現れた偵察用のトリオン兵に狙いを定めて撃てば狙っていた関節部分を撃ち抜いた。
 鈍ったところに慶が駆け抜けて一閃すれば人の倍以上の大きさのトリオン兵はあっという間に真っ二つだ。

「いい切れ味」

 回線を使わない独り言だったのに気づいたかのようにこちらを振り向く慶は黒のロングコートをはためかせている。
 最近見慣れたその姿はボーダーで設定した隊服らしい。コスプレみたいと言ったら忍田さんもコスプレってことかよと言っていた。師弟でロングコートでトリオン体なのを私はここに来て初めて知った。
 慶が実戦で動く様もまじまじと見たのはここに来てからが初めてだ。戦う慶を、私は改めて知って、そして感じたことがある。
 慶は、強い。わかっていたことではあったけれど、単身近界を旅するだけの強さがそこにはあった。

 今日はリンと三人での編成だ。砦の隊長がいてもいいのだろうかと思うけれど"運動"と"気分転換"を兼ねて警邏のシフトに入ってくる。もちろん本当にリンが動きたいのもあるだろうけれど、時折警邏に入ることで個々の性格が強い傭兵たちとのコミュニケーションも兼ねているみたいだ。今も砦からこのまま問題がなければ交代要員の到着をもって私たちの今日の仕事は終わりだと連絡が入ってすぐ、何やら慶としゃべっている。

 私たちが砦と呼んでいる場所は実のところ元々は町があった。一時期は戦場となり、住民はもういないため、区画の一部を取り壊し、今はそこを砦として近隣地のゲート発生はこの砦周辺になるように仕掛けられている。
 町の作りも違うし、警邏は他のゲートが出にくい街の方にまで及ぶけれど基本的に三門市に似たつくりだ。ゲート誘引地の真ん中に基地を置き、そこに敵を招き入れて対応する。攻め入ることが目的ではないのなら自陣をもって迎え入れるのが一番自分たちに有利だろう。
 私の今待機している場所も狙撃ポイントとして共有されている場所だし、それ以外にも狙撃手たちはそれぞれ好みのポイントを持っている。

「何か図星でも言われたのかな」

 スコープ越しに二人を覗けば慶がなんとなく拗ねているようだった。
 私といる時の慶は年齢を重ねたこともあるけど昔から背伸びをしようとするから、ああした姿を見るのは嬉しいし羨ましい。
 本当なら、慶はそれを三門の仲間たちと交わしていたんじゃないかと、ふと頭の中によぎる考えは思考を重たくさせる。

「……慶、早く帰りたいだろうな」

 残りの道のりもあとわずか。慶の話だとこの国とあといくつかの国を渡れば三門に帰り着くのだという。
 私も一度は帰りたい。聞けば慶は私の家をそのまま借りているという。家族はもういないけれどお墓参りをして私の無事を報告したい。
 けど、私は前のまま三門で過ごせるとは思ってない。
 おそらくしばらくはボーダーのお世話になるだろう。根掘り葉掘り聞かれて、トリオン能力に関してもテストされる。
 それ自体はわかっていることだし、そのぐらいはボーダーも知りたいだろう。長期間近界で生き残った人間は貴重なはずだから。
 私は噂で聞く大国のような人体実験を受けることはなく、ただひたすら使われる駒だった。所属する部隊の人たちはトリオン能力と狙撃能力を有用視し、そういう実験にも消極的だったのか私を人として扱っていた。攫われた割に、運は良いと思う。悪運なのかもしれない。

「慶」

 今は名前を呼べば届く距離にいる。
 すごいなと思う。一年前の私はこんな未来が来ることなんて想像していなかった。死ぬまでずっとただ敵を撃ち続けるだけで、トリオンが尽きれば役に立たないものとして打ち捨てられるのだと、そう思っていた。
 今は、そんなことはなくなり、その代わりどうしたらいいのかあと一歩、踏ん切りがつかないままだ。それでもわかっていることもある。

「慶がいるなら、どこでもいいよ」

 本人に言うには気恥ずかしいそれを口に乗せれば独り言なのに照れくさかった。
 思わずひとりで笑ったその瞬間、耳元に張り詰めた機械越しの声が飛び込んできた。

『ゲート発生を多数確認! 現在外にいる部隊は目視できる場合報告の上、迎撃。その他は砦から確認出来次第場所を指示する』

 すぐに銃を構えれば慶とリンの向こう側に空間の歪みが見える。
 目視できるだけでも空間が歪むとき特有の光が数か所。
 頭の中を切り替えて、私は深呼吸を一つし、それから二人のサポートの為に意識を向けた。


***


さん、飯いこ』
『課題が終わったらね』

さん、映画いこ』
『単位危ない授業あるんじゃなかった?』

さん、お茶しよ』
『……お茶だけね』
『ッシ!』

 時々、仕事が終わった頃合いと、休みの日、十分程度の他愛ない電話をすることひと月。
 気づけば年下の男の子の日常に詳しくなり、絆されてお茶の約束に頷いてしまった。

「わかっててやってるなら、将来が怖い」

 思わず一言こぼすぐらいに相手は慎重だった。



 ここはどう、と聞かれたお店は明るい木目調の床に白い壁で、通り沿いの全面窓から透けるほど薄いカーテン越しにやわらかく日差しが差し込む場所だった。中のインテリアも木材を使い、色もそれらの色と喧嘩をしないように白を貴重にしたもので、壁には落ち着いた色合いの絵が飾られている。店内は女性客や男女の二人組が多い。
 落ち着いてはいるけれどまだ大学生の青年が決めるにしては随分と女性好みの店だ。もちろん、私も好きな雰囲気だった。
 頼んだ紅茶は美味しい。頼んだチーズケーキも盛り付け方からお皿から何から何までかわいい。向かいに置かれたコーヒーもいい香りが漂ってきて一人でも今度来ようと決める。

「太刀川くん自分でこのお店決めたの?」
「慶って呼んでくんねーの?」
「彼女に聞いた?」
「彼女いたらさん誘ってない」

 電話で話すようになってしばらく、ふと今いくつか聞いてみたらまだ大学一年生で私は彼との年の差に目眩がした。
 同い年とか年齢が近い方がいいんじゃないかとやんわりと電話越しに聞いたとき、今いいなって思ってるのがさんだからと平然と返された。これが十代の若さかなと、その時も目眩を起こしそうだった。
 その若者が一人で選ぶはずのないこのお店は確実に女性目線で選ばれたはずなのだけれど答えは教えてくれそうにはなかった。

「それで、お茶をしてみた感想は?」
「付き合いたい」
「ハッキリ言うね」
さんの感想は? ナシなら会わないだろ」

 私も電話をしながら少しずつこの青年のことをわかり始めたように、相手も私のことを少しずつどころか随分とわかられているようだった。
 ここ数年の私は最低限の人付き合いしかしてこなかった。大学の頃に別れたきり、恋人もいない。
 だから、少しばかり寂しかったのはある。時々来る電話を楽しみにし始めている私もいる。
 でも図ったようにおあつらえ向きなカフェを選び、眩しいぐらいに真っ直ぐ向かってくる自信いっぱいの男の子に私は怯んだ。その提案に素直に頷けるほど、私は元気いっぱいでも年の近い同級生でもなかったから。
 でも怯むだけで、その手を振りほどくほどには私は背筋を伸ばして立っていられなかった。

「お茶ぐらいなら、いいよ」
「酒は成人してから?」
「……それまで会い続けるの?」
「その頃には付き合ってる予定」

 この言葉通り、二十歳の誕生日を一緒に祝うことになるとはこの時はまだ夢にも思っていなかった。




 土日のどちらか、続けてだったり、ひと月空いたり、私と太刀川くんは会い続けた。
 初めて出会った頃、季節は秋のはじめの頃だった。お茶をしたのは十二月のはじめだっただろうか。
 初詣に行きたいという言葉に折れて防寒優先で着ぶくれた私を見て着物、と無茶を言う太刀川くんを笑って流した。課題が多い試験期間中は会わないよとお参り帰りに言ったらあからさまに落ち込まれた。試験後はボーダーの変わってもらっていたシフトが忙しかったらしい。二月は何やら憂さ晴らしと言って、電話はしていたけれど長い春休みのほとんどはボーダーに入り浸っていたようだった。
 開花宣言もニュースで聞かれるようになった頃、お花見をしようと誘われ、散歩しながらがいいと言えば、桜並木の下、歩きながら手を握られた。その握り方がハッキリと好意を伝えてくるのとは裏腹に妙に確かめるように握ってくるものだから、わかるように握り返したらさらに握りしめられた。
 四月は新年度ということもあり、その後はお互いに忙しなかっ。それでも忘れずに時間割はきちんと作りなさいねと念を押した。私と同じように危惧する人はやはり彼の周りにはいるらしい。単位が危ないだろうとボーダーでも一緒の同級生と先輩が見越してアドバイスをくれていた。非常に心配だったけれどそれを聞いて安心した。
 五月、長期連休で稼ぎ時だと何やらボーダーのシフトを代わってたくさん入れているのは聞いていたけれど、連休最後の日、デートしようと誘われた時は躊躇った。
 ここまできて私とのことを年上が物珍しいからだなんて思わないし、太刀川くんはとても真剣に私と向き合ってくれた。
 だからそれに少しずつでも応えたいなと、私はようやく一歩、前に進むことにした。
 最近は時折私からも電話をすることもあり、その日電話をかければ何回かコールのあと、さん? と慌てたように電話に出てきた。

『太刀川くん、デートは行くところ決めてる? 決めてないなら買い物に付き合って欲しいんだけど』
『! 付き合う。何でも付き合う』
『何でもなんて気軽に言ったらだめでしょう』
さんのお願いなら何でも聞きたい。あ、単位とか成績良くしろとかはナシ』
『ほら』

 どうにもボーダー推薦というかなり際どい裏技を使っている上に大学よりもボーダーにいることの方が多いみたいなのでそこばかりは今後も気をつけて声をかけていかないとなと思う。
 私が大学生の頃、大半は普通の大学生活を送っていたけれど、最後の年は散々だった。単位こそ卒論以外はほとんど取り終えていたものの、私は第一次近界侵攻の後しばらくは気持ちも立て直すのに時間がかかったし最低限の家の片付けや事務手続きでほとんどを費やした。
 本人にとってはあまり興味のない大学生活かもしれないけれどできれば悔いのないように過ごしてくれたらと身勝手に思ってしまう。

『ショッピングモールで買い物して、あとはたまに行くカフェでお茶しよう』
『わかった』
『あと、一日ずらしても大丈夫? 最終日より前の日が助かる。シフトが被ってるならそのままでいいよ』
『えーっと、じゃあ昼からでもいい?』
『……もしかして夜勤? 無理しなくていいよ』

 あまり無理をさせてもと思ったのだけれど夜勤後すぐに寝るから平気だと言って譲らなくなったので私が折れた。実際、体力は向こうがあるに決まっている。日ごろから鍛えている今年二十歳の青年と比べずともも最初からわかりきったことだ。
 日にちは決めたので待ち合わせの時間と場所を決めて、電話を切った。

「さて」

 とりあえずデートまでにできることはしておかないといけない。
 太刀川くんと会うことは何度もあったのに、改めてデートなんて言ったことは今までなかった。
 なんだか気持ちがふんわりと浮足立っていることに、私はしばらく気づかないふりをすることにした。



 当日、待ち合わせ場所のショッピングモール入口で待っていればかなりの勢いで太刀川くんは駆け込んできた。
 あまりに勢いよく駆け込んできたのでそのまま私にぶつかるかと思ったけれどそういうことはなく、最後は軽くジャンプをするようにして私の前に着地し、パッと顔を上げるとすぐに口を開く。

「間に合った?!」
「間に合ってるから、息整えようか」

 ぽんと軽く肩をなでて息を切らせているのが落ち着くのを待つ。
 若者らしい、はつらつさというのは目の前の相手にはあまり似合わない気がしていた。
 私の前での太刀川くんはいつも飄々としていて、認めはしないけれど協力者の女の子からあれこれと助けを借りながらもこちらの行動を予想してくる用意周到なところがあった。
 私もショッピングモールも逃げたりしない。連絡一つ入れれば済む話だ。
 けれどこちらに向かって走ってくる姿は年相応の、十九歳なのだと改めて思う眩しさがある。
 それから、そんな子がこんなに慌てて走ってくる理由が自分なのだと思うとどうしようもなくむずがゆくなってしまう。

「走って来なくても、待ってたよ」
「寝坊して、ヤバいって思ったら止まんなかった」

 そう言う太刀川くんの息は次第に整って、じゃあ行こうかと歩き出す。
 連休中だけあってショッピングモールはかなりの人だ。家族連れにカップルに友人同士。色々な人がそれぞれ楽しんでいる。私たちもその中の一部なんだろう。

 ここ最近、太刀川くんと出かけるようになって気がついたことがある。
 身長は平均より高いのだけれど、飛び抜けて高いというわけではない。だけれど昔から剣術は習っていたからなのか、なんとなく立ち姿とかがスッと整って見えるのだ。時折周りに振り返られるのを見ていたら気がついた。

「なに?」
「姿勢いいなって」
「そう? 気にしたことなかった」

 本当は贔屓目かもしれないことは黙っておいた。

 今日の買い物の目的は雑貨で、目星をつけていた何店舗かを思い描いて一番気に入っている店にまずは行ってみた。
 ナチュラルテイストの店で、かわいすぎずシンプルで値段もそれなりのところで気に入っている。

「何買いに来たの」
「マグカップ。一つ割っちゃったから新しいのが欲しくて」

 ふうん、と雑貨には興味がなさそうで私の見るものを同じように眺めている。
 家にあるものと合わせてもよかったけれど家にない雰囲気のものの方がいいような気がしてきて、普段は見ないものも手に取ってみることにした。柄があるよりは無地の方がよかったので無地のものを中心に、その後何店舗か見てみるけれどいまいち決まらない。
 目ぼしいところを一通り見た後、モールのベンチに腰かけたところで私は思わず腕を組んで唸ってしまった。

「うーん。付き合わせてごめん。すぐ決まるかなと思ったんだけど」
「イマイチならまた今度探す?」
「……太刀川くんは今の中でいいなっていうのあった?」

 見てなかったかなと思いながらダメ元で聞いてみれば思わぬ沈黙が返ってきた。何か見かけたんだろうか。
 駄目なら今日のところは諦めてお茶にしようかと思っていたのでじっと見つめた。

「最初の店の次? のやつ」
「じゃあそれもう一度見てみようかな」
さんのマグカップなんだろ? 俺が気になったやつでいいの?」

 その言葉に私はどこまで察しているんだろうなと思いながらも不自然さが少ないように答える。

「いつもと違うのが欲しいから選んでもらうのもありかなって」

 ふうんと、やっぱり反応が薄かったけれど、言われた店に行くと私が見落としていた棚から太刀川くんはひょいと濃い青色のマグカップを手に取った。
 渡されて触るとつやっとしていて、少し丸みのある取っ手は思わず撫でていたい感触だった。縦長の深めのマグはコーヒーを入れても良さそうだし、ホットミルクを入れても美味しそうだと思う。簡単な説明が書いているポップにはレンジに丸がついているし、値段も手ごろだった。

「いいね」
「なんとなく、目についた」

 カラーは白と青と茶色。私は一つずつ見て、店内の明かりにもかざして、最初に渡された青色のマグに決めた。

「これにする」
「ん」

 そうして無事に終えた買い物の後、予定通り私たちはお茶をすることにした。

 そのカフェは、一番初め、太刀川くんがお茶をしようと誘った時に行ったことのあるカフェだった。
 あれから時々、ランチも美味しいことに気が付いた私は太刀川くんと会う時は時折ここに行こうと誘った。実は、一人でもお茶をしに来ていたのだけれどそれはなんとなく内緒にしていた。なんだか太刀川くんの図った通りな気がして、悔しかったから。
 お腹が空いたと軽食メニューのサンドイッチを食べるのを横目に私は自家製プリンを食べていた。ケーキと迷ったけれど最近出かけたり外で食べることも増えてきたからぐっと我慢した。

 お互い頼んだものを食べ終わり、食後のコーヒーと紅茶をのんびりと楽しむ。
 太刀川くんのボーダーでの話や、私の職場での話を少しする。特に面白い話なんてないのに社会人生活が珍しいのか時々会社での出来事を聞いては大人のあれこれについて面倒くさそうだと顔をしかめ、ちょっとした失敗話には笑いながら話を聞いていた。
 それは会うことが多くなってからの私と太刀川くんの他愛のない午後の過ごし方ではあった。もちろん今日は「デート」なのでこのままいつものように変わりのないままに終わるわけではないだろうけれど、今日は私から口を開くことにした。

「それで、デートの感想は?」
「付き合いたい」

 真顔で、躊躇いなく言葉にされたそれは初めて会った時に言われた言葉だった。何の飾りもなくストレート過ぎる言葉にあの時の私は驚いて若さゆえかなと呆れるようにして返事をした。
 今日は、思わず笑っていた。相変わらずだなという思いと、それを期待していた私に変わらず応えてくれたことに対しての安堵だった。

「随分、辛抱強かったね」
「そろそろ我慢の限界」

 返事が欲しいと、その目は半分以上答えを知っていそうだったけれど、でもその裏に緊張があるんだろうと、見えないその気持ちに私はさっき買ったマグの入っている紙袋をテーブルの上に置いて太刀川くんの方に寄せた。
 返事の代わりに現れた紙袋に太刀川くんは怪訝な顔だ。

「なに」
「部屋にいる時、専用のマグがあった方がいいでしょ」
「それって」

 言葉は続かず、そんなに目を開けて驚けたんだと思ったぐらい、太刀川くんの目が大きく見開かれて、ぽかんと口が開いていた。
 私みたいに、三年前の第一次近界侵攻から人付き合いを避けてきた人は少なくないだろう。大事な人を亡くして、新しくそういう人を作りたくなかった人は、今もまだいるだろう。
 私も、本当はまだこわかった。大事なものをそばに置いておく、それが失われることなんてあっという間なのだと、また思い知りたくなかった。
 でも、目の前で、そういう私の事情を言わないまでも薄々気づいて、じっと待っていてくれた相手と、くだらない話をしながら、時には喧嘩もしながら、笑いながら、そうして迎える朝を夢見てしまった。

「うちに来る時、それ持っておいで、慶」

 微笑めばきゅっと唇を噛みしめて、テーブルの下とはいえ目の前でガッツポーズを決められた。わかりやすい。
 この後、私は明日休みで、あなたもシフトはお休みで、二人とも暇だねと問いかければ、今度は一体どんな顔をするんだろう。
 私はそれを想像しながらますます笑みを深くして、ずっと呼んでと言われていた名前を再び呼んだ。



***



 連絡が入ってくる度、無差別に量で勝負しているのがわかるぐらい、敵国はトリオン兵を大量投入してきていた。
 その割に人的投入はほとんどないらしく、砦の方では奇襲に用心をして防備を固め、警邏に出ていた私たちと、交代のために砦を出たばかりの隊、あとは追加で数隊、断続的に現れるトリオン兵を迎撃し続けていた。

『慶、リン、そっち一体逃した』
『リンが倒す。、俺のいる位置から二時の方向、二体。サポート頼む』
『了解』
『優秀なチームメイトでオレは楽してるなあ』

 この場の指揮は慶が、リンは遠隔で全体の状況を受けていくつか指示を出しては器用に戦っている。
 私は都度位置を移動しながらその二人の動きをサポートしたり、してもらったりしている。
 リンは楽と言うけれどさほど楽でもない。目的も読めない戦力投入はこちらの対応が後手に回ってやりにくい。

「何なんだろう」

 街の方にも人を派遣しているけれどそちらには気まぐれに大したことのない戦力が投入されるので最低限の人数を置いている。
 トリオン兵が囮で砦への侵入が目的にしては砦に対しての動きは今のところない。
 地の利はあるので後手に回ったとはいえ少しずつではあるけれどトリオン兵も少なくなっている。
 それでも拭えない嫌な予感に落ち着かない。

『外で単独行動中の者は注意! 一名捕縛された!』

 ビル型の建物の屋根で狙撃をしていた私はその言葉に慌てて体を起こしたけれど遅かった。突如どこからか跳ねるようにして私の真後ろに着地したトリオン兵。大きな割に俊敏だったそれは明らかに人を捕獲するだけの大きさがある。
 そういう種類のトリオン兵に私は見覚えがあった。
 頭が真っ白になる。

 私はたまたま狙撃の精密さを買われて狙撃手になったけれど、例え接近戦が得意でもきっと狙撃手を選んでいた。
 いつもそういうわけじゃない。でも時折、私は”あの時"みたいにトリオン兵に接近されるとダメだった。頭が真っ白になり、体が硬く強張ってしまう。
 あの日みたいに、私は何もできない、トリオンのことも近界のこともわからないただの無力な人間に戻ってしまう。
 このまま呆然と立ち尽くせば目の前のトリオン兵に捕縛されてしまう。わかっている。わかっているのに体はこれっぽっちも動かない。早くこの手の銃で敵を倒さなければ。動かなくなるまで、撃たなければ。じゃなければ私はとてもこわい思いをする。それがわかっているのに、でも体は何一つ思い通りに動いてくれなかった。

「けい、たすけて」

 必死になってなんとか口に出せた言葉は無意識に出たもので、私はぎゅっと目を閉じた。


***


 付き合っているも同然、から改めて付き合うようになって一ヶ月と少し。
 付き合うようになって変わったことといえば私が太刀川くんを慶と呼ぶようになったこと、ほぼ毎週末泊まりにくるようになったこと、背伸びをしていた慶が年相応の反応を見せるようになったこと。変わらないようで変わっているけれど私はそれを楽しんでいた。

 ただそれとは別に、五月も半ばも過ぎ、六月が近づくにつれ、私は日に日に自分の気持ちが落ち着かず、不安定になるのを感じていた。
 ここ二年、ずっとそうだったからそれ自体はわかっていたことだったけれど六月に入ってからはさすがに慶にも心配されだした。

「明日やっぱり一緒にいる」
「講義とボーダーの仕事でしょう」

 明日、とは第一次近界侵攻があった日で、つまりこの三門市では多くの人にとって大切な人の命日であったり、いなくなってしまった日である。
 どうせ使い物にならないしお墓参りもしたいからと以前から休みは申請していた。
 自分でもわかるぐらい、私は口数も減っていたし気もそぞろだった。
 それでも無理矢理慶を頷かせた。その代わり今日はうちに泊まって明日も泊まると言って譲らなかったのでそこは私が折れた。

「慶でも普通に寝るだけができるんだ」
「さすがに弱ってるさんにそれはないだろ」

 元々一人用のベッドで二人寝るのは手狭だけれど今日はそれでよかったと思う。手を握ってなんて、子どもみたいだと思ったけれど慶は何も言わずに握り返してくれた。隣に、人の温かさがあることに自然と視界が滲んだ。随分と弱っている。

「ねえ慶」
「ん?」
「名前、呼んで」

 もう部屋の電気は消してしまって、私の顔はきっと慶からはよく見えない。
 私は慶よりもいくつも年上だけど、きっと慶が思うよりも大人ではなく、そしてきっと慶は私よりも年下だけれど、私が思うよりも大人だ。



 確かめるように呼ばれた名前に私は思わず目を閉じ、繋いだ手を小さく握りしめる。
 本当に、電気を消した後でよかった。あいている手で目元を拭った。

「ありがとう」
「呼んでいいならいくらでも呼ぶ。って」
「それはうるさいからいいよ」

 くすりと笑って、慶も隣で笑う気配がした。
 おやすみと口にすればおやすみと返ってくる声があることに私は安堵しながらなんとか意識を手放した。



 一限から授業だという慶を急かすように送り、私も自分の身支度を整える。
 騒がしさは慶が出た途端にあっという間に静けさに変わり、喪服を身に纏う私はひとりぼっちだ。
 式典があるというけれどそちらに行く気は最初からなく、私は街の外れにお墓参りに行く。

 綺麗に墓を掃除して花を添えた。花は頻繁には行けないのでお参りを済ませたら家に持ち帰るつもりだ。
 他にも何組もお墓参りに来ている人を見た。家族連れであったり、私のように一人であったり。
 今日はあいにく曇り空で、午後からは雨だという。

「降らないといいな」

 私は鞄に入れた折り畳み傘を確認し、降ったらびしょ濡れでうちに来そうな相手のことを想像して思わず苦笑した。慶は傘を持っていなかったはずだ。冷えないようにタオルを玄関に用意しておこうかなと記憶にとどめておく。
 命日にこんなふうに誰かを思えるなんて一年前は想像もしていなかった。

 大学の途中からは一人暮らしをしていて、私はあの頃もう実家を出ていた。
 その日は前日から泊りがけで出掛けていて、当日三門市にはいなかった。ニュースで見て慌てて帰った時には家族は全員トリオン器官とやらを抜かれてもう目を覚ますことはなかった。
 実家の近くはそういう人が多く、運悪くトリオン兵の出没地域に当たったんだというのはあとから聞いたことだ。行方不明者も多く、その人たちは近界に誘拐されたのだろうということだった。
 わけもわからないままだったけれど不幸中の幸いは自分の家族から行方不明者が出ていないことだ。私は私の知らない間に家族を亡くしたけれど遺体の確認もできたしきちんと弔うことができた。
 そう思うぐらいしかできなかった。

 墓地から市街地へと帰り、警戒区域の境目付近の実家へと足を向けた。警戒区域外とはいえ、この地区は一家全員亡くなったところも多いし行方不明者も多いからか人がほとんど住んでいない。私もたまに実家の整理のために訪れてはいるけれどほとんど立ち寄らない。
 それでも今日ばかりは私みたいな喪服姿が街のあちこちで見かけられ、この地域にも人の気配が静かにひしめいている。
 手短にお墓参りも済ませてしまい、時間があるからと、実家の玄関をくぐることにした。持ってきていたスリッパに履き替える。掃除なんて滅多にしない家は埃でいっぱいだ。人が住まないと家というものはこんなにも冷たくよそよそしいのだと、私はまだ知りたくなかった。
 家に入ってすぐ、雨が落ち出す音に気がついたけれど構わず家の窓を全部開けた。
 こもりきった匂いに少しずつ雨の匂いが混じっていく。

「ただいま」

 とってつけたようなただいまは空中分解して誰にも届かず消えていく。
 リビングの椅子に腰掛けて、ぼんやりと部屋全体を見渡す。
 家自体の被害は奇跡的にほとんどなかったけれど避難する途中で家族はトリオン兵に襲われた。慌ただしく出て行った形跡はもう片付けてしまったから、見た目だけはそこまで悲惨な状態ではない。
 だからこそ、主のいない家は余計にその不在を主張する。
 やるべきことを終えたあと、急がなくていい荷物の整理は未だに終わっていなかった。かろうじて、空気を入れ替えて掃除をする日があっても私以外の家族の荷物に私はほとんど触れていない。
 何度か伯母に整理を手伝おうかと声をかけてもらう度、今はまだいいと断ってきた。

「家の整理しても、いいかな」

 答えはもちろんない。それでも口にしてみたら少し心が軽くなる。私はようやく、この家について向き合えるんだろう。家族のことを、受け入れられるんだろう。
 そう思い、それから、無性に慶に会いたくなった。そう思える自分になんだかホッとした。
 ずいぶんとぼんやり考え込んでいたらしい。時計を見ればもう夕方で、雨足は弱まることもなく降り続いていた。
 開けていた窓をすべて閉じ、近いうちに伯母に連絡を取ろうと決めた。一人で整理する勇気はまだなかった。

 雨の降る中家に帰り着き、とりあえず喪服を脱いで着替えた。そうしてなんとなく携帯を手にし、慶に何か連絡しようと思ったものの、なんて言おうかぼんやり考えてもうまく言葉は出てこない。
 結局、『会いたい』なんて、漠然とした言葉しか思いつかなかった。送信ボタンを押して、一人暮らしの私にとって狭いはずのない部屋で妙に広さを感じてしまう。手持無沙汰にクッションを抱えてソファに座りこめば動けなくなってしまった。動けず、じっとしながら、私はただただ慶を待っている自分に気がついた。
 防衛任務が終わる頃だななんて、じっと携帯を眺めていれば携帯が震えた。望んでいる名前が現れて、私は焦らないよう、そっと指先で画面をなぞる。

『慶』
『今どこ』
『家』
『わかった』

 すぐ行くと答えながら少し携帯を離したらしい慶は、「お説教なら明日聞くから!」と不穏なことを叫んでいる。
 電話を切るつもりはないようだけど電話越しの息遣いは明らかに歩いているものとは違うので、私は様子を窺いながら口を開く。

『慶、何したの』
『本部内、全力疾走した』

 それは非常に危ないと思ったのだけど走らせているのは私だったしゆっくりでいいよと言うのは嘘になってしまう。だから怒れないし何も言えなかった。

『外出たらマジで走るから電話切る』
『わかったけど、気をつけて』
『おう』

 電話が切れて、私は外の雨が降り止まないことを思い出し、傘を持っていない慶はびしょ濡れになって来るんだなとタオルを用意するために立ち上がった。準備しながら、もし慶が傘を持っていても、きっと同じようにタオルを用意するんだろうなとも思う。そうしてくれることに、そう思えることに思わず嬉しいと思ってしまった。
 お風呂も沸かそうと用意をしたところでインターホンが鳴る。思っていた以上に早く鳴った音に慌ててタオルを手に出迎えればやっぱりびしょ濡れの慶が立っていた。

「おかえり。やっぱり濡れ、て」

 言葉を遮るように慶は靴も脱がず私の両肩を勢いよく掴んできた。
 髪の毛はぴたりと顔についてるし、ぽたぽたとしずくが落ちている。タオルで拭いてあげたいのに慶はじっと私を睨むように見るだけだ。

、変な顔してる」
「変ってひどくない?」
「なんでそんな平気そうな顔しようとすんだよ」

 そう言われて、私は無理やり肩に載せられた手もお構いなしにタオルを慶の頭に被せた。くしゃくしゃとタオルを押し付けるようにすればあっという間に湿っていく。慶の顔が半分隠れる。
 平気そうな顔。慶にはそう見えているのなら、私は平気じゃないのだろうかと、言われて少し顔が強張る。でも、私は口だけは用意していたものを発していた。

「風邪引いちゃう。お風呂今沸かしてるから入って」


 雨で表面が冷えた手が私の頬に触れて、体が震える。私に頭を拭かれていたのも止めさせて、目の奥に揺るがない光を持つ相手は私を見透かすように見つめている。

「俺の前でぐらい、しっかりするな」
「どこが」
「ここまで言わないと泣きもしないとこだよ」

 気づかないうちに流れていた涙を指で拭われる。でもそれに気づいたら涙は止まるどころかますます溢れ出す。
 慶を拭くためのタオルを半分押し付けられる。黙ってタオルに顔を埋めたのに、すぐにタオルを取られてしまう。押し付けてきたのは慶なのに。

「慶?」
「拭くためで、涙止めるためじゃねえの。あと寒くなってきた」

 びしょ濡れだった相手に気づいたらもう涙なんて引っ込んだ。慌ててタオルで濡れているところを拭っていく。

「お風呂入って」
「一緒がいい」
「な」
「だってひとりで泣くだろ」
「泣かない。お風呂入って」
「泣いてもいいけどひとりはだめ」

 結局お互いに譲らなくて慶がお風呂に入っている間ドア越しに泣いていないということを示すためにずっと会話をする羽目になった。
 湯船に浸かった慶に話すことなんて今日のことぐらいしかない。そうして今日の出来事を話していけば次第に話は今までの私のことになる。
 ずっと避けていた家の話、家族の話。お墓参りの話。家の片付けをしようと思った話。
 慶は、扉越しにずっと聞いてくれていた。


 お風呂から上がった慶は腹減った、と食欲に忠実だった。念のためと、慶用に買い溜めすることにしたインスタント麺とおにぎりを三つほどぺろりと平らげた。空腹は駄目だと、妙に真剣な顔で私も何かお腹に入れるように言われてインスタントスープを飲んだ。お腹が温まると体が冷えていたのに気づいて少し肩の力が抜けた。
 食後、一息ついた慶は真面目な顔だった。

「来年は一緒にいる」
「大学とボーダーは」
「その日は休む」

 付き合いだしてからはひと月と少し。出会ってからは半年以上。こうと決めたら譲らないところがあることを私は理解し始めていた。

「休んでも、あんまり問題ないようにね」
「じゃないと別れるんだろ」

 頷いた私に慶は苦い顔だ。
 学業を疎かにしないこと。その上でボーダーの任務を頑張ること。さらにその上で、私と付き合うこと。
 付き合うことを決めた次の日、遅めの朝ごはんを食べながら改めて告げた後出しの条件に慶は眉を寄せて口を歪ませた。厳しいと言われたけれど聞いている限りそうでもしないと落第すると思っていたので私も譲らなかった。
 その代わり、私も約束をしたけれど。

「俺との約束は?」
「覚えてる」

 手招きされて慶と隣り合ってソファに座る。
 ずっと一人では持て余していた二人用のソファは慶と二人で並ぶには手狭になってしまう。
 それが私からすると寄りかかる理由になるのだから、手狭だけれどいいのかもしれない。私よりずっとたくましい肩に頭を預ける。

「私、ひとりでも大丈夫って思いたかった」
「うん」
「でもひとりって、認めたくなかった」

 あの家をそのままにしていればいつか帰ってきてくれるような、そんなわけはないのに、そんな気持ちを諦めきれないまま。そしてそのことすら認めきれないまま。それでも家のことは最低限、ほとんど周りに頼らずなんとかしてきた。そして触れられないものを見て見ぬ振りをし続けた。
 でも、隣に人がいるのに慣れてきたら嫌でも気づいてしまった。

「慶、しばらく肩借りてるから、動いちゃだめ」
「顔見るのも?」
「だめ」

 隣でボロボロと涙をこぼしている私の肩を抱きながら、慶は泣き止むまでずっと黙って肩を貸してくれた。


***


 トリオン兵が私を掴む硬くて冷たい感触がやってくるその瞬間を想像し、私は固く目を閉じた。

!!」

 でもそれはいつまで経ってもやって来なくて、名前を呼ばれ、その瞬間に響いた大きな音に恐る恐る目を開けた。
 私の目の前に広がるのは黒いコートとその向こう側で真っ二つになったトリオン兵だった。
 気づけば腰が抜けて座り込んでいた。私は開いたままの瞳で、何が起こったのかもわからないまま、目の前の光景を視界に入れるしかできない。息もまともにできていない。構えることすらできない銃はかろうじて右手の指先に触れているだけだ。
 目の前にこわいものはいなくなったのに私は指一つ動かせない。こちらを振り返る慶を見て名前一つ呼べやしない。微かに開いた口は震えて、意味のない音すら出せない。体が固まって、勝手に震えて、駆け寄ってくる慶に手も伸ばせない。
 駆けつけ、膝をついて私を痛いぐらいに抱きしめようとする慶の顔も見ることすらままならなかった。

「ごめん」

 耳元で絞り出されるような声に私は何も言えない。声が音にならない。唇が言うことをきいてくれない。
 慶、どうして謝るの。助けてくれたのに、どうして。

「今度こそ、守ってみせるから」

 零れだす涙で前が見えない。耳に入ってくるオペレーターの声が、通信越しの声が意味を持たない。慶の抱きしめてくる腕だけが確かで、慶の声だけが、少しずつ、体にしみ込むように響いていく。
 触れた部分から熱が通っていくように、かたく強張っていた体が息を吹き返していく。血が通っていることを思い出す。
 私は、今ここで、生きていた。

「けい」

 やっと、微かにでも音にできたその名前を、慶はきちんと聞き届けてくれた。
 少しだけ動かせるようになった指先で慶のコートを掴み、私はようやく、やっと、それを言えた。

「こわい」

 息が止まるぐらい、その腕の力が強く私を抱きしめた。それでもよかった。痛いぐらい、なんてことなかった。

「ひとりにしないで」
「ああ」

 私は、再びこの手があたたかい手を握り返せることを知ってしまったから。望めば私の名前を呼ばれることを思い出してしまったから。

「どこにも、いかないで」
「行かない。ずっと一緒にいる」

 この手から失われたものが戻ってきたことを、それがいつでも失われるかもしれないことを、私はちゃんと、ようやく認められた。



***



 あの後私は気を失い、その間に事態は落ち着き、結果的に損害は最小限に抑えられたと聞いた。
 捕獲された兵士は一名、死傷者三名、トリオン兵の大半は破壊し、そして唯一見つけた敵対国の人間は貧乏くじだとわめきながら本人が知る事情を白状したらしい。
 敵対国はこちらとも争いをしていたけれど内部でも政情が不安定だったという。政務を取り仕切る一族内で当主急逝による派閥争いが激化し、本来の跡継ぎである少年が国を追われることになった。その追っ手をかく乱させるために少年の部下たちはあらゆる手段を用い、混乱を巻き起こした。意味があることないこと。本当の目的を悟らせないよう、彼らは必死だった。
 その行動の中の一つが敵対国へのトリオン兵の大量投入だった。国内でも派閥ごとに争いが起こり、敵国にまで放たれたトリオン兵を回収する人員を回す余裕もなかったのだろう。それが彼らの一番の目的だった。彼らの主、少年を自国から逃すためのことだった。
 そして彼らはこの国で生き残るために傭兵を自分たちに鞍替えさせようと、何人か単独行動の兵士を狙って捕獲を試みたというのだ。

 見舞いに訪れたリンから聞いたその事情に私はただ頷くだけだった。どの国にもそれぞれ事情がある。その少年がこれからどうなるのか、どうするのかは私の知ったことではなかった。
 意識が戻った私がすることは私に関係することだ。
 ちらりと隣のベッドで眠っている慶を見る。私が目を覚ますまでベッドの傍からほぼ片時も離れず、ろくな睡眠もとっていなかったという。目を覚ました私を確認するまでは、と約束していたらしい。確認した途端リンに無理矢理眠らされたのを見て寝起き早々ギョッとして目が覚めた。そして目覚ましついでにと気絶した後の経緯を聞いていた。

「丸二日、あいつほとんど寝てないからもしかしたらしばらく寝てるかもな」
「二日も」

 意地でもここから離れなかったであろう慶は簡単に想像ができた。通りですごい顔つきだった。
 隣のベッドで眠る慶は未だに眉間にしわが寄ったまま、苦し気に眠っている。

「……リン、私と慶は準備を終えたら帰ろうと思う」
「ああ。慶も同じことを言ってた」

 こわいことが起きた三門へ、私は前のまま戻れる気がしなかった。あの街で普通に日々を過ごせるようになるのか、自信がなかった。
 でも、私はどこにいても今回のようにこわいことを思い出すだろう。まったく思い出さない日がくるのかはまだわからない。ただ、いつの日であっても私が望むことはもう決まっていた。
 リンはそれもわかっていたかのように穏やかにほほ笑んでいた。天使みたいに綺麗な人は、人をからうことが好きで、人のことが好きで、とても人間らしく優しい人だった。

「慶との幸せを祈ってる。いつかお前たちの街に訪れることがあれば、会いに行っていいか?」
「近界民に対して警戒心のある場所だから、バレないようにね」
「そんなヘマしないさ」

 念のためにと医者に診てもらい、もうしばらく大人しくしているように言われた。リンに持ってきてもらった滋養食を食べ、私はうとうととしてきた感覚に身を任せるまま、目を閉じた。



 物音がして、その気配に目を開ければちょうど私の左手を誰かが、慶が握りしめるところだった。

「けい?」

 半分寝ぼけ眼でその人がベッドの脇で膝をついて私の手を額に当てているのを眺めていた。
 呼ばれた慶は両手で私の手を握ったまま、額からそっと離す。そうしてこちらを見る人は、まるで今にも泣きそうな、大きな子どもみたいだった。と呼ぶ声はひどく弱弱しく、良かったと落ちた声は不安に満ちていた。

「どうしたの」

 私の問いかけに慶はすぐに答えることはない。私もようやく夢から覚めてきた頭で慶のことを待つ。

「もっと強くなりたかった」

 今は真夜中なんだろう。部屋は暗く、明かりもついていない。カーテンを閉めていなかった窓の向こうから微かに星明りが差し込んでいるのか、慶の姿はわかるけれど強くなりたかったと言った途端にうつ向いてしまったから表情は見えない。
 慶は、私の知っている戦う人たちの中でもかなり強い。この砦の中でも慶とまともに戦える人はそう多くはないはずだ。
 なのに、慶は泣きそうな声で私に強くなりたかったと告げる。

「慶は、強いよ」
のこと守れなかった」

 強く握りしめられる左手から、慶が抱く後悔が伝わってくるようだった。
 確かにあの日、私は、慶は、お互いをなくしてしまった。それは、私にも慶にもどうしようもないことだった。
 私はあれからひとりだった。と呼ばれることのない、ただ自分を脅かすものを近づけないように引き金を引き続けるだけの機械みたいな存在だった。

「でも、慶は私を見つけてくれた」

 もう、どうなってもいいと思っていたのに、それでも私があの日まで生きていたのはきっと、忘れていても慶がいたからだ。慶が、私をひとりじゃないのだと、教えてくれていたからだ。
 心の中に私を信じてくれる誰かがいる幸福を、私は知っていた。

「慶、私と付き合う時にした約束、覚えてる?」

 私は慶にちゃんと勉強をすること、ボーダーの任務も頑張ること、その二つをちゃんとすることを付き合う時に約束した。
 その代わり、というわけではなかったけれど慶から私にも約束ごとを告げられた。
 うつ向いて、顔を上げないままだった慶がゆっくりと、その顔を上げた。

「俺には弱音を隠さないで、頼る」
「うん」

 年下だからなんて理由は絶対に聞かないからと、あの時譲らなかった慶は、私のことをよくわかっていたと思う。
 空いている右手でその頭に手を伸ばせば近づいてくれる。ゆっくりとそのくせっ毛を優しく撫でた。

「慶はちゃんと、私のこと助けてくれた」

 三門に戻るまでのこの道のりは決して短くはなかった。
 ただ帰るだけでも随分と長い道のりのこの日々を、慶は諦めず、私の元までたどり着いてくれた。諦めかけていた私のところまで。忘れていた私のところまで、現れてくれた。
 そうして今回も、私のことを助けてくれた。私をひとりにしないでいてくれた。慶はずっと、私がひとりぼっちにならないようにしてくれていた。
 今にも泣きそうなこの人のことを、私は誰よりも必要としていた。欠けて、変わった私は、欠けたものの中にあった慶を、今この手に掴めている。

「慶は私の、ヒーローなの」
「どこ、が」

 迷い子のような顔をしていても、縋るように私の両手を握りしめていても、その手が私を手放さないでいてくれる。それを私が知っているだけで、私は私でいられる。

「慶が私の名前を呼んで、駆けつけてくれる。それってすごいことなんだって、知ってた?」

 こわいことは変わらない。失うこわさも変わらない。
 それでもこの触れ合うあたたかさの幸福を拒むことなんて、私にはできなかった。
 奇跡みたいな今を、こわいからと見ない振りなんてできなかった。

「慶、私のことずっとそばで守って。私も慶を守るから」

 私にとって、慶にとって、それは容易い道のりじゃないのかもしれない。私はまたこわいのだと歩みを止めるのかもしれない。その手を手放したくないから手放したくなるのかもしれない。
 でも、それでも、それを私は慶と一緒に歩みたかった。それだけは、それだけが確かだった。

こそ、ヒーローみたいだな」

 泣きそうな顔で笑う私のヒーローは、縋るような手をそっと離し、その腕をゆっくりと広げてきたから、私もその背中を確かめるように腕を回した。


***



「慶、もう向こうには連絡してるんだよね」
「タイムラグはあるけど通信はできるからな」

 長い旅の終わりももう目の前に迫っていた。
 私と慶はあれから傭兵として軌道の条件が整うまで働き、その後の国では最低限の滞在をした。今は最後の稼働になるだろう遠征艇の準備をしていているところだ。
 二人の中で何が変わったわけじゃない。あの後も私たちは前までの旅と同じように過ごした。
 ただ、これからどうするかについては少しだけ話をして、結局のところ実際に三門に戻って過ごしてみないとわからないという話になった。

「帰っていろいろ心配事はあるんだけど、何より私、慶の親御さんになんて言えばいいの。何を言っても話が複雑になる気がする」
「結婚するからよろしく、でいいんじゃないのか?」

 話をすっ飛ばしすぎているのは慶だからだといえる。確かに異論はなかったけれど問題はそういうことではなかった。そもそも結婚という言葉としては今初めて耳にした。そういうことだったけれどそんなにあっさり言うのかと思って思わず見てしまった。
 私が望んで近界の土地にいたわけではなくても、私を捜しに慶は何年も旅に出たきりだった。もしかしたら帰ってこないかもしれない旅に出ていたのだ。親御さんは気が気じゃなかったに違いない。そしてやっと戻って来たかと思えば結婚だのなんだのどころかもし三門で暮らしにくければ再び近界に行くことすら選択肢に入れているのだから私はご両親になんて言えばいいのかわからない。

「また近界に出るかもしれないとか」
「俺元々遠征するの好きだったしどうせ近界行きっぱなしだったと思う」
「そういうことじゃないの。こういうのはきちんとしないと。私年上なんだし余計に。慶といくつ違うと思って……考えるのやめよう」
「きちんと? 結婚式ってことか? ウェディングドレス着てる綺麗だと思う」

 だから、と言いかけて無駄だと思って諦めた。
 明日のことなんて何もわからないままだったけれどそんなのは私に限らず慶も、他の人も同じだろう。私たちは思っているよりも不確かな未来を抱えながら歩いている。
 呆れも混じる私の様子に気が付いたのかこちらの顔を窺うように覗き込んできた。

「なに」
「結婚とか、初めて聞いたよ」
「するだろ?」
「……そういうのプロポーズとか」
「結婚しよう、よりももっとすごいプロポーズ聞いてるからいまさらだと思うけど、いるか?」

 言われてみれば慶の言う通り、私も随分と恥ずかしいことをさんざん言っていたけれど、でも、それとこれとは話が別だと思う。
 何も出発間際の今じゃなくても、と思うけれどこれを逃すとそんな時間もなくなるのも想像できて、頷いた。
 そうすると慶は私と向かい合わせに立ち、私の両手をぎゅっと包み込む。それからいつものように真っ直ぐに私の瞳を射抜くように見つめた。
 私は、この、私を見つけようとする真っ直ぐに見つめてくる瞳が好きだった。それに応えられるよう、慶の中に映る私を見つけるように見つめ返した。

「俺と結婚して、ずっと一緒にいてください」
「はい。喜んで」

 指輪とかそういうのは帰ったら、とさらりと言われてしまう。
 遠征艇の中でプロポーズなんて、随分と味気ないような気もするし、それでいいような気もした。花束をもって、指輪を用意して、準備万端で言われるのも憧れないわけではないけれど。
 でも、ここにいてくれるだけで、それをその身で示し続けてくれているだけで、本当は十分だった。



「帰ったら忍田さんと、蓮ちゃんと、本部の人たちもそうだし、他にもいろんな人にお礼を言わないとね。……結婚は、しばらく忙しくてそれどころじゃなさそう」
と二人きりでゆっくりするのもしばらくないと思うと溜まる」
「どれだけ協力してもらって帰ってこられたと思ってるの」
「わかってるし、別にその間俺から離れるつもりないからそこは安心して」

 あの砦での戦い以降、私は慶と離れるのが未だにこわい時がある。それは時が解決してくれることだったけれど慶は気づいたときには手を繋いだり、肩を寄せてくれたり、軽口を叩きながらそばにいてくれた。今もするりと握られた手があたたかくて、私はそっと息をつく。

「……落ち着いたらお墓参り、一緒に行ってね」
「結婚の挨拶しなきゃいけないからそりゃいくだろ」

 頷いて、私は座標が確定されるのを画面で確認する。
 この後のことはまだ何もわからない。何も決まってないけれど繋いだ手があたたかくて、二人で明日のことを話せる今、きっと大丈夫だろうと思えた。
 もうあとは座って操作を終えればこの長い旅は終わり、そして新しくまた旅が始まる。
 操作盤が苦手な慶の代わりにと手慣れた私はパネルに触れ、遠征艇を起動させる。最後のボタンを押せば後は船が私たちを連れて行ってくれる。

「慶、ありがとう。愛してる」

 席に座る前、何も言わせずその唇に微かに触れ、何かを言われる前にするりと席に着いた。
 と叫ばれた瞬間、私は悪戯が成功した子どもみたいに笑いながら遠征艇の浮遊感に身を任せた。




(ロマンティックヒーロー 07)