慶と付き合い始めてすぐの頃、私は慶に触れられるのが怖かった。
慶が怖いというわけではない。慶のことを好きだと自覚していたから、だから慶が触れるその指先の感触を、抱きしめ返した背中のたくましさを、肌が触れ合う度に感じる体温を覚えてしまうのが怖かった。
「健全な男子にひでー仕打ちなんだけど」
「自覚はあるの」
週末、金曜日の夜にやって来た慶は文句を言うけれど私の背もたれになってくれていたし、回した腕は時々私の太ももを触れるように撫でるだけだ。私が落ち着くまで待ってくれている。ベッドの上で壁際に寄りかかり、何をするでもなく二人で会話をする。
慶が慎重に私の様子を窺っているのがわかって私は心の中で謝る。心の中でなのはもう謝り倒して、これ以上謝るなと言われてしまっていたからだ。
二週間前、似たような状況になった時慶は半ば強引に事を進めようとし、私は落ち着いてもらおうとその胸板を押し返した。ただそれだけだったはずなのになぜだか目から涙が流れていて、結果慶は行為はやめたけど慌てていた。私も慌てて、でも泣き止むことができないまま、慶はずっとおろおろしながら泣き止ませようとしていた。
その時私はなんて言えばいいのかわからなかった。慶のことが嫌なわけじゃないのだと、それだけはわかってほしくてずっと必死だった。
「据え膳なんとかだろ」
「嫌なわけじゃないの」
「うん、それはわかる」
別に初めてなわけでもない。慶が泊まるのだってもう何度目かになる。
包むように抱きしめて、私の肩口に顔を埋める慶に安心している。離れたくないと思う。それでも、無性にそう思うことが怖い。それを受け入れようと思って、私は慶と付き合おうと決めたのに。
いつまでもこのままじゃよくないと、私は無理にでも明るい声が出るように口を開く。
「慶、体温高いよね」
「そうかな? が冷たいんじゃね? いっつも俺より体温低い」
私の言葉に乗るように慶の手が私の手の上にぽすんと置かれる。私の手は見えなくなり、指先が冷たいことを自覚する。慶の手は私よりもずいぶんとあたたかくて私にはちょうどよかった。
「マジで冷たいじゃん」
「思ったより冷たくてびっくりしてる」
「じゃああったかくなるまでこのままな」
預けていた頭を傾けて、左耳を慶の胸の方に近づける。そうすると心臓の鼓動が聞こえてくる。私の鼓動まではっきり聞こえてくるような気持ちになって、それに耳を澄ませていると先ほどよりも気持ちは落ち着いた。
体が冷えてるのもきっとよくない。慶に抱きしめられて、待ってもらって、私はようやく自分の気持ちを理解できた。
「他人の体温って、安心するんだね」
「なにそれ」
「私、寂しかったんだなあって、自覚してるとこ」
「??」
慶は私の頭の上で大量の疑問符を浮かべていたみたいだった。ドクンと鳴る音に耳を傾けて目を閉じていた私はそれを見ていなかったけれど上からんん、と疑問の声が漏れるので簡単に困っている顔が想像できた。
寂しいと口にすれば私の胸の中で落ち着かずに騒いでいた不安な気持ちは静かになっていく。私はきっと、ずっと寂しかった。それを慶は気づかせてくれた。本人はそうだと気づいていないけれど。それでいい。
寂しかったから、もう失いたくないから怖い。怖いけど、触れなければ失わないわけじゃない。私はもう慶に触れたし、自分から離れると寂しい。それは、嫌だ。どちらもどうしようもない私の中にあるものだ。あるのがわかれば、あってもいいと思えば先ほどよりは怖くない。寂しいなら、怖いなら、私は慶を大事にすればいい。
「我慢させてごめんねってこと」
ゆっくり顔を上へ向けて少しだけ背伸びをする。
私の雰囲気が変わったことを敏感に察知した相手は逃すまいと近づいてきた私の頭を優しく、でも逃げ場のないように閉じ込める。ゼロ距離になる直前、獰猛な獣のように光る瞳を捉え、私はその瞳を受け入れるように目を閉じた。
***
宿に戻った後、お風呂に入り部屋に戻れば先に上がった慶がベッドに腰かけていた。
「慶、私髪を」
「かわかしてから。知ってる。風邪ひくし」
ほら、と自分の隣を手で叩き、私はそれに従ってベッドに腰かけた。少しだけ斜めを向いて、背中を慶に向ける。そうすれば肩にかけていたタオルを慶が頭にふわりと載せ、ぽんぽんと水気を取っていく。この間切ってもらった髪の毛は乾くのも随分と早くなっていて、タオルで丁寧に水分を拭き取ればあっという間に表面は乾いていた。
タオルが頭の上から外される。終わったのかと思えば首筋にそろりと近づいてきた気配に体が固まる。少し乾いた唇が首の横側に触れた。そうかと思えば寝間着の襟を触れられた側に引っ張られ、露わになった肩の方へと唇は動いていく。
「慶」
「ん」
「ねえ」
「何、俺もう待てない」
後ろ向きは嫌だったのか、脇の下から手を入れて、ぐっと私の体を自分と向かい合うように体を半分ねじるようにして慶の方に向かされた。そのまま顔を両手で捕まえられればあっという間に口を塞がれた。
何か抗議をする前に口内に割って入る舌に自分以外の生温い体温を感じて思わず固まった。されるがままだったのが次第に求められるままにその動きに応じていたけれど我に返って強く慶の胸を押せば離れてくれた。
「慶、ちょっと」
「その向ききついよな」
「それはそうだけど」
促されるまま、ねじっていた体を慶の正面に向き合うようにベッドの上に座り直す。そうするうちにまた頬を包まれて、あっという間に顔が近づいてきた。
ただ、今度ばかりはそれをすぐ許すわけにはいかなかった。その唇がどれだけ蠱惑的でも、私はなけなしの理性で耐えた。
今じゃなきゃ、私はきっと言い逃してしまうそれを、どうしても言わなければならなかった。
「慶、聞きたいことがある」
「待てないって」
「お願い」
ベッドに向かい合い、身に纏うのはお互いに一応羽織るようにした寝間着だけだ。急くような瞳で慶は私の頬を包み込んでもうお互いの顔しか見えないぐらい近かった。
待てないと言いながらこうして名前を呼べば待ってくれる気の長さはどこで身につけたんだろうか。そう思ったけれど考えれば昔から慶は私のことをいつも待っていてくれた。もう一度会えた後もそうだった。慶の名前をうまく呼べなかった私を、慶はどこまでも待ってくれたのだ。だから本当ならもう待たせたくなかった。でも、どうしても確認したいことがあった。
「なに」
「寂しい時に寂しいって、口にした?」
私の寂しいと、慶の寂しいはきっと似ているけれど違うものだ。寂しいと言葉にすれば同じでも、感じたものは違う。私と慶は違う人間だから。だからこそ、寂しいのだ。
私の頬に触れた指が微かに動き、そして私は両手でゆっくりと慶の頬を包み込んだ。
慶は真顔で、私の目を真っ直ぐ射抜いた。目の前の大事な瞬間から逃げることをしないのは慶の強さだ。心を閉じた私とは違う。慶はきっと、前を見ていた。だからそれに応えられるよう、私も、その目から逃げることなく、見つめ返す。強さの奥に上手に隠したものを私は知っている。
寂しくないわけ、ないのだ。
年数のことだけじゃない。
あの頃、いつまでも離れたくないとベッドの中で私を引き留めて、別れ際に未練がましく手を離さない相手が寂しくないわけない。
ここまで何年かけて慶は辿り着いたのか、どれだけの不安を乗り越えてきたのか。
「慶、答えて」
「それを、言わせんのか」
慶とこうして再会する前、私は半ば自分なんてもうどうなってもいいと思っていたけれど、どうなっても良くなかった。ここにいなきゃいけなかった。慶に会わなきゃいけなかった。慶に会いたかった。私が誰よりも、会いたかった。伝えたかった。
唇を噛み締め、瞳を必死に見開き、瞳の奥を揺らがせて、そうして、私の目の前で必死に堪える人に、私はどうしても今目の前で、問わなければいけなかった。
本当は、聞かなくてもわかる。だってそれが慶だった。私の好きな人だった。
だからこそ、どうしても、言えなかったこの人に、今、問わなきゃいけなかった。言わなきゃいけなかった。
「言って、慶。おねがい」
落ちてきそうな涙を堪えて、ぎこちなくても笑ってみせる。
きっと不格好な笑顔だっただろうに、それを見た慶はその瞬間、見開いた瞳から一筋、涙を流した。
「寂しくないわけ、ないだろ」
そう言って、とめどなく流れる涙を拭うこともせず、ただ慶は大きく肩で息をした。
「寂しいに、決まってんだろ」
「うん」
「俺がどれだけ、に会いたかったと」
「うん」
「もう、会えないかも、って」
「うん」
「俺が、どれだけ、……どれだけ、捜したと、思ってんだよ」
胸を詰まらせて、必死で息をする慶が、唇を震わせて、それでも伝えてきてくれる言葉のどれだけを、私は受け止められているんだろうか。この人より私が泣くなんて、だめだと思っても、私も気づいたらぼろぼろと涙を流していた。
二人して、拭えもせず、ただお互いの頬を包みあう指先へ伝う冷たい涙の感覚に、ただ流れるままに任せていた。
「誰だって言われて、俺のことなんて知らないなんて、顔、されて」
「うん」
「忘れられても、でも生きてるなら、って思った」
「うん」
「でも、覚えてて」
「……うん」
「ずっと、ずっと、のこと、待ってた」
「うん。……うん。待っててくれて、ありがとう」
慶は本当に、ずっと、ずっと待っていてくれた。
記憶がないと半ば嘘のような形になってしまった私の居心地の悪さも、触れてはいけないような罪悪感も、遠くにいた間に変わっている慶への戸惑いも、それでいて遠くへ離れて欲しくない心細さも、すべて含めて受け入れて、ずっと一緒に旅をしてくれた。ずっとずっと、私のことを待っていてくれた。
慶は、今まで私が出会った誰よりも優しくて、誰よりも強かった。
そして誰よりも、ひとりぼっちにさせたくない人だった。
「は、自分が欠けたっていうけど、はのままだと思う」
真っ直ぐ、私から目を逸らさないのにその瞳の奥がまだ微かに、ほんの微かに不安に揺れている。
慶の頬に寄せた手を片方、慶の頭に寄せて、ゆっくりとその頭を撫ぜた。
苦しそうに、何かがこみ上げるように、慶の目が細くなる。唇を噛みしめる。涙は、止まることなく静かに流れている。
慶は強い。きっと、ひとりで生きていける。誰だって、そう思うだろう。
きっと、慶はひとりでだって生きていける。誰もが思っている通り。それができるだけ、慶は強い人だ。
ただ、私が慶をひとりにしたくなかった。私が、慶をひとりぼっちにさせたくなかった。ひとりで生きていける強い人を、ひとりでいさせたくなかった。
「それに欠けたっていうならそれはだけじゃなくて」
「……なくて?」
「欠けたっていうなら、俺は、ずっとが欠けたまま、生きてた」
その瞬間、思わず体が動いて、そっと、その唇に触れた。
触れるだけのそれは流れた涙の味がして、しょっぱかった。
「慶」
何を言えばいいのか、何を伝えたいのか、私はわからなくて、もどかしくて。そのもどかしさをどうしようもなく、そうしてそのまま慶を抱きしめた。
何を言えるでもない私の慶への気持ちが、言葉にならない衝動が、触れている体の部分を通って慶に伝わればいいのに。そう願いながら、私の力いっぱいでは揺れもしないその体を抱きしめた。
「慶」
名前を呼べばすべてが伝わればいいのに。私の思いも何もかも、すべて慶にあげてしまえたらいいのに。
欠けたという彼の一部に、私がなれたらいいのに。
慶の腕が苦しいぐらい私を抱きしめ返してきた。ぎゅうぎゅうと、痛いぐらいのそれを、私は喜んで受け止める。
私は慶のこれまでを想像はできてもわかることはできなくて、それでも目の前で慶が泣いて、やっと寂しいと口にしたのなら、私はどこまでも慶に寄り添いたかった。いつまでも近くにいたかった。
名前を呼ぶ度、慶にどれだけ救われたのか、どれだけ嬉しかったか、どれだけ慶が大事なのか、どれだけこの胸を焦がしているのか、全て伝わればいいのに。
「ずっと、そばにいる」
見失いたくないと掴まれた手の感覚を、私は忘れない。忘れたくない。
今も声を殺すように泣く人を、もう泣かせたくない。もしも泣くのなら、私のそばで泣いてほしい。
落ち着くまで、二人してばかみたいに抱きしめあって。
それからようやく口を開いたのは私が先だった。
「慶、顔、見せて」
「……やだ」
子どもみたいに拗ねたような口調にすぐ合点がいった。それから二人して、明日は目が赤く腫れてしまわないかなと心配して、少しだけ笑った。
「顔上げてくれないとキスもできない」
「それはもっとやだ」
「じゃあ顔上げてよ」
そうしてやっと顔を上げた慶は確かに泣き顔だったことがよくわかる顔で、そしてそれは私も似たようなものだっただろう。
顔を見合わせて、二人で思わず笑い合う。
「ひでー顔」
「かわいい恋人になんてこと言うの」
「そんなことよりキス、してくれないの」
泣き顔で、試すように笑う恋人に、私はおんなじように笑い返して、それから名前を呼ぶのと同じくらい、何かが伝わればいいのにの思いながら顔を近付けた。
(ロマンティックヒーロー 03)