日常はある日突然足元から崩れ落ちていく。そんな物語のようなことが物理的に訪れることになろうとは、はついぞ思いもしなかった。
「こんなに持たせるとか鬼?」
その日、は両手両腕に抱えた荷物のかさと重さに辟易していた。
仕事に必要なの物ばかりなのだけれどそれでも一人で買い込むには大量だった。費用も建て替えなのでますます重さを感じるし気分も重たい。財布の中身がそれなりに軽くなってしまった。戻ってくるお金とはいえそれまで財布の中身が軽いことには変わらないので妙に損をした気分だ。戻ってきたときについ使わないようにと気を付けなければならないのも頭の中にちらついてしまう。
はあ、と頭の中によぎったあれこれに思わずため息をついたけれどよし、となはんとか気を持ち直す。
「早く終わったら美味しい紅茶飲みに行く」
の勤め先は飲食の、特に茶葉を中心に取り扱っている会社で、今は喫茶も併設している店舗で働いている。
明日は店でイベントがあり、その準備のためにあれこれ買い出しをしていたところだった。
あとはこの道路を一つ渡ればお店までもうすぐ。
そんな一瞬、気が緩んだ瞬間にクラクションが鳴り、右を見たら車が急ブレーキを踏みながら走ってきた。
大荷物を抱えてのその一瞬の出来事にの脳は思考を停止してしまう。逃げ出さなければと思うのとは反対に足は鈍り、かろうじて左足を半歩後ろに後ずさったら今度は足がつかなかった。
ぐらり。
体が左の方へ傾いていく。
「へ」
傾いた左足へと視線を下に向ければ真っ黒な穴が左足を中心に広がっていく。あっという間に人が入る円形まで大きくなる。
当然重心は崩れ、見えなくなった足の方に体は傾いていく。
「え、やだ、なに」
あっという間に重心を崩したは悲鳴を上げる暇もなく、戸惑いの声を言い切る前に黒い円の闇に消えた。
が完全に飲み込まれた瞬間に黒い円は跡形もなく消え去り、急ブレーキを踏んだ運転手と、そして運悪くその場に居合わせた通行人がただ呆然と何もなくなった空間を見つめていた。
確かなものなど何もなく、天地も定かではない空間でができることは腕に引っ掛けていた荷物と腕で抱えた荷物を必死に抱き締めてなるべく溢れるものを少なくし、目を閉じてしまいたい衝動に駆られながらも半泣きで周りを見ることだけだった。
ぐるぐる回りながら普通ではない空間で走馬灯のように映像が流れ、それはには覚えがあったりなかったりいろいろだったけれど、途中で何かにぶつかる感覚があったり体が熱くなったり、寒くなったり、息が苦しくなったりと、この空間で死んでしまうのではないかと怯えてもう目を閉じきってしまおうかなんて思った頃、今までと違う光が見えた。
その光の先はなんとなく、今まで見た映像ではないと、は感覚的に理解した。
ぼんやりとしてはいるけれど向こうの先はおそらく現実だ。
たすけて!
必死にはそこに向かって走ろうとして、体の感覚がいまいちはっきりしないことに焦り、それから慌てて手を伸ばした。あともう少し、伸ばせばそこに手が届くように祈って。
そしてある瞬間その光は突然近づいて、を吸い込むようにキュルッと音を立てたかと思えばどすん、とお尻に痛みが走った。
「いたい」
痛いのと、固定された地面があることでは思わず泣いた。お尻だけど私地面の上にいる。
ホッとして、そしてハッと顔を上げたとき、あれ、と思った。
は冬の最中、コートを着込んでいたのに目の前の人たちはコートを着ていないどころか五分袖もいる。
「近界民か?」
「いやしかしこの子はどう見ても」
「人型か?」
不審な目が三対。不躾に覗き込む男たちの表情は不審、そして困惑だ。
この子、と言われたは首を傾げた。目の前の男たちはと同じ年頃か、もしくは年下に見えるのだ。それなのにこの子とは随分となめられている。
そう思ってふと視線を下に向け、先程は気づかなかった己の手のひらに気がついた。その手の小ささに、目を見開いた。
「え、手ちっちゃ」
「誘引装置が誤作動を起こしたのか?」
「いやでも今このちびっ子穴から出てきたぞ」
「……どうやら向こうも想定外みたいだな」
明らかに小さくなった手に、よくよく見れば体も小さい気がしてきたの脳みそに浮かんできた言葉は耳慣れてはいたけれど現実離れはしていた。
年齢退行異世界トリップ。
「いやいやいや、冗談でしょう」
一人でツッコミを入れるのつぶやきは虚しく宙を漂い誰にも拾われることなく彷徨った。
「あの頃、よく引き取ってくれましたよね」
「まあまだいろいろ好き勝手試行錯誤してたしなあ」
のほほんと、お茶をするのは今年二十歳になると玉狛支部長の林藤だった。
あれからしばらく旧ボーダーどころかまだ設立もしていなかったボーダー初期メンバーによる質問の嵐にはなんとか耐え切り、紆余曲折を経て今は玉狛支部に身を寄せていた。もう十年も前のことである。
ここでのの苗字は城戸。
もうがどうやって玉狛に居着くようになったかはほとんどの人間が知らず、限りなく近界民に近い、パラレルワールドが存在するならそれに近い世界の人間ということも、もう城戸と忍田、あとは林藤ぐらいしか知らないことだ。
当初は泣き暮らしてみたり必死に帰り方を探したも途中からは諦めて第二の人生で義務教育を途中からやり直す羽目になった。
その過程で苗字が城戸になり書類上城戸とは養子関係なのだが当人たちは本部が新たにできてからは所属している場所が場所のために親戚という体にしている。
一応の親子関係ということを知るのはそれこそ忍田と林藤だけだ。あの日が空中から現れた時から四人だけの秘密はそこそこにある。
「今じゃ本部も大きくなったし気軽に正宗さんなんて呼べないの少し寂しい」
「俺のこともボスとか林藤さんだもんなあ。も年頃か?」
「場に合わせてるんです。他に人がいないときは匠さんだし」
ふんだ、と拗ねてみせるはこちらの世界に来てから早十年。本来ならば城戸や林藤側に近い実年齢ではあったけれど不思議なことに人間は見た目に合わせた精神に自然となっていくらしい。
中学生の頃まではさすがに精神年齢との隔たりを感じるだったけれど大学生にもなればほとんど気にならなかったし十年も学生をやり直せば気持ちはほとんど現在の年齢に戻った気持ちだった。
「そんなTPOを弁えるにバイトの紹介がある」
「バイト? 確かにバイトしたいって言ってましたけど」
は出自が出自のため、監視こそつかないけれど玉狛支部から家を移せないし、移すとしたら城戸の管理下に入ることになる。
大学生にもなれば自由にしたいお金の金額も増えてくるし、交友関係も広がってくる。事情も事情なので友人が極端に多いわけではないどころかかなり少ないけれどそれでも長い夏休みには許可が出るなら旅行もしたいしやりたいことは少なくない。
バイトもボーダー縁のところの方が安心だろうかと気にしていたところではあったので渡りに船であった。林藤が言い出したということは城戸は了承済みか了承するような内容である。
「ボーダー本部の食堂にちょうど空きがあるんだと。本部なら勝手知ったる、だろ? どうだ?」
「まさかの正宗さんお膝元」
念の為、と本部で健康診断は定期的に受けているし忍田と城戸のどちらかとも面談という名の定期訪問も行っているので知らない場所どころか見知った場所だ。
そこなら彼らも目の届く範囲にがいるし人間関係も把握しやすいだろう。
時給も悪くはないし、一応面接はするとは言われたけれどほぼ採用確定である。
懸念事項もお互いになくにとっては悪くない就業先。何なら場合によってはレイジや林藤と帰りが一緒になる。帰り道でスーパーに寄れば荷物持ちの確保も可能だ。
「働きます!」
「お前あわよくばバイト帰りに俺のことアッシーにしようとしてるだろう?」
「はい! よろしくお願いします、匠さん」
にこにこお願いすればこういう時だけ調子がいいなと頭をくしゃくしゃと撫でられたけれどは満足そうに笑うだけだ。林藤に頭を撫でられるのは好きなのだ。
しゃーねえなと笑う林藤が満更でもなさそうで、さらには笑みを深くした。
「正宗さんと真史さんともたまに喋れたらいいな」
「あいつら多分喜ぶぞ。俺たまにずるいって顔されるし」
「誰にです?」
「城戸司令」
「嘘だあ」
ほんとほんとと、軽口で流されてしまった為、林藤のそれがどこまで本当なのかはその日確かめそこねてしまった。
大学一年生、春先のことである。
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