知らない空が日常になって何年経っただろうか。
 私が近界と呼ばれる世界で人を撃ち続けて何年経っただろうか。
 今日も世界は変わらず、引き金の重さも変わらず、私も変わらない。ただ黙って、いつものように敵を撃つ。死にたくないから乗り越える。
 乗り越えて、乗り越えた先には何かあるんだろうか。
 答えなんてなくて、無理に考えて悪い答えが出るよりはと心にそっと蓋をした。




 私はある日突然知らない世界に連れ去られ、訳が分からないままに命がけで戦わされ、幸か不幸かなんとか生き残っていた。
 この知らない世界は近界といい、ここでは私がいた世界は玄界と呼ばれていた。玄界の女と呼ばれることになんとも思わなくなったのは随分と前のことだ。
 思えば遠くに来たもので、もう帰りたいとかこの生活から抜け出したいなんて気持ちはほとんどなくなっていた。
 センターに入れてスイッチ、なんて呪文のように頭の中で唱えては、まるで機械のように狙撃、狙撃。命中。場所を変え、相手を変え、繰り返す。

 いつか戦争が終わったら帰してくれるという言葉は嘘だと思っている。でもそれしか縋るものが無いから、今日も私は敵を見つければ機械のように引き金を引く。
 いつもの、生き残るためだけの一日のはずだった。建物から建物へと移動する途中、人影を見つけてしまった。遠くても味方ではないのはわかった。放っておくわけにもいかないので仕方なく瓦礫となった元壁の陰に隠れ込む。さすがにこの距離で相手はまだ気づいていない。さっさと撃って早く安全を確保したかった。
 隠れた瓦礫から顔を覗かせ視界に入ってしまった敵をセンターに入れてスイッチ、なんてスコープの照準を合わせていく。真ん中に捉えると同時に引き金を引こうとしたその瞬間、スコープ越しに目が合った。合った気がした。

「嘘でしょ」

 嘘と思いたかったけれど目が合ったらしい男は私が呟いた瞬間には既に冗談かと思うスピードでこちらへ向かって走り出していた。
 慌てて体を起こして逃げ出すことにする。遮蔽物をうまく使おうとそれらを視界に入れて走り出す私を緩慢だと言わんばかりの俊敏さでこちらに迫る。明らかに相手の方が速い。身を隠す隙さえなさそうだった。

「くそ」

 こうなれば追い着かれるのは必至だ。ここまできてタダで死んでたまるかと、振り向き様にせめて一発撃ち込んでやろうといつでも引き金を引けるように振り向いた。一発お見舞いするはずだった。振り向いた瞬間、耳に届く音を聞くまでは確かにそうだった。



 息ができない。
 全身が粟立ち、自分の名前を呼んだ男に引き金を引こうとした指が止まった。
 
 その音を私は知っている。その響きを私は知っている。唯一私に残っている、私の証明。

「……あなたは、誰」

 なんとかしてそう口にした瞬間、人が絶望するとはこういうことなのだろうかと思った。私は私が絶望する瞬間を知っていたけれど、他人が目の前でどうしようもなく立ち尽くす様を見るのは初めてだった。
 黒のロングコートを身に纏い、手にすらりと長い剣を握っている。近距離専門の戦士だろう。国の所属の兵士や私のような駆り出された兵士とも違う風貌で、おそらくは傭兵だ。焦げ茶色の髪が走ってきた勢いでふわりと動いていた。表情以外は全力疾走してきたなんてわからないぐらい余裕なのに顔だけがひどく疲弊してた。
 観察するようによく見ても、私は目の前の男の名を知らない。それがどうしようもなく申し訳なかったけれど、表面上は他人事のように男を見つめ続けた。

 ただ、二人して棒立ちするにはこの戦場では非常に危険だった。それに気付き、慌てて男の腕を引いて近くの半壊した建物に入る。一部から空が見えるけれど屋根の下は比較的ましな建物だ。
 決まりきった戦闘だけをするこの地域ではある程度形が残っている建造物内は戦闘中以外は深追いしない場所と暗黙の了解になっている。邪魔はそう入らず、ちょうどいい休憩場所だった。
 のろのろと建物に入った男は壁際まで辿り着くとあっという間に座り込む。先ほどまでの俊敏さはどこにいったのだろうかというぐらい、重たい体を引きずるようだった。

「ねえ、あなた」
「ケイ」
「……あなたの名前?」
「ああ」

 ケイ、と答えた男は先ほどよりは立ち直ったらしい。壁に背を預け直して軽くため息をついた。
 話ができるようになったので私はようやく自分のことを口にできた。

「私、ここに来る前の記憶が数年分曖昧なの。連れ去られた後も訳が分からなくて、帰るに帰れないまま。……あなたは、私の知り合いだった?」
「……ああ。あんたのこと、よく知ってる」

 私はケイを知らなかった。忘れていることは連れ去られる以前数年程だ。その期間にケイとは知り合ったんだろう。
 記憶が曖昧な私が覚えていた自分のことは神隠しみたいにある日突然こちらに連れ去られたということ。精神的なショックからか連れ去られる前後の記憶が数年分欠落していたこと。玄界と呼ばれる私の世界ではトリオンとトリガーについてほとんど知られていなかったということ。それぐらいだった。

「……それは、ごめん」
「いや……」

 こんなにも落胆されれば謝りたくもなる。最初に驚いたのは私だったけど相手の方が自分以上に驚き、ショックを受けていれば落ち着きを取り戻すというものだ。

「それで、ケイはどうしてここに? こんな戦争しかない国なのに」

 この国では二つの派閥が終わるはずの戦争を延々と繰り返している。些細なことをきっかけに激化した争いは国全体を巻き込み、全ての人を疲弊させた。ここまで続くとどちらも戦いを終わらせる落としどころが見つけられず、膠着状態が続いたままなのだ。前線だけが維持されたまま長い間戦争をしている。
 連れ去られた頃にそろそろ戦争が終わると言われていたのにそれから何年経ったのか。随分と危ない目に遭った。死にかけて、その度に幸か不幸か生き延び続けてここまできた。今は毎日生き残るために息を潜め、運悪く見つけてしまった敵を撃ち続けている。
 いつまでも、終わると言われなければ終われないのだ。もうずっとここに囚われたまま。逃げてもどこにも居場所がないから、したくもない戦いを止められない。私みたいな人間は特に。

 戦争が終わるまでは元の場所には戻れず、この戦争で活躍して生き残れば帰してやると言われ、嘘だと思いながらもそれだけを信じて生き抜いてきた。
 幸いにもトリガーの扱いには早い段階で慣れ、即戦力として重用された。無下に扱われることもなく、戦力として一定の扱いを受けた。その点は幸運だったんだろう。
 マシな扱いでも逃げられない私にとってこの戦場は味方も敵も全て警戒対象だ。全員はわからないけれどこの一帯によく潜む人間は凡そ把握している。お互い分かっていて出会わないようにと気配を探りあっている人間ばかりだ。
 ケイはこの戦場で見たことがなかったし、こんな強い人がいればたちまち噂になる。だからケイは最近ここにやって来たはずだ。そう思った問いかけは今度は私に刺さって返ってくる。

を捜しに来た」

 ヲサガシニキタ。
 音はすぐには意味を持たなかった。目の前の男は感情を表に出すこともなく、ただ冷めた視線を私に向けている。背を壁に預けていてもその腕の剣はいつでも振り抜けるだろう。どこにも隙がない。そうでなければこんな国、こんな戦場、歩いて回ろうなんて思わない。
 覚えてもいない相手が自分の名前を呼び、自分を捜しに来たのだという。それは、今の私にとって理解を超えていた。心臓がバクバクと音を立てていく。

「私、記憶にあるだけでも年単位でここにいる」
「ああ。年単位で俺はを捜してた。ずっと」

 と、呼ばれる名前に応える声を私は持てなかった。
 求めに求めた救いの手は、どうしてこんなにも悲壮な気配に満ち満ちているのだろう。
 私はどうしたらいいのかわからず、ただうつむくしかなかった。



***


「慶、明日は大学なんでしょう? 家帰りなよ」
「久々にに会えたのにそれはないだろ」

 彼女の家とはいえ勝手知ったるとかなんとかで、週の半分とは言わないけどまあまあの頻度で俺はここで過ごしてる。
 夕飯を食べ終えた後、はソファに座ってクッションを抱えながら録画したドラマを観ている。その隣に陣取って頭を自分よりも随分下にある肩に無理矢理載せていた。首がきつい。ずるずると体がの脚の上、かと思いきやクッションの上に落ちた。不満な顔をしたけど無視された。自分の足は二人用ソファじゃはみ出るから最初から外にぽいとはみ出させた。

 大学生と社会人。それだけなら余裕で俺の方が都合がつくけど俺はそれともう一つ、ボーダーの防衛隊員っていう肩書きもあった。
 大学と防衛任務。このどちらも両立しなければ付き合わないし、付き合ってから両立できない時は会わないと最初にはっきりと言われた。言われた通り、大学生活を怠けてレポートが終わらなければろくに恋人らしいこともしてくれなかったし、防衛任務が入れば早く行ってこいと名残惜しそうにするのはいつも俺だった。
 その代わり大学に通って、補修のレポートを出し、防衛任務もランク戦もしっかりしてればはその分恋人らしかったし俺しか知らない顔を見せてくれた。

「学生と隊員、両立するんでしょ」

 の家族は数年前に三門市を襲った近界による襲撃によって全員命を落としている。運が良いのか悪いのか、難を逃れたは当時大学生でその日は県外に遊びに出ていた。あの日の後もは三門市に住み、今は地元の企業で働いている。
 いつだったか、は一人生き残った後、大学生らしいことはほとんどできなかったしその前の大学生活も忘れるぐらい大変だったとつぶやいていたのをなんとなく覚えていた。そういう気持ちがあるからなのかボーダーにいる俺にはいつだって学生らしいことをしてほしそうだったし、俺が好きでしている防衛隊員を望む限りさせようとしていた節があった。
 ただそれはそれ、これはこれで俺は大学生で二十代で若くて元気があるのだ。

と恋人な俺の両立は?」
「……日付変わる前に寝る?」
「寝る寝る」

 その日は次の日が仕事と大学があるとはいえ、大学のレポートや補習の課題もなく、防衛任務もなく、かつの仕事も余裕があるという、とても貴重な日だった。一緒に夕飯を食べてのんびり過ごす夜を俺はもちろん、も喜びはすれど嫌がりはしなかった。
 久々に近寄っても何かを言われる心配もなく、珍しくが寝転ぶ俺に自分からキスをしてくれた。俺は浮かれた。今日はかなりツイていると。

 約束した時間を少し越えて、日付が変わった頃、俺は腕の中にすっぽりとおさまる相手を見て、このまま朝なんて来なければいいのになんて思いながら目を閉じた。
 朝、先に仕事に出るに大学に行くように促されながら名残惜しくのいってきますの声を聞いた。


 そしてその日以来、は姿を消した。



***


 先ほどの私たちの動きを感知した者もいただろうがここは日和見地帯だ。察してもその場を離れて巻き込まれるのを避ける者ばかり。万が一敵を見つければ戦闘、見つけられなければ日没まで索敵中ということにする。そういう形でやりすごし、いつか来るかもしれない停戦なり終戦なりを望んでいる兵たちは敵味方問わず息を潜めている。

 念のために確認してもレーダーに映る範囲で他のトリオン体反応はない。まだしばらくはここで話を続けても問題ないだろう。どうせこの地帯に大した人数は存在しない。
 建物に隠れたまま、向こうの傭兵なのかと聞けば、どこに雇われたわけではなく、単身戦場に乗り込んできたのだと言い放った男に私は思わず目を見開いた。

「単身って、何考えてるの」

 私が主に活動するこの地域は派手な戦闘行為はほとんどない。
 時折いる熱心に戦いたがる戦闘狂たちはどちらの勢力にも一定数いるが、彼らは示し合わせたかのように毎日決まった区域で命の削りあいをしている。そういった場所にさえ気を付けて、最低限働いた形をとる。そうすれば今日という一日を生き延びられる。
 しかし不幸にも敵を見つけてしまえばそれを放っておくにはいかないのだ。見つければ嫌でも戦う。
 消極的な戦場がほとんどとはいえ、その中に単身乗り込んでくるなど命知らずにもほどがあった。見つかればどちらにとっても所属不明の敵なのだから。

「膠着状態だって聞いてたし。それに、に似た奴がいるって聞いたから」

 たったそれだけでこの男は戦場に足を踏み入れたのだ。たったそれだけ。その言葉で私は途端に動揺する。

「……ごめん」
「何が?」

 一番最初の絶望を今は見せることもない男にとって自分が何だったのか。想像がつかない訳ではなかった。
 ただ、目の前の男にとって自分が大切な人間だったらしいことを私は実感できなかった。呼ばれる名前の響きだけが妙に胸を突く。
 そんなという中身が欠けてしまった私を、この目の前の相手はだと思っている。

「……あなたの捜してたじゃなくて、ごめん」
「それはのせいじゃないだろ。生きてるだけで、俺はそれでいい」

 何も言えなかった。

 追加投入もほとんどないが消極的にでも戦闘を続ける戦場は日に日に人が減っている。
 戦争が終わるのが先か、戦場の人間が息絶えるのが先か。
 私は最近そんなことすら思っていた。逃亡者もいるらしい。どこに逃げられるわけでもないのに。逃げた人間は追いかけられ、いなくなる。それを知ってもなんとも思わなくなってしまった。ただ同じことはするまいと思うだけだ。憐みなんてものはひとつも持ち合わせなかった。
 私の中身も、こんなことをしている間にどこかへ逃げ出していなくなってしまったのかもしれない。
 それでもこの男はそれでいいと言う。平気そうな顔を装って。

 どうにも会話が上手く続かない。
 元々トリオン能力が高かったらしい私は射撃技能に適性があるとわかってからはただひたすらに敵を撃ち抜いた。陣幕に戻れば最低限の補給と休息をとり、また戦場で息を潜めて射撃。
 そんな生活をしていれば人と話すことも少なく、馴染みたいわけでもなかった私は機械のように毎日同じ行動をして生きていた。これを生きるというのか、それはよくわからなかったけれど。

 記憶が欠ける前の記憶はあるのにそこから記憶がぼんやりとしている。その感覚がいかにも人工的な、あることはわかるのに遮られるというもので、残っている記憶すら偽物ではないかと、何度思っただろうか。
 ようやくそれを否定する存在が目の前に現れたものの、それすら、私は信じきれない。
 そうなのだろうと、なぜか信じようとする自分と、本当にそうなのかと疑う自分が今も内側でせめぎあっている。

「それで、ケイはどうするの」
「あんたがいいんなら、少なくともこの国からは連れ出す」

 連れ出せる術と、力を、ケイは持っているのだろう。
 何年も私がここにいる間、この男はどれだけの星の海を渡ったんだろうか。

「あんたはどうしたい」
「私、は」

 欠けた私が、この声に応えていいのだろうか。目の前の現実は揺らいで、何が本当なのか私にはわからない。
 と呼ばれてからずっと、ゆらゆらと私の中が揺れてざわついているのを感じながら、私はその言葉にどう答えていいのかわからなかった。



***


「これでお前らも一人前だな」
「……太刀川さんは、どーするんですか」

 A級1位、その座に君臨し続けた男を近くで見続けてきた出水は今何よりも恐ろしい質問を口にした。

 ある日、太刀川の恋人が行方不明になった。
 それは太刀川と親しい人間でもごく一部だけが知っていて、それが近界民による連れ去りだろうということも、ごく一部にしか明かされていなかった。
 出水たちは結局今日まで彼女が近界に攫われただろうことを太刀川の口から聞くことはなかった。出水たちも聞かないことを三人で決めた。太刀川が言わないことを無理に聞き出すことは誰もよしとしなかった。

 元々、近界への遠征に興味を持っていて、そのために師匠である忍田ではなく城戸司令を支持する立場を取っていた太刀川はその日を境にもっと遠征へ意欲的になった。
 ただ彼は幸か不幸か人の上に立つ師匠を持ち、人を先導する術を教え受け、それを考え、実行できる人間だった。自分を駒に見立て、作戦のために道を敷くことができる人間だった。
 遠征には必ず行くと、太刀川は出水たちにハッキリ告げた。それだけだ。それ以外は今までとほとんど変わらない振りをした。ランク戦を繰り返し、戦い、任務をして、課題を少し怠けて、怒られて、そうして遠征をした。太刀川が彼女と付き合い始めてからのほとんど変わらない姿だった。
 太刀川が無事に大学を卒業した後もA級1位の太刀川隊は揺らがず不動だった。それが太刀川慶に求められたものだったからだ。

「俺? 俺は」

 太刀川がボーダーを離れずに本部主体の遠征という手段で恋人を捜し続けていた理由はいくつかあるだろう。ただその一つは出水たちがいたからなのは間違いない。まだその手を放すわけにはいかないと、離してもらうわけにはいかないと、お互いが思って、出水たちが縋って、そうしてかろうじて繋がっていた糸だった。
 密かに開発されていた少人数用の遠征艇が完成し、本稼働の日がもう決まっていることを出水は知っている。
 だから太刀川隊の全員がこれからどうするのかを決めたとき、それが太刀川隊の最後だった。

「ちょっと近界に行ってくる」

 出水は止める言葉も持たない。目的を知らないはずだから送り出す言葉も持たない。ただ、できることと言えばずっと見続けたその背中を最後まで見送り、祈り、そして待つだけだ。

「お土産話、期待してます」
「おう、任せとけ」

 それが、太刀川隊で最後の出水と太刀川の会話だった。



***


「トリオン量……ギリギリ動くか」
「……ケイ、本当にいいの?」

 結局は逃れたいという自分の欲に負けた私をケイについていくことにした。
 荷物なんて何もない。思い出もない。機械のような私はここに残したものも置いていくものもなく、ただ前を歩く背中を追いかけた。

「俺はを捜しに来て、あんたが望むならここから連れ出したい。あんたはここから立ち去りたい。良いも悪いもないだろ」

 小さめの箱のような船がケイが近界を渡り歩いた移動手段だという。
 今はここに来る前の国との軌道が近いままらしく、とりあえずはそこを目指し、後はそれから考えようと。
 ケイは帰りたいのかと、私には聞いてこない。ただここから連れ出すと、それだけだった。

「私に何かできることある?」
「準備ができるまでハッチを開けとくから、そこで警戒頼む。こういう機械は苦手で準備に時間がかかる」
「わかった」

 ふと、どうしてケイは戦えるのだろうかと思った。私は抜けている間の記憶があったとしてもここに来るまで戦ったことはなかった。銃に触れることも撃つ瞬間の衝撃も撃った後のスコープの先の視界も何もかもが慣れなかった。たまたま、トリオン量に恵まれ、近接戦闘ではなく狙撃に向いていて、運良く生き残れた。
 けれどケイの動きは数年戦場で見てきた兵士たちの中でも群を抜いて強い部類に入る。それこそ、未だに毎日命がけで殺し合いをしている部隊の人間と同じかそれ以上、その動きは戦闘慣れしていた。
 どうして私と同じように暮らしていたはずの相手があんなにも素早く、的確に武器を構えて戦えて、そして命がけでこんな地の果てまで来られるのだろうか。

「……」

 考えながら何かを口にしようとして言葉にならなかった。
 ちらりと振り返り機械と格闘するその背中を見る。その背中を私は知っていたんだろうか。どう思っていたんだろうか。答えはまだ出そうにない。

 準備をしている間、敵味方どちらに攻撃されることなく、船は起動できる状態になった。
 ここが膠着状態ではない、もう少し前の出来事だったらきっと無事にここまで来られなかっただろう。
 今だってきっと、何かしらの気配を察知した人間は皆無ではない。それでも、首を突っ込めば自分の身が危ういとなれば見て見ぬ振りをする。少なくとも、私ならそうする。そうしてきた。

「気づかれないうちに行こう」
「あ、うん」

 荒野に隠されたその見知らぬ船は門を開いて私を捕らえていた国から離脱する。そうして呆気ないほどあっさりと、私の戦争は終わりを告げた。



***


「慶って名前、いい名前だよね」
「え、どういうこと?」

 私も慶も、仕事と学生と防衛隊員と、お互いのすることしたいことをしているとすれ違う時間帯の方が多かった。だから会う時はどこかに出かけるというよりももっぱら部屋でゆっくりしていた。外に出るにしても慶の都合もあって三門市内で何てことのない買い物や、時折外でお茶をしたりご飯をするぐらいがいつものことだった。
 その週末は二人でよく行くカフェでのんびりお茶をしていた。コーヒーも紅茶も美味しいお店で、私はその日コーヒーを飲んでいた。慶は私がいつも紅茶を飲むからと今日は紅茶で、熱かったのかミルクを多めに入れている。

「だって、慶ってよろこぶ、って意味だから。めでたいとか、いいことって意味。音の響きも好きなんだよね」
「ふうん。あんま気にしたことなかった」
「慶らしいね」

 名前の由来は慶にとっては大して気に留めることでもないらしい。せっかく素敵な名前なのにと思うけれど名前の由来を語る慶を想像するとどうも違う気がしたから今のままでいいのかもしれない。
 そう思って美味しいと評判のデザートを頬張る私にああ、と慶はついでのように口を開く。

「でも俺に慶って呼ばれるのは好きだわ」
「……慶って、たまにそういうことするね」
「何が?」
「なんでも」

 せっかく口にしたデザートの味はその瞬間どこかに吹っ飛んだ。


***


 渡った先の国は戦争はしておらず、近界の国を渡り歩く旅人にもある程度は寛容だった。
 ただ街に泊まるとそれなりに見返りを求められるし、武器を持つ人間は歓迎されないからと、ケイは船を街から離れた場所に置き、以前訪った場所だからか、待っててと街へ向かうとあっという間に食料を得て、そして船へと戻ってきた。

「これはうまいと思う」
「ありがとう」

 ケイは船のすぐ近くで着々と野営の準備を終え、私はただケイの厚意を受け取るだけだった。
 船に載せていたらしい野営のセットで温かいスープも飲めた。栄養を重視した固形物ばかりで過ごしていたから、人心地ついた。戦場では滅多に食べれないご馳走だ。

 日没を迎え、世界は密やかに静まり返る。私がいたところもだけれど、ここも太陽の動きと同じように日の光に合わせて人が動いている。そういうところはどこにいても人は変わらないのかもしれない。
 夜空を改めて見上げたのはいつ振りか。三門の空よりも明るすぎるぐらいの空は星の位置なんてもちろん知らない。連れ去られた国で見上げた空と同じものがここから見えるのかも、私にはわからない。

「で、とりあえず出てきたわけだが」
「そう、だね」

 ケイは話題を有耶無耶にするつもりはなさそうだった。
 小さな船内で問われないのはまだよかったかもしれない。

「これからどうしたい」
「……どうって、帰るんでしょう?」
「俺のことも自分のこともなんにも聞かずにか?」
「それは」

 ケイは私を知っていて、を捜しに来て、きっとと一緒に帰るつもりだった。
 でも私はケイを覚えていなかった。きっと捜していたとは違う。でもここまでたどり着いた相手の途方もない苦労を思えば、恐らくはケイがしたかったことに沿いたいと思うのだ。
 だからと言ってそれを私が不躾に聞いていいのか。私はそれができない。私はケイのじゃないのだから。
 私はケイのことも、知らない私のことも、聞くのがこわかった。

「名前を知ってたから大丈夫か? 他のやつに聞いてあんたのこと連れ出してどうかするつもりだったかもしれない」

 そう言われてそうかと気が付いた。私にとっては当たり前だったけれど、普通は当たり前ではないことがある。

「私、こっちで自分の名前名乗ったことなんてないから」
「……」
「だから、私のこと知ってるなら、その人は私の味方なんだよ」

 ケイの目が驚きからか大きく開かれた。名前を呼ばれていないなんて、思っていなかったのかもしれない。拒めば名前すら聞かれず、自分からも心を閉ざして、ただ同じ動きを繰り返していたなんて、今もまだ自分自身信じられなかった。
 それでもこの名前をあの日々で呼ばれたくはなかった。欠けていても、私の記憶の中には確かにと名前を呼んでくれる人がいたことを、私は知っている。

「助けてくれてありがとう、ケイ」
「……それは、俺がしたかったからで」
「もしあなたが迷惑でなければ、向こうに戻るときに私も一緒に連れていってほしい」

 そこで一息。
 まだ口を開こうとする私をケイは待っている。
 努めて感情を押し殺す目の前の男が本当はどんな思いでいるのか、私は知りたいと思ってはいけない。知る権利を、私は持っていない。

「私のこと、「」と呼べなくていいから。帰るまでだけでいいから、手伝ってほしい」

 瞑目。
 人がこんなにも何かを黙って耐える様を、私はこんなにも苦しい気持ちで見たことなんてなかった。



***


「慶」

 私はおまじないみたいにその名前を口にした。
 いつものように出勤して、働いて、帰るはずだった。昨日に続けて今日も家に来るという慶を出迎えるために仕事を手早く終わらせようと、そう思っていた。
 けれど気が付いたら私は目の前に突然現れた見慣れないロボットのような機械に捕まり、悲鳴をあげる間もなく意識を失っていた。
 起きてわかったことといえば私は三門市じゃないどころか近界の世界に連れ去られたということ。なぜかといえば私がトリオン能力が高いから。彼らからすれば運良くトリオン兵の門が開き、近くで一番反応の大きかった私を捕らえたらしい。そして私は彼らに兵士として戦うように言われた。

 訳が分からないままに手で握れるサイズの機械を渡された。それはトリオンを流し込めば剣や銃になった。そのトリオン武器でひと通り訓練させられ、銃をメインに使うように言われた。それから戦場に出されるまであっという間だった。
 食事は質素だけれど最低限、栄養補給食と、たまに普通の食事が出された。寝る場所も安全もある程度確保された。
 それでもなんとか心を保っていた。でも、初めて投げ出された戦場は人があっという間に死んでいき、自分もいつ死ぬかわからないような場所だった。
 気が付いたら周りの敵をところかまわず撃ちまくり、自分も負傷して前線から下げられていた。味方はその前に全滅していたから、味方を撃った罪で殺されることはなかったけれど、そうされた方がよかったのかもしれない。

「慶」

 朝、行かないでと言われたのを早く起きて大学行きなさいねなんて言って、ろくに顔も見ずに出ていってしまったことを後悔した。慶の顔も声もどんどんおぼろげになっていく未来を考えてすぐに打ち消した。
 私は自分がこんな目に遭って初めて気がついた。私が攫われているこの状況は慶にだって起こり得たのだ。慶がいつ私の隣からいなくなっても、おかしくなかった。わかっていたのに、世界は一時期より平和で、それが続くのではないかなんて、そう信じていた。

「玄界の女」
「……」
「戦時下での著しい自失状態は戦線への影響が大きい。よって規定によりお前の記憶の一部を抑制する」
「なにを」

 表情を変えない相手がしようとすることの恐ろしさに思わず身構える。

「戦争が終われば抑制措置も解き、玄界にも帰してやろう。それまでは我が陣営のために働いてもらう」
「待って、私は」

 自分の何が変わってしまうのか。抑制とは何なのか。
 急に身を襲う危険を私は避けようもなく、視界は暗転。
 それから、私は、私ではなくなった。


***


 夜中に夢見が悪くて目が覚めた。それはこちらの世界にやって来てから当たり前に近い状態だ。戦場でも陣地でも、気が休まる場所なんてなかった。目を閉じても人の気配に敏感になってしまった。隣のベッドで寝ている相手を起こさないように静かに呼吸を整える。
 ケイが乗ってきた船は小さいながらに寝泊まりする場所はある。操縦席と操作パネルのコンパクトな運転席になんとか組み込んだベッドが二つ。あとは非常食等を入れる空間とこの遠征艇を動かすための機関部に簡易のトイレと詰め込めるだけ詰め込んでいる。
 ベッド側はシンプルな作りで物もほとんどない。たったひとつ。一枚だけ写真がケイの寝ているベッド側の壁に貼られている。今は暗くて見えないそれを私は見て見ぬ振りをしている。

「……ごめん」

 それはソファに座る男女の写真だ。二人用のソファでくっつき合うようにして写真を撮ったようだけれどどうにも上手な写真とは思えなかった。
 その写真に写っているのはどこからどう見てもケイと私だった。私が知らない私。記憶にない写真に胸が痛む。いつか、私は思い出せるんだろうか。
 わからぬ未来も現実も、夢の中でぐらい忘れさせて欲しいのに。記憶は私を苛み、どうせ今夜はろくに眠れないだろう。
 遠征艇は街の方から見て岩場の陰に隠れる位置だ。それ以外は見晴らしの良い荒野で、少し体を動かせば落ち着くかもしれないと言い訳をして少しだけと、気配を殺してベッドを抜け出す。きっと外に出ても気持ちは晴れない。ほんの少し、気持ちが落ち着くだけだろう。
 それでも今よりはましだ。大した安心は得られないとわかっていても私は隣で眠る相手に向き合うことから逃げるように船から抜け出した。


***


 動揺と警戒があるにしても記憶を無くしたというは俺に対して問うことが少なかった。
 ただ俺のふとした言動に時折考え込むようにする。動きを止める。言葉を迷う。何でもないように装って。
 余計な刺激を与えないようにと、初めの国では遠征艇の近くから離れないようにさせた。街に行き、下手に目撃情報を残しても都合が悪いこともあった。何もわからないこともあったし、は俺の言うことに頷いた。
 は俺のことを聞かない。俺がどうやってここへ来たのかを聞かない。どうして戦えるのかを聞かない。
 俺のことを聞かないのはわかる。自分が覚えてもいない相手を恋人だなんて言われれば受け入れがたい。それに何と呼びかければいいのかわからない俺を見抜くぐらいには気遣われている。
 でも記憶がない数年分を考えれば考える程、がそれらを問わない理由が絞られていく。

「……まだ、ここは安全じゃないだろうけど」

 今の遠征艇は街から離れた場所にある。寝るのは遠征艇内にしているけれど外は誰かが近づけばわかるような岩場の陰にした。
 寝る挨拶をして数時間、夜更けに足音を消すように出ていく相手を止めなかった。何をしているかは知っている。不安で、眠れないのだ。

「……

 名前を呼んで応えてくれるのか。それは賭けにも近かったけど勝算は高かった。
 少しでも眠れる日が、眠れる時間が増えるよう、俺はただそれを見て見ぬ振りをして朝まで眠ることにした。


***


 すぐに逃げた国の後にさらに移動した。今滞在している国は年間通して穏やかな気候の水の豊かな国だ。時折戦はあっても国内を荒らされることは早々ないそうだ。私たちのような旅人も安心して宿を取れる、治安の良い国だった。
 宿に泊まることになったのは船の設備が生活することを想定されていないからだった。あくまでもその場を凌ぐための簡易の設備の為、衣食住に関して一度整えた方が良いだろうとこの国では街に寄ることになった。船は用心の為に街から離れたところに隠している。
 街の治安が良いのは良いことだったがその分物価も上がる。路銀が豊富とは言えない私たちは同じ部屋に宿を取ることにした。部屋を別にするのは金銭的にも安全面でも非効率だ。少しケイが躊躇ったのを私が押し通した。いつ何があるかわからないのだ。二人一部屋でも十分な部屋だった。
 一息ついて、後は早めに就寝して、船の調子と軌道を見てまた次の国へ行く。それを確認して繰り返す、今日もそんな夜のはずだった。

 その日は寝る前にケイが乗ってきた小型遠征艇の話になった。
 ケイの乗ってきた船は三門の座標は記憶されているけれど、大きな船ではない分、自走機能はそこまで頼みにできないらしい。あくまでも星の軌道に沿い、渡り歩いてあちこちを旅することを想定している。
 そもそも最大二人までの船ではトリオンに関して限りがある。供給者も今は二人だが元々はケイ一人だとすれば旅の仕方は道理だった。
 今までの遠征データがあり、軌道が分かる国も多いので時間はかかるかもしれないがちゃんと三門市には帰れると、ケイは私に告げた。

「まあしばらくはボーダーでいろいろと聞かれると思う。そこは我慢してくれ」
「それは、仕方ないと思う。戻ってこられる人、そんなに多くないだろうし、ケイたちもそういう情報は役に立つでしょう」

 年数が経てば経つほど行方不明者の捜索は困難を極めるだろう。どこにいるかもわからない。そもそも生きているかもわからないのだ。
 私のように生き残っている人間の方がおそらくは貴重で、なおかつまともに帰れるのだから、奇跡みたいなものだ。

「……随分と冷静だな」
「いろいろとマヒしてるのかもね」


 ベッドに腰かけていた体がびくりと震えた。向かいに同じように腰かける男は静かだ。
 この男の呼ぶ私の名前は、私にとって恐ろしいぐらい意味があった。
 今日は特に、嫌な予感が拭えない。突き刺すようなその声に、私は何が来てもいいようにと平静を装ってケイの顔を見る。

「俺の名前、漢字でなんて書くと思う」

 装ったはずの顔はいとも簡単に崩れる。顔を歪むのが自分でもわかった。
 この旅路が終わるまで、できることならその名前で呼ばれたくなかった。
 いつまでも、この旅の果てが来ず、ただ何にもわからない振りをして、ケイと彼を呼びたかった。それが出来なくても、元の世界に戻ったら落ち着いたころに何気ない顔をし、遠くへ旅立ってしまいたかった。
 私は、今もまだ自分の何かが欠けているままの気がしていたから。



 私はこの愛しく懐かしい名前の響きを、本当はもう知っている。
 私が今ここでとぼけても、相手はきっとそれに付き合ってくれただろう。私がまだ口にしたくないのだと、聞かれたくないのだと、気遣ってくれる優しさを私は思い出している。
 思い出して、その名を呼ばれれば、彼の名の意味を問われれば、私はその呼び掛けに応えないなんてできなかった。

「よろこびを表す名前なのに、随分とこわい顔になったね、慶」

 ああ、やっぱり。
 苦しそうに私を見つめる瞳の意味を、私はただ黙って受け入れるしかなかった。


***


「ボーダーの秘密ってその人が辞めたらどうするの?」
「記憶を封印されるらしい。俺も詳しいことは知らね」
「封印」

 それは三門に住んでいる私にとっても驚くべきことではあったけれどまあ致し方ないだろうと思うものだった。
 ボーダーに所属している人間は三門市内には一定数いる。本当に知られて困ることは上に行かなければ知り得ないだろうとはいえ、防衛隊員のトリガー一つとっても場合によっては非常に価値の高い情報となり得る。学生隊員も多いのだから秘密を守るためにそれぐらいするのかもしれないと、あまり気持ちの良いことではないけれど納得はした。

「まあ全員じゃないだろうけどな。情報が漏れやすそうと判断したらそうするみたいだ」

 ボーダー創設当初から所属している慶は今のところボーダーという組織から離れるという気配も見えない。だから彼にとってはその措置は知ってはいてもあまり関係するところではないのだろう。

「私が慶から秘密を知ったら、どうなるのかな」
「言わないからないだろ」

 その通り、私は一度もボーダーという組織の詳しいことを知らされることはなく、記憶を封印されることもなく、遠い空の下でもう一度このことを思い出すことになる。



***


 私の中の記憶は曖昧で、ぼんやりとしていた。
 でも時が経って諦めが心の中を占め、冷静になるにつれ、私は私の矛盾に気がついていった。
 大事な人がいたことを覚えている。心配しているだろうなと思ってふと気がつくのだ。私の家族はもう亡くなっている。親族はいても今三門に私の身内は誰もいないのだと。それでも心配されていると思う。家族以外に大事な人が私を心配していることを私は知っていた。
 という私の名前に意味があることを、呼ばれることで私は思い出せた。


 記憶をなくしたはじめの頃、第一次近界民侵攻のことも私は思い出せなかった。だから慶にもそういう振る舞いをした。
 でも、私は先日わかりきった顔でボーダーについて口にした。慶は再会してから一度もボーダーの説明をしていなかったのに。
 ボーダーが知られるようになったのは第一次侵攻の後のこと。私がボーダーについて改めて興味を持ったのは慶と出会ったのは後のことだ。
 慶のことを、ボーダーのことを知らない振りをしたのに、家族の心配をしなかった。第一次近界民侵攻以前の記憶しかないなら私の家族は生きている。それなら私は家族を心配する。でもそれをしなかった。ないはずの記憶の中では当たり前のことだ。家族を心配してももうみんな墓の中なのだから。
 本来当然のように気になることを私は知らないはずなのに聞かなかった。
 隠し事なんてするもんじゃない。

「記憶が曖昧だったっていうのは、本当」
「ああ」

 最後に会った時よりも随分と大人になった男は、慶は、黙って私の言葉を待っていた。
 早く寝るはずだった私たちはそんな雰囲気じゃなくなってしまった。慶はただ、私をそこからいなくならないように見張るような視線だ。
 お互いのベッドに腰かけて、斜め前に座り、視線を交差させる。

「ボーダーには、記憶封印措置があったでしょう?」
「……もしかして」
「あの国は、封印ではなく、抑制措置を施していた」

 人的資材が不足していたあの国では戦える人間は貴重で、多少精神的な面で適性から外れていても使える駒をなんとか増やそうとしていた。
 私は当初突然の誘拐に混乱し、生まれて初めて見る戦場と間近な死に精神的にまいっていた。三門で起きた第一次近界民侵攻の記憶を頭の中で揺り起こされたこともある。味方が誰一人としていない中、気が滅入ってどうにかなるのも時間の問題だった。
 だからあの国の人間は私の記憶を抑制した。封印だと齟齬が出る可能性もあったから、あくまでも一番心理的なストレスが多そうな時期、第一次近界民侵攻から向こう数年の記憶を、思い出しにくいように細工した。

 最初はその記憶そのものがすっぽりと抜けていて、ショックでそうなったのだろうと思っていた。見知らぬ場所で意識を突然失って連れてこられたのだ。心身ともに悲鳴をあげたのだと。
 けれど年数が経てば、抑圧されていた記憶は明確にではなくてもなんとなく思い出されてくる。断片的な映像だったり、大事な人を亡くした記憶だったり、誰かに名前を呼ばれるような錯覚だったり。

「最初に慶に名前を呼ばれたときは、まだちょっと曖昧だった」
「ああ」
「でも、私のことあんな風に「」って呼んでくれる人のこと、それだけはすごく覚えていて」

 慶に再会してからの私はおぼろげだったなくしていた記憶を加速度的に思い出していった。
 第一次近界民侵攻から攫われるまでの記憶。立ち直るまでは随分と時間がかかり、そのあとようやく前を向いた時から築いた記憶は、その大半は、慶との記憶に他ならなかった。
 最後の日、きちんと顔を見た記憶もなくて、おやすみと言った時にすごくご機嫌に笑っていた顔をきちんと思い出せたことに安堵した。
 それから、目の前を歩き船を目指す男に思い出したことを知られたくないと思った。

「ねえ、どうしてここまでしてくれたの」
「いなくなった恋人を捜すのに理由がいるか?」

 慶は、そういう人間だった。だから、思い出したからこそ、この目に私は映りたくなかった。真正面から慶の顔が見れない。
 視線を落とせば自分の手が見える。引き金に指をかけることを躊躇わない手だ。銃を撃てる手だ。

「私、随分と狙撃がうまくなった」
「? ああ。一瞬やべえって思った」
「慶と最後に会った時より、随分、変わったよ」

 機械のように心をマヒさせて、目の前に人間がいることを忘れて、私はただ標的を的にした。それが持つ意味も、私が指をかけて撃ち抜いたその先にあったものの意味も、全て見ない振りをした。何と呼ばれようと、私はただ死にたくなくて、引き金を引き、誰であろうと殺し続けた。

「慶、私に似ている人の噂、なんて聞いて捜しに来た?」
「……」
「玄界の冷徹機械式狙撃手、そんなところじゃない?」

 人が足りないから戦える人間はどんどん投入された。年配の人間も、子どもも、男も女も。素養があればどんどん戦に駆り出された。
 私はどんな相手でもひたすらに撃ち続けた。それが私の生き残る道だと、それだけを考えて。
 視界に入って戦闘継続不能な子どもでも、もう腕を失って戦えそうにない相手でも、動かなくなるのを確かめるように、最後には必ず心臓か頭を撃ち抜いた。

「玄界の狙撃手。それが私かどうか、確かめるためにあそこにいたんでしょう」
「ああ」

 引き金を引く度、心が死んでいった。生きてきた世界から切り取られて、部品のようにただ与えられた動きだけをするようになった。
 幸い、拒めば名前を聞かれることもなくなり、単に玄界の人間として扱われた。不必要に近づいてくる人間がいれば味方でもハンドガンで撃とうとすれば誰も近づかなくなった。それでよかった。
 私の名前は、私じゃなくなってしまった私には不似合いだったし、ここで私をそう呼ばれたくもなかった。

「慶、慶の知ってる「」はどこかにいなくなって、私はもう、欠けて、何が欠けたかもわからない」

 あの世界で死にたいと思わなかったと言えば嘘だけれど、あの世界から元の居場所に戻りたいと心から望んでいたかといえばわからなかった。
 私は、変わってしまった私を受け入れ難かった。

「それでも」
「……」
「俺はが生きてるなら、他のやつらが死んだって、よかったんだ」

 苦しみながら吐かれる言葉の意味を、私はどう受け止めればいいんだろうか。
 彼の望むを、私はもうわからない。
 いつか一緒にいたあの部屋の二人に、私はもうどうやったら戻れるのか、わからない。

「慶」
「……」
「捜しに来てくれて、ありがとう」

 腰かけていたベッドから立ち上がり、すぐ斜め前の相手の足元に膝をついた。堪えるように両手を合わせて握りしめるその手をそっと両手で覆って、自分の手の甲に額をつけた。

「慶、って、呼んでくれてありがとう」
「……」

 欠けた、元の形の分からなくなった私は、目の前の相手にこの祈りが届きますようにと、ただ痛々しく握られた手の力が緩むように、言葉を紡ぐしかない。

「慶」

「見つけてくれて、ありがとう」

 今はどこに行けばいいのかも、この伸ばされた手が私に向くものなのかも、もう何もわからない。
 それでも、この瞬間、今だけは、ただ彼のために名前を呼び、彼のために明日を祈り、ただ彼にとって幸いな明日が少しでも訪れるようにと、私は慶の名前を呼び続けた。


***


 慶と、そう呼ぶ声が好きだった。
 呼ばれる名前を耳にするたび、自分の体がきちんと地に足ついて、生きているのだと思い出す、そんな気持ちになることすらあった。
 この名前がよろこび、めでたく、祝うものなら、その名前を呼ぶがそういう風に幸せなものに包まれてくれと、そう願っていた。

「欠けたなんて、俺は思ってないんだけどな」

 縋る様に跪いて、そのまま疲れ果てて意識を失った彼女をベッドに下した。
 寝顔は健やかで、どうか夢の中でだけは何も苦しいこともない時間を送ってほしいと祈る。

「それこそ、欠けたのはお前じゃなくて」

 人は変わらないわけがない。時を経て、環境を変えれば人はそれまでとは違うものになる。日々細胞は生まれ変わり、何かに触れるたびそこから変化は始まっていく。
 それを欠けたというのなら、誰も彼もが欠けて、歪だ。

、俺はがいたらそれだけでいい」

 夜は静かに深くなり、旅の終わりへ向かう、どこに続くかわからない道の真ん中に、立ち尽くした後はどうしようか。

「なあ、はどうしたいんだ?」

 目の前の相手は静かに眠っている。夢の中でぐらい、思い悩まなければいいのに。
 俺は返事のないの額にそっと口付けて、そうして明日のために隣のベッドに入った。



(ロマンティックヒーロー 01)