「太刀川、レポート出してないやつあるよ。このままじゃ留年だって教授が泣いてた」
「げ、マジかよ。どれ? 俺今自分が何やってんのかわかんねーんだけど」
食堂で唸りながらいかにも瀬戸際の体で講義のプリントと白紙に近いルーズリーフを広げて唸っている太刀川を見下ろした。
高校の同級生で学部が一緒。一般教養の科目も多いので太刀川と履修はかなり被っている。だからとある科目のレポートを締切ギリギリで出せば太刀川くんのこと知らないかなと言われて知りませんとは言えなかった。
「私もヤバいけど太刀川も大概やばいよね。免除されてるやつとかあんのに」
「うるせー。ボーダーは忙しいんだよ」
「入り浸ってるからそうなるんでしょ」
困り顔で太刀川への伝言を託されたのは偶然だったけれど太刀川に用があるといえばあったので隣の席に腰掛ける。
回ってなさそうな脳みそを振り絞っているらしく一応眉間にシワを寄せている。
「太刀川今日うちに寄る?」
「寄る」
「レポート終わったらおいでよ」
返事が即決だったので用事は済んでしまったけれど散乱する紙を整えることにする。このままでは太刀川はレポートを提出する前に一部紛失しかねない。
「むしろおまえん家でレポートやる」
「……講義被ってるやつなら手助けはするけど後は優しいボーダーの同級生に頼んでよ」
「おう」
私から見ればよくある遊び呆けて単位崖っぷちの同級生だけどボーダーの人にとってはボーダーで遊び呆けて単位を落としたり留年するのは都合が悪いらしい。なにせこの太刀川、裏技みたいなボーダー推薦で奇跡の大学入学らしいので納得といえば納得だ。
太刀川に、そこまでして大学生になりたかったのかと聞けば大学には行けるなら行ってくれと親に泣きつかれたからというから周りが必死だ。実際合格を知ったときに両親は泣き、喜んで赤飯でお祝いしたとか。
「一つぐらいはレポートやりなよ」
「おー」
これは怪しいなと思ったけれど太刀川はもう早々に荷物をまとめだした。家に着けば着いたでレポート投げ出す予想はついていたけど、私はこいつが留年しても痛くも痒くもないからまあいいかと見てみぬ振りをした。
***
「やっぱり」
視界はベッドのシーツの白。両腕に体重を載せて拳を作る。膝は薄いラグ越しに床の固さが伝わってくる。後で赤くなりそうだった。
ベッドを支えに私は後ろから私の奥を容赦なく突いてくる衝動に声を出しすぎないよう必死に耐えていた。壁が薄くて聞こえやすいからこれだけは譲れない。
「何が?」
「っ、いきなり、動く、な」
背中越しに落とされた声はレポートのことなどすっかり忘れた様子で、服もろくに脱がないまま容赦なく腰を動かしてくる。中途半端にホックだけを外されたブラが気持ち悪かったけれど取るのを待ってくれそうにはなかった。
私の家についてすぐはレポートに取り組む気はあったらしい。太刀川よりはマシなレベルの私のノートを見ては唸っていた。
私は私で手助け、とノートを放り投げた後は携帯でだらだらとネットサーフィンをしていた。
先程のレポートで提出物は終わったので後は講師の都合で延ばされた試験が一つだけなのだ。それもゆるいと評判の試験なのでほぼ夏休み状態だった。なのでこの時期この段階で提出物が複数残っている太刀川の未来は暗雲立ち込めてると思う。私は勤勉ではないけれど、最低限勉強する程度に大学生の自覚はあった。
太刀川は、おそらくレポートの半分も進まないうちにゴツンとローテーブルにおでこを当てて動かなくなった。かと思えばのそのそと這って私の背中におぶさってきてそのまま手が悪さをし始めた。手から携帯が落ち、床でさっきまで見ていたどこぞの誰かがネットにあげたオシャレなスイーツの写真を目に、こりゃだめだなと思った。でもここでレポートをしろと促すほど良い子ではないから悪いようにさせて今に至る。
「留年、するよ」
「わかってて呼んだ癖に」
「うっ」
ベッドに載せてくれないまま、後ろからの動きに耐えていると、いつの間にかホックを外したブラの下から右の胸を揉まれ、左指を二本、口に突っ込まれた。後ろから突いてくる動きは喋っているのを余裕と見られたのか性急になる。
思わず口の中で蠢く太刀川の指を噛みそうになるのを耐えた。
「噛んでいいのに」
「や、ら」
唾液が口から落ちかけて、飲み込めば指が舌を誘うように動く。
仕方がないので中で遊ぶその人差し指と中指の間を丹念に嬲って吸ってやればご満足いただけたらしい。そのまま続ける。
夏の夕方、電気もつけない明るい時間帯から欲求に従うだけの私たちは獣みたいでなんだか愉快で笑ってしまう。
当然のように私の家に上がり込み、断られるとも思わぬままに私の体に触れるこの男と私は恋人でもなんでもない。
じゃあなんだと言われたら、高校時代からの同級生以外に私は呼び方を知らない。付き合おうと言われたことも好きだと言われたこともないのなら、これはなんなのだろう。
今のところは答えが出ない。
そんなことを考えていたら舌の動きが疎かになるのは当然で、そんなことは許さないとばかりに後ろからさらに打ち付けられればもうその動きにだけ意識を向けざるを得なかった。
***
「おまえんとこに太刀川いねえ?」
最後の試験を終え、安くてまあまあ美味しいB定食を食べていると諏訪先輩がどすんと前の椅子に座ってきた。
「久しぶりです諏訪先輩」
「で、太刀川は?」
「なんで私に聞くんです?」
「なんでっておまえら付き合ってんだろ?」
高校の頃、サボり場所の非常階段で時々一緒になっていた諏訪先輩はかなりいい人だ。自分もサボってるのに私の出席日数を心配してくれたり大学行くならもう少しだけ上手な手の抜き方を覚えろと言ってくれたり。
あの頃諏訪先輩に彼女がいなければ私は諏訪先輩に告白でもしてたかもしれない。あいにく彼女にベタぼれだったから早々に諦めた。諏訪先輩もそのことは薄々感づいてたけど触れずにいてくれてる。
その頃のおかげで一応連絡先も知ってるけれど別にこれといって交流があるわけじゃなかった。ただ同じ大学なので時々顔を合わせるぐらいだ。最近はなぜだか太刀川のことをついでのように聞かれていたので妙に話す機会が増えた。そこでこの一言だ。目を思い切り開いて諏訪先輩を凝視してしまった。
「付き合ってんです? はっつみみー」
「ハァ? おまえそりゃないだろ」
「そう言われても困るっす」
太刀川に何を聞いてるのか謎だったけれど私の答えは変わらない。
今週のB定食は親子丼。お味噌汁を胃に流し込めば程よく胃があたたまる。
「…………おまえら一回話し合えば?」
「えええ」
「いやいやいや」
諏訪先輩はとても良い人だ。ボーダーでも兄貴ポジションらしい。適当にだらだら大学生やってる知り合いの後輩にすら気遣える。
今のところ彼女はいないみたいだけど彼女が欲しいことも知っているし意外と硬派なのも知っている。
だから昔みたいに諏訪先輩のことを好きになればそれは見た目と裏腹に平和で楽しい日々になるんだろうなと、私は知っている。
「今諏訪パイセンのこと好きになりたかった?」
「それ今の俺が傷つくからやめろ」
「今度彼氏募集中の同級生紹介しますから」
一瞬怯んだ諏訪先輩をよそに私は冷めないうちに親子丼を食べることにする。
にわとりとたまご、どちらが先かなんて話あるよなあと思いながら、私は未だに触れたことのない話題の箱の中身を確かめなきゃいけないらしい現実にげんなりしていた。
「まあ置いといて、マジで太刀川知らねえ? あいつレポート一本出してねえのがあんだよ」
「ボーダーにいるんじゃないんですか?」
「試験も課題も終わったからおまえんとこ行こって言ってたのをうちの堤が聞いてる」
「げ」
太刀川は馬鹿だと思う。まあ成績不振という意味では間違いなくそうだけれど、何かを隠したり誤魔化したりするのが壊滅的に不得手だ。
レポートの締切は今日の夕方。
お行儀悪く片手に箸、片手に携帯で新しいメッセージを確認する。
「うちの前まで行ってからレポートのこと連絡もらったらしいです。けど残念ながらそのレポートをうちに置き忘れてるのに気づいた私が今ここに持ってるんですよね」
本人提出が義務付けられている上に担当の教授は太刀川の顔を覚えている。というかある意味で学内の有名人なので知らない先生の方が少ない。
今日まとめてレポート出せば終わるというのを聞いていたので持っていけばちょうどいいと思ったのに無駄に行動が早い。そのせいですれ違いだ。
仕方がないから食堂にいるのを連絡して携帯はカバンに突っ込んだ。
「そのうち来ますよ。祝、単位回収」
「なあ、おまえら本当にこのあと話し合えよ?」
へらりと笑って誤魔化そうとしたけれど許してもらえなさそうだったのでわかりましたと両手を挙げた。箸を置けと怒られた。
***
待つのに暇だから本を貸してくれと無茶振りをしたら貸してくれた。諏訪先輩本当に良い人すぎると思う。
しおりは抜くなよと言われたのでカバンに入れてたノートの角をちぎってしおり代わりにする。あいにくしおりなんていつも文庫本に入ってるものかレジ前のものしか使わないから切れ端で十分だ。
貸してくれたのは推理小説で、学校に閉じ込められた高校生たちの話だった。分厚くて読めるかなと不安だったのも読み進めればそれも忘れた。
「おーい」
「……」
「?」
「……」
「?」
「……」
「」
ふっと、耳元に生ぬるい風を感じた瞬間体が跳ね上がった。ガタリと椅子が音を立て、強張りかけていた体が突然の動きについていけない。
「っくりした! なに!?」
「なにって、レポート受け取りにきた」
「そういえばそうだった」
「なに読んでんの?」
ひょいと取られた本はノートの切れ端をだいぶ手前で挟んだままで思わず呻いてしまった。どこまで読んだか覚えてはいるけれど探さないといけない。
活字を見ればあっという間に眉間にシワを作っていく相手から本を取り返す。それから脇に置いていたレポートを差し出した。
「眠くなりそう」
「いいからさっさと出してきなよ」
「終わったら一緒かえろーぜ」
思わず立ったままの太刀川を睨むように見上げてしまう。きょとんと首を傾げる大の男をかわいいと一瞬でも思ったのは暑さに頭がやられてるのかもしれない。
「どこに」
「おまえんち」
疑問すら出ないぐらい自然に口にしたその言葉の大元を、私は確かめるのがずっと前から怖かった。
「……太刀川」
「ん?」
私ってあんたのなに?
あんたって私のことどう思ってるの?
浮かんでは消える言葉は私の一番知りたいことかといえばそうじゃない気がした。
じゃあなんだろうと、考えて、手招きして、素直に屈んでくるその顔に顔を近づける。嫌がるどころか不思議そうなままに私の好きにさせる。口を耳元のギリギリまで近づけて、躊躇いながらそれを口にした。
「私、あんたのこと好きだよ」
太刀川は付き合おうとか好きだとか言ってきたこともなければデートの誘いもなかった。
でも私も付き合おうとか好きだとか言ったこともないしデートに誘ったこともない。部屋に寄るかと聞いたり大学で会えばお昼を一緒に食べたり、夕方なら飲みに行く。それだけ。
だから肩を掴まれて顔が見えるようにか、ぐいっと離されてびっくりした。
「は? なにそれ」
私の顔を見るということは私も太刀川の顔が見えるということだ。見えたのは珍しく慌てた顔で、どうやら焦ってるらしい。せっかく渡したレポートは床に落としてるみたいだった。ぐしゃぐしゃにしないでよかったなと他人事のように思う。
「言ったことなかったから」
「意味わかんねえ」
「とりあえず早くレポート出さないと留年だよ」
「……絶対、勝手に帰んなよ」
脅しのような言葉に無理矢理頷かされる。
本当はいない間に逃げ出したかったけれど本の続きを読み終わるまではと理由をつけてなんとか残ることにした。
***
最初は同じ学部に同じ高校の人間がいるなと思っていただけだった。
大学に入ってすぐは高校との違いにそれなりに楽しんで、一年前期で早々に単位を一つ落としたところ鬼のように怒られたところからがきっかけだっただろうか。
太刀川単位落としたらボーダー出禁らしいじゃん。
俺にとっては楽しくもない事実をにやりと笑って話しかけてきたのがだった。
あとから聞けば諏訪さんがそれとなく様子を見てくれと頼んだらしい。俺はボーダーでも学内でも勉強のことになると心配されまくっている。まあ仕方ない気はする。
は律儀にも見かければ俺に声をかけ、同じ講義を受けていればいない間に伝えられたことを適当に伝えてくれた。たまには欠席分の追加の補習課題も付き合ってくれた。
なんでそんなに親切なのかわかんなくて俺のこと好きなの、なんて馬鹿みたいな質問したら馬鹿とそのまま返された。うるせえ。
じゃあなんでかと考えれば、そういえばあいつ高校の時諏訪さんに惚れてたっぽいよなと思い出した。同じクラスで、は普段騒ぐことが少なかったけどクラスでそういう話をしているのは女子だなと思った記憶がある。
「まあ好きな相手に頼まれりゃ親切にもするか」
自分で言っといて胸がチクリと刺されたような気持ちになった。
でもそれは答えを出すと一緒にいられなくなるものだろうと勘が働いたからそれからはその話題には触れないことにした。
***
学部の飲み会は毎回参加するほど仲の良いやつもいないけれどたまに参加する。
なんでかっていえばその席にが友だちと参加するからだ。本人はどちらでも良さそうな顔だしどちらでも良いらしいけど友だちは狙ってるやつがいるらしく、それに付き合っているという。その友だちとやらはを隣に置きつつも反対隣の男に意識が割かれてる。、おまえ完全に置物に使われてるぞ。そう思うし本人もわかってるだろうに律義に付き合うのだから人が良いと思う。
今日もそろそろ帰ろうかなと思うのに帰らないのはがまだ帰ってないからだった。
最初は離れていたけれど席を立ったついでにの反対隣の席に割り込んだ。近付こうとしてた男が睨んできたけど睨み返した。そしたらすごすごと引いた。こいつおまえなんて眼中にねえからと思ったけど言う親切心はあるわけなかった。
「、飲みすぎじゃね?」
「明日バイトないからいいのー」
飲み会も二次会の店を探す流れになってきて、出欠を取り出す中、随分とご機嫌なはまだ飲もうかなと言うから思わず顔をしかめた。これ以上飲むのはどう考えても狙ってくれと言わんばかりのゆるみ具合だ。
の背中越しに隣の、名前を忘れた友だちの肩を叩く。邪魔をされたと思ったのかすげー顔で見られたけど俺のことを認識した途端ああ、となんか納得された。なんだよ。
「こいつ二次会行かないで帰したがよくね?」
「うーん、あたしは二次会行くけど……そうだ、太刀川送ってあげてよ」
「え、私も二次会」
行きたい、と言い切る前に友だちに口を封じられて耳元で囁かれた瞬間は大人しくなり、じゃあよろしくとをぐいっと物理的に押し付けられた。
「……うらぎりもの!」
「帰ろうぜ」
「なんで太刀川とかえるの」
「おまえのろれつがあやしーから」
会費は段取りのいいやつが始まる前に回収済みで、二次会組と帰るやつで店の前でバラバラに別れていく。
はその頃には帰り際に一気に飲み干した酒が回ったのか唇を尖らせながらもかろうじてまっすぐ歩くレベルだった。
俺がいなかったらどうしてたのか問いただしたい。
「、家どこ」
「太刀川に教えるのやだ」
「やだって一人で帰るのは危ないだろ」
どんどん店の前から人がいなくなり、残りは俺とだけになる。
まだ街中は人が減るには早い時間であたりは今から飲む人、次の店に行く人、帰る人とそれぞれだ。
「送るけど、俺おまえんち知らねーから」
「……送られるほど酔ってないもん」
そう言うなりぐんぐんと一人で歩き出すを俺は追いかける羽目になる。
それでも一人にするわけにもいかないからその背中を追いかけてすぐに隣に並ぶ。そうすると睨まれた。仕方がないから少しだけ後ろを歩く。
「ついてこないで」
「俺も帰りこっち」
「うそ」
今のところは嘘じゃないけど最終的に嘘になるから俺はその言葉を黙って受け止める。
そもそもなんでこんなに一生懸命送ってるのかもよくわかんなくなってきた。でも夜道を女性一人で歩かせるなとは忍田さんによく言われることだったから家に送り届けるのは譲れない。
なんとか適当に理由をつけながらのマンションまでたどり着く。家の中まで入る気はなかったけれど足取りが覚束ないのにエントランスでサヨナラはちょっと心配だった。それに、俺はエントランスまで送り届けたのに玄関前の廊下で一夜を明かした馬鹿を知っている。
「……玄関までくるの?」
「ドア閉まるの見たら帰るって」
ここで送り狼しない俺えらいなと思っていたのは最後の最後、玄関のドアの境でが躓くまでだった。
反射で片手でドアを支え、もう片方の腕を回して腰からお腹のやわらかい感覚に小さく息を呑む。聞こえてないと思う。
こけずに済んだは拍子でうつむいたま固まってしまう。そりゃそうだ。
「悪い」
そう言いながら触れた部分の体温に俺は離れがたい思いしかなくて、あと五秒なんて馬鹿なことを思う。だってこいつ諏訪さんが好きなのに。
なのに嫌がらないままその五秒は許された。
「太刀川、あの、離れて」
「あ、おう」
さすがに悪くて立ち直したから腕を抜いて離れようとする。
離れかけて、うつむいたその背中、首元近くの骨が襟ぐりの開いたシャツの隙間から浮き出るのを見た瞬間、シャツを後ろに引っ張りその背骨に口づけていた。
「ッ」
「悪い」
目の前の相手が体温を持っているのを知ってるのと触れるのとはもう別物だった。
舌で出っ張るごつこつとした骨を皮膚越しに舐めてそのまま首筋を辿れば少ししょっぱかった。膝から崩れ落ちそうになる体をもう一度抱きしめる。
「嫌だったら止める」
本当に止められるか自信もなかったけど嘘はなかった。
でも、は、なんにも言わなかった。
その日から、俺はの家に出入りするようになった。
***
その白い背中が跳ねるのを見るのが好きだった。
というのもあるけど他の相手が好きなのを知ってるのにその相手以外の男に抱かれてるのは嫌なんじゃないかと思ったらほとんど顔を見てセックスできなかった。
諏訪隊の作戦室は麻雀卓があるため夜になると不健全な野郎が夜な夜な賭けたり賭けなかったりしながらジャラジャラ牌を混ぜては揃え、唸っては喜んだりと忙しい。
その日の集まりは比較的早く、まだ日付を越えるには遠かった。
いまなにしてんの、と聞いて暇ならは『うちに寄る?』と返事を返してくる。いつもそういう時、は俺に問いかける。その日もそうだった。
「俺帰ろ」
「最近早く帰るな。彼女でもできたか?」
ボーダー初のスナイパーは戦闘時以外も狙い撃ちが上手い。俺も東さんになれたらモテモテになれたのにと思うけどあいにくモテは遠いらしい。そういうことを言ったとき周りに鼻で笑われた。
モテの遠い俺は東さんからの質問の答えを持ってない。
「んー彼女?」
「じゃねえの?」
えー、それ諏訪さんが言うのかよと思ったけど俺が勝手に言っていいものでもないからごにょごにょ誤魔化してみる。
微妙なところなのは伝わったのかそれ以上は追求されない代わりに話題は名前が出てきたのことになる。
「の割にマジでおまえの単位心配してたから礼言っとけよ」
「割にってその彼女どういう子だ?」
「太刀川よりはマシな、時々単位落としかける普通の大学生」
「普通だな」
「なにそれ俺にしつれーじゃね?」
俺だって一回落としてからは単位は落としてない。ちゃんと二年生にもなった。
時々ボーダーと関係のある先生に睨まれたり涙目で縋られたりするけどなんとかなってる。
ただそれ以上の話をされるといろいろと面倒だったから早々に立ち上がる。
「じゃ」
「なんだよ秘密かよ太刀川」
「冬島さんが彼女できたら言う」
「ウッ」
しばらく彼女のできる気配が皆無の冬島さんが項垂れてる中で俺は早々に逃げ出した。
うちに寄る?
と聞いた割には変な柄のプリントTシャツ一枚でスルメイカをつまみながら出てきた。いや、俺だって別にすげーエロい下着着て出迎えてくれるなんて思ってないけど。そんなの彼女だろ。彼女でもしないか。
「スルメイカかよ」
「美味しいじゃん」
は風呂から上がりたてらしく、タオルを髪に巻き付けている。しっとりしていそうな肌がTシャツからすらりと伸びている。
「シャワー浴びれば? 私髪乾かす」
呼んだのに待ってた素振りなんて見せない。ただたいてい風呂上がりの赤らんだ頬が美味そうで、俺はだいたい我慢ができない。
背中を見せたところでその後ろから抱きしめる。Tシャツ越しに胸に手を伸ばせば布一枚越しの感触に思わずにやりと笑ってしまう。
「シャワーは?」
「あとで入る」
前から聞こえるため息は呆れはしても止めはしないから俺は許されるままにその熱を確かめて、着たばかりのTシャツを剥ぎ取ってその白い背中を辿っていく。
本当はその体をくるりと俺の方に向けてしまいたかった。俺のことだけを見て欲しいのに、その瞳が何を映しているのかが怖くて、俺はその背中越しにただ熱くなるその内側を体が動くままに欲することしかできなかった。
***
最初、太刀川のことは本当に仕方のない奴だなという思いと私よりも危機感の低い大学生がいたのだという安堵を持って見ていた。
高校時代から任務やら、訓練という名のサボりは知ってたし成績がよろしくないのも補講に顔を見せていたから知っている。私も補講常習犯だったのだけれどそれは置いておく。
まあそんな太刀川だったけど、だからといってまさか時々様子見てと頼まれるとは思わなかった。しかも昔好きだった先輩に。
曰く、周りの隊員も入れ代わり立ち代わり任務があるため時々でいいから単位ギリギリ一般学生の私から見た太刀川のヤバさを報告してほしいということだった。一年の前期で早々に単位を落としたことで今後が危ういと判断されたらしい。その頼み事自体は苦じゃなかったものの、私をヤバさの判断基準にしようとするところで諏訪先輩が私のことをどう思ってるのかがよくわかる瞬間だった。
別に本人に声をかけなくてもよかったのに知らぬ間に監視のようなことをされてはかわいそうだな、と声をかけたのがきっかけだ。太刀川はにやにやしながら単位の話をしてきた私にゲッと、どこから聞いたと言わんばかりの苦い顔をしていた気がする。
それからは時々講義で見かけたら欠席していた分は大丈夫か聞いたり、ボーダーの人がいない講義は時々内容を教えてあげたりしていた。
「、太刀川と付き合ってんの?」
「ただの高校の同級生のよしみ」
売店で買ったお菓子とジュースを食堂でつまみながら講義の合間の暇つぶしに提案された話題に私は笑ってしまった。確かによく話しかけるけど私は太刀川の連絡先も知らなければ大学の外では会うこともない。
それでも時々様子を窺うのは二年生になっても続いていた。なんとなく、太刀川と話すのは気が楽だった。
「でも最近太刀川って学部飲み前より来るようになったじゃん。と話すようになってからな気がする」
「そう? あー、私がたまには学部の子と遊べばって言ったからじゃない?」
目の前の友だちに付き合っての飲みだけれどたまになら大勢で飲むのも悪くないよと言った記憶はある。太刀川はふうん、とそう言いながらその後何回か飲み会に来て、私も含めて何人かと話して適当に帰ってた。
「太刀川、成績はともかく結構よさそうじゃん」
「……うーん、まあ」
「なに、脈アリ?」
からかうような笑みに苦笑いで首を振る。
最初は諏訪先輩に頼まれたからという理由だけだった。昔好きだったからというよりは今はもう気の良い、人として好きな先輩から頼られるのはなんであれ嬉しかった。
最近は思った以上にやばくて目が離せないのと思ったより笑った顔が可愛く見えてきたからつい、見かけたら気にかけてしまうだけだ。ヒゲの男を可愛いと思うなんて世も末だと、半ば自覚はあった。
「太刀川、思ってたよりはいいやつだったってのはある」
その一言に私はにやにや顔とからかうような肘鉄を受けたのでお返しに向こうの片思いの相手の話を振ることにした。
***
その日の飲み会では飲みすぎた自覚があった。でも次の日はバイトも休みだったしもう少しだけなら、というゆるんだ気持ちが私にもう一杯、とグラスを重ねさせた。
気づけば帰る私の後ろを太刀川が歩いてて、家まで送ってくれていることになっていて、気遣われたことが嬉しいような気恥ずかしいようなでアルコールとは別に顔が赤らむのを感じていた。太刀川が隣に並んでなくてよかったと思った。
エントランスではなく玄関まで送ると言われてもいつものようにからかうような返事はできなかった。どーも、なんて素っ気ない返事に太刀川はエントランスまで送ったあとに部屋に入る前に寝たやつがいるんだよと言うけれどそれが本当かどうかなんてわからなかった。
まだふわふわとした感覚は抜けないものの心臓はどんどんうるさく音を立てだす。血が回りすぎて倒れるんじゃないかと思ったけど私はなんとか部屋の前にたどり着く。
カバンの中から鍵を取り出してちゃんと鍵を開ければあと少し。何事もなくお礼を言って何事もなくドアを閉めれば多分何もなかった。なんとなく、私も太刀川もお互いを窺うようにしていたから。私が躓きさえしなければ、本当に、きっとただ酔いすぎた夜で終わったのに。
「っ」
息を呑んだ直後、私の体が反応するよりも早く、後ろから伸びた腕が私の体を支えた。軽々と支えられ、拍子にうつむいたまま私は固まってしまう。
すぐ、自分の足で立てば良かった。腕の中から抜けて振り返ればよかった。ありがとう助かったって、それで終わらせれば、なんてことはなかったのに。
私はそのまま抱き留められるままで、明らかに不自然だった。不自然だったけどこれ以上はもっと不自然で、必死に言葉を絞り出す。
「太刀川、あの、離れて」
「あ、おう」
その腕が離れて、安堵と落胆が一緒にやってきたのも束の間、首筋に落ちてきた感触に今度こそ、体と思考が停止した。やわらかい、生温いそれは腕とかの皮膚とは違う。吹きかかる息が、それが唇だと教えてくれる。
「ッ」
「悪い」
悪いなんて思ってなさそうな声と共に息が首筋に落ちて力が抜けかける。なんとか必死に耐えたのに今度は湿った感覚が背骨から首筋に真っ直ぐ抜けていく。
体の中が粟立ち、反射で吸い込んだ息はうまく吐き出せない。足の力は抜け落ちたのに私は玄関に崩れ落ちることはない。
「嫌だったら止める」
視界が滲む。
律儀に抱き留めたまま一度本当に止まって待つ太刀川が思ってたより真面目でなんだか嬉しくなってしまった。
でもここで冗談のように流せるほど私は鋼の理性は持っていない。その腕の中にまだ、もっとと思ってしまった。
やめないで。
言えない代わりに黙って抱き留めていた腕に手を添えたら一瞬だけその手が動いて、もっと強く抱きしめられた後、中途半端に開いたままだったドアがバタリと閉まる。
かぎ、とうわ言のように呟けばおざなりにガチャリと金属が回る音。
なんでとかどうしてとか、頭の中にぐるぐるしていたけれど、目の前の体温が遠くに行ってしまえば私はそれを失ってしまいそうな気がした。
何より体ごと後ろを振り返って見えた瞳の熱さと、それが見えなくなった途端に口元に与えられる甘く痺れるような感覚を知ってしまえばもう後のことなんてどうでもよかった。
どうなっても今だけは、この熱く燃えるような体温は私のものだった。
***
隣で太刀川が寝返りを打つのでちょうど目が覚めた。
家を出る時に閉め損ねたカーテンの隙間から夜明けには遠い暗闇よりも明るいぼんやりとした光が入ってくる。
暗くてほとんど何も見えなかったけれど目が慣れてきて、目の前にある太刀川の背中が暗闇越しに見えてくる。
「……これは、キスしたくなるのものかな」
背中を向けた太刀川の背骨をじっと見つめてみても何がいいのか、私にはよくわからない。
わからなくて、でも気になってそっと起こさないように私に口づけたあたりにそっと唇で触れてみたけどなんともなかった。ただなんとなくかたそうだなと、そう思うぐらいだ。
「よくわかんないよ」
考える前に出てきた言葉の意味を考える前に私はもう一度目を閉じる。
それからは泥のように眠り、昨日と同じようで違う朝をそ知らぬ振りでやり過ごした。
***
レポートを出し終えた太刀川は食堂まで戻ってくると問答無用で私の腕を掴むと黙々と私の家を目指した。また、しおりは挟み損ねてしまった。どうせ頭の中には入っていなかったからあとでゆっくり読みなおすことにする。
帰り道、何もしゃべらないのに握った手は離さないという意志が伝わるぐらいにしっかりと私の手を掴んでいる。伝わる手の熱が私の腕を伝って心臓まで熱くさせるようだった。
歩きざまに頬を撫でる風が心地よくて、このまま時間が止まってしまえばいいのにと思ったけど思ったよりもあっという間に私たちは家にたどり着いてしまう。
太刀川は部屋に入ると荷物を置き、私にも荷物を置くように促す。荷物を置いて、立ったままの太刀川の前に立つ。
「俺のことが好き」
耳から耳にその言葉が流れて、脳みそはうまく活動してくれない。太刀川の言葉が頭の中に残らない。
太刀川が、私を、なに?
「は」
「俺、が諏訪さんのこと好きだと思ってた」
「いつの話?! もう三年以上前の話だよそれ」
「まあ、そう思ってたからなんか、言えなかった」
物事をはっきりさせるタイプの太刀川が言い淀むのは不思議だった。
「私、あんたのセフレかと思った」
「な」
わかってしまえば言葉にできなかった疑問はするりと口にしていた。むしろその言葉に太刀川が絶句している。
「違ったんだ」
よかった、と思わず口にしてハッとして太刀川を見ればなあ、と呼びかけられる。
「なに」
「好きだ」
そう言って太刀川は最中でごくまれにする無遠慮とも言えそうなキスではなく、そっと触れるだけのキスをした。
すぐに顔を離して真面目な顔して私を見ている。普段のちょっと抜けたような雰囲気はなくてまともに目を合わせ続けられない。
「なんで、そんな」
「?」
「そんな、優しくするの」
「好きだから」
そしてまた、今度はかるくついばむようにキスをする。それもまたすぐ離れる。
「、さっき俺のこと好きって言った」
「な」
改めて言われることがこんなに恥ずかしいとは思わなかった。
言葉の出ない私に太刀川はこめかみに、まなじりに、頬に、口の端に、慈しまれるとはこういうことなのかと、降参するしかないぐらいそっと大事なものに触れるように口づけていった。
「なあ、もっかい聞きたい」
私の答えなんてこのキスを嫌がりもしないどころか家に一緒に帰ってきている時点で決まってる。
でも目の前の相手はその決まりきったことを言うまで待つつもりらしい。じっと奥に熱を秘めた瞳が私を映しているのか。
ちゃんとその顔を見ていたいのに、どんどん視界が滲んでいく。
「なんで泣くんだよ」
「太刀川が優しいから」
「優しくしちゃ悪いか」
零れてくる涙を指で拭われる。もう何度もその手の温もりに触れたことがあったはずなのに、知っている温もりなのに、それでいて別ものみたいだった。
部屋の中で立ちっぱなしだなんてヘンテコだったけど、私はそのまま太刀川を抱きしめた。
「好き」
「顔隠すのずるくね?」
「ずるくない」
「ずるい」
そうするとせっかく抱きしめたのに引きはがされて、むっと睨めばすぐに口づけが降ってくる。
「もっかい」
「……」
「もっかい」
「……」
「」
甘えるようにおでこに口づけられ、ああもう、と頭の中は大混乱だ。何にも考えられない。
「好き」
今度は私から口づければ、そのまま相手は離してくれない。離してくれなくてよかった。離さないでいてほしかった。
私とは違う体温が溶けるように私の体温と、どちらのものかわからなくなっていく。
ようやく離れて、顔を見合わせれば目の奥を煌々と光らせ、目の前の獲物を逃すまいと笑う獣がいた。
夏はまだ、始まったばかり。
title:afaik