鍛えていない腕は手で掴むと柔らかい感触が伝わる。しっとりとした肌はいつも冷房で冷えてひんやりとして、今日もそうだった。掴んだ手を緩めて指を滑らせればするすると動く。かさついた指先で、なにより他人が肌を辿っているというのに触られている側は気にもせず空いてる片手で携帯をいじっている。休みの昼前の連絡に返信する様は随分と熱心だ。
「気になんない?」
「そうだね。触られてるな、って思う」
太刀川の問いかけにも目線が上がることはない。ソファで片膝を立て、そこを支えに携帯を持つ手を支えている。空いた手は忙しくなる前に太刀川が捕まえただけで離せばすぐに離れていくだろう。
あっさり過ぎるほどの態度は今に始まったことではない。太刀川だって少し前まではこんな風にこの相手の肌を撫ぜることはなかった。
冷えた腕は掴んだ部分だけ僅かに生ぬるく表面の温度を変化させているがそのうちまた冷えてしまうだろう。
表面温度の変化はそのまま太刀川と彼女の関係のようだった。
「そもそも呼んだのそっちだろ」
「確認したいメールだったの。もういいよ」
そう言うなり彼女は先ほどまで真剣に見つめていた携帯をぽいと手放した。興味が失われるとなんでも躊躇いなく放り出されるらしい。ローテーブルに置かれた携帯は定位置がなく毎回放り出される場所が違う。時折どこに置いたかかと視線を迷わせるのに置き場所は作らない。
そうしてほんの少しばかり携帯に視線を送っていると触られるがままだった相手は突然そのしっとりと滑らかな腕を首に絡ませてくる。
「筋肉質な体っていいよね」
「何が」
にやりと笑う彼女の瞳には先程までの淡白さとは違う色が交じる。面白そうに、悪戯めいた瞳が太刀川を真っ直ぐに捉える。
「セックスする時に見応えがある」
欲に忠実に唇を寄せればふっくらとした唇が当然とばかりに人の体温を味わいに来た。
最初は単なる性欲のはけ口だった。今だってそうだろう。
それにしてはお互い相手の体に丁寧に触れ、事に及んでいる間だけはまるで恋人同士のように睦み合う。したいことを、されたいことを口にしては相手の言葉に応える。
好意の言葉だけが不自然に抜け落ちていた。
行為だけの相手は彼女だけが初めてではない。若く鍛えた調子の良い大学生は欲に塗れている。同年代も年上も、意味深な視線を送れば同じような相手は自然と近づいてきた。彼女もその中の一人だった。
「女の体の方がよっぽど見応えたっぷりだろ」
やわらかな線を描く肢体。布越しに撫でれば期待するように僅かに身を捩る。服をめくって中身を確かめるように手を這わせれば触られたいという欲を隠すこともない。手が動きやすいように、触られたい場所をやんわりと動きで示す。
下着の上から胸を撫でていれば、早くと言葉の代わりに空いている手が太刀川の手を胸に押し当てる。期待に応えてホックを外せば弾力のある胸は手の平におさまって離れない。触っていれば反応して先端をつんと尖らせる。
吐息が混じり出すと後は欲に忠実になるだけだ。
「ふふっ」
途中何がおかしいのか笑った彼女は太刀川の頭を優しく撫でる。それは行為の最中毎回のことで、その手付きの丁寧さに太刀川は目を閉じてしまう。指で髪を梳き、親指でこめかみをなぞり、残りの指先が頭から首先をなぞっていく。額にキスをされ、そうすると一瞬のやわらかな時間は終わりを終えてその舌先は唇を割り口内を蹂躙していく。
体が熱を持ち、行為に耽っていても結局のところ彼女のその手が欲しくて都合よく呼ばれていくのだと気づいたのはいつからだったか。
もちろんそんなことを考え続ける余裕はなく、撫でられるばかりでもなく、太刀川は情動に誘われるまま浮かされることにした。
日曜の午前中から呼ばれて防衛任務明けの仮眠後、ほいほいやって来た。そうして望まれる通りに相手をし、シャワーを浴びて出れば太陽は頂点を過ぎようとしていた。
「太刀川君お昼ごはんそうめんでいい? っていうかそうめん作った」
「俺の意見聞く気ないじゃん」
「食べずに帰るなら一人で二束食べるからいいんだよ」
「いる」
太刀川の返事の前に既に彼女はざるにあげたそうめんをローテーブルに置いているしつゆを入れた皿と箸は二人分並べられていた。明るい色の木製の箸は持ち手側が金と銀で太刀川が普段お世話になる百円均一の箸とは違う品の良さが見て取れる。そうして見れば食器もただの白い器なのになんだか品良く見えてきた。
当然のように用意されていたそれに彼女の誘いになら二つ返事だということを見抜かれていたけれど太刀川はそれも良しとしている。機嫌良く下着一枚でソファとローテーブルの間に座り込む。
「Tシャツぐらい着なよ」
「あちぃ」
冷えた室内でもシャワーを浴びた後では自然と汗が流れる。タオルで拭いてもキリがないので落ち着くまで放っておく。今服を着れば汗で肌に密着してしまう。太刀川にとっては服を着ないのは当然の選択だった。
「冷える前に着なよね」
「ん」
そう言いながらローテーブルに彼女がグラスを置いた。氷入りの麦茶が手の動きで揺れてグラスの中でぱちりと音を立てる。
体を動かしてシャワーを浴びた後にそうめんと麦茶。いかにも夏らしいだろう。残暑も随分と過ぎたけれど外の日差しは厳しくカーテン越しにもわかるまばゆい明るさなのでちょうどいいのかもしれない。
先にシャワーを浴びた彼女はTシャツに短パンで着倒したお気に入りの部屋着なのが見てすぐわかる。出迎えの時点で化粧も何もしていなかったことに思わず頬が緩んだがすっぴんだなとわざとからかって事なきを得た。着飾らない相手を一つ発見する度に喜ぶことを気取られないように振る舞うのに必死だ。
「太刀川君まだ夏休みでしょう? 大学生って夏休み長くていいよね」
太刀川の隣に座った彼女は金の持ち手の箸を手にしてざるからそうめんを一掴み。思い出したようにいただきますと付け足した。
わずかに視線を向ければ座った分短パンの裾が持ち上がり太ももが露わになる。素知らぬ顔をして視界の端に入れた。
「おかげでランク戦がはかどる」
「ボーダーの話ばっかりだ。楽しそうだけど、太刀川君宿題すっぽかして怒られるタイプでしょう」
「ん-、まあ、そんな感じ」
「だろうね。でも夏休み満喫するのが上手そう。それは、いいな」
社会人の夏休みは儚いよと彼女は笑う。その期間はいつもより誘いに間が開いたので記憶にあった。帰省をしていたのか遠出でもしていたのか。太刀川は聞かなかったし彼女も話さなかった。
働いていて、太刀川よりも年上、休みの前夜からよく呼び出しがある。肌は滑らかで事に至る際は積極的、タイミングが合えば彼女の家か外で食事をし、食事代は彼女のおごり。
警戒区域寄りだけれど広めの部屋で一人暮らしをしている。部屋には大人二人がゆったりと座れるライトグレーのソファがあり、ベッドは寝心地の良いセミダブルのマットレス。部屋着は少しくたびれたぐらいのものを好んで着ている。
「さん」
「うん?」
「さっき薬味用意してなかった?」
「あ」
風呂場から出てキッチンで麦茶を入れるのではなく包丁を握っていたのに切ったものが並んでいなかった。
声を上げたもののすっかりお尻に根が生えたらしい彼女の代わりに立ちあがって取りに行く。
「太刀川君ついでに麦茶本体も持ってきて」
「へーい」
勝手知ったる他人の家。1LDKの部屋で太刀川が許されているのはシャワーを浴びること、彼女が誘った時にベッドに上がること、気まぐれに振舞われる夜食や昼食のご相伴にあずかること。彼女の代わりにキッチンに置かれた薬味と麦茶の入ったポットを運ぶこと。
まるで恋人のような振る舞いでも明確に線引きがある。恋人ではない太刀川は昼食を一緒に食べてごちそうになった代わりに皿を洗う。そして部屋を出て家に帰りもうひと眠りする。彼女の家で許されているのは情事とその後の食事の時間の滞在だ。ペアの箸は真新しく、太刀川のために用意されたわけではないそれを出される度に黙って使う。
問うことは、冷めた瞳が拒絶していることを知っていた。
「要はセフレだろ」
最近麻雀会の参加率が悪いと麻雀後の居酒屋で理由を問われた。隠すことでもないので女のところだと答えれば気が向いたのか東が一言つついた。何か勘が働いたのだろうか。そうだとすれば元A級一位の名は伊達ではない。何人もの弟子を持ち育成に尽力する男の観察眼は確かなものだというしかない。
突かれて答えられないことは特にない。特にはないが歯切れの悪い追加説明になってしまう。ただ体だけの関係だと言えばその通りだ。彼女について知っていることは僅かで、踏み入ることは許されていない。
要領の得ない説明についた感想は諏訪の一言だった。明確だ。否定する要素は一つもない。
それでもその一言を自分から口にする気になれない。手元に残るビールを煽り飲む。話している間に温くなったそれに思わず顔が歪む。
「そう言われればそう」
「太刀川は本気なんだろ」
悪気のなさそうな笑顔を浮かべて日本酒を含むのは東だ。根付から良い銘柄を教えてもらったと冬島と二人で飲んでいる。ペースはゆっくりなので酔った絡み酒というには柄が良い。ただ太刀川はその目は楽しげに細められたのを見逃さなかった。
「まあ、そうなるよなあ」
「苦戦中だな」
「てごわい」
追加のビールを通りがかった店員に頼んで手持ち無沙汰に枝豆を手に取り口にした。あれこれしゃべる気分ではないからかひとつ、ふたつ、と枝豆を口に頬張り続ける。
「りすかよ」
「諏訪さんが悪い」
「お前の話の感想だろ。実際がどうかは知らんわ」
「なおわりぃ」
喋りにくくなったからかそこで手は動きを止め、口をもごもごと動かしだす。食べている間は口をついて出そうな愚痴は零さずに済む。
諏訪の呆れたような視線、東の面白がる視線、冬島のにやついた視線。
どれも太刀川の居心地を悪くする。
「ふらふら遊び歩いてた太刀川が恋か」
「太刀川に恋って似合わないな」
「しかも難易度の高そうな片思いときた」
追加のビールが来るまで妙に生温い視線に耐えながら口の中一杯の枝豆を味わう振りをした。
この場の三人共が必要以上に話をつつくタイプではないのは太刀川にとって幸いした。別の話題を振れば深追いせずにそちらに乗ってくれる。話題は豊富だ。同じ組織に所属していればチーム内の話から他のチーム、果ては上層部の話など、話すネタは事欠かない。
店で飲んでいる間は良かった。三人とも先ほど以上に他人の恋路に突っ込むほど野暮でもない。
不幸なことは諏訪宅での飲み直しの流れになった時だ。コンビニで何かを買おうと店を出て歩き出して間もないことだ。すれ違うグループに声をあげたのは太刀川だった。
「あ」
向かい側から歩いてくる男女五人はいかにも会社帰りの社会人だった。同僚らしい気安い雰囲気を見せながら談笑して二軒目か、遅めの一軒目かに向かうところなのだろう。その中の一人が見覚えのある歩き姿で、噂をすればというやつか、がそこにいた。
一人足を止めれば諏訪たちもなんだ、と振り返る。すれ違う男女は太刀川の視線がに向かっているのに気づき、知り合いかと聞いている。
「うん。後輩」
またね、とひらりと手のひらを振りながらあっさり通り過ぎていく相手に太刀川は何も言えなかった。彼女が何かの先輩だったことなどない。彼女の出身大学も、高校も知らない。適当に、淀むことなく吐かれた嘘により三門市が地元なのかも聞いたことがないのだと気が付いた。
仕事着を見たのは初めてではない。最初に会った時、彼女は仕事帰りだった。
どうにもいまいち話に乗れない合コンで退屈を隠す努力もせず手洗いに立った時、カウンター席の彼女と目が合った。
「わかりやすくつまらない顔してるね」
騒がしいテーブル席の連れには聞こえないけれど近くを通っている太刀川にはよく聞こえた。明らかに合コンらしい席順につまらない顔をした人間、それを見て面白そうに笑っている。趣味が良いとは言えなかったけれど向かいに座る合コン相手よりもよほど好みだった。
合コン相手と解散して店に取って返せばまだ彼女はカウンター席で酒を嗜んでいた。その時もひらりと手を振り「おかえり」と笑っていた。
「太刀川、さっきの相手か?」
「ありゃ手強いんじゃね?」
本来なら太刀川のことなど見向きもしないだろう。太刀川に反応されても気にする様子もなく動揺も見せずに立ち去って行った。
知り合ってから今も年下の太刀川のことを子ども扱い、良くて弟ぐらいにしか見ていない時がある。
それなのにあの日彼女が誘いに乗ったのはなぜか。太刀川は部屋の気配と彼女の視線から答えを予想できた。
だから思わぬ同情の視線にもへこたれることもない。
「まあそうだけど、意外と現状でも悪くない気がしてる」
「重症だな」
「恋は人を変えるからな」
太刀川の言葉に次々と適当な言葉をかけられるが再び歩き出せば誰彼ともなく肩にぽんと手を置いては離れていく。
それすらも外野からのざわめきだと大して気にも留めないのだ。その点はまさしく指摘通りだった。
諏訪が家の近くのスーパーがまだ開いているというのでそこで酒を買い込みつまみを買い、結局朝まで麻雀をした。負け込んだので必修単位の授業だけ受けたらランク戦に明け暮れた。
彼女からは連絡はなかった。
休み明けは忙しいのだと言っていたのは五月の連休の頃だったか。この夏も休み明けは忙しかったのかそうめんを作ってくれた日以降、正確には夜に外で見かけてから呼び出されることはなかった。
元々どちらかが気が向けば連絡を取る形だったけれどいつからか太刀川は気が向いている日ばかりになっていたから意図的に自分から連絡を取る頻度を抑えていた。それも彼女にはお見通しだっただろうけれど何も言われなかったので好きにしていた。
彼女も都合の良い時にだけ太刀川を呼び、都合の良い時間を過ごしてやんわりと追い出した。家に呼ぶのに優しく追い出すのだ。実に手ひどい仕打ちに何度か意地の悪い質問が頭をよぎったけれどいつだってそれはお揃いの箸や新調して間もないソファを見ると音になることはなかった。
会いたい。
端的なメッセージにいいよ、とこれもまた端的に返事が来る。
コールすればすぐに出た。
「夜遅くにお誘いかな」
「そう。家行っていい?」
「もう日付も変わりそうだよ? いいって言わなかったらどうする?」
曖昧な回答だったけれど構うことはしなかった。
「ベランダから俺が見えるよ」
電話越しにため息が聞こえたかと思えば間もなくベランダから部屋着の彼女が見えた。認識されていることを確認して口を開く。
「だめ?」
「だめって言ったら?」
「最後の手段、使うかな」
「何かな」
「明日誕生日だから、誕生日プレゼントに俺と会ってよさん」
努めて明るい声に電話の向こうで沈黙が続く。
「あのさあ」
「うん?」
彼女はひどいことをするけれど悪人ではない。他人を冷たくあしらえるわけでもない。セフレの男が街で反応してきても他人の振りもできないのだ。よくわからない後輩という苦しい言い訳を使って誤魔化す、つまりはどこにでもいる善人だった。
今夜、太刀川はわかっていて彼女に連絡した。何を言えば彼女が断らないのかもわかっていた。
他に男の影もない。彼女の家に最近上がったことのある人間は他にいない。いつだって、寂しいと思う前に彼女は太刀川を呼ぶ。よそよそしく苗字で呼ぶ他人。それでも当たり障りない会話が出来て、普通の振りができることを求めている。
「太刀川くん本当に留年しかけたの? 本当は賢いんじゃない?」
なんとか絞り出した言葉は負け惜しみに近い。拒まれることがないのは声色から明らかだった。
太刀川が留年しかけたことは紛れもない事実だ。卒業も危うかったことは話しただろうか。それと同時にボーダー本部内でチーム一位、個人総合一位の成績だということは知っているだろうか。ランク戦に勤しんでいることは話しても順位のことを話したことはなかった。
「俺、戦術とか好きなことに必要なら覚えてるんだよ」
「戦術? これは戦いじゃないよ」
「心理戦だろ?」
対人戦において他人の動きは重要だ。相手の性格、癖、普段の振る舞い、何もかもが貴重な情報だ。年代も性別も幅広く集めればその分勘は鋭くなる。狙った結果のためにどうしたらいいのか、なんとなくわかることが増える。感覚的に正しいと思う瞬間が増える。時には思考よりも先に体が動くことが増える。愚直なほどの数を重ねれば自然と見えるものは増えていく。
彼女とのやり取りは厳密には戦闘ではない。違うけれど彼女がどう行動しようとするのか、何を思うのか。体を重ねるということは一太刀合わせることとはまた別の距離の近さがある。少なくともセフレ程度の相手に冷たく振舞えないことは簡単にわかる。
「インターホン鳴らしたら開けて」
「こんなに計算高いと思わなかった」
相手の知らない部分を知ると太刀川は笑ってしまうことが多いのだが彼女はどうなのだろうか。
部屋の明かりを背景にした彼女の表情は地上からは見えなかった。
時刻は二十三時を優に回っている。化粧を落とし寝間着姿で彼女は太刀川を出迎えた。
ドアを開けた瞬間に呆れたような、機嫌の悪いともとれる表情に太刀川は思わず笑っていた。
「おじゃまします」
「本当にね」
嫌味にもびくともしない。この程度はかわいいものだ。
嫌味という嫌味は留年沙汰になった時に山ほど聞いている。それも本部の会議室に呼ばれて、だ。一位という成績を修めていても最低限のラインはあるのだと、模範になれではなく最低ラインを下回るなという説教は実に必死だった。興味のないものには最低限の努力も危ういことは本人も周りもわかっていたのは幸いだろう。詰め込み教育の末、大学の卒業までは可能な限り同級生による出席確認と定期的な大学生活の報告が義務付けられた。今のところ最低ラインを下回ることなく順調な運用となっている。今後年下の防衛隊員についての対応マニュアルの下地にされるだろう。太刀川は太刀川以上にまずい人間をそうそう知らないので全員なんとかなるはずだった。
そうして太刀川にとっては小鳥の囀りのような一言を流して家に上がれば彼女はため息と共にドアの鍵をかけた。
嫌味を言われてもいつも座るソファに腰かけてしまえば彼女もいつも通り隣に腰を下ろす。
「会うだけでプレゼントになるのかな」
「誕生日に好きな相手と会えたら良い誕生日じゃん」
「太刀川君」
恋人のような互いの体を尊重する行為はあっても、相手のことを知人の程度でも好ましいように態度に表したとしても、それはぼんやりとして確かなものではなかった。 明確な好意として示したのは今日が初めてだった。
名前を呼ぶ人の声は咎めるように諫めるように苦い。どうして言うのだと暗に責められているがいつかは同じ結果になっただろう。言わなくとも好意はすでに明確だった。
「さん知ってて知らんぷりしてたろ」
「身近にいない年上女が面白いだけだと思う」
「そんなのわかんないし、それに他人を面白がって興味持って好きになるのって普通のことだろ」
体を完全に横を向け、片足を上げられるソファは一人で使うには大きい。
太刀川の方を見ない彼女はローテーブルに視線を落としている。
「都合が良いから俺と会って、セックスしてたなら、今もこれからもそれほど変わらないだろ」
「好意を向けてくる相手に今まで通り接しろっていうのは難しいでしょう」
「言うか言わないかだけで俺は何にも変わってない。俺はさんの好きな時に会って好きな時にセックスして、時々一緒に飯が食えればいい。あ、いや、もうちょっと言うかも」
「それは、私に都合が良いよ」
好きな相手と話をし、時折会い、体を重ねる。時々食事をする。今までと違うことは太刀川がのことを好きだと明確にしたことだ。口では簡単なことのように言ったがたったそれだけ、の話ではないことを太刀川はあえて言葉にしない。
彼女の都合が良いように振舞おうとそれで良いのだと太刀川が言う。それを彼女は都合が良いと受け取ろうとしない。
「俺たちは都合の良い相手なんだからそれってムジュンじゃん」
「そうだよ、矛盾だよ」
彼女の横顔を太刀川は真っ直ぐに見つめているのに、その視線に気づいていないはずはないのに頑なに顔を動かすことはしない。視線が揺らいでいるかは太刀川からは見えない。
今は太刀川の気配しかないこの部屋は残り香なのかわからない微かなものが見え隠れする。
「それはあの新しいセットの箸の話?」
「……木の色が明るくてきれいで、一目で気に入った」
「このソファも?」
「こういうソファいいよね、って話をしてお店で座り心地も確認した」
「うん」
「ここにあるものはどれも使われることがなかったものだよ」
一人暮らしをするには他人を想定した広い部屋。一人で使うはずのないペアの食器たち。一人で座るには余裕がありすぎるソファ。
それは彼女が誰かと暮らそうとしていたと想像するに易いかけらだった。
「夏休みは気を遣われすぎて嫌になってたから、私は大丈夫って、実家に顔を出して平気な顔して安心させてた」
「うん」
「太刀川君が合コンしてるの見た頃、このソファが家に届いてさ。今より物がもう少し多かったからあれもこれも、彼の物も全部捨ててやった」
「うん」
「ソファに罪はなかったし、座り心地良いし、友だちがくれたペアのお箸は私の好みぴったりで、使わないのももったいないって片方使い始めた」
「うん」
ソファで膝を抱え、訥々と彼女は語った。
いつ訪れても物の少ない家は手放したばかりだった。人の気配がないのに残ったものは一人にしては不自然で他人を連想させるには真新しすぎた。
「ソファ、人気だから納品までに時間がかかったけどまさか受け取る時に一人ぼっちだと思わなかった。かといって誰かと付き合いたい気持ちなんてかけらもなかった。でも一人分空いちゃうソファに真ん中で悠々と座るほど元気もなかった」
「そうか」
「合コンしてるのにつまらなさそうな太刀川君見てこの子正直だなって。合コンの席じゃ悪手だけど、悪い子じゃないんだろうなって」
「本当は?」
は、と息を呑む音がした。はまだ太刀川を見ない。
「だれでもよかった」
温度のない言葉が落とされる。言い訳がましい色もない。声の平坦さがその言葉が単なる事実であると伝えている。
「たまたま俺だっただけ」
「そう。あの日たまたま、正直な太刀川君を見て、見たまま感想を伝えてみようって声をかけただけ。年下の男の子で、遊びたさそうで、それは私にとって丁度良かった」
「セックスできそうで、ついでに好みのタイプならまあいいかって乗ったんだからお互い様だろ」
最初は確かにそうだったはずが、どこで変わったのか。
太刀川にとってそれは大それたことではなかった。遊びの様に誘ってきたはずの相手の手つきの優しさであったり、食事をするときの美味しそうに食べる様であったり、初めてそろいの箸を出した時の何とも言えない顔つきであったり、一つ一つ、触れて知る機会が他人であった遊び相手を血肉の通う人間にしていった。
知らないことの多さは知る喜びでもあるけれど、他人であることを突きつけられた。名付けられる関係性は望んでいるものではないと自覚させられた。遠ざけるように連絡が減ることを良しとできず、誕生日を理由に付け入った。
太刀川を見ようとしない彼女は変わらないから見ようとしないのか、それとも別に理由があって見ようとしないのか。太刀川はじっと様子を窺っている。
「身を粉にするような恋は、愛は、当分要らないの」
絞り出したような言葉は本音だろう。
年上の女性として振舞っていた彼女の飾らない言葉は太刀川の心を躍らせた。
「そんなことしなくていいって言ってるじゃん」
「それはずるいでしょう」
「ずるいってルール違反とかだろ? 俺とさんの間でルールなんてないし、俺は傷つかないしさんも傷つかない」
太刀川の言葉は淀みない。彼女の言葉に揺らぐこともない。
膝を抱えていた彼女がようやく、顔をこてんと傾けた。太刀川と目は合わない。彼女には太刀川の体が見えているだけだろう。
「今まで通り都合が良い時に会って、たまに外で飯食って、セックスして、俺が言いたいときにさんのことを好きって言う」
「私は好きって返さなくていいって?」
「返したくなったら返してもいいし。ああ、あと嫌じゃなかったら泊まりOKにして欲しいぐらいかな」
「それは、付き合うのとほぼ変わらないと思うけど」
「さんが嫌なことはしないで好きにするだけ。付き合うって人が言うかもしれないけどさんの呼びたい名前でいいだろ」
太刀川はとの関係を誰かに説明することがあっても名前をつけたことはなかった。先日のように名前をつけられたことはあれど、自分でそうだといえなかった。
膝に頭を預けて太刀川の方を向くは顔を見ることはない。太刀川だけが彼女の顔をじっと見つめている。
「太刀川君が言うようにしてもあなたのこと好きにならないかもよ」
「まあそん時はそん時だけど」
「だけど?」
彼女は気が付いていない。目を合わせられなくても、向き合わなかったところから変化している。顔を太刀川の方へ向け、既に意識を向けている。
体の動きと思考は密接に関係している。
A級一位も、個人総合一位も伊達ではないのだ。
「俺まあまあ強いよ」
その一言にようやく彼女は顔を持ち上げる。
目線が合う。困ったような瞳の色で彼女が微かに笑う。
「お言葉に甘えて、都合が良い女を続けさせてもらおうかな」
「俺も都合よく振舞うから引き分けな」
半分は諦めに近い宣言だったがそれでも今夜は十分な言葉だろう。
何が変わったわけではない。それでも太刀川は以前より素直に笑うことができたし彼女も緊張することなく仕方がないなと甘んじるように笑っている。
合っていた視線は不意に彼女の視線が太刀川の向こう側に向けられてずれた。そう思う間にすぐに戻ってきて、その目は先ほどとは打って変わって悪戯めいた光を持っていた。
「早速、都合が良い女になろうかな」
「何」
「お誕生日おめでとう。誕生日プレゼントに泊まっていきなよ。寝間着ないけど」
都合が良いと笑う人はそう言って抱えていた膝を崩して両腕を広げていた。
どうにもやはり悪人には向いていない。
太刀川は笑いながらその腕に甘えるようにやわらかな体を腕に閉じ込めることにした。