は空を飛ぶ。
 その言葉は最初に聞いた人からすれば比喩表現だと受け止めるのだが実際に彼女を前にして戦う相手は改めてそう思うのだ。は空を飛ぶ。



 は習い事の多い幼少期を過ごしていた。ボーダーに入る前までに新体操、水泳、英会話、テニス、ピアノ、少林寺拳法、陸上競技等、習ったものは数知れず、そしてそれらのほとんどは長続きしなかった。
 ただその中でも珍しく、彼女の中で続いたものは中学・高校と続けた陸上だった。最初は短距離選手、それからハードル走、最後は走高跳。風を切るような感覚が、は好きだった。

「この体がどこまで駆けていけるか、走ってみたくなったんだよ」

 それはトリガーを手にしてすぐの頃の彼女の口癖だった。
 そうして駆けた先は地面じゃなくて空だったのだがこれが彼女の中でハマった。本来ならば身動きを取れないはずの空中を彼女は楽しげに舞って見せるのだ。

 もちろん本当に空を駆けるわけではない。けれど壁を蹴って空中にその身をひらりと翻す。あるいはグラスホッパーを助走に使うように空に一層高く翔ぶ。
 それはチーム戦では狙撃の、斬撃の、格好の的だった。何度狙われたかしれないけれど何度空中で防ぎ避けたかもしれない。
 チーム戦での彼女は真っ先に狙われるからこそよく囮役として動いていた。
 個人戦の彼女はどこを足場にするか気ままで、思いついたままに跳ね回っていれば太刀川などにはその動きに目を見開かれながら大笑いされ、そしてなんだかんだ一刀両断されていた。
 それでも飛んで真下の相手に向かって孤月を突き下ろす彼女は無様に地上に墜ちるかもしれないなんて感じることも、感じさせることも一度もなかった。斬られて撃たれて墜ちても、彼女はいつだってまた空を駆けた。
 空を駆けるのは好きだった。でも、は自分のことを強いと思ったこともないし囮としては使えてもメインのアタッカーにはなれないと割り切っている。割り切っていたはずだった。

「どこまで、駆けていけるのかな」

 何度も通いなれた訓練室。生身での訓練も欠かさない彼女は今日も鍛えて、そして疲れて床にその身を投げ出していた。
 誰もいない訓練室。誰に言うでもなくは昔と同じように口にした。
 なんてことはない一言だったはずなのに、その一言を口にした瞬間、の中でじわりじわりと、密かに年を重ねるにつれて感じていた形のなかった何かがとうとう姿を見せ始めた。
 軽々と飛べていた体に鉛をつけられるかのようにどんどん重たく感じる手足にはうつ向いて、乾いた笑い声を出した。

「きっつ」

 軽やかに飛び出すはずの足を踏み出せないまま、その日からはランク戦から足を遠ざけていった。


***


 腐れ縁というやつは存在するだろう。
 ラウンジでコーヒーを飲んでいた東にとっては近づいてきたがそうだった。
 東とは入隊する前、高校生の頃からの付き合いだ。トリオン能力・家庭の事情など様々な理由で入れ替わりの激しい防衛隊員の中では珍しい、二十代中盤でも現役の防衛隊員だった。
 顔に余裕がありませんと書いているほど目が据わっている彼女は久々に顔を合わせたというのに開口一番、挨拶もろくになかった。

「暇じゃなくても今夜飲もう」
「防衛任務じゃないのは」
「当然把握済みよ」

 断るなんて言わないだろうと目が訴えていたので東は逆らうことなく頷いた。
 がランク戦に参加していないのはしばらく前から噂になっていたし、東自身も飲みに誘われることもなければ断られることばかりだったので心配していた。
 それがどういうことにしろ何か話す気になったらしいのは態度でわかる。彼女は昔からわかりやすく東の前で好き勝手に振舞う。高校生から知っていればお互い自然とそうなるもので、東もの前では好きにしていた。だからこそ、存外長かった沈黙の終わりに東は内心胸をなでおろしていた。



 常連となっている居酒屋はボーダーにいながらもボーダー隊員があまり来ないところがいいとが駄々をこねて当時の同期たちと捜し歩いた店で、本部からはやや遠く、今や東とぐらいしか使っていない。だからこそ都合が良く、ボーダーでのことも私生活のことも含めて東もも随分と愚痴を言い合った。年下には言いづらくても、ここでならと、どちらからともなく集まるようになっていた。

「まだ忍田本部長っていう大先輩がいるけど、それでも自分が『大人』って、気づかされるのは毎度のことながらきつい」
「初っ端からまた重い話だな」

 一杯目のビールを一気に半分飲み干したは東の言葉にへらりと力なく笑った。その一言でだいたい悩みの中身は見えたが、もう半分、勢いのままに飲み干したがドン、とジョッキを置いたので次はなんだと聞く姿勢はそのままだ。

「あとね、告白された」
「誰に」
「風間」

 心構えしていたところとは別のところからやってきた変化球に思わずむせた東に罪はないだろう。
 思わず丸くなった東の背をが落ち着かせるようにトントンと叩いて手を添えてくる。これはバレたらアウトだなと思わず東は計算してしまう。
 への好意を感じさせるものは言われて考えてみれば思い当たる程度だ。風間のそれは尊敬する先輩への態度とほぼ変わりがなく、東が以前感じた微かな疑問は日常に紛れて忘れ去られていたままだったのだが事態は急変である。

「意外でしょう?」
「こっちもいろいろ意外すぎて言葉が出てこない」
「だよね。風間も不本意ながら流れで発言したんだって言ってた」

 注文した刺身を食べた後に近頃の大学生はわからんねとうそぶく。
 そもそもボーダーにいる大学生は近頃にあてはまるのか怪しい個性派ばかりだがそこは東も口にしない。
 東ももどちらかといえば一般的な大学生の枠ではなく、大学時代に入隊してそのままずるずるとボーダーに居続けているのだ。東にいたっては大学院に在籍してトリガーについて研究中だ。は大学卒業をしてからは就職ということで防衛本部とは別に開発室にも所属している形だ。

「もうさ、東もそうだろうけど、いい姉さんポジションなんだよ、気持ちは」
「まあわかるけどな」
「だから風間がね、そういうこと言ったの、驚いた」

 東とは付き合っている。
 二人はさんざんそういった揶揄を受けてきた。正直二人で愚痴大会を始めたのだっての良い同期が脱退してからだ。話す人間がいなくなったから次点の東が目をつけられた。最初はその程度だった。そしてさんざん恋愛方面の愚痴大会も開催された上で東ももお互いをそういった対象として見ていないことを十分に理解している。
 だからは東に二杯目のビールを煽りジョッキを置くなり後輩には見せない情けない顔で笑うのだ。

「眩しかった。全部が全部眩しくてさあ。私らもあんな感じだったのかな」
「まあ年下なんてみんなそう見えるもんだろう。俺たちだって上からそう思われてるさ」
「そんなもんかな」

 トリオンの急激な成長は東もも見込みがないだろう。培った経験と知識と日々の鍛練が今の二人を支えている。
 周りにいる後輩たちはいつかの自分達のようにあっという間に成長し、昨日と同じ姿ではいない。見る見るうちに入隊したばかりだった後輩がA級隊員として活躍している。それに何も思わないわけがなかった。

「友だちが今年三人も結婚するんだよ」
「俺も一人いるな」
「勘弁してよー」

 三杯目のジョッキに肉じゃがをつまみには天を仰いだ。東は苦笑いだ。
 めまぐるしく変化していくことは、時折自分の立ち位置をわからなくさせる。ボーダーの外で年を重ねて変わっていく友人たち、日々成長する後輩を見守る度、東が時折感じるものをは何度も感じては考え込んでいるのだろう。
 今は個人的なことも、ボーダーの隊員としてのことも重なって、彼女は頭を抱えて立ち尽くしている。

「風間、あいつはできるやつだぞ」
「知ってる。入隊から知ってるっつーの。何年一緒に戦ってきてるのよ」

 は髪をくしゃくしゃにしながらうなだれている。東には見慣れた姿だ。酒を飲む前の歳の頃は進学のことと遠距離恋愛になるかもしれない彼氏のことを考えてはオレンジジュースでうなだれていた。
 年をとっても実際のところ人は大きくは変わっていないのかもしれない。

「四つ下だよ」
「恋愛は年齢でするものじゃないだろ、お前の身近にもいるだろうが」
「響子のあれは年上のめちゃくちゃいい男だから仕方ない」

 本部所属で残っている数少ない女性の同年代を挙げればもようやく少し笑った。
 友人の想い人兼の師匠である忍田はノーマルトリガー最強の名を今もその背に背負っている。最前線は退き普段は指揮官として活躍しているとはいえど、齢三十を越えてなお現役だ。普段は穏やかな笑顔を浮かべているが有事の際は前線にだって立ってみせるだろう。
 それに惚れるなというのが無理な話で、恋愛的な意味合いはないけれどだって忍田のことは敬愛の念を抱いている。

「風間もあの歳の中ではしっかりしたいい男だろ」
「……まあ、それは、そうだと思う」

 その歯切れの悪い言葉に東はおや、と隣の腐れ縁の様子を窺った。こういう時の彼女は大抵迷っている。ここにいない相手に東は密やかにエールを送ることにした。
 深呼吸、そして口を開こうとしては手元のジョッキを口へ運ぶ。それを何度か。何かを言い出そうとするの癖だ。東は黙ってそれを待つ。
 そうして告げられたのは今日、東が心構えしていたことだった。

「個人ランク戦、再開する」
「それは、いろんなやつが喜ぶな。俺も含めて」
「……東、それはエール?」
「最上級のエールだろ。黙って待ってた分、このぐらい受け取っておけ」

 うなだれるが開発室に入り浸り、雑用からエンジニアもどきのことからなんでもやるようになり、名実ともに開発室勤務になってしばらく経つ。防衛任務にこそ出ていたけれど、チームは解散したきり組まないまま。個人ランク戦に出るのも減り、近頃は顔すら見せなくなっていた。そんな彼女を心配する声は彼女が思っているよりも多かった。そして逃げ回る彼女の代わりにその声を託されるのは東の役目だった。
 は東の言葉の苦さを誤魔化すように店の名物の煮卵を味わっていた。

 風間の告白話の流れから突然の個人ランク戦再開宣言。
 東は風間の告白を聞いてみたかったなと口に出せば怒られるだろうことを考えてに続いて煮卵を口に運ぶ。いい具合にしみ込んだ味は何度食べても飽きない美味しさである。

「師匠が現役の間は背中を追いかけるつもりだったの思い出しちゃった」
「弟弟子に役目を譲るのもありだろうって思ってたか?」
「……柄にもなく少しだけ。でも慶に託すのはまだ早いわ。それに、東だって現役する気満々でしょ」

 今度は銀だらのみりん焼きに手を付けるはファミレスでも鯖定食を頼んでいた。あの頃から避けたい話題の時、彼女はよく食べたしよく飲んだ。

「まだ俺も活躍できるらしいからな」
「まだとかいって東いつでもモテモテじゃん」
「たまには色気のあるモテ方もしたいけどな」

 そういうモテ方もしてるだろうとの視線が訴えていたけれど東は笑って流している。の恋愛の愚痴はあったが東の恋愛の愚痴はこの二人の間ではついぞ行われたことがない。それでいて恋人は作ろうと思えばすぐ作れる男で、今はいないだけなのもはよく知っていたがそれ以上の深追いはやめる。

「とにかく、先輩なんて厚かましく生きていくしかないのね。厚かましい弟弟子なんていると特に思う。若者に譲ってやるというより奪い取ってみろってのよ」

 どんどんと話題がずれていっていたがが五杯目のジョッキを飲み干したので東は彼女の好きなオレンジジュースを頼むことにした。
 ファミレスで叫んでいた頃はまだ二人とも普通の高校生だった。その数年後に自分たちの住む街がこんなことになるとは思ってもいなかったし、まさか近界の敵と戦うために防衛機関で働くことになるとも思っていなかった。
 それでもまだ二人は戦うことを止めるとは言わないし、止めろとは言わない。きっとまた愚痴を言い合って飲みに来るだろう。それだけは今のところ確かだった。

「せっかく再開する個人ランク戦なんだ、楽しみにしてるぞ」
「東も育成もいいけどたまには当真の眉間に風穴開けてみてよ」
「お前も風間に完勝して告白の返事ぐらいしてやれよ」

 一撃。さらりと笑いかける腐れ縁を目の前には最後の最後に沈み込んだ。


***


さん、何があったんですか」

 が告白されたその日は深夜の防衛任務についた後のことだった。
 いくらトリオン体といえど未成年にはなるべく深夜のシフトは組まないようにと、自然と大学生以上の面々での深夜シフトは多くなる。
 そんな深夜シフトが終わり、帰りがけにコーヒーでも飲もうと24時間のファミレス店のコーヒーを嫌がらずに一緒に付き合ってくれたのは風間だけだった。諏訪は眠いんでと誘いの言葉が終わる前に帰りだしていた。

 防衛任務には出てこそいたけれど、自分のことを聞かれることは徹底的に避け、押し切られそうな東や太刀川には会うことすら避けていた。
 それすらもそろそろ難しくなってきて、本部側にも何かしら聞かれるだろうというのはもわかってはいた。
 だからなんとなく、コーヒーなんて飲もうと言ったのかもしれない。そしてそれを察したかのようにやって来たのが風間だった。風間ならいいかもしれないと、内心では思っていたのかもしれない。

「何がって、何?」
「最近はチームも組まないし個人戦にも入らないので」

 実にわかりやすく避けているに風間は容赦がなかった。
 飾らない言葉にはすぐに返す言葉もなく、じっと見つめるその目を一瞬見返し、その真っ直ぐさにすぐに目を逸らした。

「風間、オブラートって知ってる?」
さんははっきり言った方がいいタイプでしょう」

 コーヒーがなくても目が覚めてしまった。どこまで見抜いているのかわからないけれど風間はいつも冷静に事を判断していることをは知っている。年上のにも物怖じせず、容赦なく打ち負かし、堅実に鍛え、経験を積み、彼は強くなっていた。風間に順位を抜かれたのはもう随分と前である。

「年上のお姉さんには優しくしてよ」
「優しくすることと甘やかすことは似て非なるものだと思いますが」
「……そんなんじゃ女の子にモテないよ。時には見逃してほしいこともあるんだよ」

 言われるであろうことを予想して、はテーブルに突っ伏しながら嘆いてみせた。そんなことをしたって、風間は言いたいことは言うし、言うに足る相手にしか言わない。
 だからははっきりと言葉にするのを避けていたことを風間という死神が口にするのだと、そう覚悟していた。

「そんなあんたにモテても俺は嬉しくない。俺が好きなのは笑って空を跳んで敵を斬るあんただ」
「……は」

 突っ伏していた顔を、は持ち上げられなかった。
 目を思わず開けてもファミレスの味気ないテーブルが薄暗く視界を占領するだけだ。

は、どこまでも駆けて飛ぶんだろう」

 突然かけられた声に目の奥が熱くなり、じわりと目の縁に涙が滲む。喉の奥まで苦しくなって、はますます顔を上げることができない。
 頭の向こう側から降ってくる言葉は今のにとってどんな言葉よりもはっきりと胸に届いた。
 口癖のようにどこまで飛べるかと言っていたのに、大きな声で口にしなくなってから何年経っただろうか。きっと最近入ってきた隊員はのそれを聞いたことはないだろう。撃たれて斬られて、墜ちても笑ってまた蹴りだして空へと体を躍らせていたことを、ほとんど知らないだろう。
 何度も斬り墜としてきた年下の相手はきっとまた向かい合って戦えば同じようにを空から墜とすだろうに、それなのにまた空を駆けろと言っている。それを信じている。言葉に迷いはないのは、その声の揺ぎ無さが示していた。

「風間、その言い方はずるいよ」
「ずるくてあんたが戻って来るなら、俺は何度でも言う」
「……逃げた私が、恥ずかしいじゃん」

 できると信じてがむしゃらに駆け抜けた数年を、後から入ってくる年若の後輩が追い抜いていく。無邪気に慕い、どんどん成長し、そしてその背中をが必死に追いかけている。
 ずっと一番ではあれない。そもそもは一番になれたことはない。ただ、空へ空へと無邪気に駆け抜けることを続けるのには考えることが多くなってきた。そう言い訳して、手足が重いことに甘んじた。
 手足が重くなったのなら飛べなくなっても仕方がないと。

「飛べなくなるまで駆け抜けようとするのが俺の知ってるです」
「……厳しいな」
「俺が飛んでるあんたをいつまでも見ていたいから、これはわがままですよ」

 そう言われて、は重たかった頭を上げた。頬に流れた涙を拭い、じっと見守る風間に笑いかける。不格好かもしれなかったがそれが今にできる一番の笑顔だった。

「かっこいいね、風間」
「惚れましたか」

 至極真面目に問われたその言葉には一瞬虚を衝かれ、そして思い切り吹き出した。真面目な顔をして随分とちゃっかりしている風間に肩の力も抜ける。

「見直した。風間はモテると思うよ」

 その言葉に風間は不満そうだったけれどが朗らかに笑ったからか、そのまま黙ってコーヒーを口にしていた。


***


 見慣れた後姿を見つけ、は声をかけた。

「響子、鬼怒田さん知らない?」
「今日は外部機関との打ち合わせじゃなかったかな?」

 本部長補佐ながら他の上層部の面々の予定もさらりと口にする沢村響子はと同い年で自慢の同期でもある。
 管理部門へ直接ボーダーへ入る人間もいるが防衛隊員から管理部門へ移る人間も一定数存在する。沢村響子は後者だった。

「鬼怒田さんいないなら開発室にちょっと顔見せた後個人ランク戦やるか……」
「いいじゃない。最近やる気だって、忍田さんが嬉しそうだったわよ」
「忍田さん、私に物申したそうだったもんなあ」

 物申したそうな人間は山ほどいただろう。先日東と飲んだ時にもお前のせいで聞き役をさんざんやらされたぞとやんわりどころかはっきり文句を言われた。
 自分が思ったよりも弱くて臆病だったのだと、は初めて自覚した。
 けれどそれを意外な方向から覆す存在がいた。戦って、戦って、どんな風でも戦い抜けと言われるような、そんな出来事だった。

「ちょっとさ、本気で勝負したくなった」
「誰と?」

 おどけるような沢村の問いかけには笑いかける。

「成長めざましい後輩全員とよ」

 年上のお姉様の意地汚さを存分に味わうがいい!
 不敵に笑うに沢村は微笑んだ。

「みんなには悪いけど、私はの応援をしておくわ」
「愛してるわ、響子」

 軽く抱き寄せる同僚に沢村は軽く抱きしめ返しくすくすと笑いをこぼす。昔はこんな風にランク戦の前に気合を入れることはよくあった。まだそう昔のことではないのに懐かしい感覚だ。

「大人げなく勝ってね」
「当たり前よ」

 ふわりと離れるの体は女性にしてはしっかりとしていて引き締まっている。
 四年以上前から知っている彼女は昔も鍛えていたがあの頃の影は薄い。あの頃は部活で鍛えていたが今はそうではない。戦いやすくするために鍛えている。あの頃からこの未来は想像もできないことだった。

は、昔から私のヒーローね」
「響子は私のヒロインだもの。響子の声で私はどこまでも行けたから」
「ありがとう」
「忍田さんに愛想が尽きたらいつでも私の所に戻ってくるのよ」
「な! !」

 思わず叫ぶ沢村にはけらけら笑いながら軽やかに走り出した。走らない!とさらに声を張り上げた友人にはあいと間の抜けた返事をしながらも二人で笑い合っていた。



さんガチでアタッカー戦やるって?」

 嬉々として現れた相手には表情を硬くする。
 開発室に顔を見せた後、さてランク戦だと移動してきた途端である。

「慶、あんた風間を煽ったんじゃないの」
「今回はなんにもしてない」

 日頃から姉弟子で遊ぶのが好きな太刀川だがの指摘には真っ向から否定した。
 その顔は予想外に面白いことをされて不服といった様子で、その様子に嘘はないと判断したのかはため息一つでおさめた。

さんがいるなら俺もやる気が出る」
「ナンバーワンアタッカーが何を言うかな」

 その言葉に太刀川はにやにやと笑うだけだ。は睨んではみるが効果は焼け石に水というやつである。
 技術もセンスも圧倒的に太刀川の方が上だ。十戦した場合は負け越すだろう。風間と戦っても似たようなものだ。それなのに二人はと戦いたいというのだ。

「俺も風間さんも、本気のさんのファンなんだ」
「それ、風間からも同じようなこと聞いた。なんで?」

 太刀川はやはり笑うだけで答えようとはしない。睨んでも気にも留めない弟弟子をどうにかこらしめようと一歩踏み出したを止めたのは第三者の声だった。

「とりあえずはあんたら後輩を怯えさせてるから道の真ん中で話すのやめたらどうですか」
「荒船じゃん、ごめんごめん。元気してる?」
「まあまあです。さん今日は元気そうですね。太刀川さんも」

 弟弟子を放り出して荒船に構い出すに太刀川は肩をすくませて苦笑いだ。

 彼女はあくまで己は忍田の弟子であるだけだと主張するが彼女に基礎体術をしこまれた後輩は彼女が思うより少なくない。それを師弟関係だと彼女は言わないが勝手に師匠と呼ぶ人間もいれば公言はしないが慕う人間もいる。荒船は後者だ。
 廊下の端に寄りながら最近の荒船隊の調子を聞いて頷いていたに対して荒船もの個人ランク戦復帰の話を持ち掛けた。噂のまわり具合は随分と早いらしい。は笑いながら頷いたけれどそのあとの荒船の何気ない一言はいただけなかった。

「風間さんあたりが仕掛けましたか」
「荒船? 何の話? ちょっと個人戦するか!」
「アタッカーは辞めたんですけどね」
「じゃあ模擬戦でもいい! 訓練用のブレードでもなんでも持ってこい!」

 叫ぶ体術の師匠に荒船は満更でもなさそうに笑っている。
 直接間接、敵は多いなとつぶやく太刀川のそれは誰に向かっての言葉なのかはともかく、彼からすればと戦えればなんでもいいのだ。荒船の後に遊んでもらうことは決定事項である。
 ブランクのあると現在は狙撃手の荒船との試合はこれもまた人を集め、大いに盛り上がった。そしてその後当然のように太刀川との試合も始まり、連続20本勝負をさせられたは太刀川を正座させて説教をしたのだが当の本人はいつまでも嬉しそうに笑って周りから不気味がられていた。
 なお、荒船はかまをかけたら当たったから驚きましたよと楽しげに笑っていた。



***



 ボーダーで戦うといえばトリガーを使うことを想像するだろう。それは確かに重要な要素の一つだ。
 けれどトリガーを操る際のトリオン体は通常の肉体の何倍もの能力を発揮するがベースになるのは生身の感覚なのだ。鍛えることでトリオン体でも生身同様に動かせるようにすることは非常に重要だった。
 ただ、隊員のほとんどが十代であり、彼らは特別に訓練をしなくても成長期で、最低限の訓練だけでも体はしなやかに動く。それ以上に体を鍛えるかどうかは人それぞれだった。

「風間は未だに基礎を怠らないのが偉いね。私の弟弟子はなまじ出来るからって調子に乗る」

 訓練室で生身の組み手を行った後に背伸びをしながらは風間に笑いかけた。
 風間はそれに対して謙遜するわけでもなく胸を張るでもなく習慣になっているので、と一言で片づけた。
 その習慣に若干の下心らしい淡い私情が挟まっていることを、彼女は知っているのだろうか。風間はうっすらとそのことを考えたがすぐに思考を止める。今の時点で知っているかどうかは置いておき彼女はそこに考え至るタイプだ。
 なにしろ風間は先日に告白しているのだ。そのぐらい彼女なら推測する。

「菊地原もたまに私のところ来るしね。隊長の指導の賜物かな」
「有効な能力があるのならばそれに見合った他の能力も揃えておくべきですから」
「昔から風間はコツコツ真面目に取り組んでたもんなあA級2位も当然だわ」

 軽く頭を下げて礼を言う。風間にとっては至って然りの道のりだったがそれでも好きな相手から褒められて悪いことはないのだ。
 そして順位の話をされ、風間はその流れで聞きたかったことを口にした。

「個人ランク戦、今季はどうするんですか」

 個人ランク戦はチーム戦のように日程が組まれているわけではない。一定の期間まででのポイント数で単純に順位をつけていく。
 最近のは個人戦を避けてきたので当然既存のポイント分でしか順位はついていない。
 それが少しずつ個人戦を再開していると噂になってきたのだ。個人ランク戦の順位争いにも名乗りを上げて本格参戦するのか。それはを知っている人間からしてみれば気になるところだった。

「今回はちゃんと参加するよ。大人の意地汚さを後輩に見せつけてやる」
「勝負しませんか」

 目が点になるというやつだろう。はじっと風間を見ていた。何を言ってるのだと、顔が語っている。

「勝った方が負けた方に一つ命令できる」
「それ私の方が不利じゃないのかなナンバー2さん」
「あんたは俺より強いですよ」

 感情の読み取りにくい瞳がを刺してくる。
 訓練室の中だけが静まり返っている。

「勝負しませんか、さん」

 は、両手を挙げて降参した。


***



「やっぱりナンバー2は伊達じゃないじゃん!」

 10本勝負、本気で戦って3勝。最近個人ランク戦から遠ざかり順位を落としていたから見れば上出来だった。
 わざわざの個人ブースにやって来た風間に文句のように叫んで見せても彼は平然としたままである。台の上に大の字で倒れるに勝者の風間は何を言うでもなく手を差し伸べた。ありがとうと、はその手を掴んで起き上がる。

「ギャラリー、結構いますよ」
「いいね。さ、検討会するよ」
「もちろんです」

 勝っても負けてもの勝負には検討会が付き物だ。個人戦なら特に対戦相手を捕まえてお互いの反省点を洗い出す。物好きなギャラリーも巻き込むことも有名で、先日の荒船と太刀川の時にも検討会はきっちり行った。
 今日も何人かが既に待っていて、その中にある意味でいるのが当然の相手を見つければはにやりと笑った。

「菊地原、見てたのね」
さん相変わらず後輩相手でも容赦ないですね」
「あんたも相変わらず先輩への敬意が足りないわよ」

 両頬をつねる先輩に菊地原は顔をしかめるがは気に留めずつねってやる。
 チームの人間以外とはなかなか話したがらない菊地原も嫌がりはしながらも仕方なしとしているのは彼女のことを風間が一目置いているからだし、彼自身がという人間を少なからず認めているからだろう。
 菊地原で遊ぶのもほどほどに、個人戦のあれこれを検討をすれば自然と意見は出てくる。

「風間はきっちりしすぎるところがあるから個人戦とか隊での訓練もいいけどたまには混戦とかの訓練してみてもいいよね。面白そう」
「そういうさんも個人戦再開したなら混成チームの訓練したらいいじゃん」

 そんな折ひょっこり顔を覗かせたのは迅だ。隣には珍しく小南がいた。風間も最近は近寄らなくなった小南を見て一瞬意識を奪われたようだったがの反応はその比ではない。
 小南を見つけた途端、は顔を輝かせて迅のこともそっちのけで小南に駆け寄った。

「小南! 久しぶり! 元気? 相変わらず可愛いし可愛い制服着てんのねえ。似合ってる」
さんも相変わらず……お元気そうです」
「おれ無視?」
「迅はたまに見かけるから別に」

 在校は被ってはいないが同じ高校出身の後輩である小南はたじろぎながらも小さく頭を下げた。迅は隣で泣き笑いだが小南と一緒だとの反応はいつものことである。
 の悪い癖は年下の女の子を猫可愛がりするところだった。とにかく全員に挨拶で可愛いと言っている。もはやまともに取りあってもらえない。
 物怖じしない小南もの猫可愛がりには弱く、いつもの威勢の良さはどこかへいってしまう。優しく頭を撫でられてもそれにただされるがままだった。
 ひとしきり可愛い後輩を愛でることに満足したのかご機嫌なは落ち着いた検討会を閉めるべく口を開いた。これもまたおきまりである。

「まあおいといて。最適解って難しいけど、考え続けるってことは未来への一番の可能性で、そのための垣根を越える行為は躊躇わないこと。誰とでもチームを組めるぐらいの気持ちでいること、それは力よ」
「久々のさん節だ」
「迅、うるさい」

 けらけら笑う迅はなんだか楽しそうで、はその笑みの分わざと肘鉄してやった。うめく迅に誰もフォローを入れないまま、用事があるらしく小南が迅を引きずっていった。
 三々五々、次第に散り散りになる隊員たちの中、風間だけが一人、に近づいた。

「約束、覚えてますか」

 それは先日、と風間の間で交わされた賭けの話だった。負けた方は勝った方の言うことを聞く。
 最近の風間の様子から、は何を言われるのかなんとなく予想をつけて頷いた。

「覚えてるよ。もう内容は決まってる?」
「デートしましょう」

 大きな声ではない。小さな声でもなかったが聞こえる範囲に人はもういなかった。きっと菊地原あたりは聞き取っただろうがの視界には見当たらない。
 じっと答えを待つ相手にはいいよと困ったように笑って返した。





(君の明日を祈らせて 前編)