一日の出来事を伝えていく。
 街をぶらぶらと歩き回ったこと。お昼ご飯に食べたおこのみやきが美味しかったこと。遊真ともいつか食べに行きたいと思ったこと。公園と呼ばれる場所で小さな子どもたちが母親に見守られながら遊んでいて平和だったこと。それから、赤ん坊にふれたこと。

「覗き込んだらこっちのことにこにこ見ててね、指を出したらきゅって掴むんだよ。それにほっぺなんてつやつやでふにふになの」
は赤ん坊が好きなのか?」
「わかんない」

 二人とも赤ん坊を身近に感じる日々とは遠い人生である。生死は身近にあってもそれは命のやり取りだ。あの公園に溢れていた生まれる命の育みを、遊真もも己の身一つしか身近に知らなかった。
 だからは遊真の質問には首を傾げるしかなかったし、遊真もそれ以上の言葉は持たなかった。

「でもあったかくてやわらかくて、なんかすごく驚いたの、遊真に言いたかった。また公園に行ったらあの子に会えないかな。遊真とビックリすると思う」
「じゃあ学校が落ち着いたらだな。まださっぱりわからん」
「玄界って思った以上にわかんないことだらけだね」
「だな」

 お互いの本日の報告を夜空の下、あれこれと話題が飛びながら交わす二人をレプリカはただ黙って見守っていた。





(なんでもないはなし その2)