この状況を、誰か、どうにかしてほしい。
 そう切実に思っても私は壁際に追い詰められ、そして目の前にはニヤニヤと逃げられない相手を見ている趣味の悪いこの作戦室の隊員がいる。名前を、太刀川慶という。

「太刀川くん、どっかいってくれないかな」
「ここうちの隊室だけど」
「そうだけど! そうじゃなくてえ!」

 どうして今日太刀川隊の隊室に人がいないかってそれはもう高確率でこの隊長様が狙って無人にしたに違いないのだ。それ以外にあり得ない。国近ちゃんがゲームしてないなんておかしい。よほどのことである。出水くんと唯我くんは隊長命令に逆らわない。国近ちゃんも然り。ダメ大学生だけど隊長として信頼はされているのだ、このA級1位の太刀川慶は。
 もので釣られたのだろうか。はたまた権力だろうか。はたまた今日の話を報告することで手を打ったんだろうか。全てだろうか。
 壁際に追い詰められている私はといえば勤務中だった。残念ながら勤務内容に太刀川隊隊室のお掃除が含まれている。
 そして私は誰かって、メタ的に説明すれば私はボーダー総務部設備管理課職員で、備品管理など外部委託及び本部内での配送を担当してついでに定期的に"手遅れ"と一部で有名なA級1位のチーム、太刀川隊の隊室を掃除しているだけのただの社会人である。

「掃除させてよ!」
「したらいいじゃん」
「壁ドンしながら言わないでください大学生!」

 どうしていい歳した大人が大学生に壁ドンされて逃げられないんだろうか。なぜなら相手が物理的にも鍛えていて身長は頭一つ分高い、現在防衛隊員ナンバーワン隊員だからです。
 じわりと足を動かせばその分詰められる。視線から逃れようともその目が真っ直ぐ射抜いてくるのが見ていないのにわかる。目を逸らしても目を合わせないと何をされるかわからなくて結局再びその瞳を見る羽目になる。
 入る前、立ち入り禁止なんて冗談みたいな札を扉の外にかけているのを見たけれど、こうなってしまえば多分本当に根回しされて立ち入り禁止になっているのがわかってしまう。冗談だろうと思ってしまった私も手抜かりである。

「仕事させてください太刀川くん」
「慶」
「……太刀川くん」
「慶」

 なぜ。
 答えはわからないけれど斜め上からのぞき込んでくる青年はにやにや楽しげだ。譲る気など一切なく、要求を通してやると言わんばかりの。
 どうにもこの大学生くんは掃除に来る人間で遊ぶのが好きらしく、いつだって掃除の邪魔をしては私を隊室に居残れといろんな手を使ってくるものだからもう掃除の日はすべての用事を済ませてここが終われば帰るだけにしているくらいなのだ。だからもう、この突然の要求にも大変遺憾ながら応えるしかなかった。
 素直に応えられるかどうかは話は別なのだけれど。

「慶くん」
「慶」
「……慶…………くん」
「慶」
「けい……」

 よし、と腕が緩んだ瞬間に脱兎のごとく逃げ出した。入り口付近の壁を確保した。部屋を飛び出さないのは掃除しないで逃げ出すとそれはそれでこの太刀川くん、私がサボったと城戸指令とか忍田本部長にチクるからです。ひどい話だ。そして城戸指令も顛末はわかっているくせにそうか、厳重注意しておこうなんて真顔で言うのでどうしようもない。逆らえない私はこの部屋を掃除し終わるまで出られない。
 せめてもの抵抗なのだ、入り口側の壁に逃げたのは。精いっぱいの反抗心。年上が聞いて呆れる反応である。

「ひでえ反応」
「太刀川くんのせいでしょ」
「へえ」

 目が細められる。楽しそうだった表情は鋭く、こちらを試してくるように。まるで私が悪いかのように。なぜ二分前まで呼んでいた呼び方をしただけで極悪人みたいな扱いになるんだ。
 早くここでの仕事を終わらせて帰りたい。今日はここの掃除が終われば上がりなのに。帰れば家でゴロゴロできるのに。

「掃除して早く帰って録画の消化させてほしい」
「ここで見ればいいじゃん。国近が同じやつ観てるはず」
「国近ちゃんと趣味が合って嬉しいけど今は勤務中……お姉さんこれでも社会人なんですよお」

 特別な指示がない限り今日の仕事は残業なしなのだ。というか残業するという行為そのものは申請すれば下りるとは思うけど申請できるはずもない。働いてない。働かせてもらえないだけだ。つまり私の力不足。
 早く帰りたい。学生さんの時間は無限大なのになぜ同じ時間を過ごす私の時間は有限に感じるんだろうか。それが歳を重ねるということなのか。儚い。
 無敵な大学生は私の儚い訴えなど聞いてもくれないらしく、なるほど、と絶対にわかってない納得顔をして口を開いた。ついでに一歩近づくのやめてほしい。

「つまりさっさと俺のこと慶って呼べば掃除もできて俺と飯も食えて万々歳」
「掃除はいいけどご飯は帰って食べます」
「何、家呼んでくれんの?」
「もうやだ誰か助けて」

 あいにく誰も助けてくれないのだ。なんで。なんでもなにも力こそがすべてなのだ。そして私は圧倒的に下っ端だった。
 設備管理課なんて雑用係に権力はなく、我々は外部と接触しながらもボーダー施設内をあちこち駆けずり回り、各部署に必要なものから時に本部に詰めっぱなしの上層部のちょっとしたものも配送しないこともない分、身元と経歴と口の堅さは上層部に認められていてもトリオン能力はからっきし、もしくはあっても戦闘にもオペレーターにも不向きな人が多く、しいて言うならどこでも顔を知られているといういいようなどうなのかわからないことしかメリットがない。少なくとも街中を歩いていると誰かしらに見られているらしい。私は学校の先生か?
 他の部署からすれば防衛隊員と絡めてうらやましいということだけれど絡まれるというのは中高生のかわいいノリだけではなくいじめっ子に気に入られて絡まれるというこういうアクシデントもあるのだ。ええ、彼はいじめっ子、私はターゲット、同時にスケープゴートなのも知っている。
 太刀川慶は最近年上の面白いおもちゃで遊ぶのが楽しいのだ。そのぐらいは、わかっている。
 御せる上層部は一番使いやすい戦い大好き脳の駒がご機嫌なことに文句はない。何せ犠牲は一般職員一名である。安すぎる。放置。
 一縷の望みを持って雑用こなしになんとか滑り込んだ本部長の執務室では、慶が最近は時折事務仕事もするんだ、これからも仲良くしてほしいと弟子一番な発言をしっかり受け止めてしまったのでその期待を無碍にできるわけもない。

「簡単だと思うけどな」
「慶くんで妥協して」
「今日のところは許してやろう」

 そうしてこの日から太刀川くんから慶くん呼びに強制移行させられたのだった。ひどい。



(習作2)