悪いことなんて自分や大切な人には起こらないと思っていた。
 もちろんそんなことはなくて、俺はボーダーの簡易ベッドで眠るを見ながらようやく旅が終わったと思ったし、終わってまた始まるんだろうなと目を閉じた。


***


 部屋は引き払うことにするというの伯母さんに待ってくれと勝手に口が動いていた。
 がいなくなって何ヶ月経ったのか。行方不明の報せを受けて三門を訪れたの伯母さんとは一度会ったきり、久々の再会だった。その再開の理由が部屋を手放すということなら俺はどうしても止めなきゃと思った。
 の部屋の合鍵を俺は持っていた。だからというわけじゃないけど、部屋の維持費は全部俺が払うから、ここを残して、時々訪れさせてくれと頼み込んだ。
 その人は、の部屋の件は頷いてくれたけれど、の実家だけは整理するつもりだと言った。今日、俺に会う前に覗いたという。

「少し前から、と予定を合わせてあの子の家、実家の整理をしていたの。やっと整理できる気持ちになったけど、一人じゃまだ勇気が出ないって言われたのよ」

 それは俺に対して、というよりはただ言葉にして整理したがっているようだった。の実家は警戒区域と同じように打ち捨てられた家も多く、遺品を整理すると言っても家に残したままにするものと、手元に置くものの選別をするという意味合いが強い。だからこそ、過去から動かないままの家というものは向き合うのに勇気がいると、いつだったかは独り言のようにこぼしていた。

「家のこと整理して一区切りついたら改めてお墓参りして報告したいって、あの子と話してたの」

 何年経ったから、何をどうしたから大丈夫、なんてことはないことを、あの頃三門にいた人間はみんな知っている。平気に見えても触れない何かがあったり、普通に見えてどこかボタンをかけ間違ったみたいな違和感が消えなかったり。がそれをようやく受け入れて、少しずつ前に向き始めたことを俺は隣で感じていた。知っていた。少しずつ、触れることも出来ない生傷が、塞がって、傷跡になるはずだった。

ね、その時に会って欲しい人がいるって、言ってたの」

 随分と年下のいい子を捕まえたのねとの伯母さんは苦しそうに笑っていた。


***


 がいなくなった日、俺はもらった合鍵でいつも通りの部屋に帰り、炊飯器だけは準備しての帰りを待っていた。
 でも、その日はいつまでも帰ってこなかった。携帯に連絡しても返事もない。嫌な感じがして書置きをしてから家からの職場までの道を歩いてもとはすれ違うこともない。
 仕事で遅くなるなんて言っていなかった。忙しい感じもなかったし、帰りが遅くなるならは一言でも連絡を入れてくれる。じゃないと俺がいつまでも部屋でを待つからだ。ここは慶の家じゃないでしょうとため息交じりに言われたけれど嫌がってなかったことに内心ガッツポーズしたことをは知らない。

 何の情報もない。ただ帰りが遅くなっただけかもしれない。予期せぬ事故に、事件に巻き込まれたのかもしれない。
 考えが頭をよぎって、でもは近界に攫われたかもしれないと思った。理由も何もない、それはただの勘だった。門が誘導されていることを俺はよく知っている。でも、以前がトリオン量が多いと言っていたことが今なぜか頭に浮かぶ。トリオン量を感知して動くトリオン兵がいることを俺は知っていた。

 部屋を出ていくの後ろ姿は何も変わらなかった。それに、誰かがいなくなることを極端に怖がり、なかなか人を近くに置かないが自分から姿を消すなんて、自らする方になるなんてなるわけがなかった。
 普通なら警察にまず連絡するものだろうけど、胸騒ぎに駆られた俺がまずしたのは忍田さんを夜中に叩き起こしてトリオンの不審感知がなかったか確認してもらうことだった。

「昔、トリオン量を測ったことがあって、ボーダーに勧誘されたって言ってたんだ」

 が戦えるなら対戦したいなと呑気な俺に一緒にチーム組んだ方がいいじゃないかと笑っていた。は俺がボーダーや近界に関わることを反対せず応援してくれていたけど、自分はそういうものと関わるのを避けていた。
 ボーダー本部ができてから門はほぼ全て警戒区域に誘導されるようになった。設立以来、ボーダーで把握している近界関連での行方不明者はほぼいない。自分の意思で渡航するのも難しい。
 けど、ボーダーが感知できないようなトリオン兵が開発されている可能性はゼロじゃない。
 どうか外れてくれと願う俺の前で夜勤のオペレーターの声が響く。

「午後七時三分、僅かにですがトリオンの揺らぎが発生した地域、見つけました。地図展開します」
「慶」
「通勤路だ。帰りもだいたいいつもそのぐらい」

 自分じゃないみたいな声が出た。
 最悪なのか最悪じゃないのか。
 地図を見て、思わず下げた頭が上がらない。嘘だと叫んでしまいたかった。
 それでもオペレーターが詳しく情報を解析していけば僅かな時間、探知から漏れる程の極小の門が開いた可能性があることだけが確かになっていく。
 隣の忍田さんが息を呑むのがわかった。すぐにそれがわかることが良いのか悪いのか。予感が現実になっていくのを俺は黙って聞くしかできなかった。

「その時点でのこちらと近界の位置関係を展開。可能性のある国を抽出してくれ」
「展開しました。候補、あげます」
「俺、行くからな忍田さん」

 気づいたら言葉が突いて出た。攫われたなら、取り戻しに行く。今すぐ。

「慶、落ち着きなさい」

 今すぐにでも飛び出さんとするのを忍田さんに押さえられ、舌打ちしながらも候補に上がった国を見る。
 近界は惑星のようにくるくると回って、ある時期にこちらと最接近し、その時に門が開く。例外で軌道のない近界もあるけどほとんどは同じ動きだ。
 候補にはもちろん不規則な軌道の国もある。戦争をしている、するかもしれない国はあったか、自分が知ってる近界の情報と画面を睨むようにして比べるけど自分があまりに近界の情報に疎くてがっかりした。敵が強そうな国はわかってもその国の詳しいことは大して知りもしない。

「こちらでの事件性もまだ否定できない。それにもしも近界に姿を消したとわかっても闇雲に派遣することはできない。既に距離が離れ始めている国もあるがそこへ向かうことは禁じる」
「忍田さん?!」

 離れれば、つまりこちらから遠征艇を使って助けに行ける確率が下がる。もしくはもう一度近づくまで待たなきゃいけない。
 冗談じゃない。そんなことさせてたまるか。

「慶、これは命令だ。確証もなく貴重な遠征艇を使用することも、貴重な戦力を投入することを本部長として許可はできない」

 今この瞬間にもはひとり、誰も知らない場所にいるかもしれない。恐ろしい目に遭っているのかもしれない。
 忍田さんが正しいと理解している俺とそんな正論なんてかなぐり捨てて飛び出したい俺と、頭の中はメチャクチャで、足でコンソールパネルを思い切り蹴りつけた。

「いってえ……」

 何がナンバーワン攻撃手だ、何がA級一位だ、何が最強だ。
 俺は、どうしようもないくらい無力だった。


***


 がいなくなって二週間。最低限の任務と授業をこなしながらそれ以外の時間のほぼ全てを俺はを捜しに行くために使った。
 使えば使うほど、冷静な俺は焦って飛び出す段階じゃないという。そもそも俺一人じゃ遠征艇は飛ばせない。それだけでも既に絶望的だった。たった二週間、もう二週間。の居場所は何一つわからない。

「慶、気持ちはわかるが落ち着きなさい。さんのことは心配だが私はおまえのことが心配だ」
「……帰って寝る。大学行かねえと怒られるから」

 誰に、と言わずとも忍田さんはそうしなさいとホッとした様子だ。
 本部長の執務室にわざわざ呼び出されることに怪しむ人間がいないことが救いだった。俺は忍田さんの弟子で、ここに出入りすることは多くはないけど少なくもない。警察に捜索願を出したことはの伯母だと名乗る人から聞いていて、俺にできることは近界に攫われた場合を考えた捜索の手伝いだけだった。ボーダー側も近界関連の可能性は警察に伝えていて、何かあれば情報共有することになっていると、忍田さんは俺の肩を力いっぱい掴んで伝えてきた。
 寝るのも、食べるのも、いざという時に動くためだった。任務をこなして大学に通うのはそれがとの約束だったから。サボらずにいれば怒られる。怒ってくれと思うけれど会った時に無視されるから、そう言い聞かせて普通のフリをする。

 でも、一つ、真っ先に頭に浮かんで真っ先に避けたことがある。
 それは忍田さんのところを出て帰ろうとする廊下に現れた。

「太刀川さん最近見かけないと思ったらなんつー顔してんの」
「迅」

 そう、こいつに会いに行けばわかることが増えたかもしれない。闇雲に情報を集めるよりもよほど、こいつは正確だ。どうにかして覆してやると、今も思うぐらいに、こいつの目は皮肉なぐらい未来を視る。
 苦笑いの迅は少し話そうよと人差し指を上へと向けた。

 ボーダーの屋上は立ち入り禁止ではないが遮蔽物は少ないし冬なんかは風が冷たくて寒い。夏は夏で太陽がガンガン降り注ぐし人気スポットとは到底言えない。隠れて盗み聞きをするにも隠れる場所もない。ある意味内緒話には向いていた。
 迅は風を浴びて目を閉じて、もう一度瞳を眼前の三門へ向ける。それから室内が窮屈だったかみたいに背伸びをして、何気ないように装った。

「太刀川さん、ちょっと会わないうちにすごい未来になってるよ」
「彼女が近界に攫われたかもって言えばその未来、なんかわかるか?」
「……そういうこと」

 迅に会いたくなかった。こいつの視た未来なんて変えてやると、本気で思っている。思っているから、迅の未来視を信じている。
 迅はに会ったことがない。単に会う機会がないだけだったけど、今になって一度でも会っていればと馬鹿みたいな考えが何度も巡った。そうしたら、俺の未来を通しての未来も視えるかもしれないと、迅にとって最低なことを考えた。
 都合が良い。そう思った。思ったけど、迅は俺の前に現れて、俺はその目に抗うことなんてできなかった。迅を使ってでも、俺はを助けたかった。同時に、迅に会って、俺の未来にがいないなんて、そんなこと、聞きたくなかった。
 目の前の、今の俺にとっては死神にも見える男はこちらに顔を向けると困ったように笑った。

「おれ、こんなに細くて頼りないのに、こんなにはっきりした未来あんまり視たことないよ」
「どういう意味だよ」

 眉をハの字にして笑う迅は悲壮な顔はしていない。困っているように見えるけど、絶望ではない。
 それは今のおれにとって最悪の中の希望に見えた。

「太刀川さんが諦めない限り、彼女に道は繋がってるってこと」
「今は、お前の未来、信じる。サンキュ」
「抱き着かないでよ!」

 迅の抱き心地はのやわらかさと違って骨ばってて思わず顔を顰めた。


***


「月見、力貸してくれ」
「どうしたの、太刀川くん」

 俺は俺の事情に巻き込む相手を選ぶ冷静さは残っていた。それはつまり、使えるものはなんだって使うってことだった。
 の行方不明はこちらでの事件の可能性もゼロではなく警察の方でも捜査はされている。ただ俺と同じでの伯母さんも大事にしたら帰りにくくなるというからしばらくは非公開の捜査になった。それに合わせてボーダー内でも上層部と限られた相手にのみ情報は開示された。
 月見はその中に入っていなかったけれど俺は巻き込むことに決めた。月見がと交流があったからだし、俺は俺寄りの冷静な指揮官が欲しかった。

が近界に攫われた」
「……それは、確かなこと?」
「門が開いたのはほぼ確定。極小の、偶発的なもので誘導から漏れてる。一番近くのトリオン濃度の高い位置がだったとみてほぼ間違いない」

 月見はそれを聞くとしばらく黙り込む。突然の情報を頭の中で整理しているのがわかる。
 人払いした作戦室にはしばらく誰も来ない。来るなと他の面々には言っている。国近と出水は不安そうに見てきたし唯我ですら妙に明るく振る舞ってきたから俺も随分余裕がないんだなと気付かされた。
 少しばかり考えた月見の顔は真剣で、俺を見たその瞳はこの戦いが楽なものどころか最高難易度のものだと言っている。

「太刀川くん、無理なことを言うけれど落ち着いて。これは多分、年単位でかかる作戦になる」
「何年かかったって俺はを諦めない。それは決めた」

 俺の目を見て月見はわかったと頷いた。悪い、と言葉が出かけて、頼む、と口にした。
 月見は俺の顔を見て、それからなぜか目を細めて笑ってきた。勝算の低い作戦に向かう俺に対するものにしては穏やかそうで、いつか見たことのある顔だと思えば昔、俺がボーダーで一番になると意気込んだ時の月見と似ていた。
 その笑顔はすぐに消え、光る瞳が真っ直ぐにこちらに注がれる。

「太刀川くん、さんのこと、必ず助けましょう」

 頼もしい戦術の師匠に俺は頭を下げた。


 月見を仲間に引き入れてからは根回しと鍛錬と、合間に大学へ行き任務をする日々だった。
 遠征経験のあるトップクラスの攻撃手を帰る保証のない旅路に出してくれるほど城戸さんたちは優しくない。それは俺自身がよく知っている。裏を返せば帰る確率を上げてメリットを出せば城戸さんは俺の希望を呑んでくれる。
 迅の未来視のことを理由にするつもりはなかった。いつか上層部がその確率を迅に求めたとしても俺から何も言うつもりはない。俺が諦めない限りと迅が言うなら本当に未来は細く頼りない糸で繋がってるんだろう。その糸を確かにしてやるとは思っても安心なんて何もできない。遠くの未来は不確かだと、迅がいつか言っていた。

 自分が戦うことが一番だった俺が皮肉にも後輩の育成に力をかけたのはを捜しに行くと決めてからだった。
 俺がいなくても動けるように、俺の代わりに動ける攻撃手を見つけるために、俺はできる限り普通の顔をして太刀川隊を動かし、いつも以上に個人戦を繰り返した。

 本当は今にでも近界に飛び出して行きたかった。闇雲でもいいからがいるかもしれない国へ行き片っ端から捜しまわりたかった。
 でも俺は飛び出したならを見つけるまで三門に戻る気もさらさらない。そもそも飛び出すために遠征艇が必須であることはよく考えなくてもわかった。あれは上層部の許可が必要だ。俺は密航者になりたいわけじゃない。追われるほど暇じゃなかった。
 遠征艇はでかければでかいほど人が乗れる分消費トリオンもでかい。今ボーダーにある遠征艇はある程度の人数を載せることを想定していて一人から二人用の独立の小型艇はない。それを作る時間も必要だった。

「鬼怒田さん今度時間取ってよ」
「遠征艇の話ならこの間も言ったがそんな余裕はない」

 先に技術者は落としておきたい。それに説得するのに鬼怒田さんは落としやすい。
 無視をするわけでもなく話してくれる相手は交渉の余地がある。

「それを話し合うための時間が欲しいんじゃん。近界の新規技術だって単独で旅をすれば別の入手ルートもできるかもだろ?」
「……太刀川、お前はその頭の回転を単位の取得に使えんのか」
「それが俺単位足りてるんだよな」

 そう言った途端に鬼怒田さんはギョッと目を見開いて俺を見た。信じられないと顔で語られて思わず笑う。
 俺が単位がヤバかったのは高校から大学一年の頃までで、その後は褒められた成績ではなかったけれど落第を心配されることはほぼなくなった。それもこれも単位を落とすと別れ話だしサボったらろくに触らせてもくれないのおかげだった。
 大学のことを心配されなくなると意外とボーダーで好きに個人戦が出来たしなぜか今まで成績を怪しんでた奴とも戦うことが増えた。
 がいなければもうちょっとダメな学生になってたことは確実で、俺はそれでも良かったけど今の俺も嫌いではなかった。
 何より、今の俺はがいたから俺だって感じがした。

「俺は負ける勝負なんてしないよ」

 へらりと笑えば鬼怒田さんは眉間にシワを寄せ、明日昼休みなら話を聞くと言ってドスンドスンと足音を立てて立ち去った。

「鬼怒田さんは、断らないよ」

 なんだかんだ長い付き合いなのだ。鬼怒田さんは部下思いで、情があって、何より家族が大事で、大事だから手放すような人だ。俺が本気だと言って、開発室にとってメリットがあれば最終的に頷く。
 問題は他で、根付さんと唐沢さんは交渉次第、城戸さんも作戦の価値ありとして周りの幹部を固めておけば止めはしないだろう。

「……忍田さんがなあ」

 情に篤く義理堅い。責任感があり、それは俺にも向けられてる。
 だから、俺の気持ちを汲んでくれても俺を心配する人のために忍田さんは最後まで頷かないと思う。
 わかりきったことでもやっぱり難関だ。頑固ともいう。

「どこから攻めるかな」

 まだ、こんなところで躓くわけにはいかないのだ。味方すら簡単に説得出来ずにを助けられるわけもない。

「あ、やべ」

 気づいたら握り締めるようになっていた拳を無理やりほどく。
 最初は気づいてなくて血が滲んだけど爪を切り出してからはそれはなくなった。
 それにただでさえ豆だらけの手なのに傷がついたらに触れたときに文句を言われそうだった。

「へーじょーしん」

 呪文のように唱えていつも通りの俺を思い出す。
 のことも、俺が近界に単身向かうことも必要以上に知らせるつもりはない。
 フリは案外難しくはないけど、俺はにまた会えた時、ちゃんとの知ってる俺なのかなとふと思う。こんなに頭の回転が良くなる俺も、他とを選ぼうとすることも、前の俺はしなかったし、もっと、テキトーだった。多分。

「へーじょーしん」

 そう言いながらこれが何年も続くのはなんて地獄なんだろうなと思う。何年かで済むだけいいのか、希望があるだけいいのか。
 旅に出るまでこれが口癖になるなんてその時は思いもしなかった。


***


 うちは隊務がなくても誰かが作戦室にいることが多い。主に国近がゲーム部屋に使ってるところはある。
 俺はその日根付さん攻略を試みていた。俺が捜索に出ればいつの日か捜索を目的とした長期遠征のためのデータに使えるだろうと、月見が揃えた資料を手に挑み、今は見る時間はないと言われてもめげずに資料だけ押し付けた帰りだった。

「太刀川さんおかえり~」
「おう」

 作戦室にただいまもおかえりもあるのかって話だけど半分ぐらい住んでるようなもんだから誰も何も言わない。それぐらい作戦室は太刀川隊にとっては日常だった。
 国近は今日もゲームに勤しんでいる。最近は何かの対戦にハマってるらしいけどゲームの名前は覚える気もなくてすぐ忘れる。
 出し忘れていた隊のレポートを仕方なく取り組み始める。真面目にやるのと面倒くさいかどうかは別の話だ。唸りながらレポートに取り組んでいると不意にコントローラーを押す音が消えているのに気がつく。

「国近?」
「太刀川さんさ」

 国近は基本的にのんきな喋り方で、細かいことは気にしないやつだ。毎日楽しく生きていられたらいいと言うし、実際好きなことしてる。
 けどなんにも気づいてないわけはない。むしろ、気づいていても言わないでいつも通り振る舞うのがうちの国近だった。

「どした」
「最近、"必殺”って感じがする」
「必殺? かっけーじゃん」
「うーん、まあかっこいいんですけどお」

 何か言いたいのはわかった。わかったけどあいにく俺も国近も説明は下手だ。戦術は練れる。オペレーションもできる。けど自分や他人の個人的なことになると途端に感覚的で言葉が足りない。
 ただ必殺って意味が単にかっこいいって意味じゃないってことぐらいは俺も気づく。

 俺の様子がおかしい、どうも彼女と別れたらしいなんて話はなんとなく付き合っているのを知っていた人間あたりから噂が出ていた。ただ実際を見たことがあって俺とよく会うやつらはそういうことは一切聞かない代わりに時々不安そうに俺を見るようになってた。
 イレギュラーゲートが開いた話は極秘にしていても人の口に戸は立てられぬとかなんとかで、それと俺の話を上手に結んだ誰かがいるらしい。なんとなく予想されているのは知っていた。

「そんなに一人で"必殺"しなくても、国近ちゃんも出水も唯我も一応いますよ~ってことで」

 のことをこいつらに言う気も、頼る気もなかった。それは別に頼りになるとかならないとかじゃない。俺だってできることなんてほとんどない。ただ手段に繋がる相手を落とすために攻略を練るだけで、それは月見に任せていた。
 だけど、焦りをどうしようもできないぐらいに望む未来は先だった。暴れても仕方がない。ならせめて、放り出してきたなんて言われないよう、俺はこいつらを一人前にして、隊でも作ってみろと送り出せるぐらい鍛えてやろうと思った。
 心配かけたと思うと少しだけ張りつめていた気が緩む。俺がこんなんじゃそりゃ国近たちも不安になる。

「……そうだな。久々に飯でも食いに行くか」
「太刀川さんのおごりだ~! やった~」
「そんなこと言ってねえ」
「ええー」

 結局その後出水と唯我を呼び出して四人でメシになり、結論唯我におごらせた。唯我は泣いて喜んでた。



***


「お、三輪夜シフトか」
「太刀川さん」

 眉間にシワを寄せて俺を見る三輪は二宮が俺を見る顔と似ていた。三輪と二宮が東隊だった頃なんて遠い昔なのに一時期一緒にいれば似るもんなんだろうか。

「二宮とは似てるけど加古には似てねーから違うか」
「何の話ですか」

 一時期は存在ごと無視をされていたけど最近は話しかければ一応返事が来る。大人になったなと言えば無視されるからかろうじて堪えた。でも実際もう成人してんだから大人だろうと思う。言うとやっぱり無視されるから世の中は理不尽だ。

「三輪、シフト前に戦わね?」
「断ります」
「そこをなんとか。お前の鉛弾もう少し慣れときたいんだよ」
「……ポジション関係なく常に絡んでるって本当だったんですね」
「まーな」

 近界へ旅立つまであと数日。片手で数えるぐらいで俺は三門を出る。
 俺が近界に行くために幹部とあれこれやりやった話はとうの昔に暗黙の了解になってた。俺が勝手に近界に行くよりは条件という名の首輪でもつけた方がよっぽどいいという結論になったのは当然迅の発言があったからだ。あいつは俺がいないところでなんでもない顔をして俺の援護をした。お礼にランク戦を持ちかけたらお礼にならないよとあいつは笑って結局バテるまで戦ったのは一年以上前だ。
 ランク戦は同じポジション相手に戦うことが多いけど実際の戦闘はそんなことは関係ない。ポイント度外視で俺は手あたり次第に戦った。東さんに一対一を挑んだ時には体が穴ぼこになったけどあれはかなり勉強になった。東さんはもう勘弁してくれよと最後は相手を当真にぶん投げた。

「で、戦おうぜ」
「……なんであんたは行けるんだ」

 三輪の一言はこいつにとっては当然だろう。なんで、どうして。見知らぬ何人かには恨みがましい目を向けられた。知るか。

「俺が強くて作戦があってあいつが生きてるからだ」
「なんで」

 その言葉の先を三輪は口にしない。なんで、の後はどうせろくなもんじゃないだろう。なんで俺だけが、なんで信じられるんだ、なんでなんで。

「絶対助けるって決めただけだ」
「……だから苦手なんだ」
「知らん」

 なんだかんだ三輪はその後訓練室で三戦付き合ってくれたし三戦とも重たくなった体でなんとか三輪を斬り捨てると三輪はげんなりした顔で夜勤に向かっていった。


***


 その国は旅の最初の頃に訪れた場所で俺はやっと捜しに出られたことで早く見つけたいと焦っていたし、イライラしてた。
 敵との遭遇、偵察トリオン兵の発見、対人訓練、捜索の合間に与えられた任務を力技で押し通した。に繋がらないことに苛立って弧月を振るうなんて何にもならないのは頭でわかってた。わかってても止まらないのだ。

「ケイ、怖い顔してんなあ」

 戦の絶えない国は俺にとってはがいるかもしれない場所で、同時に時々沸いてくる衝動をぶつけて気を紛らわせる場所だった。
 どこにいても食べないと生きていけない。食堂で黙々と食べていれば向かいの席にするりと人が座ってくる。

「何か用か」
「生き急ぐ若者におじさんからのアドバイスと思って」

 戦中の砦に似合わない綺麗な金髪に緑の瞳だった。リンと名乗る男は俺より年上であることはわかる。若い見た目の割に落ち着いた態度で、先日笑えない冗談を言われてこの砦の人間を斬りかけた時に簡単に俺を止めた腕前の持ち主だった。
 見た目と中身がちぐはぐなこの男の言うことは、一応聞いておけと自分の勘が言っていた。

「ヤバいなと思ったら好きな相手の顔、浮かべてみな。自分は何のために何をしてるのか、それを忘れたらおまえはケイじゃなくなるからな」
「まるでお見通しみたいな顔だな」
「昔、惚れた相手を助けるためにナイフを作り続けた鍛冶屋の男がいた。作ったナイフを誰彼構わず売ってたらそのナイフで相手が殺されたんだ。馬鹿な話だろう?」

 他人事のように話すその男の目を見ても緑の瞳は揺らぎもせず、笑う顔は先程と変わらない。
 俺はこのナイフ使いに旅の目的を告げたことはない。捜している相手がいると言っただけだ。

 近界に行くのに年単位でかかると言われた時、覚悟はしていた。いつか必ず辿り着けるならと、迅の未来を今回ばかりは覆してなるものかと、何ならより良い未来に近づけてやると、旅までこじつけた。どんなことになっても絶対見つけてやると、そう思っていた。

「ああ、ケイは多分、恋人の顔よりその顔で恋人に会えるかって考えた方がいいな」

 その瞬間自分の顔が歪むのがわかった。多分俺は今に会えるような顔は到底していない。
 俺の弧月は今誰だって簡単に貫けるほど軽くて脆い。
 俺のサイテーな気分とは別にリンの表情はさっきよりも明るい。性格が悪いんじゃないか。

「ケイ、恋人を見つけるまでの通り過ぎる景色を憎まなくていい。美しいものはそう思っていい。帰り道にそれを相手に見せてやると思えば世界は思ったよりきれいだと思うぞ」
「経験談か?」
「ただの後悔だよ」

 そう言われた日、肌身離さず持ってるのに見られなかった写真を部屋で見た。
 の部屋でなんとなく撮った写真。今は誰もいない部屋で、カメラに収まるためにと二人でソファに座ってぎゅうぎゅうにくっついてる。二人とも写真なんてあまり撮らないから普段よりも距離がないのが妙におかしかった。
 俺の顔を見ても呑気な間抜けだなとしか思わないけど隣のが存外楽しそうに笑っていて、もっとたくさん写真を撮れば良かったと思う。ずいぶん久しぶりにの顔を見た気がした。

「……遠征艇の中にも貼ってみるか」

 旅に出るまでは俺は大丈夫だと振る舞わなきゃいけなかった。
 それは焦って目の前が見えなくなりそうな時ほど役に立ち、冷静さを演じれば旅の許可が近づくのだと言い聞かせた。隊の面々に必要以上の気遣いをさせるなと自分に言い聞かせられた。
 旅に出てみれば、立てていた計画があるとはいえ捜す範囲はあまりに広く、決めている日数で一つの国を調べ尽くすなんてことは到底無理な話だった。

「絶対、見つけるから」

 この捜索の期間はおおよそ決められている。辿る国も、滞在期間も、帰還を前提とした行程だ。俺はを見つけても、見つけられなくても、旅で得た情報を生きて持ち帰る。それがこの旅の条件だった。
 写真を見て、人は声からその人を忘れる、なんてことを思い出す。の声を想像しても、ぼんやりとしかわからないなんて薄情だろうか。
 に会えたら声が枯れるまで話してもらって怒られよう。
 そんなことを考えながら明日こそ何か見つかるようにと祈りながら目を閉じた。


***


 夢を見た。
 のいない部屋で俺は一人で、もうは戻って来ないと口々に告げられる夢だ。三門のやつらもいれば旅の途中で出会ったやつもいた。嘘だと、俺はを見つけたし一緒に帰るんだと言っても誰も信じてくれない。言われる通り見つけたはずのは部屋のどこにもいない。俺は一人で、部屋は人の気配何てない。告げてくる相手が見えないことをおかしいと思う間もなく、俺は部屋中を捜し、いないことを認めると嘘だと叫んで部屋を出た。そこで目を開けた。

「……すげー、嫌な夢」

 を見つけることができて、落ち着くまでは時間がかかった。は記憶の一部が抜けていたし、会えない間についてお互い距離を掴みかねていた。だからと言って夢の中とはいえもうあんな目に遭うのはごめんだった。
 心臓がドクドクと音を立てて鳴っている。深呼吸をすれば少しずつ鼓動は静かになっていった。

 腕の中ではがスゥスゥと息を立てて眠っている。それを見たらホッとした。
 日は既に昇っている。もし起こしても怒られない時刻だろうと踏んでそっと抱き寄せる。すっぽりと腕に収まる感覚を味わいながらさっきよりももっと落ち着いてくるのを感じた。は温かくて、良い匂いがする。

「んー」

 ゆっくりとの瞼が開き、瞬きを何度かするとまた目を閉じて頭をことりと俺の方に寄せてまた眠り始める。手が俺を抱きしめるように回ってきたから意識は少しあるみたいだ。

?」
「朝じゃない」
「わかった。起こさないって」

 は朝に弱い。仕事がある時にはなんとか起き上がっても休みの日は予定がなければ大抵ベッドの中でしばらくうたた寝を繰り返している。
 今日もそんな感じで、訓練のためにベッドを抜け出そうかと思っていたけれど迷って止めた。また嫌な夢を見ることよりもの抱き心地を堪能した方が健康上良さそうだった。
 ぼーっとしているうちに結局俺もつられて目を閉じる。遠征艇の中のベッドは一人用が二つ。二人で眠るには狭いけれど眠れるだけ贅沢だった。
 でも俺は悪夢にうなされたくなくてぐっすり眠り込むことはできなかった。うたた寝から浮上してからはのお腹のあたりに腕を回してそのあたりを触ってちょっと調子に乗っていろいろと触っていたらようやく目が覚めたらしいに手の甲をつねられた。

「いて」
「寝てる相手にいたずらしない」
「あったかくて気持ちよかったから、つい」

 その後なんだかんだ言いながら離そうとしない俺のことをはどう思ったのか。小さなため息をつかれたけれど好きにさせてくれた。



***



 遠征艇の浮遊する気配は落ち着いて、船が無事に目的地にたどり着いたことを知る。
 長い、長い旅の終わりだった。感慨深さよりも先に思うことがある俺は即物的な生き物だ。

「今めちゃくちゃにちゅーしたい」
「馬鹿なこと言わないで、降りる準備しよう。慶も久々に帰るんだから」

 本心だったのに一蹴された。身動きが取れない時に愛してるなんて言うが悪いと俺は思うけど、降りるのを待っている人がいるのも事実だから仕方なく固定具を外して立ち上がる。片付けなんかは後でいいだろう。多分誰かがしてくれる。
 でもちょっとだけ、と立ち上がったを捕まえて思い切り抱きしめ、あまりの思い切りに呻かれながら一回だけキスした。怒られる前に離れる。
 操縦席の真上のハッチを開ければそこは三門のボーダー本部の地下の天井が見えるはずだ。戻る予定時刻は連絡しているからきっと出迎えに誰かがいる。
 は上を見上げる俺の服を小さく掴むから左手でその手を握ってやる。弱弱しく握り返される。
 無意識なんだろうと振り返ればしまったと顔に書いてある。別にいいのに。

「こわいもんなんて何にもないから。あっても俺が守るし」
「そうだね。そうだった」

 ハッチの蓋を開けるために一度惜しみながらその手を離し、ゆっくりと旅の最後の扉を開ける。
 遠征艇の屋根に立ち、を上に引っ張り上げる。振り返れば遠征艇から降りるためのタラップがかけられ、その向こうにじっと黙って立つ忍田さんと鬼怒田さんがいた。
 二人の顔を、随分久しぶりに見た気がした。
 ゆっくりと、遠征艇から降り、出迎えの二人の前にと並んで立つ。

「太刀川慶、任務遂行しただいま帰還しました。……二人とも老けた?」

 そう言うと馬鹿者と鬼怒田さんが顔を歪ませ手で顔を覆い気づけば忍田さんの腕の中だった。と二人抱きしめられる。迎えはありがたいけど予想外だ。

「忍田さんちょっと」
「よく、よく戻ってきてくれた」
「ははっ。忍田さん泣いてんの?」

 それぞれ抱きしめられれば俺は忍田さんをから引き剥がしたけど、まとめて抱え込まれればなんとも言えない。こんな風にされるなんて、それこそ小さい頃に悪戯をして逃げ回って迷子になって見つけてもらった時以来だ。あの時の忍田さんも力いっぱい俺を羽交い締めにしてよかったと言っていた。
 俺はを迎えに行き、俺とは出迎えられる。
 忍田さんがなかなか離してくれなくて、俺は何を言えばわからなくて、も隣で固まっていて、奥の鬼怒田さんは唇を噛み締めてこっちを見てる。多分あれはもうすぐ泣く。
 俺も混乱してたらしい。ようやく落ち着いて忍田さんの背中をトントンと落ち着かせるように叩いた。

「ただいま忍田さん。隣が、このおじさんが忍田さん。俺の師匠」
「慶」

 忍田さんがようやく俺たちから離れて、すぐに隣のを見れば俺を見て、驚いたような、困ったような顔をして、ぎこちなく忍田さんの方を見た。

です。助けていただき、ありがとうございます。本当に、帰れる日がきたのは奇跡だと、思ってます」

 深々と、が頭を下げ、それから動かない。
 忍田さんが顔を上げてくれと言う前に俺はを体ごと俺に引き寄せて胸元で顔を隠すように引き寄せた。案の定、泣いてた。

「なんかいろいろやることあんだろーけど、とりあえず医務室かどっかに連れてってやれる?」
「二人用に部屋を用意してある。今日明日はそこで休んでもらって、さんは一度検査のために入院だな。慶、お前もだ」
「はいはい。、まあ話してたけどそういうことな」
「……ごめ、」
「良ければ使ってください」

 忍田さんがポケットから綺麗なハンカチを取り出してきた。そっと顔を上げたはありがとうございます、とそのハンカチをそっと目元に当てる。ハンカチってこういう時に使うのかと思うけどの片手は俺の服をきゅっと掴んでるから俺はそれでいいやと思う。旅の途中で買ったハンカチはの荷物の中だ。も俺からハンカチが出てくるとは期待してないだろう。でも今度からハンカチ、用意しようかなとは思った。

 が落ち着くまで三人でただ待って、それから医務室の隣の部屋へと案内された。
 この帰還は極秘のことで、幹部だけしか知らないため迎えは二人だけだったという。遠征艇の整備も当時開発に関わっていたエンジニアが少数で行うらしい。もちろん口止め済みだ。
 ある程度落ち着いたら情報も少しずつ開示していくって忍田さんは話してた。俺はが嫌でなければ何でも良かったので頷いて話を聞いていた。

「私は伯母に無事を知らせることができれば後のことはボーダーの意向に沿うつもりです。私の帰還の公表、非公表、それに私の今後も含めて」
?」
「……お気遣い感謝する」
「いえ。慶はボーダーに所属したままでしょうから、その辺は考えていました」

 聞いてないと思わず口にしたら後でねとに苦笑いをされた。

 忍田さんは今日は疲れているだろうからゆっくり休むようにと部屋を出ていった。何時だと部屋の時計を見れば深夜、日付を越えていた。そりゃ疲れるなと思う。時差みたいなものがあったのかもわからないけど心身ともにくたくたには違いない。
 休む支度を済ませてベッドに腰掛けるを見る。

「慶? どうしたの?」
「……俺には相談してくんねーの」

 は俺の顔を見て表情をやわらかくすると立ち上がり、同じように反対側のベッドに腰掛けていた俺の頭をゆるく抱きしめてくる。が立っているので俺の頭はの胸元に当たる。心臓の音が聞こえてきそうだった。

「忍田さんが師匠でよかったね」
「答えになってねえ」
「慶にとっては信頼の相手でも、私は会うまで信じきれなかったから。だから会って決めようと思ったんだよ」

 頭の上から降ってくる言葉は言い聞かせるようにゆっくりと優しい。
 子どもじゃないと思いつつも言い出せず、ただされるがままになる。

「慶のこと、もう忘れたくないから結果は変わらないんだけどね」

 そう言われて思わず腕をに回してしがみつくように抱きしめる。
 がどんな数年を過ごしたのか、俺は無理に聞かない。話したいことだけ話してくれたらいい。

「そんなのさせないしが俺を忘れてものこと守る」
「馬鹿だなあ」

 そう言いながらは俺の頭をまた優しく抱きしめ直す。声はどこまでも優しくて、手はやわらかく、まるで壊れ物のように俺を扱うは怖がっていた。
 それは多分どうしようもないことで、俺は気の済むまでに抱きしめられるし、何度でも守ると、ここにいると言うだけだった。
 ただは次の日の朝になればおはようとなんてことのない顔で笑ってみせるのだ。
 それが悔しくて、もっと甘えろよと一言告げれば軽いハグと共に答えだと言わんばかりに笑われた。

「慶」
「なに」
「好き」

 頭から降る小さな告白に俺は顔を上げる。困ったように笑うが俺を見下ろしている。
 その言葉は間違いでもないけれど、俺はの目を見て口を開く。

「愛してる、でしょ」
「愛してますよ、太刀川慶くん」


 おどけるような声を指摘するように名前を呼べば返事はおでこに唇を寄せられた。

「愛してる、でしょ、慶」

 返事を返す前にその頬に手を伸ばせば唇が上から降ってくる。おでこに、まなじりに、頬に、唇に。愛しているを求めたその唇が言葉よりもよほど雄弁に愛を語っていると思うのは俺だけだろうか。

「愛してる」

 それは本心だったし、同時に俺とのお守りみたいなものだった。
 旅は終わったけど、まだ二人でどこに向かって歩くのか、そういうのは宙ぶらりんで、前のままではいられないことだけが確かだった。だから、が確かめるように俺に触るなら、俺はそれに全部応えようと思った。
 もう一度頭を抱えるように抱きしめるの好きにさせ、今日はまだいいとしてもしばらくはこんなにゆっくりと話をすることはできないのだと気づく。

「明日から忙しいとして俺いつとゆっくりできんだろ」
「しばらくはおかえりなさいをたくさん受けたらいいんじゃない」

 そう言われて、そういえばと少し顔を離して立ち上がる。
 立ち上がればを見上げていたのが逆転した。見上げられるとの瞳がよく見える。の落ち着いたフリを俺はもうわかるけど、知らないフリをした。

「おかえり、

 腕の中におさめれば腕の中の体が強張ったのがわかる。

「おかえり」
「……ただいま」

 何度も躊躇いながら、言葉を迷いながら、帰還の言葉はようやく言葉になった。
 の腕が弱弱しく回され、その指先が俺の背中にそっと当てられる。
 多分、まだ穏やかな明日何てものはこないし、は何度もこんな風に不安そうに言いづらそうに俺のどこかに触れるんだろう。
 それでも、おかえりと言って、ただいまと言える。

「真面目なこと多すぎて俺いつになったらと好きにいちゃいちゃできるか心配になってきた」
「今してるんじゃないの?」
「そうだけどそうじゃない」

 空気が緩んで、良かったとそのまま少々過剰なスキンシップをしていたらいい加減にしなさいとに怒られた。仕方がないのでそれ以上は諦めた。慣れないベッドの話からなぜかが寝るまで子守唄を歌う羽目になった。歌は嫌いじゃないけどそんなに得意じゃない。
 部屋を暗くし、今度は俺がのベッドに近づいた。ベッドの脇に座りの頭を撫でながら歌詞も適当な子守唄を歌う。は俺の歌に最初笑っていたけれど、しばらくすると静かな寝息を立て始める。少しずつ声を小さくして、そっとベッドから腰を上げる。

「おやすみ

 明日からの面倒ごとを俺も考えないようにして隣のベッドに潜り込んだ。
 その夜は、夢も見ないぐらいぐっすり眠って次の日に揺さぶられるようにして起きることになった。




(ロマンティックヒーロー 番外1)