懐かしい夢を見た。
夢だってわかったのはそこがの部屋で、隣でが気持ち良さそうに寝てたからだ。
シングルベッドは二人で眠るには少しばかり狭くて、寒いのは嫌だからと寒い目に遭いにくい壁際に寝るのはいつもだった。俺はベッドから落ちこそしなくても冬は毛布一枚はに取られてた。すぐに寒がるからそれぐらいでちょうどよかったけど。
「慶?」
「悪い起こした」
はまだ半分寝てるらしい。何か言いながら俺の方にすり寄ってきた。多分俺を人間カイロだと思ってる。夏場だと一瞬くっついて離れるんだから都合が良すぎる。
でも二度寝する時のは夢見心地でいつもよりも声が幼い。年上だという意識を無意識から手放したその姿が好きだったし多少雑な扱いをされても甘んじた。
「ねえ」
「ん?」
人間は寝起きが無防備だなと目を閉じたままのを見ながらふと思う。
ここが見知らぬ土地なら命取りだけどこれは夢で、ここはの部屋で、抱きしめたの体はあたたかくてやわらかかったから何でも良かった。ここがにとって不安も危険もないなら、それでいい。
頭を胸にくっつけて、くぐもった声では笑う。
「こうしてたら寂しくないね」
その瞬間俺はをもっと力いっぱい抱きしめた。痛いよと腕の中でくすくすと笑われる。
昔、そんなことをに言われた気がする。気がするだけかもしれない。その頃はそれがどういう意味で言われたのかわからなかったんだと思う。
「俺にわかるように言えよ」
「何のこと?」
「なんでもない」
寂しくないとが笑うならそれでいい。
もう少しだけとその体温を感じようとそっと目を閉じた。
***
「んー」
まだ眠たい眼をなんとか持ち上げて、気だるい体を持ち上げた。
隣で動いても目を覚ます気配すら見せないを見て、これは今日一日は無理そうだな、と判断する。
「……5? 6だっけ?」
明け方近くまで続いた行為は最後、体は洗わないと嫌だと汗ばんだ体に不服を唱えたの言う通りに風呂に行ったのがまずかった。
もう既に限界でろくに歩けそうもないを抱えて風呂場に行って、当然洗うのは俺の役目だった。そうすると先ほどまで余すことなく味わっていたその体をもう一度、明るい場所で見ることになるのだ。洗うはずが脱線してしまったのは致し方ないだろう。
お風呂上がりのは完全にくたりと気を失う寸前で、ごめんと囁けばばか、と一言残してそのまま今も目を覚まさない。まあ仕方ない。体力が残っている方がフォローするのはどういう時でも一緒だ。
もう一度寝るつもりだったけれど、とりあえずと適当に上下を着込んで部屋を出た。
調理場へと向かえば朝も早かったけれど思った通りの人物がそこにいた。
「女将、おはよう」
「おはよう。こんな早くに珍しいね。どうしたんだい」
「正規の金払うから今日あいつと俺、部屋にいていいか? 飯は俺が取りに行くからさ」
言いたいことだけ言えば女将はぽかんと口を開けて、それからじいっと俺の顔を見ていた。なんでこんなに驚かれてるのかはわからなかったけど、その視線が俺の首筋に向かったところで首を傾げて、それから理解した。女将はおやまあ、と苦笑いだ。俺が自分じゃつけられないような位置に赤く跡が残ってるはずで、その犯人は一人しかいない。多分、つけた人物のことを思えば大胆なことをした、というところだろう。
「随分と夜更かしな仲直りだこと」
「忙しいなら悪ぃんだけど、多分出てこられないと思う」
もう一度目を丸くされる。止められなかった自覚はあったから一瞬目を逸らした。やれやれと口に出されたけど甘んじる。
「祭りも昨日までだったし宿の客も落ち着いたからいいさ。……朝食残しておいてあげるから後で取りにおいで。あんたはいいけどあの子にはあったかいスープとかがいいだろうさ」
「助かる」
俺はこの女将とは普段ほとんど話してない。以前世話になった時も必要最低限しか会話はしなかった。
だけど相手が半分呆れ顔だけれどその中に安堵もあるのがわかった。はこの人を仕事ができる、気持ちの良い性格の人だと言ってたし、前に滞在した時も今も表裏のない感じの良さがあると思う。
「どうも朝食を残しても昼になりそうだね」
「否定できねえ」
「おやまあ」
困ったもんだねと笑う女将は他の面々にうるさいこと言われる前に部屋に戻ってしまいなと、俺用にとスープをくれた。美味しそうな匂いにその場で一気に飲み干した。腹減ってたんだなと気が付く。
ついでに夜中に空になった水差しの代わりをもらい受け、余計なことを言わずに気を回してくれる女将に最後にもう一度頭を下げた。
「あんたじゃなくていつもがんばって働くあの子のためだからね」
「ああ」
「男どもには適当に言っておくから、今日はなるべく一緒にいてやんな」
ひらひらと手を振りながら部屋に戻りながら後ろで一言聞こえたような気がした。
「夕飯に出てこられたらいいけど」
その答えはまだ、誰も知らない。
***
「……慶?」
目が覚めたのは随分と日が高くなってからだった。
ベッドの中で身じろぎすれば後ろから腕が伸びてきた。そのままゆるく抱きしめられ、ごそごそと体の向きを反対側に向き直せばその間に慶が右手を腕枕にして、左手でもう一度私を軽く抱き寄せてきた。
そのまま軽くキスをされ、瞬きしていれば慶が随分とやわらかい顔で笑いかけてきた。上機嫌だ。
「はよ」
「おはよう、今何時かわかる?」
「昼前」
上機嫌だけれども大雑把な答えに苦笑いだ。どちらにしろ盛大に寝坊した。わかってはいたけれど。
そうして脳裏にまず出てきたのは朝の仕込みの手伝いだった。
「仕事」
「休むって言った。今日は部屋いていいって」
「……他には何か言ってた?」
「別に。なんか食べるなら下から持ってくる」
端的過ぎる慶の返事につまり話は通っているしおそらくはだいたい察しもつけられている。だいたいどころか完全にいろんなことがバレている。慶の首筋にうっ血を見つけて、すぐ見えるそれを女将さんが気づかない訳もない。そしてそれを誰がつけたかもわかりきっているわけで。
そうすると急に恥ずかしくなって目の前の胸におでこをこつんとくっつけた。
「?」
「なんでもない」
思わずくっついてしまったけれど、そうしてみれば私ではない人の、私よりも高い慶の体温にほっと息をつく。触れて、感じられる体温の違いに無性に泣きたくなる。
目を閉じてもじんわりと滲んでくるものを瞼の裏に感じてぐっと堪える。
しばらくそうして好きなだけ慶の胸を借りていたら段々と目も覚めてきた。そうして空腹にも気がついたし何より喉がカラカラだった。
「お腹空いたけど……とりあえず飲み物ある?」
「水がある」
私の頭の下からゆっくりと腕を抜いて起き上がった慶はベッド脇に置いてあったグラスに水を入れて渡してくれた。上半身を起こして、グラスを受け取る。
最後の方には水がなくなっていたような気がするからきっともらってきてくれたんだろう。付き合いだしてしばらく、そういうことを覚えてくれるまでお願いしていてよかったなと、今になってしみじみと思う。慶を相手にしてすぐに元気いっぱい動けるわけがないのだと、耳にタコができるぐらい言った記憶がある。
「ありがとう」
「体、平気か?」
「平気じゃない。だるい」
昼近くまで寝ていたとはいえ、そもそも寝たのが明け方だ。睡眠時間は多くも少なくもないところだろう。
即答すれば悪いって、と頭を撫でられる。だるくないわけがなかったし、私もそういうことははっきり言うように約束していた。
もらった水を飲めば思っていた以上に喉が渇いていたらしく、あっという間にグラスを空にしてしまう。
「おかわり」
「おう」
慶はわかっていたと言わんばかりに用意してくれていて、二杯目を入れてくれた。それは少しずつ飲んでいく。
祭りの後の街は窓の向こうで日常を取り戻しつつあるんだろうか。そんなことぼんやり思いながら晴れた外を見て、ベッドに腰かけている慶を見る。
昨日までと確かに違うやわらかい雰囲気に、昨日の炎は本当に、いろんなものを燃やしていったのだと思う。全てが変わったわけではなく、昨日の続きに今日があるけれど、昨日と今日は確実に違う日だった。少なくとも、私も慶も手を伸ばすことを躊躇わないで、その手を握り返されると思える。
「慶」
「ん?」
ベッドに腰かけたままの慶が私を見て首を傾げる。
少しだけ、止まってしまった時間から一歩踏み出せただろうか。
私は、さらわれた日々からようやく、抜け出せるんだろうか。
「前に、私はこれからどうしたいかって、聞いたでしょう?」
「……前にって、あんとき寝てたんじゃ」
「半分寝てたけど、その言葉、ずっと覚えてた」
ずっと、私はどうしたいのかと聞いてきた慶の言葉は私の中で残っていて、時折自分で自分に問いかけていた。
私はどうしたいのか。
少しずつ三門に近づく中、ようやく出た答えの一つは目の前の慶のこと、何があっても諦められないということだ。慶が望んでも望まなくなっても、私はこの手を自分から離せないのだと、自分がどうであってもそれだけは確かなことだと、ようやく認められた。
「まだ、全部答えが出てないんだけどね」
「ああ」
「それまで、あともう少し、隣で待っててくれる?」
慶の真っ直ぐで力強い瞳がこちらを射抜くように見つめてくる。
慶の隣なら、もう一度、私は私になれる気がした。
腰掛けていた体をベッドに乗り上げ、慶は私に近づいて両頬を両手で挟んできた。むぎゅ、と音がつきそうなくらい頬がくっついているのがわかる。あっという間に間抜け面完成だ。
「隣で待ってて、だろ」
「う」
「もっかい」
ついでにと間抜け面にキスをされてから、頬の圧が消える。
ほら言えるだろ、と言わんばかりに不敵に笑う相手に私も自分に出来る精一杯の不敵な笑みで返してやる。
「隣で待ってて」
「喜んで」
そしたら今度は息切れするぐらいまで深く口内に踏み入られ、結局思い切り背中を叩くまで続けられた。
「くるしい」
「、今日、一日休みなわけだけど」
「二度寝する。その前にご飯食べる。慶もお昼は食べてないでしょう?」
「……」
「気だるい恋人のためにご飯を取りに行ってくれるかっこいい恋人はいないかな」
「目の前にいるって。わかった。わかったって。睨むなよ」
そうして取りに行ってくれたお昼ごはんは私はスープとパンと、少し慶のご飯を分けてもらったぐらいで、朝食がスープだったという慶はがっつり食べていたので久々に年齢差をしみじみ感じてしまったのだった。
***
「おお! お前らやっとくっついたんか!」
「じゃあもう嫁さんに話しかけていいよな?」
「おめでとさん」
お昼は結局ベッドの上からほとんど出られず、日も暮れた後はさすがにお腹が空いたと少し遅い時間だったけれど慶と二人で宿の下の食堂に出た。そうするといきなりこの大歓迎だ。ぽかんとした顔で食堂の中を見てしまうのは仕方ないだろう。
「な、なに?!」
「話しかけんなあんたら酒癖悪いんだ」
慶がぐんと私を引っ張って背中に隠しても食堂の面々も宿の人たちも陽気に騒ぎ立てるだけだ。口笛を吹いてなぜだか私たちを見て笑っている。言葉は違えど祝福ムードなのはわかった。
「慶、どうなってるの」
「昼間は普通だった」
こっそり聞いてもその動作すら話題のネタだ。こういう時、私は何をしても無駄だと経験で知っている。慶もそうなのか、それとも気にしていないのか空いているテーブルを見つけてそこに向かう。厨房に近くて人の出入りの激しい場所だけれど騒いでいたお客さんも遠いし普段働いていた厨房に近い方が落ち着いた。
こちらでいうビールを頼む慶と同じものを頼む。どうにもこれは素面じゃ居辛い雰囲気だ。
慶とどう接しようかと迷って悩んでいる間、周りとの矢面に立ってくれていた。この宿でだって宿の人以外、特に女将さんと女性の従業員と話せば済むようにしてくれていた。
だから宿の人はまだ話したことがあっても宿の客や食堂の常連客は誰が誰だかさっぱりだ。食事だってまかないだから奥で食べていたから本当に見知らぬ人ばかり。わかるのは皿洗いをしている時に聞こえるいつも大きな声のお客ぐらいだ。声とビジュアルが初めて一致する。
慶は酔っ払い処理班でよく表に呼ばれて、最終的に一杯おごられて飲んでいたので随分親し気だ。ケイ、とにかっと笑って通りすがりに何度か背中を叩かれていた。
「女将さんがずーっとお前らのこと気にしてたんだ! ったく。めでてえけど見てるこっちはじれったいったらねえ」
「そんなこと言って賭けてたんだよこの馬鹿野郎ども」
「女将さん」
飲み物を二つ、ドンと勢いよく持ってきてくれたのはにこにこ笑顔の女将さんだった。賭け、という言葉に慶がおい、と立って絡みに行く。胴元どこだよと声が笑っているのであわよくば今日の夕飯を奢らせる気だなと思ったけど放っておく。慶の座っていた位置に女将さんがするりと代わりに座ったのだ。
「仲直りは上々みたいだね」
「えっと、あの、ありがとうございます」
何と言えばいいかわからずとりあえず頭を下げた。
改めて食堂の中を見ると内装は人心地のつく暖かい色のものが多く、中にいる人は明るい調子で活気がある。女将さん、とお客さんの呼び声は親しみのこもったものだし、この宿が町の人に愛されているのがわかる。
私も陽気な空気置かれたお酒を口にする
「で、式はここいらでやるのかい? しなくてもお祝いくらいは今日やろうじゃないか」
「へ」
「ん? あんたら夫婦になるんだろ?」
めおと。
思わず繰り返してその言葉の意味を理解して。どんどん頬が赤くなるのがよくわかる。
女将さんの方はそんな私を見て半分呆れたような、面白がるようなそんな顔をしたあとニヤニヤとこちらを見てきた。
「えっと、あの」
「あんだけ腕の立つ男はそういないし、何よりあんなに必死になってくれるんだ。大事にしな」
「は、はい」
否定することはほとんどない。大事にしたいのは本当だ。結婚式はここでしないとは思うけれど私は昨日そういう想像をしたのだからあながち間違っていない気もする。あの時はこんなに陽気な想像じゃなかった。突然身近な出来事のように結婚と言われて感情は追いつかない。
私が追いつかなくても結局周りはお祝いムードだ。私にとっての仲直りのお祝いが結婚のお祝いになってるだけだ。騒いで祝って喜んでくれる人には大した違いはないだろう。訂正するほど子どもでも野暮でもない。
「兄さん、人が変わったみたいだ。あんたも、二人揃って炎に祝福されたんだね」
「慶は、本来ああいう感じでしたから」
「本当、また会えて良かったね」
女将さんはごく当たり前のように私と慶のことを心配して、見守ってくれて、喜んでくれた。それが案外難しいことだから私は思わず表情が緩んでいくのを感じる。
あまり町に寄らないようにしていた慶がここで国の人と関わるように過ごした理由がわかる気がした。
結局食堂の中にいる殆どに慶は絡まれてお酒を注がれ席に戻ってきた。
「宿の人もお客さんも優しいね。もう少し話してみたらよかった」
「ただの酔っ払いどもだから」
そう言うけれど慶の機嫌の良さはわかりやすい。その姿にホッとした。
宿のまかない以外のメニューを食べることはそうないので慶にどんな食べ物かを聞いてみたり二人とも聞いたことがないものは頼んでシェアした。
途中グループ客ごとに、めでたいことがある日に食べるというパンが振る舞われた。当たりのパンには幸福のメダルが入っているらしく、一番に声をかけてくれた男性客のテーブルに当たっていた。
「幸せのおすそ分けかー。うちの母ちゃんもあんな頃があったな!」
「お前それバレたら怒られるぞ?」
「どんな頃かなんて言ってねえだろう」
楽しげに笑うとビール系のお酒とパンは組み合わせとしてはパンが浮いていたけれどわかっていたのかアヒージョのような揚げ物が出てきて彼らのパンはあっという間に皿から消えていた。
私と慶のところにやってきたパンは酔いが回ってきた慶よりも私がパクパク食べている。
「ここ、ご飯も美味しいし人も良いし戦争もしてないし良いところだね」
「居住地以外が環境厳しくて食べ物採るのに精一杯なとこはあるけどな」
環境には恵まれていて資源はあるけれど人がそれを得るには猛獣を倒したり踏み入ることの難しい自然の奥へと向かう必要がある。調達できる高い能力が必要になる。だからここの町の人の多くはたくましいし腕っぷしもある。
その腕を活かして他国に傭兵稼業に出て行く人も多いという。戦争はないけれど戦争と無縁ではない。近界にはそういう国が多い。
「ずいぶんと遠くの国にきてるんだね」
「まあ、本当はどこかの国で待ってれば三門の軌道に近付いたとは思う」
ぽつりと落ちた言葉は静かだった。
一口酒を飲み、私と目を合わさない慶はまだ残っている幸福のパンを見ている。
「最初はとにかく追われないところまで離れたかった。途中からはが三門にすぐ帰りたいのかもわかんなかったのもある」
「あとは、何があるの」
どちらも私の都合だ。慶には慶の理由があってこの旅路を選んでる。
千切ってスープにつけて食べるパンはやわらかくてスープの塩気と絡んで美味しい。何気なく、緊張しすぎないように振る舞う。
「ここまで渡り歩いた道を捜した道じゃなくてと二人で帰った道にしたかった」
だからごめんと、そう言われてようやく思い出した。
「慶はこっちの世界、好きだったね」
付き合っていた頃に言っていた。近界にもきっと強い人がいて、いるなら戦ってみたいと。あの頃は遠征計画がボーダーから発表される間際だったと思う。天災のようなそれに私は近づきたくなかったけれど慶はそこに復讐みたいな恨みつらみはなく、単に見知らぬ世界に可能性を見出していた。
何より行けるわけがないだろうと思って聞き流していたけれどその後連絡が取れない間に遠征に行っていることがわかった時は大喧嘩したことも思い出す。あれは一番もめた。
慶は行き道に何を見たんだろうか。何を感じたんだろうか。私と付き合っていた頃に何度か短期間訪った近界ではなく、三門の誰も歩んだことのない長く続いたその道に、何を見て、感じたんだろう。
「……近界を、嫌なだけの場所にしたくなかった」
近界という世界が陸続きの世界だったなら私は慶の言葉を受け入れ難かったと思う。宇宙のように星と星を渡るように近界は存在して、行き来がある。
近界と一言で言ってもそれは私を攫った国を指していたし、この町のことも指していた。だから、あの国を許しはできなくてもこの町を良い人たちのいる場所だと思うことはできた。
「を攫った奴らは今でも許せないし許す気もない」
「そうだね」
私はもしまたあの人たちに会えば誰も彼も、顔を覚えている、服装を覚えている人間すべてを確実に撃つ。動かなくなるのを確認するまでもなく命中させてみせるだろう。その頭蓋を、心臓を、持てるトリオンで撃てる全ての弾丸で撃ち抜く。
それをしないのは慶がいるからだ。私が撃とうとすれば慶は進んで敵の前に進み、斬り伏せ、私の射線に敵を誘い込む。慶にはそれができるし、私もそれに反応できるだけの武器が手元にあった。
離れれば離れるほどようやく思い出す怒りは、暗く淀んで、しっかりしないとすぐにその淀みに簡単に落ちてしまいそうだ。簡単なそちらに落ちなかったのは、慶にそれを見られたくないし知られたくなかったからだ。ただそれだけだった。
私の顔は険しくなっていたんだろうか。慶は顔を顰める。
「でも、もうあんなところ、に思い出させたくない」
「私も慶がそんな顔するなら美味しいパンでも食べてよって思う」
まだ残っているパンを大きめに千切って慶の目の前に突きつける。口を開けば押し込んだ。
「んぐ」
「大きすぎたか。慶は戦い以外で頭使うの下手くそなんだから悩み過ぎたら焼き加減間違った餅みたいになるよ」
「なんだよそれ」
もう一つちぎってさらに押し込んだ。まだ口の中はもぐもぐしてたけどこれ以上口を開くなという意味でもう一つパンをちぎろうとしたら手でノーを示された。理解してくれたらしい。
「今日はお祝いなんだから美味しくパン食べようよ」
「あれは勘違いだろ」
「ご厚意はありがたく受け取るものだよ」
そうやって軽口を挟んでいけば不穏な空気は流れていく。私も慶もその場しのぎとわかっているけれど女将さんが私たちを見てホッとした様子だったから私は知らない振りをしてもう一口慶にパンを食べさせることにした。
(ロマンティックヒーロー 04)