その日、バイトは休みだったが定期的なトリオン値の検査、という理由ではボーダー本部にやって来ていた。
一応近界民の可能性があるの経過観察だったが、その名目ももはや名ばかりのもので誰もがボーダーにとっての脅威だなんて考えていない。
元々はトリップしてきたもののもはや第二の人生というレベルで事実を事実として受け流して早十年近く経つ。普段は忘れているし、思い返しても神隠しと同じようなものだろうと開き直っていた。
見知らぬ世界での年齢退行という未知の事態。そういう意味では定期的な健康診断としてありがたく受診をしているのが現状だ。
約十年、もう敵方でもなんでもないとわかっていながらもこの検査を続ける、ある意味で堅物真面目集団の城戸たちにトリップしましたなんては言えなかった。トリップしてついでのように年齢退行していましたなんて彼らは驚くだけでもどこかの研究機関が諸手を挙げて喜ぶだろう。もしかしたらここでもトリオンの影響を調べられるかもしれないが人道的には違いない。
そんな訳で一応定期的な検査と面談があるものの最近はもはや面談が目的なのでは、と目の前の人をしては思うのだった。
「今回も特になんにもなかったですよ」
「それは何よりだ」
「正宗さんはちゃんとご飯食べてます? 眉間の皺濃くなってません?」
司令室は大半の職員や隊員にとっては近づきにくい場所だろう。無機質な、いかにも執務のみを目的とした遊び心のない見た目にですらたまに居づらさを感じる。
それでも気軽に立ち寄れるのは付き合いの長さ故だ。厳しい顔ばかりをする前の城戸も知っているからしてみれば今の彼も過去の彼も確かに存在する一面でしかない。よくよく見れば今の城戸の様子から機嫌がわかることもある。
そんな城戸はが昔のまま態度が変わらないことを何も言わない。良いとも言わなければ悪いとも言われない。だからは好きにしている。そういう人間は一人ぐらいいていいものだとは思う。
「私のことより自分のことはどうだ。大学は問題ないかね」
「元気に真面目に通ってますよ。太刀川くんのことも仕方がないからたまに見かけたら様子は見てますし。最近はバイトが忙しいですけど」
ボーダーの面々は旧ボーダーの面々と玉狛支部を除けばそこまで交流がないのだが、太刀川慶だけは進級・進学という大きな壁を前に付き合わされた過去がある。
当時の迅は何を視ていたのか可哀相にと毎日遠い目で見つめられ、林藤には笑って送り出されていた。今はそれよりももっと素直で取り組む気を見せる相手に勉強を教えているのだが、それにしても何かしら成績不振者に縁があるのかとからすればため息ものである。
城戸も話の流れから米屋少年について思い当たったらしい。
「例の件、米屋隊員はどうかね」
「中間はさすがに間に合いませんでしたけど授業の内容はわかることが増えてきたみたいです。太刀川くんみたいになるとまずいからこのままなんとかなって欲しいんですけどねえ」
勉強の合間に時々遊びに行こうとかなんだとか誘われていることはは黙っておくことにした。は城戸がなんだかんだと自分に対して気を回していることを知っている。
一応城戸、忍田、林藤はそれぞれにとっては保護者の意識もあるのでなんとなく言いづらさもあった。幸か不幸かこの十年、そういった異性との何かしらはささいなことも縁遠く過ごしてきたのでそんな思いを抱く機会はなかった。
「幸い本人もまだやる気はあるようだから、引き続き頼む」
「はあい」
それから話は大学での生活やボーダーでのラウンジのアルバイトになったがそちらも特に問題はない。平和なものだ。それ以外にも玉狛での他愛ない話や城戸からこぼれる本部の幹部側のちょっとした話。司令の立場ではあまりこぼさない城戸の個人的な呟きには自然とにこにこ顔になる。
玉狛に今も所在を残していてもにとっては自分を見つけてくれ、保護してくれた旧ボーダーの面々。城戸も含め離れていてもみんな大事な家族同然だった。
報告という名の座談会を終え、は司令室を出る。次は真史さんかな、と脳裏にルートを考えながら勝手知ったる幹部の執務室のあるフロアを歩いていく。
当時を知る人はずいぶんと少なくなったけれどボーダー歴が長い人たちにとってはは見慣れた存在だ。近界から来たかもしれないというのは城戸たちしか知らないもののボーダーの管理側にいればが定期的な訪問を行っていることは知られている。特に城戸と忍田の傍にいれば自然と顔を合わせる機会もあるというものだ。
だから忍田の執務室の近くで見かけた姿もお互い慣れたものだった。
「あら、ちゃん。いらっしゃい。忍田本部長ならちょうど空いてるわよ」
「沢村さん、こんにちは?。仕事が早くて好き!」
「じゃん」
「あ、太刀川くん」
認識しながらも太刀川は素通りをし、は沢村の方へと歩み寄る。沢村は忍田に会いに行けば基本的にそばにいるので今ではすっかり顔馴染みだ。時折忍田真史情報などを提供してはお菓子をもらう関係でもある。
ひらひらとおまけのように太刀川に手を振りながら沢村に軽く世間話をする様は礼儀正しいものではあるものの付き合いの長さが見て取れる。
「マジでここに出入りしてんだな」
「最近はアルバイトもしてるからね。太刀川くんは戦ってばっかりなんでしょ」
太刀川もこのボーダー本部ができた頃からボーダーの所属なのでのことは知っていても良さそうなものだがは定期検診の時以外に本部には近づかなかったし、太刀川は本部にいても作戦室周りやランク戦をしていたりと上層フロアには立ち寄ることが少ない。
結果、高校三年生で勉強会を始めるまでは名前を知ってはいても話したことはほとんどなかった。
「ラウンジに今度遊びに行ってやろうか?」
「邪魔するからいらないよ」
「つめてー」
そう言いながらもあっさりと諦め、じゃあランク戦しにいくわ、と太刀川は去って行く。珍しい姿を確認するだけして満足したのだろう。
その太刀川の姿が見えなくなったと思えば沢村がぴたりとの隣に近づいてきた。ちゃん、と囁かれながら香るトリートメントの仄かな気配には思わずドキッとしてしまう。艶のある黒髪のなんと美しいことだろうか。
は何度かこうやって近づかれたことがあるのだが、これを忍田にできれば一番なのにと思う。もちろん、恋する彼女がそんな大胆なことをできるのならば事態はもっと前に進展している。
「ちゃん、今から忍田さんのところよね?」
「はい。いつも通りおしゃべ……定期報告に」
「忍田さん、何かちょっとしたものが欲しいとか、そういうのそれとなく聞いてくれない? 誕生日に向けてリサーチしたくて」
「……誕生日、まだ先ですよね?」
は忍田の誕生日を頭に思い浮かべたが知っている限り秋だ。今はまだ夏が目前といったところで誕生日のリサーチにはかなり早い。忍田よりも早い城戸の誕生日ですら優に二ヶ月は先だ。
しかし相手は多忙な本部長補佐であり恋愛には慎重な沢村響子である。
「これから話をした時になんとなくこれかなって思うものがあればでいいの。私も気にはしてるんだけど去年はすごく悩んだから」
そういえばそうだなとは去年の沢村を思い出した。受験生だったのでそこまで話し込むこともなかったが欲しいものを聞かれた時は日にちが近く、鬼気迫った気配をしていたことは印象深い。結局なんとか誕生日プレゼントを渡すことに成功し、気を遣わなくても良いのだといいながらも喜ばれたのだと両手を握り締められながら語られた覚えがあった。
「良い情報があれば連絡します!」
「よろしくお願いします」
少し照れくさそうに笑いながらお辞儀をする沢村にこれを見せたら結構絆されるのになとはまたもや思ったがぐっと堪えて別れを告げた。
「真史さん、今度お休みの日に久しぶりにご飯でも食べませんか?」
「ああ、それはいいな。くんとは最近ゆっくり話せていないかったから」
城戸とは検査の日にこうして訪問する以外にも月に一度食事を行っているためある程度様子がわかっているし調子も掴んでいる。しかし一方忍田は多忙でもあり、たまの食事の機会も沢村を誘うように仕向けることに四苦八苦しているところでもあるため最近はゆっくりと話ができていない。の受験も重なり、忍田が遠慮していたこともある。
城戸も忍田も以前のように毎日と会っていないため、林藤から聞いているだろうに自身からも話を聞きたがる節がある。もちろん、としては構わないのだが。
「大学入学のお祝いもまだだったからな。せっかくだから美味しいものを食べよう」
「やった!」
「来年になれば二十歳か。くんともお酒が飲めるようになるんだから、不思議な気分だな」
にこにこと成長を喜んでくれる相手にとうの昔に成人を経験した中身の話はしてはならぬなとはにこにこ。美味しいものは何かしらとそちらに思いを馳せた。忍田は和食が好きなので馴染みの小料理屋だろうか。も何度か連れて行ってもらったそこは美味しかったので大歓迎である。
城戸と同じようにの何気ない日常の報告を忍田は楽しそうに聞いている。以前こんな話ばかりでいいのかと聞けばそれを聞けるのが嬉しいことなのだと忍田は笑っていた。
今日も和やかにその後も会話をし、入学祝いの日取りはまた連絡するということで部屋を後にした。
会議室や幹部の執務室があるフロアは通常の隊員が出入りしているフロアとは別になっていて、エレベーターもラウンジ等があるフロアで切り替わっている。そのため用事がなければこのフロアには上がってこないし、C級隊員や外部の人間はこのフロアは内部の人間と一緒に上がらないとたどり着くこともできない。
は定期的に来ているとはいえ先日までは毎回臨時のカードを貸し出してもらっていたし今回は事前に連絡をしてアルバイト用にもらっているカードに臨時で権限を広げてもらっているだけだ。その点は城戸も忍田も線引きははっきりしている。が上層部のフロアに行くのは定期健診は開発室や付随した研究向けの医務室で行うことと、城戸と忍田に顔を見せるためだ。毎回執務室に行くのは二人が多忙で外で会う機会は定期的には持ちにくいからで、名目上はが旧ボーダー時代から彼らの保護観察下にあるからだ。
「みんなもう少し休めるといいのになあ」
本部に移った旧ボーダーの面々はほとんどが幹部やトップの人間として日々忙しく働いている。大きな組織となってからは間もなく、組織の性質上未成年の所属の多いボーダーでは日々問題との格闘だ。
にはその大変さのほとんどは知らされないけれど昔から見ている分心配ぐらいはしたくなるものだ。
そんなにできることは目の前の大学生活を心配されることなく過ごし、アルバイトに励み元気であることを報告するぐらいだ。よし、とランプの点いたエレベーターに視線を上げれば開いた先に思わぬ姿があった。
「あれ? さんじゃん」
「米屋くんに、えっと、」
いつもは学生服で教科書を前に唸っている相手が今日は隊服で現れたものだからは瞬きをいくつか。
ラウンジで働いていればもちろん隊服で過ごしている防衛隊員は多いし見慣れないものではない。むしろそちらの方が多いくらいだ。
ただ米屋と会うのは学校帰りにそのまま本部にやって来る生身の姿なのでどうにも隊服が見慣れない、ボーダー内にいるにして不思議な感覚だった。
とりあえず中にいた全員が降りてきた。
「あ、うちの隊のやつら。この人、最近話してるさん」
「米屋がお世話になっています。三輪です」
すっと前に出てきた少年は黒髪の少年だ。
ぺこりと頭を下げた三輪の姿勢は良く、も思わず姿勢を正してお辞儀をした。
は誰がどの隊に所属しているかなんてほとんどわからない。玉狛の面々ですら隊を組んだり組まなかったりしているのでそういうものなのかと流し見している程度だ。それこそ本部の面々なんてわからない。はっきりわかるのは面識のある太刀川と出水が同じチームなことぐらいだろうか。
「チームで用事?」
「はい。今から会議があります」
三輪と名乗った彼が隊長である三輪隊は最近戦闘員四名、オペレーター一名の五人編成になったらしい。は続けざまに挨拶をしたもののオペレーターの月見が美人であることぐらいしか記憶できそうになかった。
三輪が説明する間に痺れを切らしたのは米屋で、先に行ってていいぜと言わんばかりに三輪との間に入るなりぐっとの顔を覗き込んでくる。思わずは仰け反ったものの罪はないだろう。顔が近づいてくれば誰だって避ける。思った以上に健やかな男子高校生の肌がつやつやでハリがあるだなんて思っていても口には出さない矜持はあった。
ただそんなことを考えているをよそに米屋は首を傾げながらさらりとそれを口にした。
「なんでさん上層フロアにいんの? ここは入れなくね?」
「えっ」
「そういえば……ラウンジのアルバイトならここには上がれないはずね」
月見の的確な指摘には唸ってしまう。今まではほんの少しの時間、出入りをするだけだった。それがアルバイトをし始めたのだから、いつかはもしかしたら、なんて思っていたがこんなにも早々に出入りがバレるとは思いもしなかったのだ。出入りを知っている隊員はある程度いるけれど、と幹部との関係はなんとなく知っているし玉狛の住民だと知っていればさほど追及はない。
とはいっても玉狛支部の住民だからといってなぜここに現れるかの謎は解決していないのだが。
五人もいれば疑問の視線ははっきりと肌身に刺さってくる。
仕方がないなあと、は深呼吸を一つ。別に秘密にしていることではない。表立って言っていないだけである。
「それはですね」
「それは?」
「私、フルネームで名乗ったことがなかったと思うので、改めて名乗ります」
「うん?」
は元々の生まれ持った苗字もあるのだがこちらの世界で暮らすにあたり戸籍を持つ必要があった。つまり、前の苗字のままでは暮らせなかった。
その当時、に戸籍が必要だと判断した関係者は三名。城戸、林藤、忍田だった。
「私、城戸といいます」
「……きど?」
「城戸」
「城戸司令の城戸?」
「城戸司令の、城戸」
オウムのように繰り返し、そしてその場にいる全員が目を丸くするさまをは久しぶりに見た。普通は苗字を名乗るし、同じ苗字だからといって親類かを想像する人はそういない。ただ今回は順番が順番であり勘繰られるのは当然の流れだった。
誰かが娘、なんていう前に続けて口を開く。
「城戸だけど、遠縁です。トリオンの性質が少し珍しいってことで今までも時々本部には検査で出入りしてるの。いろいろあって昔から玉狛に住んでいるから旧ボーダーの人は知ってる話だけど本部の人はあまり知らないかも」
元々用意されている表面上の理由だがは説明しながら久しぶりのそれに齟齬が出ないかと内心ひやひやしていたが五人にとっては城戸の親族というだけで青天の霹靂らしい。の内心の焦りにはどうやら気づかなかったようだ。
「三輪知ってた?」
「いや……初めて聞いた」
「蓮さんも?」
「ええ。さすがに司令のプライベートまでは聞く機会もそうないわね」
聞けば三輪や月見はボーダー本部結成時からの入隊という。は戦闘分野は関わることは避けていたのでその結果会わなかったのだろう。会っていなくてよかったとは胸を撫で下ろす。特に月見は随分と理知的な様子で下手に話し込めばボロが出かねない。それ以上話が広がらないように、不自然にならないように口を開く。
「これ、秘密ではないけど言いふらしてもないからそこのところよろしくお願いします。城戸なんて珍しい苗字でもないからね」
「それはわかったけど……さんと結婚したら城戸司令が親戚になるのすげー」
「今のところ結婚の予定はないけどまあそうなるね」
口をぽかんと開けながらきわどいことを思いつく米屋の言葉をは努めて冷静に流す。
嘘と本当を織り交ぜた外向けの事情ははその場限りで終わらせてしまいたい。
「そういうことだからみなさん私のことはって気軽に呼んでください! じゃ、会議のお邪魔しちゃ悪いから帰ります」
「さん今日バイトは?」
「食堂はないから帰るよ。明日は放課後の時間帯要るからお茶飲みたかったらおいでね。他のみなさんもぜひ。美味しいお茶淹れますよ」
最後の方は明らかな逃げ腰だったけれどは開ボタンを押してするりとエレベーターに乗るなりひらひらと適当に手のひらを振りながらも反対の手で素早く閉じるボタンを押した。明日の問い合わせよりも今の逃亡を選んだのだ。明日になれば忘れてくれることをほんのわずかに期待して。
幸いその後城戸司令という話題の扱いが難しい部分だったからなのかそれ以上の追及を受けることもなく、口外する場所も理由もないからか噂になることもなかった。
「私が養女って話どこまで話していいのか困っちゃうよね」
「それいろいろと面倒だから話さなくていいでしょ」
玉狛で自分で淹れたお茶をのんびり飲みながらつぶやいた言葉に返ってきたのは呆れ気味な迅の声だった。こういう話は事情通に話すに限る。そういう意味で迅は昔から年齢もほぼ変わらずにとって良い話し相手だった。迅にとってどうなのかは知らないけれど、時々どうでもいいことを話しかけてくるのでそうであるとは信じたい。
その迅が話さなくていいと言いながら顔は面倒なことをするなよと苦い顔なのでも思わず苦笑いだ。大抵の面倒ごとに迅は巻き込まれる体質と特殊能力があるのだ。
「そりゃそうだ」
「まあ未来の旦那ぐらいにはいつか話すだろうけど」
思っていない返事には目をぱちりぱちり。未来の旦那なんて、大学一年生になったばかりのには早いのではないだろうかと首を傾げた。
「……そんな未来視えたの?」
「例えばの話。がそういう話ができるのどうせあと二年ぐらいかかるよ」
「なにそれ! 失礼しちゃう! 私だって色恋の一つや二つや三つや四つ」
「もうその時点で可能性低すぎでしょ」
結局その日は二人でどちらが先に恋人ができるかという予測話になったが決着はつかなかった。
(あの子はだいじなお嬢さん)