「水も滴る良い男がいる」

 名前を呼んだわけじゃないのに振り返ったのは周りに人がいないからか、自惚れか、それとも私の声を覚えていたのか。

「でしょ」

 トレードマークのカチューシャを外して笑う相手につられて思わず笑っていた。




 彼氏にカバンの中に折り畳み傘を常備していると話したら、意外とマメなんだなと言われた。意外と、というその言葉がどうにも気に入らず、その日のうちに別れた。大学生になってすぐ、なんとなく付き合いだした相手なんてそんなもんだ。
 また早く彼氏欲しいな、なんて切実に思っているわけじゃないのに周りに合わせて口にする生活もまだひと月だ。入学早々になんとなく参加したサークルの、なんとなく気が合った先輩と早々に付き合って別れるまでも二か月あるかないかだから周りの新入生の中では展開が早い方だろう。周りにはもったいなさそうな顔をされたけど大して未練はなかった。薄情かもしれない。周りには笑って誤魔化した。
 真夏が来る前に独り身なのは大学生になったばかりの私たちの中では由々しき問題として話題の中心だ。私は早々に彼氏ができたのに別れて残念だねと言われたけど実のところバイト増やせるなと思っていた。ただそれを口に出すほど馬鹿じゃない。平和な学生生活のために私は彼氏を欲しがる。嘘でもない。切実ではないだけだ。

 今日の講義は少なめだから普段は講義後にバイトを入れてる。ただ今日は珍しくバイトは入っていない。毎週この時間にバイトしていることは大学の友人たちは周知の事実だ。
 持て余した突然の暇をどうしたものかと考えを巡らせる。サークルに顔を出しても良い。カフェテリアかどこかで集まってる友人の誰かに連絡を取っても良い。

「んー」

 思い浮かぶそのどれもに気が乗らず、立ち止まって悩むこと数秒、考えることを諦めて早々に家に帰ることにした。
 決めてしまえば足取りは軽く、帰ると決めればふと足が遠のいた雑貨屋へ立ち寄ることも思いつく。高校の通学路近くにあるそこはお気に入りの店だった。今日のように一人で帰る時、時間を気にせず店内を眺めていたことを思い出す。

「良い感じ」

 気分とは裏腹に空は曇っていたが鼻歌交じりに校外へと歩き出した。




 親との交渉の末手に入れた一人暮らし生活に私は力を入れている。飲み会にもサークルにも程々に顔を出すけれど部屋の中を整えていく方がずっと面白い。
 家具はバイトで貯めたお金で買い替える野望を宣言していたため実家から必要なものだけ持ち込んだ。食器やカラトリーの小物も後々気に入ったものを買い揃えるつもりだったので引っ越しの時も最小限、実家でのお気に入りだけを新居に持ち込んだ。向かったお店はいつか買おうと思うような雑貨も多く、大学生になってから改めて見るのは初めてだ。

 久々に寄った雑貨店は高校生が買い集めるにはちょっと良いお値段だけれどバイトを始めた大学生にとっては手の届くおしゃれな店になる。
 アンティーク調の食器棚に丁寧に並べられた食器に思わず口元が緩む。気に入ったものをバラバラに買うか、定番で出ているシリーズものを揃えていくか、考えるだけで気分が上がっていく。
 食器以外にも個人作家のアクセサリーやかわいい文房具も取り扱っている店内をゆっくり眺め、いくつか気になったものを目に留めて店を出た。家の持ち物を確認してから改めてどれを買うか吟味するつもりだ。

 そんな風に一人を満喫した帰り道、肌にぽつぽつと水滴が当たったかと思えばあっという間に振り出した。
 突然の雨にぎょっとしても一瞬軒下に入って折り畳みを傘を出せば問題ない。雨足は強いけれど雲の向こうの日差しは透けて見えるので通り雨だろう。気にせず歩き出した。
 悠々と雨の音も楽しんでいたところ、通り道の軒下でずぶ濡れの後輩に出会ったのだった。


「びしょびしょじゃん。家近く?」
「けっこー遠いっす」

 二個下の後輩は米屋という。
 高校の頃付き合っていた彼氏の後輩で、彼氏とは中学からの付き合いだという米屋は三年生の教室でも怖気づくことなく顔を見せ、その気負いのなさを気に入り、私は米屋を可愛がっていた。
 雨宿りする場所もなく降られたらしい相手はこのままだと風邪を引きそうなぐらいずぶ濡れで、かわいそうだなと思った時には口を開いていた。

「うち近いから服と傘貸してあげるよ。来る?」
「先輩家こっちでした?」
「一人暮らし始めた」

 きょとんと、珍しく驚いた様子の米屋に私はしてやったりと笑う。昔から不意を突くと見せるその目が私は好きだった。

「別れた彼氏用の部屋着なら貸してあげるよ」
「もう彼氏作って別れたの早くないですか」
「はは」

 米屋の知っている彼氏とは三年生の秋に別れた。よくある受験のあれこれってやつで、卒業した相手は県外の大学へと進んでいった。その相手とは一年半付き合ったから米屋から見ればすでに彼氏ができて別れたのはあっという間に見えたんだろう。
 米屋はちらりと視線を空へ向ける。先程よりも雨は弱まっているが濡れた米屋の服がすぐに乾くわけではない。

「マジで風邪引きそうだから雨宿りさせてもらうと助かります」

 私が持っていた傘はあいにく折り畳みで大きくない。雨宿りさせるのにこれ以上濡れさせるのも忍びないので半分ほど中に入れてあげる。
 肌に張り付いたシャツが触れそうなほど近く、歩くはずみに小さな水滴が腕に飛んできている気がする。でもべったりくっつくほどではない。私も米屋もお互い傘の外の腕が濡れてても触れないようにしている。

 歩きだすと米屋は大学生活についてあれこれと聞いてきた。私が通っている三門市立大学はボーダー所属が多い。防衛隊員のほとんどは学内の学生だと噂で聞いた。米屋が進学するのかは知らないが進学するなら確実に後輩になるんだろう。私が見聞きした大学の様子を軽い調子で、でも興味深そうに聞いていた。

「米屋、大学に憧れる前に進級と卒業の試練があるって覚えてる?」
「最悪ボーダー裏推薦お願いするんで」
「そんなのあるの?」
「って聞いたことあるんでなんとかなるかなーって」

 ちゃんと勉強しなよと肘を押し付ければ濡れますよ、と適当に誤魔化された。

「入ってきたら講義資料融通してやるから頑張んなよ」
「よっしゃ! さんの資料あるなら勝てそう」

 適当な返事で調子良く笑う米屋に先程一切聞かれなかった大学の講義の説明をしているうちにあっという間に我が家にたどり着く。
 傘をさしていても足元まではカバーできない。最初から全身ずぶ濡れの米屋も折り畳み傘のおかげで半分ぐらいは無事な私も靴下だけは急な雨でしっかり水を吸っていた。

「靴脱いだら気持ち悪ぃ」
「乾くかわかんないけど洗濯してあげよう」
さん今日マジ優しい。オレなんにも返せないんだけど」
「気まぐれだよ」

 本人の鞄は中身を避難させて水気を拭き取らせて玄関に置かせた。本人も靴下を脱がせてすぐにそのまま脱衣所に押し込んだ。

「シャワー浴びてる間に着替えとタオル置いとくから」
「何から何までありがとうございます」
「いいからさっさと温まってこーい」
「へーい」

 風呂場に入ったのを確認して自分も手早く部屋着に着替えた。もったいなくて捨てられなかった男物のTシャツとハーフパンツを取り出してバスタオルと一緒に脱衣所に置いておく。
 米屋の制服は夏服の上だけ洗濯機に回してズボンはハンガーにかけて扇風機に当てておく。ついでに湿った自分の服も入れてスタートボタンを押せばとりあえずお仕舞いだ。
 空気の籠った気配のする部屋のエアコンを入れるかどうか、一瞬悩んで止め、代わりにほんの少し窓を開けた。通り雨だし風も強くないので問題ないだろう。
 そこまでやりきり、冷蔵庫から麦茶を取り出そうとして別の瓶が目に入る。

「そろそろだったか」

 浴室のドアの開く音を聞きながら瓶を手に取り、私はグラスを二つ、用意することにした。
 部屋のローテーブルに目にした瓶に未開封のペットボトル、それから氷を入れたグラスを持ってきたところで米屋が部屋に入ってくる。置いていた服を着てバスタオルを肩にかけているが髪の毛から今にも水滴が落ちそうだ。

「おお、なんかオシャレな飲み物っすか」
「ただの自家製レモンシロップをソーダで割るだけだよ。ちゃんと米屋の分もあるから髪もう少しふいて」
「米屋りょーかい」

 数日前に漬けたレモンシロップは突然の来訪にちょうど良いかのように出来上がっている。そろそろだなと昨日買っていた炭酸水は開けてグラスに注げばシュワシュワ音を立てた。
 米屋が言った通りに髪をタオルドライしたのを確認し、グラスを渡す。ワクワク、といった様子を隠さずにグラスの中身を見、まずはと口に含む様まで見て思わず口の端が上がっていた。

「相変わらず美味しそうに飲むね」
「自家製だし、しかもさんの。絶対うまい」
「はいはい」

 コンビニのお菓子の新製品よりも飲み物の新製品にワクワクする姿は相変わらずらしい。飲んだことのないものはとりあえず試したがるチャレンジ精神は適用範囲が広いらしく二口目で一気に半分飲んだ米屋はにこにこご機嫌だった。

「やっぱうまい。さんこういう細かい作業昔から好きですよね」
「そうだね。美味しくて良かったね」

 私も一口。レモンシロップと炭酸水の割合は程よく、甘すぎず喉をするっと通り過ぎた。
 部屋に入ったら米屋は当然のように私の隣に腰を下ろしていた。テーブルの向かい側でも良かったのに。折り畳み傘の下の時のように触れるか触れないかを気にするような距離感は必要ないはずだった。
 こくこくと、あっという間に、でも味わって満足そうにする米屋の横顔がご機嫌なのは昔、お気に入りの飲み物を飲んでいる姿を思い出させた。
 その横顔がこちらを向く瞬間に思わず前を向いた。それを指摘するわけでもないけれどわかっているかのように米屋が隣で一瞬息を漏らすように笑うのがわかった。

さんなんで雨宿りさせてくれたの?」
「米屋はなんで今隣に座ったの」
「なんとなく?」

 質問を質問で返せば曖昧な言葉が戻ってくる。仕方がないと、わざと外していた視線を米屋に向ける。
 真っ黒な、何を意図したのかわからない瞳は怯むことを知らない。思わず瞬きした。
 あの時そっくりだった。

***

 去年、進路の違いから彼氏とどんどんすれ違うのがわかってもどうしようもなかった。お互いに近づけば不用意に相手を傷つけては後悔する。そんなことを繰り返してどちらからともなく別れ話をして間もないことだ。
 放課後、クラスの違う彼氏と勉強した習慣のまま、一人教室で勉強をしていた。
 その日やって来た米屋は私たちが別れそうなことを察して距離を取ってたはずなのに以前のように物怖じせず三年の教室にやって来た。
 たまたま今日は彼氏がいないような、二人で軽く話していれば遅れて悪い、と笑ってやって来るような、そんな気すらしたけど沈んだ気持ちでは会話は弾むこともない。うまく返事のできない私が忙しいのと、参考書と睨み合うように米屋を意識の外に追い出した。
 いなくなるだろうと思った米屋はいつもの騒がしさが嘘のように気配を絶ち、ふと顔を上げたら前の席に腰掛けたまま、じっと私を見ていた。真っ黒な瞳は何を考えてるかわからなかった。さん、と、その時米屋は初めて私を先輩ではなくさん付けした。
 ゆっくりと、避けられるような猶予を持って近づいてくる相手はスローモーションに見えたのに思考はフリーズして、リップを塗りそこねた唇にかさついた感触がしたのは一瞬だった。
 ベンキョー頑張って。
 私が何かを言う前に、あるいは本人が何も言わないようにしたのか、当たり障りのないことを言って立ち上がると私が口を開く隙を与えることなく、米屋は教室を抜け出した。あっという間だった。
 それ以来会う頻度は減り、何事もなかったかのようにした。そして仲の良い先輩の元カノの距離感を保ったまま、私は米屋と卒業式で軽く卒業を祝われたきりだった。

***

「あの日、なんでキスしたの」

 米屋はすぐにその時のことを思い出したらしい。とぼけることもなかったが予想していた動揺はない。一瞬だけ答えに迷うように視線を動かしたけれど口を開く様子は普段通りだ。

「したかったから。なんで避けなかったんすか」
「混乱してた」

 では今はどうなのだ。
 隣に座る米屋は触れそうで触れないぐらいの距離だ。片手を床につき、体重はゆっくりと私の方に傾いていくのがわかる。
 避けたら米屋は冗談にできる。私も笑って、ふざけるなと軽口を叩き合い、適当なところで帰らせ、シャツだけ乾いたら後日返せばいい。偶然再会した先輩と後輩でおしまいだ。
 それなのに今日もリップを塗ったのなんてお昼間の私は、レモンソーダを飲んで少しだけ湿った唇同士が重なるのをただ黙って受け入れた。ほんの少しだけ触れ、離れた唇を惜しいと思うのはなんだろう。欲だろうか。相手が米屋だからだろうか。

「今、混乱してます?」
「米屋が何考えてるかわかんないからね」

 わからないことはない。行動の理由を考えれば答えそれ自体は難しくない。でもなぜその理由に至るのか。私には米屋の瞳からそれを読み取れる敏感さはない。もしくは米屋が隠すのが上手いのか。

さんの作ったレモンソーダ飲みに来る口実考えてる」
「作り方教えてあげるよ。簡単だから」
「ここでオレに勉強教えてよ」
「私より賢いのボーダーの先輩にいるじゃん」
先輩のノート見るの好きだったからそれがいい」

 一つ理由を挙げては避け、また一つ、もう一つ。
 私が言い訳のように重ねる言葉を丁寧に折り返し、米屋の瞳は楽しげに揺らめいて、私に近づいたまま、離れることなく次の言葉を待っている。

「オレについて知りたいこと、何があります?」
「この距離をどうしたいと思ってる?」

 近づいたままの距離を縮めたのはどちらからだったのか。
 もう一度重なった唇は先程よりもほんの少し長く触れ合う。そっと離れて瞳を窺えば黒の瞳の奥に期待と熱があるのに気づき私は思わず笑っていた。

「え、今笑うとこ?」
「意外と目は口ほどに物を言うものだなって気づいただけ」
「?」

 そう思うと途端に何だか米屋がかわいい生き物に見えて、私はまた笑ってしまう。

「折り畳み傘いつも持ち歩くのってどう思う?」

 突然の脈絡のない話題だ。でも米屋は不思議そうにしても答えてくれる。

さん前からそうでしょ? 今日みたいに傘入れてもらえて家に上がらせてもらえるならオレはラッキーだらけだと思う」
「そっか……そっかあ」
「え、どういうこと?」

 質問の意味がわからない米屋は首を傾げているけど微笑んでもう一度唇を塞いで腕を回せば疑問は吹っ飛んだらしい。
 もっと、とねだるように腕を回されれば私もまあいいかと、目の前の欲に身を委ねることにする。
 カラリ、溶けた氷がグラスの中で動いて涼し気な音を立てたのが聞こえた。



(the melting point)