るんるんと、音には出ないが見るだけでご機嫌な相手とは対照に、は自分の動きがどんどん鈍くなるのを感じていた。

「なあなあさん早く着替えて外行こう!」
「……あれ、やっぱり着なくちゃダメ?」
「ダメ! パーカーも買ったしいいじゃん」
「ううう」

 にとって学生最後の夏休み、そして米屋にとっては大学生最初の夏休みがやって来た。
 実家暮らしの米屋とほぼ実家こと玉狛支部暮らしのにとって二人きりで会うということは場所も時間も限られている。高校生と大学生ということもあった。過ごす場所はボーダー内のラウンジであることも多かったし、お互いの部屋に行っても部屋の外には誰かがいて、完全に二人きりということは滅多になかった。
 それに加えて米屋が高校三年生になれば受験のためとから勉強を見る以外で会うのを控えていた。米屋の必死の頑張りの末大学の進学を決めてからは会う機会も時間も増えた。
 大学生になった米屋はどこの誰から何を聞いたのか。連休や週末にどこかに遠出をしたいと言い、猛アピールをしていたけれど、新学期の始めであったり、任務とバイトのスケジュールも重なり、何よりがあまり乗り気ではなかったのだがとうとう根負けした。せっかくなら思い切り旅行らしくした方がいいだろうと、お互い旅費を貯め、今回夏の長期休みにそれが叶い、いわゆるリゾートホテルにやって来た。
 二泊三日の旅行を林藤に告げた時には誰と、と言う前にほどほどに楽しんで来いという反応だったが城戸と忍田にはとうとう言えずじまいである。忍田に至ってはおそらく今彼氏がいるということも気づいていない。さすがいつも隣にいる女性から片思いをされていて気が付かないだけはある、というところだろうか。

「せっかくプライベートビーチがあるとこ来たんだから海行かなくてどーすんの」
「そうだけど」

 夏場に海に行こうとなった時、はもちろん水着について考えた。どうしようか迷った結果、ゆりに頼んで買い物に付き合ってもらった。小南は話を外部にうっかりバラす危険があったし、栞は米屋のいとこである。その点で恥ずかしさが勝った。ゆりだけでも十分にからかわれたので二人を誘わなくて良かったと思ったのは内緒の話である。千佳を誘うには歳も離れているし、何よりあの瞳で見つめられながら水着を選ぶのはどうにもいたたまれなさが勝った。
 水着を新調したと言えば当然米屋は前のめりで反応してきた。旅行前、どうしても見たいというので着ていないものの米屋にも見せた。その時はガッツポーズをされたがは努めて無視した。

 その水着の買い物の際、水着というのは実は上下が繋がっているものを着るよりはビキニの上から羽織を着た方が外見上見栄えが良いということを、試着をしては初めて気が付いた。
 結果買ったのは白地に濃紺の模様が入ったビキニに、白のラッシュガードのセットだ。お腹が出るのは恥ずかしいけれど上着を着てファスナーをしてしまえば首近くまでカバーできるタイプなので対策は万全だ。日焼けの対策も兼ねて絶対脱ぐまいとは密かに決意をした。

「海行こうぜー! はーやーくー」
「わかった! 着替えるから、陽くんちょっと待ってて」

 チェックインして早々、今日は天気も良く、夕飯までは時間がある。そうなれば当然ホテルを散策してビーチに出ようとなるものだ。
 一日目の今日は空港に着いた後、市街地の観光向けの通りを練り歩いた。明日はホテル内のプールと海を楽しんで、明後日は早めにホテルを出たら水族館に行き、夕方の便で帰る予定だった。
 着替えるからと浴室へと向かえば見たことないわけじゃないのに、なんてコメントが聞こえたがは無視してドアを閉めた。そういう問題ではないと米屋もわかっているのだろうが。
 米屋のその一言により部屋の中ならばファスナーを外してもいいかなというの気持ちは消え去り、上着のファスナーは首までしっかり上げて出てきた。絶望的な顔をされて出迎えられた。

「なんで上着首まで締めてんの?」
「見たことないわけないならいいでしょ?」
「そんなことなかったゴメンナサイ見たいです」

 強気に出たはずのは素直に頭を下げ、顔を上げじっと見つめてくる瞳にたじろいでしまう。
 は気づいていないが米屋は対の対応を各方面から情報収集しているし、近頃はある程度反応も予想できるし今回も折れてくれるのはわかっていた。嫌ならそもそも水着を着ないタイプである。
 後ろを向いてファスナーを開けられたことは米屋の想定外だったけれど問題はない。むしろ恥じらいながらそうされる方が米屋としては燃えた。そもそも当初の水着を着させる目標は既に達成済みだ。
 そろりと振り返ってみせる彼女を必要以上に騒ぎ立てないよう、それでいて機嫌を損ねまいと、それと何より単純に恋人の水着姿に米屋はにこにこと笑顔を浮かべていた。

「……そんなに見ないでよ」
「えー、だって今ならさん独り占めじゃん」
「別に、今じゃなくても独り占めだと思う」

 その一言に米屋は一瞬固まる。は首を傾げる。
 狙っていないのだとすれば随分と意地が悪いことである。米屋は思わず顔を覆って座り込んでしまった。

「え、なに?!」
さんの水着姿可愛くてくらっと来た」
「すぐそういうこと言う!」
「だって水着でそんなこと言われたら仕方ない」

 もうこのまま部屋にいてもいいのではと考えた米屋だったけれど待っている間に膨らませた浮き輪にがはしゃぐのでまあいいかと、立ち上がって眩しい外へと彼女を促すことにした。


***


 浮き輪を持って行ったことは米屋的には良かったし、としては嫌ではないけれど気恥ずかしい、という結果を見ればお互いにとって良い状態だった。
 二人で入れるぐらいの大き目の浮き輪で二人でぷかぷか浮かんでゆらゆら波に揺れてみたり、米屋がバタ足でぐんぐんと足が付かないところへと進んでいってはを驚かせたり、わざと浮き輪の中でくっついてみたりと、実に夏の微笑ましいカップルである。
 夏休みシーズンということで人は多かったが、人が多いからこそ周りを気にすることもなく各自夏の海を楽しんでいた。

「ずっと夏休みがいい」
「大学生の夏は長いでしょ」
さんと同じなのは今年だけじゃん。だから帰ったらなるべく一緒いよーよ」
「……なるべくね」

 後半はなるべく一緒にいようという米屋の言葉は理由がある。
 ボーダーのA級隊員である米屋には固定給が発生しており、特別任務や功績が認められれば別途ボーナスが支給される仕組みになっている。他の学生と違いアルバイトができない分と危険手当も含まれているようなものだ。
 そのお金を米屋は特に使うことなく貯めており、かつ今後も継続してボーダーに所属するつもりでもある。高校時代はがある程度指導してきたため赤点は免れたし大学でも監視の目がと周りにも多くあり、ある程度真面目な大学生活を送っている。
 その結果、両親との説得を無事に終え、晴れて今夏からの一人暮らしが決まったのだ。が泊まりにくることを前提で不動産屋に連れていこうとしたら断られたので一人暮らし経験者の三輪を連れていくと顰め面をされたのは余談である。


***


 ホテルは朝夕の食事付きでブュッフェスタイルだ。和洋中揃っているけれどリゾート地のためか外国風の料理が多めになっている。和食は長期滞在の宿泊客向けだと給仕の女性がにこりとこちらも笑ってしまういい笑顔で説明してくれた。
 テーブルは一見するだけでも親子連れも夫婦も友人同士もおり、年齢も幅広く食事もその分多様になっているのが窺えた。
 お皿に好きなものを載せて美味しそうに頬張りながらもふとは不安そうに顔を曇らせた。

「朝晩ブュッフェって太りそう」

 米屋にしてみればその分動けば消化されるだろう、と健全な思考に至るが多分そういうことではない。以前似たようなことを口にして一週間恨めしい目を向けられた米屋は開きかけた口を無理矢理止め、別のことを口にする。

「俺ふにっとしてる方が好き」
「やだ!」
「何がって言ってないのに」

 前回とは別の意味で正解ではなかったらしいが以前ほど睨まれなかったのでとりあえずよしとした。何が悪かったのかと首を傾げつつ、とりあえずは目の前の皿に集中することにした。このままでは出来立てのラザニアが冷めてしまう。そう言えばも慌てて置いていた箸に手を付けた。
 初日でメニューの物珍しさもありは食べきれることができるかギリギリの量を皿に盛ってしまっていたが、その後に食事とは反対側に配置されていたデザートの存在思いだしたために一部を米屋に食べてもらうことにした。食べ盛りの今年十九歳の大学生は胃袋も未だに元気らしくの差し出した分などぺろりと食べてしまった。

「陽くん、よく食べるねえ」
さんが食べるの少ないんじゃね? 俺の周りこれぐらいフツー」
「ボーダーの男子高校生と大学生と比べられても困る」

 米屋と同じ量を食べようものならは確実に一回り大きくなる自信がある。訓練の一環だということで三輪に連れ出されてストレッチやランニングもしているらしくトリオン体でも現実の体でも米屋の体はしなやかな筋肉が程よくついている。
 先日鍛えている話をしたときには何の話の流れか米屋に抱き上げられてしまった。それもあって近頃のは減量をほのかに志している。相手はそんなこと気づいていないようで今も自分の皿の残りに手をつけている。
 じいっと見ていれば流石に視線を感じたのか黒の瞳がを捉える。

「ん?」
「美味しそうに食べてて良いなって見てたの」
「食べる?」
「デザートまで食べたからもうお腹いっぱいだって」

 ふうん、とぱくぱく料理を口に運ぶ米屋を見ては一足早く食後のコーヒーを口にするのだった。


***


 二人が選んだホテルはプライベートビーチがあり、全体的に南国風を基調としたホテルだ。浜辺沿いに横長に客室が広がり、どこの部屋からも海が見えるのが売り文句である。
 中央部分にはフロントがあり、フロントに面した部分はラウンジ兼バーがあり、屋外プール面するように作られている。プールサイドも広々としており、ラウンジでドリンクを作ってもらい、このプールで遊ぶ人も多いという。
 アクティビティも充実しており、ホテル内だけでも十分に楽しめる。イベントも豊富で、ホテル内は滞在客に向けて夜も様々な催し物をしている。
 その日もフラダンスショーが行われており、ステージがある一画で宿泊客は大いに楽しんでいた。もちろん二人も目一杯楽しんだ。健康的な体つきのダンサーに米屋が視線を注がれ、気がついたが一瞬不機嫌になりかけたけれど麗しのダンサーはを巻き込むように踊り、かわいいと言わんばかりにウインクをされてはいろんな意味で頬を赤らめた。「ヤキモチ?」「違います」くびれる腰にやはり痩せようと決意を新たにした。

 部屋までの帰り道には一階に面した屋外プールがあり、その近くで何やら人だかりがあった。

「何かな?」
「寄ってみる? どうせ後部屋帰るだけだし」

 お互い目を見合わせるなり足は賑やかな場所へと向いていた。夜のプールで遊んで騒いでいるのかと思いきやどうやら様子が違う。
 プールサイドとラウンジを挟んだ広めの通路でホテルのスタッフが二人立ち、その間には手で握れる太さの細身の棒が簡易で組み立てた置き場所にそっと置かれていた。スタッフは棒の前で並ぶ人に楽しそうに声を掛けている。人のざわめき意外にも陽気な音楽が聞こえてくる。ポータブルのプレイヤーを置いているらしく軽快な音楽がその場を包んで人々の気持ちを浮足立たせていた。

「……」
「リンボーダンス?」

 そう、プールとラウンジに挟まれたところで音楽に乗せられるように、今は肩の高さほどで一人ずつ少し体を逸らしながら棒の下を抜けていく。抜ける度に拍手が起き、十人程の客が肩の高さの棒の下を通って行った。
 きょとん、とそれを見ていた米屋とに棒の横にいるスタッフが気が付いた。どうぞ! と手招きしてにこにこ誘われるがは一瞬たじろいでしまう。肩の高さであればでも問題なく抜けられるだろう。どうしようと思って隣の米屋を見たはその途端諦めた。彼の眼はキラキラと輝き挑戦しないという選択肢が皆無だったのだ。

さん! やろう!」
「やっぱりい~」

 この場合が参加しないという選択肢はない。こういう場合逃げても逃げても逃げられないことをは学習していたのでせめて順番が最後にならないようにと米屋の前に行く。多分、彼は最後の方まで残って客を沸かせる。そういうタイプである。幸い、手前で潜っていた客の中にもよりは鍛えていそうな男性がいた。
 大丈夫だからやってみようよと言わんばかりの観衆の雰囲気にはええいままよと祭りのような喧騒に身を投じることにした。

さんいけるいける!」
「あともうちょい! そうそう!」
「頑張れ!」

 何度も悲鳴を上げながらも二周目まではも潜り抜けたが三周目で早々にリタイアした。たった三周で既にお腹と腰と背中と足が悲鳴を上げている。
 と同じタイミングでリタイアした人間も多く、十人前後いた参加者は気が付けば半分となっていた。
 列から外れて横から残りの面々を全員で応援して盛り上げる。五人、四人、とどんどんと少なくなる中で米屋は危なげなく残っている。日頃のトレーニングの成果だろうか。

「陽くんすごい!」
「前に空閑と緑川とリンボーダンスやったのが役に立ったわ」

 ブイサインをされながらもはなぜそんなことをしているのだという疑問が浮かんだがきっと答えはないだろう。ノリに決まっている。が知らないのでラウンジではしていないのだが確実にボーダー本部内での出来事だろう。突然リンボーダンスに挑戦するというのに乗ってきた二人はたまにラウンジでも見かけるし目立つ少年たちだ。随分と騒がしい現場なのが簡単に想像できた。
 お腹の高さあたりになると残り二人のうち米屋よりも前の男性が膝をついてリタイア。最後の米屋はそれもクリアして、まだいける、と観客に乗せられて限界までチャレンジし始めた。
 足幅を段々と広げ、バーのすれすれを仰向けで通り抜けていく姿には手を握りしめ息を呑んで見守る。腰骨あたりの高さになると流石にきつくなってきたのか一度体を起こして態勢を整えた。
 なんとかそのチャレンジはバーすれすれで成功させたものの、次に五センチほど下げるとかなり難易度が上がったらしい。

「なかなかやるじゃん……!」
「がんばれえ」

 次もクリアできるだろうかと息を呑んで見守ると一同だ。
 米屋がバー横のスタッフにちらりと視線を向ければにこりと笑ってさあさあと観客に手拍子を呼びかける。先程から鳴っている音楽に合わせて始まった手拍子はリズムに乗り軽快な音を奏で出す。
 歓声に応えるように少しずつ歩を進める米屋に周りも手を叩きながらも不安と期待混じりの視線を送っている。
 仰ぐように胸元はバーに触れそうで触れないままになんとかバーの向こう側へ。あともう少し、頭まで通り抜けてしまえば。
 全員が見守る中、頭がバーの下を潜り抜けた、と思った瞬間にカランと潜り抜けた米屋の後ろでバーが落ちる音が軽く響き渡った。
 その瞬間、一斉に周りがため息をつく音が響き渡り、もああ、と息を呑んだ。本人はバーが落ちた瞬間そのまま仰向けに倒れ込んだ。

「くっそ~~~!!!!」
「あ~!」
「惜しかった!」
「あともうちょっとだったのに」

 本人の悔しそうな叫びを皮切りにあちこちで声が上がり、そして最後まで残っていた米屋への拍手が上がる。
 多くの拍手を送られれば米屋は仰向けになっていたところから腹筋を使うとひょいと起き上がり、先程の悔しさは周りに向けることなくどうもどうもと得意げだ。

「帰ったら空閑くんと緑川くんとリンボーダンスするんだろうな」

 ぽそりと落とした言葉は体格の良い男性に背中を叩かれ笑い合う米屋には聞こえていない。
 今日の様子から簡単に三人の楽しげな様子が思い浮かんだ。怒られるような騒ぎにならないように祈りながらはその時は知らんぷりすることを心の中で決めた。祈ってみても忍田か鬼怒田あたりに怒られるのが目に見えている。


 軽快な音楽はお祭りの終わりとともに落ち着いた音楽に変わり、参加者も観客も三々五々散っていく。
 近くに来たスタッフとハイタッチしていくらか会話をした米屋は随分とご機嫌な様子での元に駆けてきた。

「おつかれさま。すごかったね」
「結構いい感じだったんだけどなあ」

 悔しそうなものの楽しそうに笑う米屋にもつられて笑う。一人なら挑戦せずに見守ってたところだった。

「陽くんといると楽しいね」

 何気なく、笑いながらこぼれた言葉に米屋は瞬きを二つ、三つ。
 返事がないことにが首を傾げれば米屋は勢い良く両手での左手を取ると握り締めた。勢いがあって驚いたものの痛すぎるほどではない。

「な、なに」
「ツボって抱き締めかけた。部屋帰ったらめっちゃ抱き締める」
「なんでそうなるの?!」

 人が減ったとはいえ通り道近く、ラウンジが目の前のプールサイドで抱きしめなかったことは大正解だった。嫌がられずとも拗ねられる可能性は多少ある。
 早く帰ろう、と握っていた両手を左手だけ離してただ手を握るようにして米屋は歩き出した。

「え、ちょっと、陽くん」
「そういやカフェのドリンクとデザート一回分無料になるって」
「それはとっても嬉しい」
「頑張った甲斐あったな」

 少しだけ早歩きで、がかろうじて走らなくていいぐらい。気を遣われているような、急かされているような気持ちで背中を追う。
 二泊三日の、二人きりで初めての旅行である。これでいいかなと落ち着かず何度も準備をした。何なら新しい下着だって買った。
 ただここに来て非常に言いにくいことがある。

「よ、陽くん、あのね」
「ん?」
「私さっきのリンボーダンスで腰が」
「腰が?」
「痛いんですけど」

 ようやく言い出せたのは部屋の前。鍵は米屋が持っていたので鍵を開ける。
 ドアを開けてを中に促し、米屋はするりと中に入る。ドアが閉まり切る前に米屋の腕はを包んでしまう。

「風呂上がりに腰のマッサージしたげるから平気」
「あ、ありがとう?」

 まさかあの程度で腰がじんわり痛くなるなんては己の若さに調子に乗っていたことを恥じる。今度から米屋のストレッチぐらいは付き合った方が良いのかもしれない。
 そうやって真面目に己の腰回りを心配していたをよそに米屋の腕はの背中や腰のあたりをやわやわと撫で、唇が首筋を確かめるようにやさしく触れ、首筋から肩の方へと動いていく。

「陽くん」
「さっき海から上がった時にシャワー浴びたよ」
「そうだけど」
「何なら今からマッサージする。どうせこの後また入るじゃん」

 甘えた声を耳元で囁かれればはたまったものではない。ふっと最後に息を吹きかけられれば体はくすぐったいようななんとも言えない感覚に反応してしまう。
 旅行で、周りには誰も知り合いがいない。部屋に誰かが訪れることもなければ帰る時間を心配しなくてもいい。朝はもったいないけれどゆっくり起きても怒られない。きっと起きた時、隣には健やかに寝息を立てている恋人がいる。
 そう自覚している夜に誘う甘やかな声に抗う術をは知らない。

「先に腰……」
「はいはい。うつ伏せなったらご奉仕しまさよお客さん」
「……言い方がなんかやだなあ」
「丁寧にマッサージさせていただきます様」
「うーん」

 結局何と言えば良いのか正解は出ないまま、言葉通りマッサージをしてもらいそのまま事になだれ込まれて悲鳴を上げるのだがそれもそのうち聞こえなくなったので平和な楽しい旅行となりそうだった。



(幸福のしっぽのにおいがする)
title:天文学