私の記憶が取り戻されたことがわかっても、変わったことはさほど多くない。私は素知らぬ振りでケイと呼ぶのを止め、慶は私を呼ぶときにと呼ぶようになった。それぐらいだ。大きな変化ではない。傍から見れば何も変わらない。
 私たちは国々を渡り歩き、家路に着く。急ぎ足ではなく、かといって名残惜しそうでもなく、次の足の踏み場所を迷うように、一歩ずつ歩き出している。

「次の場所に向かうまで、今度は町で住み込みで働こうと思う」

 新しい国へたどり着くと慶は必ず一人で外の様子を見に行く。私には何があっても遠征艇のハッチは開けるなと言い、私はその間一人で慶が戻ってくるのを待っている。
 もし予定の時刻までに戻って来なければというのも必ず伝えられるけれど、今のところ慶がそれを破ったことはない。今回も時間通りに戻ってきた。私はその度に密かに胸を撫でおろしている。

「うん。心当たりがあるの?」
「……前に世話になった宿でちょうど人が要るんだと」
「わかった。それなら出る準備をしよう」

 そうなると船を置いていく必要がある。大丈夫かと聞けば以前も船を隠した場所なら大丈夫だろうと答えが返ってきた。この国で慶は町の中で滞在して、特に危険な国ではなかったという。
 慶の乗ってきた遠征艇は認証式で、慶の持っているトリガーを本人が起動しなければ開かない。小型船とは言え早々牽引できるような代物でもない。隠匿機能もあるので気づかれないような場所を選んでロックをかけて、そこからは見つからないように祈るのみだ。
 幸い、ここは戦争に力を入れている国ではないらしいので無理に強奪されることもないはずだ。不正にアクセスがあった時は慶のトリガーがその異変を知らせる仕組みになっている。本当に、ボーダーの開発した遠征艇は高機能だった。


 船を隠した場所は町から離れた丘の向こうにある森の中だ。森を出てしばらく歩くと草の生えていない固い土の道が現われる。のどかな道を歩くと牧草地が広がり、遠くに羊のような生き物が見えた。慶に聞いたけれどよくわからないと言われた。近くで見てみたかったけれどその生き物たちはこちらの道に近づいてくる様子もなく、私はただその様子を遠くから眺めるに留める。
 次第に民家が点在し始める。牧草地の家の人間だろう。それも通り過ぎれば遠くに見えていた町が近くに見えてくる。町までもうすぐというところになれば土の道も石畳へと変化していく。簡単な城壁はあっても頑強なものでもない。門番も旅の者だと言い、慶の顔を見ると覚えていたらしい。すぐに通してくれた。

「覚えられてたね」
「前は軌道の近い国からちょっかい出されてて、それの退治で外によく出てたからな」
「そっか」

 中に入ったその町はヨーロッパののどかな村と町が合わさったような規模の町だった。大きすぎず、狭すぎず。町の外れにあると一軒家が多く、中心部に行くと何階建てかの石造りの家が増えていく。途中、通りがかった町の真ん中には広場があった。人通りも多く、活気のあることがわかる。
 私がイメージしていた近界は戦争をしていて私たちの世界から人を攫うひどい国だった。現実はそういう国もあればなるべく争いごとのないようにしている国もあるのだという。ここはどちらかといえば後者の国だった。

 宿につけばその日から早々働くことになった。
 町では近くお祭りをするため、誰であっても人手は歓迎されたいた。宿は祭りを前に客が増えるので人手が欲しい。ただ祭りの準備にも人を出さなければいけないらしい。話は既についているらしく、私は宿へ、慶は祭りの手伝いに駆り出されることになった。
 毎日ずっと慶と一緒にいなくていいというのは正直言うとホッとした。それにただ黙々と言われたことをしているのは楽だった。
 慶と付き合っていた時間よりもこちらで過ごしてからの時間の方が長くなり、私も慶も変わり、どうしたらいいのかわからなくなっている。ただ、このまま帰るのは二人とも口にしなくても漠然と不安を感じていた。


 宿は人が泊まるし従業員も生活しているので常にすることに溢れている。
 私は主に厨房と洗濯の仕事を振られた。朝起きたら洗濯をしてそれを干し、終われば朝食分の皿洗いをする。終われば昼食の手伝いをしてまた皿洗いだ。その後は乾いた洗濯物を取り込んで夕食の手伝いをして皿洗いだ。
 祭り前で増えた客足で賑っている厨房と物干し場周りを行き来しては常に何か作業をしていた。忙しかったけれど客室周りは他の子にやらせると言われたときはホッとした。人と喋らないで済む作業の方が気が楽だった。
 慶とは寝る前に少し話をして、眠ってそしてまたそれぞれ働いた。眠る前の少しの間だけがここ数日の私と慶の二人だけの時間だった。

「あんたら喧嘩でもしてんのかい?」
「けんか、ですか」

 宿は宿泊者以外も入れる食堂も営業していて、その日は昼の営業が落ち着いて宿の女将さんと二人で厨房にいた。彼女は仕込みを、私は皿洗いを。
 ここの名物は彼女の作る料理だそうで、確かに彼女の作るまかないはどれも美味しかったし食事時の宿は繁盛していた。

「あの兄さん前に来た時は人を捜してるって言ってたから。で、久しぶりに顔を見せたらあんたがいるから捜してた相手と思うだろ? なのに二人して陰気臭い顔で仕事してりゃ何かあるって誰でも思うさ」
「それは、すみません……」

 女将さんの言うことはもっともで、捜し人が見つかった人間にしては慶は浮かれた様子も喜んだ様子もなく、口数だって少ない。もう何年も経っているからあの頃と今ではもちろん様子が違うこともあるとは思うけれど、それにしたって慶は様子がおかしかった。
 でもそれはきっと私が戸惑っているから、慶もそうなのだ。どうしたらいいかわからない私自身がよくわかっている。

「まあ喧嘩がこじれりゃ長くもなるけど、早いとこ仲直りしちまいなね」
「喧嘩というか」
「違うのかい?」

 きっとこのまま二人だけで旅を続けても三門にたどり着くまでずっとこのままだろう。だって私も慶も何を話したらいいのかわからない。
 今まであったことをお互い詳細に話したわけじゃない。けど話す内容に楽しいことは多くはないはずだ。少なくとも私には戦争のことだけで、大した話もできないどころか話したくないことの方が多かったから話がはずまない。今までの旅路だって必要最低限の会話だ。本当に私と慶は付き合ってたんだろうかと疑問に思うぐらい、ぎこちなかった。

「はぐれてる時間が長くて。昔どういう風に接していたのかわからなくなって、ぎこちないままなんです」

 数日、ここで働いていてわかったのはこの女将さんは明るく仕事ができて、そして周りから頼られ、大事なことに関して余計なおしゃべりはしないことだった。下働きの女の子からの評判も良い。
 どうしたらいいのか、もう私にはわからなくて、誰かに助けてほしかった。
 そんな私の考えを見抜いたのか、女将さんは困った顔をしていたけれど何を言おうか考えてくれていた。

「あたしは二人ともよく知らないけど」
「はい」
「あんた"前と同じように"って思ってるからぎこちないんだろう? じゃあ別に前と同じってこだわらなきゃいいんじゃないのかい?」

 隣で器用に食材を仕込んでいく人を見ながら瞬きを数度。言われたことをもう一度、落ち着いて考える。
 "前と同じように"しようとしている。

「でも、私を捜しに来た彼は"はぐれる前の私"を捜しに来ていて、今の私は別人みたいなものなんですよ」
「でも今のあんたを連れて帰ろうとしてるんだろ? あんたは"はぐれた時のあんた"じゃないのに」

 そう言われると黙るしかない。
 それが、ずっと不思議だった。きっと私はあの頃部屋で出迎えていたじゃなくなっている。それなのに慶は私と一緒に帰ろうと言い、私が未だにはっきりとできないままの三門へ帰る決断をずっと待ってくれている。ずっと聞きたくて仕方がないだろうに。

「それに、あの兄さんだってあんたの知ってる"はぐれる前の兄さん"じゃないんだろ」

 女将さんは実によく私たちを見ている。
 苦笑いを浮かべれば、苦笑いで返された。

「わかってるのに、難しいですね」
「人のことだ。それに、大事な相手のことならなおさらだろうさ」

 そのまま女将さんは仕込みに戻り、私も皿洗いに集中した。


***


「慶、離れて。今日は出かけるんじゃなかったの」
「ん~、もうちょい、いや、昼まで」

 ベッドで横向きになり背中を向けている私の後ろから慶はその腕を回して動けないようにしてくる。今のところ平和な拘束だけれどこの発言からすれば当然この手はそのうち動き出して昼どころか家で一日ということは容易に想像できた。
 それでもいい。私も休み、慶も休み。今日の予定は私が観たかった映画に行くついでに外でご飯でも食べようというだけで、絶対に行きたいというわけじゃない。公開初日だしちょうどいいかなと思っていたぐらいだった。

「慶」
「ええ、ダメ?」

 耳元で不満気に言われて心が揺らいでしまった時点で私の負けは確定していた。なんだかんだ私は慶に弱かった。
 結局回された腕に手を沿わせたら後ろから明らかに喜ぶ気配がしてするりと指を絡められ、首筋に顔を寄せられる。

「慶、ヒゲ痛い」
「かっこいいだろ」
「微妙」
「ひでえ」

 かっこいいと思って生やしているところが微妙なんだよとは言う前にごそごそと慶の方へ向きを変えてその髭面を見つめてみる。別に似合っていないわけじゃない。くっつくと感触が気になるだけだ。

「何、
「なんにも」

 慶の肩を撫で首筋を辿り、顔の輪郭に手を添える。目を細めてにやりと笑う慶は私を待っている。
 親指をするりと唇の上に添えなおして撫でればその口元でやさしく食まれる。
 これは昼過ぎ動けるのかな。
 ぼんやり思ったけれどまあ休みだからと、親指では足りないらしく近づいてくる顔を見ながら考えていることをすべて投げ出すことにした。目を閉じれば後はただ降りてくる唇の感覚を感じるだけだった。


***


「慶、お願いがあるんだけど」
「何」
「髪、切ってくれないかな」

 一瞬、慶の動きが止まった。けれど私はそれに構うことなく、ただ慶を見つめた。
 先日の話から気を回されたのか、女将さんにこちらに来て働きっぱなしだし、今日は忙しくならなければ二人とも好きに過ごしていいと言われた。朝食を食べ、そうしてどうしようか迷って、私は髪を切りたいと言い出した。
 ハサミは女将さんに借りていた。室内でも切れるように椅子の下に敷く布まで貸してもらって。どうせ布を洗うのは私なので髪を部屋にばらまきさえしなければなんでもいいのだ。
 長く腰まで伸びた髪の毛はいつからか戦場で切るのも止めてしまって伸びっぱなしになっていた。なんとなくずるずるとそのままにしていたけれど髪を切ろう、そう思った。切ったら何かが変わるわけでもないだろうけれど、切って少しでも何か軽くなりたかった。
 慶はじっと、私を見ていた。

「どのくらい切るんだよ」
「慶の好きなところまで。ああ、でも肩よりは短くしたいかな」

 願掛けで伸ばしていたわけはない。願掛けすら忘れてしまった日々だった。ただ、この髪の長さの分、私がずっとあそこにいたのだと、見る度に思い出すのなら視界に入る髪はなるべく少なくしたかった。
 ふうん、と私の手にあるハサミを受け取った慶は何度か動かして切れ味を見ていた。

「思い切りいってもいいんだよな?」
「細かいところは女将さんが後で揃えてくれるって約束したから、いいよ」
「俺、信用ねえな」
「細かいの、苦手でしょう?」
「まあ、そうだけど」

 椅子の下に布を敷いた。服の上から自分の体にも布を巻き、慶に背中を向ける。そうしながら、ハサミなんて危ないもの、そうそう人に任せられないなと気づく。美容師さんってすごいなとぼんやり思う。昔はそんなこと思いもしなかった。
 慶が後ろで私の髪を持ち上げた。持ち上げられた分頭の重みが軽くなる。慶は、どのぐらいまで髪を切るんだろうか。なんだか妙にドキドキする。
 失恋をしたら髪を切る、なんてことは今時そうないんだろうけれど、髪を切れば気分が変わるというのはあながち間違いじゃないと思う。切り揃え、整えられた時、切る前の自分とじゃ少しだけ、違って見えるだろうから。
 布を刻む音じゃない、ハサミの動き出す音がした。さらさら、きっと後ろで髪が落ちた。一気に背中の風通しが良くなって、思わずちょっとだけと振り向こうとした。

「危ねえ」
「ごめん」

 でも手を止めてくれたので後ろの床を見れば大量の髪が布の上に落ちていた。真っ黒な髪がバラバラと広がってそこだけ違う場所みたいだった。
 もう一度前を向けばまだ切るらしい。さくさく。短くなった髪をどんどん手入れされていく。
 そうされながらふと、慶は自分で髪を切り揃えていたんじゃないかということに気が付いた。慶の髪は昔のままの長さだ。旅は短い時間じゃなかったのならどこかで髪を切る。自分で髪を揃えるぐらいならこの相手はしているはずだ。多少不格好だとしてもまあ切れたらいいだろうと。私が見る限り下手なところはなく、慶が自分の髪を不揃いなく切れる程旅をしてきたことが想像できた。
 肩よりも短くなっていく髪を慶の手の触れる感触と首周りの風の動きで理解する。意外と後ろの手は迷いがなく、時折バランスを見るようにハサミが入る。

「意外と、慣れてたね」
「自分で切ってたからな。それに」
「……それに?」

 不自然な間と、それから慶が少しだけ大きめに深呼吸するのが聞こえた。

「俺以外がに触るのは、嫌だから。そうされるぐらいならきれいに切り揃える」

 背中を向けていてよかった。今、どんな顔をしているのか自分でもわからない。

「そう」
「ああ」

 もうしばらく、ハサミが軽い音を立てて、それから慶が立ち上がる。ゆっくりと前に回り込んで、正面から私の髪を見ていた。
 私はなんとなく慶の胸元あたりを見て、顔が真っ直ぐ見えないようにして。外のざわつきに耳を澄ませてこの沈黙を耐え抜こうとしていた。

「前髪は?」
「え、っと、それなら、切ってもらおうかな」

 思わず言った後に後悔した。前髪を切ってもらうなら私は目を閉じなくちゃいけない。言われる前に慶の目も閉じろと言ってきて、私は目を閉じる。
 そうだ、私、慶のその目を知っていた。ずっと前、その目を見たら何のためらいもなく目を閉じて、慶のことを待っていた。
 慶の手が顔の前にやってくる。さくさくと、またハサミは軽やかな音で私の髪を切っていく。時々手を止めて、少し離れて、もう少しだけ、切って。
 切った髪の毛を下に落とすように慶がその手で私の髪を揺らしていく。それから多分、顔についた髪を取り払う。指が頬に触れては髪の毛を取っていく。顔に触れられる間、息は止まっていた。

「結構短くした」
「……本当だ。肩より短くって、かなり短いんだね」

 目を開けたら慶が私の前で跪いたまま、私を見上げて窺うようにしていた。
 首の後ろに手を添えれば肩より二センチは短い、本当に随分と軽くなった後ろ髪に、伸びかかって視界に入っていた前髪はすっきりとなっていた。眉上ぐらいだろうか。鏡がないけれど、きっと上手に切ってくれている。

「嫌だったか?」
「すっきりした。ありがとう、慶。これなら整えてもらわなくても十分そう」
「ん」

 慶の手がおもむろに私に伸びてきて、まだ顔に髪の毛でもついていたんだろうかと思えばその手がすっと私の顔の輪郭を撫で、慶は立ち上がりざまに額の付け根に口づけてきた。

「髪、残ってるかもしれないからあとできれいに落とした方がいいと思う」
「わ、わかった」

 今のは何、なんて聞けるわけもなく、呆然とする私をよそに慶はてきぱきと髪が散らないようにまとめていく。片付けてくると出ていった慶をただ見送り、それから私も布を重ねてたとはいえ服についただろう髪を外で払おうとよろよろ部屋を出た。
 出てすぐ、女将さんと廊下で鉢合わせた。私のことを見てにっこり笑顔になる。

「随分切ったね。それにしてもなんだ、兄さんきれいに切ってるじゃないか」
「そう、ですね」
「はは! 髪を払いに行くのかい? 部屋を出たならついでに少し外でも散歩してきな。すごい顔だよあんた」

 そうだと思う。
 慶にすぐ会うなんてできないから、言われた通り宿の近くを散歩する。どんどんお祭りの様子が近づいていく町を見つめながら何回か深呼吸をした。
 帰った後、慶はなんでもない顔で部屋で筋トレをしていた。


***


「慰霊祭、行かなくていいの」
「俺ボーダーの偉い人とかじゃねえから」
「そっか」

 三門市の梅雨時のある日。その日はたくさんの人にとって大事な人の命日であったり、大事な人がいなくなった日だ。
 私もその中の一人で、今は住んでいない家の前で手を合わせていた。警戒区域外ギリギリの、今はもうほとんど人が住んでいない地区だ。
 未だに現実味がわかないけれど家族はもう誰もいない。伯母がいるけれどそう頻繁に会えるわけでもない。家族を亡くして、それでも三門に残ったのは現実を実感したくなくて、忘れたくなかったからかもしれない。
 人が死んだらどこにいくのか、私にはわからないけれど痛くて苦しい思いをしていないといいなと思う。
 しばらくの間そうして、ようやく顔を上げて振り返れば慶はただ黙って待っていてくれた。

「わざわざ付き合わなくてもよかったのに」
「どの顔して言ってる?」
「……変な顔してる?」
「かなり変な顔だな」

 乱雑に頭を撫でられる。髪がグシャグシャになってしまう。
 今日は私も含めて街のあちこちで喪服を着た人でいっぱいで、慶も黒いスーツを着ていた。
 スーツに着られてるような感じもしたけど私が見慣れないだけかもしれない。そのうち慶もスーツが似合う年齢と顔立ちになるのだろう。

「墓にも行くんだろ。行って、帰ったら飯食おうぜ」
「そうだね。……本当についてくる?」
「そりゃフツーに考えたらの家族に挨拶しに行かなきゃだろ、」

 実にフツーにそういうことを言い、何てことのない顔で私の手を握り歩き出す慶につられて歩き出す。
 その背中が大きくて、鍛えていると言っていたなあとぼんやり見ていた。それから、だから、今日は伸ばしている髭もわざわざ剃って髪もきれいにセットしているのかと気が付いた。自惚れでなければ、多分、私の家族に会うためだ。思わずうつむいた。少しぐらいの間なら慶が引っ張ってくれる。

「で、墓どこ?」
「……だと思った」

 すぐに顔を上げ、早歩きをして隣に並んで、私の方が少し先を歩いて。
 傘の要らない、天気の良い日だった。


***


 その町は春の終わり、温暖な気候の時期に生誕のお祝いをするという。
 お祭りは三日続く。昼間、町にいる人は住民に限らず全員が顔を隠す布をして、体の見える部分に花を飾る。大抵は布と一緒に頭の部分に花を飾る。誰が誰か、親しい人はわかってもそれ以外はわからない。服装も華美なものは避けてこの町でよく着られている服を身にまとうのだという。
 今年生まれた赤ん坊には新しい旅路への祝福を。今年亡くなった人には次の旅路への祝福を。死者は寂しくなったらこのお祭りの最初の日にやってきて、お祭りの間生者と混ざって寂しさを紛らわす。そうして最終日の夜、今年亡くなった人たちが迷わないように一緒に連れだって旅立っていく。

「亡くなった人が生きてる人を連れて行ったりはしないんですか」
「そりゃあたしらの肉体が重すぎて無理だよ。あの人らは軽いから行けるところがあるけど、あたしらを連れていこうと躍起になられても重いったらありゃしないよ」

 からりと笑って女将さんは視界が見えづらそうに、ほんの少し布を上げながら器用に大鍋料理を作っている。誰に見られていなくても、起きてから日が沈むまでは三日間、誰であっても顔を隠す決まりらしい。私も顔を隠して黄色い知らない花を耳元に飾っていた。
 実に明るいお祭りで、誰でも歓迎するというこの祭りは屋台も出るし催しもあるらしい。ほとんどが賑やかな催しだったけれど装いに関しては死者へ向けた弔いの意味があった。誰であってもここにいていいのだと、そういう意味で顔は隠される。
 顔を隠すのに口元まで隠せとか、マスクのようにしろという厳密な決まりはない。最低限目元が隠れていればいいらしく私が用意されたのも口元が隠れるかどうかぐらいの布だ。布地も若干薄目で、前に物があるぐらいはわかるようにはなっている。それでもぶつからないようにできる程度だ。相手も同じように布を被っていれば特徴的な髪型でない限り一瞬では誰が誰かわからない。
 こうして顔を隠すため、屋台に出るのもその場で調理するものではなく日持ちのするものが多いという。手元でも狂えば大変なことになる。少し工夫して目元が見やすいようにしているものもいるけれどほとんどは見やすくすることもなくあえて不自由な布で視界を覆っている。事故防止のために小さく目元に穴を空けているぐらいだ。それもほとんど意味を成してないので結局作業の際には片手で布を少し持ち上げることになる。そのぐらいは許容されるらしい。
 どれだけ不自由でも、聞けば"そういうもの"らしいので私も慶も朝からそれにならっていた。

「この三日はあんまり仕事はせずに家族や友人、親しい人と過ごすのさ。身内がいなくとも広場に行けば誰かしらいるからね。顔も見えない相手と普段しない話をする。そして三日目の夜には顔を隠した布と花を一緒に炎にくべて燃やすのさ」
「燃やすんですか」
「ああ。この三日も含めて前の祭りからそれまでのすべてを炎に捧げるんだよ。あたたかい空気は空に向かって死者もその空気につられるように夜のうちにまた戻っていく。夜が明ければ新しくなったみんなで明日をはじめて、いつも通りだ」

 とても素敵なお祭りとは思ったものの、ここは宿兼食堂のため、仕事は発生する。祭りの初日でも仕事は変わらない。
 ただ祭りの間は食堂も営業は縮小傾向で、手間が少ないよう三日間は決まったメニューを出す。客も外で食べることも多く、その分いつもより厨房の仕事は少ない。それでも洗い物は人が生活するだけで出てくる。食事は提供しているので食器を洗う仕事がなくなるわけでもない。シーツを洗う仕事は客が増える分むしろ増える。祭りと聞いて泊まりの客自体は増えている。祭りの準備はもう終わっているからか慶も宿の手伝いに呼ばれていた。

「どこかで落ち着くと思うから、その時は兄さんと二人で見て回ってきな」
「ありがとうございます。気になってたので、少しでも見られると嬉しいです」

 閉ざされがちな視界で一体何が見えるんだろうか。
 少しわくわくしながら見づらい視界で汚れ落としがないようにと皿を洗い、次に洗濯物を取り込む手はずを頭に描いて作業に没頭した。


***


最高。に浴衣着てって頼んだ俺も最高」
「……まあ、慶も着るって言うから」

 三門の地元の小さな夏祭り。土曜日の夜、神社の周りで行われる祭りに行くために慶は頑張っていた。大学の授業も真面目に受け、シフトもどうにか調整した慶はきちんと浴衣で現れた。着付けはしてもらったらしい。
 私も着付けは美容室で髪と一緒にセットしてもらった。担当の美容師さんに楽しんできてねとにこにこ見送られた。少し恥ずかしかったけれど、選んだ浴衣もセットしてもらった髪も満足のいくものだったからお礼を言いながら出てきた。
 生成りに椿の柄の浴衣は見た瞬間にこれだと思うような美しさがあった。帯は若緑色から緑青色へと色合いが変化が絶妙で、浴衣と帯がぴったり合っていた。後は慶がどんな浴衣を着てくるかが少しばかり心配だったけれど、やって来た慶が濃紺のスタンダードな浴衣を着ているのを見てほっとした。隣で色が喧嘩しないで済む。

 待ち合わせるなり早々に手を繋ぎ、離す気などさらさらない慶の隣で私は履きなれない下駄をカランコロンと音を鳴らせてのんびり歩く。
 参道の入り口は込み合っていて、慶はさっきまで離さなかった手を自然と離し、自分を盾にして私を庇ってくれた。その動きについていけなかった私は歩く速さを調節できず、両手で思わず慶の背中を支えにするように体勢を整えた。知ってはいるのに触れた背中の大きさにビックリする。
 ボーダーの武器を扱うのと、もともと習っていた剣術で上半身に筋肉は引き締まっていて、実はその背中を見るのは好きだったけれど今のところ伝えるタイミングもなく、ただ時折こんな風に背中が近くなる時に私は勝手にその背中を味わっていた。

「そんなにしなくても歩けるよ」
「いやいや。いつもよりめちゃくちゃ歩くの遅いじゃん」
「慶も遅いよ」

 お互いどっちが遅いだああだこうだ言いながらも混雑を抜ければまた手を握って歩き出す。道中の屋台でたこやきを買ってたべたり、チョコバナナを半分こしたりして、夏祭りらしさを満喫していた。
 地元の神社のお祭りなので規模は大きくない。一通り歩いて食べ物を味わえば早めに家に帰っても良かったけれど、もう少し季節のイベントを味わっていたかったから帰ろうとは言い出さなかった。慶も私が何にも言わないからかくじ屋をからかうように覗いたりまだお菓子を食べようかと悩んでいた。
 浴衣の片づけが面倒だから早めに行こうと言ったため、通りには小中学生も多くいる。高校生ぐらいの年頃の子は男女のグループもいれば二人でデートらしい雰囲気の子たちもいて夏らしく懐かしい景色だ。

「慶はお祭り友だちと行かないの?」
「彼女いるのに行く理由がわからん。中高でだいたい行ったし」
「それもそうか。学生の頃のお祭り、楽しかったけどな」

 今ももちろん楽しんでいる。けれど友だちと待ち合わせて普段着慣れない浴衣を着るのは非日常だった。いつもは夜遅くに帰ることを咎められてもお祭りの日は気をつけなさいと注意を受けて送り出される。
 友だちと行った夏祭りもあれば、気になっていた男の子と並んで歩いた夏祭りもある。クラスの子に出会って気恥ずかしい思いをするのも学生ならではのものだろう。大学生にもなればお酒も入って随分陽気な時もあった。

「学生のの浴衣見たかった」
「今の私じゃご不満かな」
「それはない。めちゃくちゃまんぞく」

 力強く返事をされてしまったのでつい笑ってしまう。

「同級生の慶と夏祭りに行ったらそれはそれで楽しそうだね」

 高校生の二人を想像して、それから喧嘩をしそうなところまで想像してなんだかおかしかった。今の私なら慶のすることを仕方ないなと思えたり、何かアクシデントがあっても一度考えて言葉にできる。でも慶が同級生でデートに来てたならそれどころじゃなかったはずだ。浴衣がおかしくないかな、とか、クラスの子に見られたらどうしようとか、頭の中は忙しかっただろう。慶だって今のように上手に人込みから私を守るなんてことはできなかっただろう。きっと誰かが慶に教えてくれたはずだ。

「同級生のって想像つかない」
「私はいろいろと想像ついた」
「なに?」

 私に出会うまでに慶に優しくされた女の子たちのことまで考えてちょっとうらやましくて嫉妬しかけた、というと多分慶は調子に乗るのでそれは口にしない。

「ないしょ」
「ケチだな」
「気が向いたら話してあげるよ」

 さあ行こうと、慶が悩んでいたカステラ焼きの屋台をもう一度見ようとしたところで隣からうめき声が聞こえた。

「げ、出水」
「? どうかした?」
「同じ隊のやつがいた」

 思わず首を傾げてしまう。同じ隊、というとボーダーで組んでいるチームメイトだろう。慶が隊長で、チームメイトは全員年下だと聞いたことがある。隊長が慶で大丈夫か心配と言ったところ心配されるほど弱くないと言われた。心配はそういう意味ではなかったけれど話が長くなりそうなのでその時は深く突っ込まなかった。

「それが?」
「今の見られんのやだ。俺だけが見ていいやつ」

 その理屈を通すとここにいる全員にも当てはまるのではないだろうかと思ったけれど慶の知っている人間、というのがダメらしい。
 浴衣ぐらい、と思ったのだけれど慶は真顔で隠れようとするのでまあまあと背中をたたいた。

「人も多いからわかんないよ。見られても減るもんじゃないでしょう」
「減る。絶対減る。もうこのまま帰った方がいい気がしてきた」
「大げさな」
「大げさじゃない。出水はなんだかんだ年上好きなんだよ」

 年上と言っても大したものではないのになあと思うけれど慶のチームはみんな年下と言っていたから高校生にとっての社会人はずいぶんと大人に見えるのかもしれない。
 結局慶が気もそぞろになってしまい、花火の打ち上げもないような小さなお祭りだったので少し早いけれど帰ることにした。
 後で聞けば結局話しかけられはしなかったけどバッチリ私と慶のことは見られていたらしい。しかも同じチームの子以外にも見られてたらしく来年は浴衣は祭りじゃないときにしてと言われた。
 早く帰ろうとする慶の足取りがいつもぐらいの速さになる。履き慣れない下駄を履いていた私にその速さは辛かった。黙っていたけれど鼻緒が当たっているところが擦れて歩きづらくなっていた。さっきまでの速さなら家までなら大丈夫かと思ったけれどここでギブアップした方が良い。

「慶、足痛くなってきたからゆっくり歩いて」
「え、足痛いのなんで言わないんだよ」
「まだ歩けるから」

 はあ、とため息をついた慶は立ち止まる。まだ祭りは盛況なので向かう人はいても帰る人はそう多くない。私の家の方向に近づいていたから人もほとんど通ってなかった。
 よいしょと横を向いた慶が私の背中に手を添え、膝下に手を入れて私を抱き上げるのはあっという間だった。

「ちょっと」
「足痛いんだろ?」
「ゆっくりなら歩けるって」
「どうせ家までもうすぐじゃん」

 あ、これだめだ。折れない。
 まさか浴衣でいわゆるお姫様抱っこなんてされる日がくると思わなくて思わず頬が赤くなる。

「恥ずかしいなら顔寄せとけば?」
「……そうする」

 知り合いに見られてませんように。
 多分誰にもなんにも言われなかったからバレずに、もしくは私とはわからなかったんだと思う。思うことにした。


***


 お祭りも三日目の昼過ぎ、もう大丈夫だしせっかくだからと時間をもらった。
 慶はまだもう少し手伝ってくれと言われたらしく、私は一足先に町の中に出ることにした。心配されたけれど街の中は何度か歩いている。広場と宿の道も迷うようなところはない。お祭りの気配に浮かれた私は一人でも気を付けるからと心配する慶に言い聞かせるようにして仕事に送り出した。

 初めて町に来た頃にはまだつぼみだったものたちは毎日少しずつ花開き、今はどこを見ても色とりどりの花がきれいに咲いている。人に飾られている花も店先に活けられている花も家の前に並べられた鉢に咲く花も、全てがこの三日間に合わせて咲いている。
 狭い視界でも見えやすいようにか鮮やかな色の花が多く、花を売り歩く移動式屋台のおじさんなんかは花で体中いっぱいだった。
 一人最低一輪が決まり事だけれどそれ以上自分を飾るのも、人から花を贈られるのもなんでもありだった。
 私は出がけに女将さんから一輪、今度は赤い花をもらって一輪目の黄色い花と一緒に耳元に飾った。

「顔が見えないからって色気を出す若いのもいるけどそういう時はうまく逃げなね」
「そういうのもあるんですか」
「ほとんどは告白のきっかけにしてるだけだからそういないはずだよ」

 顔が見えない、と言っても見知った相手なら口を開けばすぐわかる。
 だから意中の相手がいる人は顔が見えないからこそ、いつもよりも気兼ねなく声をかけやすいらしい。真正面から目を見るよりは言いたいことも言いやすいのかもしれない。
 それはわかるけれど、見ず知らずの顔も見えない女に声を掛けるもんなのだろうか。よくわからない。ナンパは普通顔を見てするものじゃないのか。ナンパな知り合いはいないのでこの考えが合ってるのかもわからない。とりあえず万が一話しかけられたら早々に逃げることを決めた。生誕のお祭りというけれどかなりいろんなことがごちゃ混ぜになっている気がする。

 宿を出て中心部に向かえば向かうほどにぎやかで楽し気な雰囲気はよくわかる。通り過ぎる人々は顔は見えないけれど陽気で、遠くから聞こえる音楽に乗ってステップを踏む人に促されてハイタッチまでした。
 この国の人は元々いろんな土地の人が寄り集まってできたという。広場の中も外見の特徴だけでもいろんな人がいる。よその国から流れ着いた人もいるというし、移民の国、みたいなものかもしれない。お祭りが人の顔を隠し聖者も死者も関係なくすべての人を対象にするのはこの成り立ちも関係しているのかもと考え、そうだったらいいなと思う。

「これ、後で会えるかな」

 中心部の広場には屋台が出て、ステージまである。慶が連日材料を運んだり組み立てたりしていたのはおそらくこの辺だ。四角い広場の奥の方にステージがあり、その手前にテーブルと椅子が並べられ、普段は店が出ている前に屋台が出ている。
 服装はみんな似たようなもので、知り合いならわかるだろうと思ったけれどこれだけの人数が集まればはぐれた時にはわからないかもしれない。
 女将さんにアドバイスをもらった通り、屋台を見て回ったら広場前の休憩スペースで座って待っていることにした。混み合っていても座っていれば見つかる段取りだ。

 屋台を見ていれば途中で宿が出している屋台を見つけた。女将さんが数日前から作っていたクッキーのような焼き菓子を売っている。あまり話したことはないけれど知った顔を見て少しほっとした。食べ物以外ももちろんあって、手作りのアクセサリーを並べる店があれば手に取ってみた。途中、きれいな刺繍のハンカチを見たときはその刺繍がとても綺麗で怒られない程度に目隠しの布を持ち上げて思わずじっと見つめてしまった。欲しい、と一瞬欲望が声を荒げたけれど宿での労働のほとんどは滞在費で消えている。にこにこと店の人に見られたけれど断腸の思いでごめんなさいとその場を立ち去った。そもそもここの通貨はよくわからなくてお金の管理はほとんど慶に任せきりだ。今手元にあるお金は食べ物を買えるぐらいはあるけれどハンカチが買えるのか、相場なのかも慶に聞いてみなければわからない。大人としてダメダメな気がした。

 ざわざわ。人が密集していて気を付けないとすぐにぶつかってしまう混雑具合だ。まかないで食べたことのあるほんのりと苦い焼き菓子を宿のものと比べるつもりで買い、ちょうどよく空いた席に座る。慶は食べない気もしたけれど一口だけ楽しんで後は来るまで取っておくことにした。
 早く来ないかなとぼんやりとステージの出し物を見ていれば案外面白かった。子どもたちが歌を歌ったり、大道芸人の人たちがステージでナイフ投げをして場を沸かせたりと、なかなか舞台は盛況だ。

「遅いな」
「待ちぼうけ? 僕も今一人でさ、それまでご一緒してもいい?」
「……えっと」

 顔が見えない相手だけれどこの町の人は私にとってほぼ全員が知らない人だ。つまり声をかけてきた軽やかな声の男性も、私の知らない人だ。少なくとも宿の従業員にこんな人はいない。お客さんにいるかは、表に出ないからわからなかった。
 本当に声をかけられることがあるんだと驚いている間に断る瞬間を逃した私は一応警戒するように身を引きながら相手を見た。残念ながら私の嫌がっている気配を無視して向かいに座ってきた相手が栗色の毛の持ち主であること以外はわかりようがなかった。

「宿の奥で働いている人でしょう? 僕もここ数日あの宿に泊まっていてね。このお祭り目当てでやってきたんだ。楽しいよね」
「そう、ですね」

 宿の客となればあんまり失礼をしては女将さんたちに迷惑がかかってしまう。わかってて名乗ったのならこの男はかなり意地が悪い。
 あの屋台の料理はどうだった、アクセサリーは中にはまあまあいいのがあったよ、刺繍の作品はあれは一枚持っていて損はないね、なんて先ほど見て回った店の感想を述べられるけれど生返事しかできない。もしかしたらどこかで同じ店を見ていて横から顔を覗かれたのだろうか布は正面からの顔を隠すけれどこめかみのあたりからは横顔を見ようと思えば見られる。なぜこんなに絡むのかわからないけれど運が悪いとしか言いようがなかった。
 男の相手をしていると舞台は大道芸人たちの出番が終わったのか、今度は何やら楽器を持った人たちが大勢出てきていた。その手前には何人も人が出てきた。

「なんだろう」
「ああ、今からやる出し物かい? これはステージで音楽隊が演奏して、その間前の人たちに混じって歌って踊るっていうやつだよ。行ってみる?」
「いや、連れを待ってるから」
「そう言って随分来ないじゃないか」

 そうなのだ。慶が来ない。道に迷うことはないから、仕事が長引いたのか、どこかで足止めを食らっているのか。日暮れが近づいてきて最後のキャンプファイアーのようなイベント目当てに人が増えてきているからたどり着くのに時間がかかっているのかもしれない。
 冷えても問題ないお菓子を選んだけれど目の前に陣取った栗色の髪の男が正直邪魔だった。
 それでも今更居場所を変えるとすれ違う可能性も十分あったから、大丈夫ですからと相手を受け流すしかなかった。

「大方別の相手でも見つけて祭りを楽しんでるんではないかな?」
「……それは、ないと思います。あなたもせっかくだからもっとお店とか見て回ったらどうでしょう」
「ここまで一緒にいたのに冷たい女だなあ。いいよ。じゃあそうするから」

 丁寧に、拒否し続けた成果がやっと出た。急にふいとよそを向いて彼は立ち上がって去っていった。そうしてほしい。きっとこのお祭りで楽しい気分で過ごしている女の子はもっといる。こんな冷たい女よりそっちに行ってほしい。
 げんなりしているところでステージの楽隊が実に陽気なアップテンポなメロディを奏でだした。軽快で、それこそ誰でもリズムを刻めそうな。
 最初は前のステージの人が踊っているだけだったけれど次第に前の席の人が促され、踊り子さんたちはあっという間にテーブル席の人間の間に散ってはさあさあ踊ろうと顔で見せられない分を動作で表していく。酒も入ったお客もいるからかどんどんステージ前は賑やかというより騒がしくなってきた。

!」
「慶」

 声がした方を見る。布の隙間から少し離れたところに慶を見つけたので立ち上がったところ、不意に手を取られた。踊り子のお姉さんだ。

「さあさあ立ち上がったのなら踊りましょ!」
「え、あ、ちょっと」
「おい、?!」

 ひょいと手を取られてたたらを踏んだらそのまま踊り騒ぐ人の中に紛れてしまった。思った以上に陽気な酔っ払いが多いらしい。わ、と声を上げてもみんな適当なタップでハイタッチしたり腕を組んで回ったりと好き放題だ。これ、生誕祭じゃないのだろうか。
 やっと来た慶がいた方に視線を向ければ慶がぐいぐいと進んできて人波をかき分けて私の手をぐんと引っ張り出した。足が浮きそうだった。

「わ」
「見失うかと思った」

 その一言に、声色に、体が震えてしまった。顔が見えないのに慶が苦しそうなのがわかってしまった。

「あら、私お邪魔しちゃった? ごめんなさい。二人で仲良く踊ってね」

 悪気のないお姉さんはごめんねえと私の頬にキスして去っていった。陽気が過ぎるしすぐさまお姉さんがキスした場所に上書きするようにキスをしてくる慶はどうしたのかと思ったけれど私の手を握るその手が強張っているのが伝わってくる。その手の強張りは私の方まで届いてきそうだ。

「慶」
「わり、遅くなった」
「いいよ。いいから、帰ろ」
「俺来たばっかなんだけど」
「それは、そうだけど、でも」

 それにテーブルにお菓子置いたままだ。繋がれた手から動揺が伝染するように、考えがまとまらない。お菓子の心配どころじゃないのに。
 見失うかもと言った慶の声が迷子になった子どものようだった。手を離さないその力が必死で、この手を離すと良くないことが起きるんだと言っている気がした。慶の顔がもう見えないのに私まで不安になって、繋いだ手が強張ってしまう。
 それに気づいたように慶の手がぎゅっと私の手を強く握る。

「手繋いどけば、いいから」

 落ち着くからちょっと待ってと、そういわれたら私はわかったと頷くしかなかった。
 とってつけたようにお菓子買ってたんだよと言えば座っていたところまで移動してくれた。隣合って座る。
 お菓子は無事で、先ほど食べたほろ苦い焼き菓子を慶にも差し出したらそのままぱくりと食べられた。危うく指ごと食べられかけた。

「指はお菓子じゃないよ」
「勢い余った」

 慶は残りのお菓子を食べ終えても私の手をぎゅっと握ったままだった。大丈夫だよと言おうとしてもどうしても言えなかった。慶は大丈夫じゃないし、私も大丈夫と言える状態じゃなかった。何が大丈夫か、私にはわからない。
 慶は何度か深呼吸した後、さっきまでの様子が嘘みたいに普通みたいになった。ふう、と一息ついた様子は先ほどよりも冷静さが見える。
 私を捜している間、慶はこんな調子だったんだろうか。どんな顔だったんだろうか。布越しではそれは見えない。過去の慶のこともわからない。疑問に答えはついてこない。もし聞いても慶はそれを教えてくれない。
 いつも通りみたいに繕う慶を前にしたら私も布の下でなんてことない顔をするしかなかった。

「遅れてごめん。最後に燃やすやつの土台が足りないからって運ぶの手伝わされて遅くなった」
「そっか。慶力持ちって言われてたもんね」
「まあたまにトリオン体なったりしてたしな」

 せっかくだから手伝った広場の様子が見たいという慶に頷いた。
 もう一度見て回る屋台は一人で見るより楽しかった。不自然なぐらいに私たちは明るく振舞ったけれど、絶対に離さないように握る手だけが心配だった。
 アクセサリーや刺繍の店では私がいろいろ手に取って、その度店の人にプレゼントにどうかと慶が誘われていたけれど適当に流していた。のだけど。

あれ欲しいの?」
「あれって」
「白の、刺繍のハンカチか? あれ」

 どうやって顔が見えないのにわかったんだろうと思わず反応してしまった。私がわかりやすかったのかもしれない。
 実用的なものというわけではなく、本当にただきれいだと思っただけだった。最初に見たときも目について気になっていたそれ。

「さっき一番長く触ってた」
「……バレバレだったね」
「姉さんこれいくら?」

 製作者だというほがらかな雰囲気のご婦人は姉さんと言われてご機嫌のようだったし、なぜだか繋いでる手の方でハンカチを指さした慶のせいであらあらと微笑ましいと言わんばかりの笑い声が聞こえた。

「旅の途中だからあんまり高いと買えないんだけど」
「素直な恋人さんねえ。このぐらいならどうかしら?」

 多分おまけしてくれたその金額に慶はああ、とすぐポケットから財布を取り出す。片手じゃ覚束ないから握った手は離されたけれどその手が不安そうに思えたので私はつい慶の服の裾をわかるように引っ張った。離れないよと、そういう意思は伝わったらしい。慶はわるい、と小さく呟いて、財布からちょうどの代金を支払った。

「大事にしてあげてね」
「大事にします」
「あんがとな」

 慶の手から手渡されたハンカチを受け取って、そっと仕舞い込む。
 それから手を繋ぎ直せば強張るように握っていた手が緩んでいた。それだけはホッとした。

「ありがとう、慶」
「どーいたしまして」

 慶は、白い新しいもの、なんてきっと知らないんだろうなと思って連想されたものたちはそっと胸の中に仕舞った。それは今の私にとって非日常のように遠いものだったから。


 夕方になると少しずつ店じまいが始まった。ステージの催しも終わり、ステージ前のテーブル席は端に寄せられたり、別の位置にばらばらに散らされていった。
 最後の火が出てくるというそれはてっきりキャンプファイアーみたいに大きな火にくべるのかと思ったけれど違うらしい。小さな焚火台みたいなものが点在して、それを好きなところで囲むのだと不思議がっている私に椅子を運んでいた町の人が教えてくれた。広場にいない人は近所の人たちで集まって同じようにしているという。
 私と慶は適当に近くの台の周りに立ち、他の人の様子を見てから真似をした。少し離れた位置には椅子に座って様子を見守っている人もいるので参加の仕方は自由みたいだった。
 日が暮れて、薄暗くなってくるとそれぞれの焚火台に火が灯されていく。火が灯った台の周りの人から次第にみんな三日間顔を隠していた布を外し、飾っていた花をそれぞれ手に取った。私は布を取った後、花を手にする前に慶を見た。慶も布を取ったところで、赤い花を耳元に挿す慶と遮るものなく初めて対面した。

「慶、赤い花似合ってるね」
「花が似合ってもな。の方が似合ってるだろ」

 ひょいと三つ目の花が私の耳にかかる。二輪ある方は落ちそうだから、反対側。視界は既に良好で、手だけが今も片方不自由だ。心地の良い不自由さだった。

「そうかな?」
「そう」
「そっか」
「ああ」

 それから少しだけ三つの花で着飾ってみた。慶がじっと、名残惜しいと口にせずとも見てくるから外しにくかったのだ。同じ台を囲む人には微笑ましそうに見守られた。
 完全に日が暮れると煌々と燃える炎に次々と布も花もくべられていく。その人たちにならって私も慶も自分たちの布と花を炎にくべた。
 ふと見上げた夜空は快晴で、真っ黒に広がるそこに知らない星が光っていた。

 みんな黙って近くの炎を見守っている。燃えてあっという間にどこかに消えてしまう、先ほどまで自分を飾っていたものを見守っていた。
 炎にくべて、全部燃えたなら私はこれから新しい私になれるんだろうか。慶も、新しい慶になれるんだろうか。
 すべて燃えて、熱が目の前の炎から伝わってくるのを肌で理解する。私は繋いだ手で隣の相手を引っ張って口元を耳に寄せた。

「慶」
「ん?」
「二人、寂しいのも、一緒に燃えたかな。私の寂しいは、燃えたと思う」

 どうしたらいいのかずっとわからないままだった。前と違う私なのにどうしようとか、慶の望んでいる私になれないとか、そんなことを思っていた。私の手は、慶に触れることができるような手なのか。慶を以前のように呼べるような生き方をしてきたのか。
 生きるためにといえば、仕方のないことだったのかもしれない。今も選べと言われれば私は結局同じ道を選ぶ。慶もきっとそうだろう。
 ずっと、それを受け入れてもらいたいという気持ちと、受け入れてもらえなければどうしようと恐れる気持ちは混在して、私の気持ちを落ち着かせてはくれなかった。

 古いものを燃やし、新しいものになれるというのは今の私にとってきっと必要だった。炎は神聖なものだと、あちらでも言う。今日その意味を心から感じる。
 雪解けの春のように、少しずつ、私の冷え切った世界は隣にいる人が黙って待って、一緒にいてくれるだけで溶けていった。
 手を握った先から、冷たく凍え切っていた私は溶けて、慶と、心からその名前を呼べるような気がした。

「……にまた会えた時から燃えてる、けど」
「けど?」
「今多分、最後のが燃え切った」

 そう言って屈んだ慶が唇をさらって、近くの人が一瞬ざわつくのがわかったけれど私はそれどころじゃなくて、思わずうつむいた。

「慶」
「帰ったら続き」
「……慶」
「頑張った俺にご褒美ちょうだいよ、

 手は指と指を絡むように繋ぎかえられ、うつむいた私に合わせるように慶が屈んでくる。
 もう一度笑って仰ぐようにキスをしてきた瞬間、熱かった体は心臓のあたりからもっと熱くなって、もう私は何も言えなくなっていた。



(ロマンティックヒーロー 02)