放課後、正門が見える建物の軒下でのこと。
困ったなと、困っていない口調で隣の女が呟いた。
「三輪くん、傘持ってない?」
「持っていない」
「そっかあ。雨、やまないなあ」
困ったねと、今度はこちらを向いてへらりと笑ってくる。そうか、と返事をして外を見るけれど天気雨とは言い難く、しばらく降るのは確実だった。
今日は任務はないけれど放課後そのままボーダー本部へ向かうつもりだった三輪は濡れてでも行くべきか、どうするか、隣の相手の少し間の抜けた笑顔を見ながら考えていた。
彼女、は高校のクラスメイトで、最近席替えで隣の席になった相手だった。
帰る時間が被ったらしい。ちょうど彼女の背中が見えて立ち止まれば雨が降っていた。
「三輪くん折り畳み傘とか常備してるかと思った」
「今日は快晴だって予報だったろう」
「そうなの? バタバタしてて気が付かなかった!」
どうしよう、とのんびりつぶやく彼女はクラスで特別目立つわけではないけれどクラスで話しかけづらいと言われている三輪に平然と話しかけてくる珍しい人間だった。
部活には入っておらず、放課後になると早々に帰宅し、テストの結果はいつも良かった。見た目もきちんとしていて、真面目な優等生、かと思えばのんびりした口調でへらりと笑う様は定期テストで褒められる姿とは重ならない。良い意味で隙のあるクラスメイトだった。三輪が普通に話してしまうぐらいには。
「スーパーの特売が……」
「……帰りが早いのはそれか」
「うん。うちおばあちゃんと二人だから私が帰りにスーパーとかドラッグストア寄って帰るの。晴れてくれないと今日はお肉の特売日なんだよ困っちゃう」
「そうか」
両親は、とか野暮なことをこの三門で聞く人はいない。よそへ移り住んだ人間もいるけれど家族を亡くしても三門に残る人間もまた多くいるのだ。彼女の両親がどうなのか、今の発言からはわからないけれど特別言及することでもないはずだった。
黙って待つか引き返すか、三輪が少し悩んでいる間に彼女は会話の続きを選んだ。
「三輪くんってボーダーで強いって本当?」
「……弱くはない」
「いいなあ。私もね、ボーダー入りたかったんだ。おばあちゃんが泣いて止めるからあきらめたんだけどさあ」
のほほんと、彼女は何てことのないように口にした。雨がやまないねと同じ口調で。
強めの雨はもしかしたら通り雨かもしれない。それか、少しぐらい雲が流れて雨足が弱まるかもしれない。そうしたら、三輪も彼女も走ってお互いの目的地に行けるだろうか。
「ボーダーに入って死んじゃったらどうするのって、泣くんだよ。入っても入らなくても死んじゃう時もあるのにさあ。仕方ないから勉強してるけど」
「仕方ないから勉強なのか」
彼女は、なぜボーダーに入りたかったんだろうか。三輪は少しだけ隣の相手をきちんと視界に入れていた。
他にも校舎の軒先で雨宿りしている人間はいるのにどうしてだか二人に話しかけてこようとする者もいなければ近づいて来ようとする者もいなかった。近づきにくかったのかもしれない。
「うん。勉強しておけば選択肢が広がっても狭まることはそうそうないって親が言ってたし。おばあちゃんがいつか入ってもいいよってなった時、防衛隊員じゃなくてもできることが多ければ入れそうじゃない?」
「本部には職員も多いのは確かだな」
ただいい子でいるだけの、普通の高校生だと思っていたクラスメイトが三輪の隣で段々と姿を変えていく。
見知らぬ近くて遠いクラスメイトは、本当はもっと近い人間だったのかもしれない。
雨はまだ、降りやむことなく三門の空を覆っている。
「でしょう? 直接防衛任務とかは天地がひっくり返ってもダメって言うだろうからそっちの裏方で勤めるならどうがいいかなあって、今そういうの考えて勉強してるんだ」
「は、どうしてボーダーに入りたかったんだ」
「お父さんとお母さんとお兄ちゃんを殺したやつらを殺してやる、って最初は思ってたからかなあ」
思わず目を見開いて彼女を見つめる三輪に、物騒な発言をした本人は平和そうに笑っている。
「今は、違うよ」
あれから四年。彼女はボーダーには入らず、きっと今と同じように学校が終われば買い物に行き、家に帰り、家事を手伝い、勉強をし、そして次の日も同じように学校へ通っていたのだろう。その日々は三輪だって似たようなものだったはずなのに、ボーダーに入った三輪は今もまだ胸の底に宿り続ける炎を消せる気もしなければ消す気もない。
「おばあちゃんが元気に成人してって、自分が死ぬまではって泣くから、私、しっかりしなくちゃと思って。おばあちゃんほったらかして復讐してもそれは多分、両親も、お兄ちゃんも怒るかなって」
「……復讐はばかげていると思うか」
その言葉に今度は彼女が目を丸くして、暗く光る隣の三輪の目を見て、それからにこりと笑った。
「いいじゃん。私は選ばなかった……選べなかったのかな、わかんないけど、三輪くんがしたいだけして、そのあと次のこと考えればいいと思うな」
「次、って」
雨足は少しずつ弱まって、中には思い切って飛び出す男子が見えたけれど二人は動かない。雨の様子なんて見てすらいなかった。
暗く光っていた三輪の瞳はほんの少し、光が入る。
「三輪くん、復讐したら死んじゃうつもりなの? それぐらいなら復讐終わったら私と駅前のカフェでも行こうよ。あそこカップルが座ってるの見るとおしゃれだなあって思ってたの」
「は」
「たとえが突飛過ぎたかな? カフェとか行かないタイプ?」
「違うだろ」
こんなに長いこと二人で話したことなんてなかった。だから、目の前で飄々と話している女がどんどん知らない生き物みたいに見えてきたことは三輪の勘違いじゃないはずだった。女子高生の顔をして平然と復讐を止めたといい平和に買い物の心配をするのに復讐を悪いことだよなんて一言も言わないであまつさえカフェに誘ってくる相手が、三輪はこわくなった。
「そんな顔しなくてもいいじゃん」
「なんで復讐から駅前のカフェに行く話になるのか意味がわからない」
「えー、だって復讐なんてことばっかりしてたらその眉間のしわ固定されちゃうから面白いこと言おうかなって」
「面白くない」
気が付けば一歩引いていた三輪のことなんて気にも留めず、彼女は雨止みそうだよ、とにこにこ微笑んできた。ランク戦の時とも実践の時とも違う恐ろしさが三輪の目の前に存在していた。
「」
「なに、三輪くん」
「絶対カフェにはいかない」
「わかった。別の候補考えておく」
そうじゃないだろ、と思わず大声でツッコんだ三輪に彼女はきょとんとして、それからからりと笑った。
「復讐の後、楽しみが増えたね」
「意味不明だ」
「いいよ。私の分まで復讐よろしく」
スーパー間に合いそう!
そう言って、気づけば小雨になった空の下、彼女は勢いよく飛び出して、そしてあっという間に三輪を置いて駆け抜けていってしまった。
「……なんなんだ」
本部へ向かう気も何もかも根こそぎ奪われて、ふと外を見れば止みそうになかった雨は完全に上がっていた。
(六月、雨の離宮にて)