昔から、は風間を遊び相手にするのを好んだ。
風間が気づいたときにはもうその形は完成していて、小学校から帰ってきた彼女は風間家に当然のように訪い風間と絵を描いたりよくわからないままごとに付き合わせたり、風間の作った積み木の城を崩壊させたりと容赦がなかった。
兄の方が彼女とは歳が近かったし、実際それなりに仲が良かった。それなのにいつもは風間の名前を呼んで自分の遊びに最後まで付き合わせた。
「は本当に仕方がないよな」
「進くんって本当にむかつく」
二人の間で時折繰り返されるそのやり取りを見ていると風間はいつも落ち着かなかった。
二人がお互いをなんとも思っていないことを知っていた。それでも二人のわかりあったその様子を見る度、もしかしたらなんとも思っていないなんていうのは己の勘違いで、二人は思いあっているのかもしれないと見せつけられるようで、実のところその光景を苦手に思っていた。
そういう時、が帰ったあとに兄は必ず風間の頭を撫で、「蒼也は本当にかわいいな」と奇しくもいつもが言うことと同じことを言うのでただ黙って撫でられていればそれすらも笑って兄はさらに撫で続けるから風間はただじっと耐えるしかなかった。
「あの人と最近会ってないんですか? この間駅前で声かけられて迷惑したんですけど」
「…………会ってないな」
送り狼のように口づけのようなものをしてからひと月。不機嫌な菊地原に言われて風間は返事に間を要した。
歌川は普通に声をかけられただけですよとフォローしていたけれどその様子は風間には簡単に想像できた。慌てたようにが駆け寄り、普通を装って菊地原を可愛がり、歌川に卒なく挨拶をし、そうして何気ない様子で風間の様子を窺う。本人は全て上手くいったと思っているだろうけれどあいにく菊地原は良くも悪くも風間の近くにいる人間に対して敏感だった。きっとどこかでボロが出ていたに違いない。
「すまない。面倒をかけたな」
「いえ。さん、少し元気がなさそうに見えました」
さらりと菊地原が告げなかったことを伝える歌川は何気ない顔をしていて、彼には姉がいたのだったなと風間は思い出す。年上の女性に対して物怖じせずに話せるのも彼の姉の影響だろう。
今までならば何かあればに一番に呼び出されていたのに、その何かが今回は自分なのだから呼び出されるはずもない。
風間はそれ以上を二人に語ることはなく、三上がやって来るといつも通りミーティングを始めた。
ミーティングを終え、風間は三人を先に帰らせて一人隊の報告書を作って作戦室を後にした。
本部の忍田のところに報告書を提出して近況を簡単に述べる。報告書は端末から提出したっていいのだが忍田は顔を見せるといつも嬉しそうに隊員達の様子を聞きたがるので風間を始め多くの隊長は忍田のところへ直接出向き、顔を見せては軽く話をする。
特に風間隊は隠密行動に長けた隊のため通常任務以外にも内密の任務を下されることがある。その点を忍田は心配しており、特に様子を聞きたがる節はあった。風間はボーダーの中でも長いが、他の隊員はまだ十代の中頃で、いくら平気そうな顔をしていて、実際平気でも忍田にとっては気がかりなのは容易に察せられた。
「今のところ隊に問題はありませんが今秋は遠征もあるので調子を崩さないように気を配っておきます」
「そうだな。何回か成功しているとはいえ危険なことには変わりない。頼りにしている」
遠征自体に忍田は積極的ではないが隊員のことを大事に思っているのは彼と話したことがある隊員ならば全員が知っている。今なお現役のまま防衛本部の本部長を担う忍田を風間はいい上司だと思っている。城戸とはタイプが違うが、違うからこそ二人の良さはわかりやすい。
真っ直ぐに向けられる思いに風間は一礼し、静かに退室した。
帰る前に一度携帯を確認したが急な飲みの誘いと勝手に入れられている諏訪たちのグループの会話が無駄に動いているだけだった。麻雀をしないのに麻雀グループのメンバーに入れるなと風間は思う。抜けてもなぜか入れられる上に九割くだらない内容なので基本的に無視している。
通知のどこにもの名前がないことだけを確認し、風間は真っ直ぐに家に帰る。明日の大学は午後からだが飲み会に参加する気はなかった。
マンションの家の前、オートロックでなかったことが幸か不幸か、扉の前で女が座り込んでいた。誰と、確認するまでもない。
その相手の一歩隣に立って見下ろすけれど微動だにしない。足音がした瞬間に体が動いたから寝ているわけではないのはお互いにわかっていた。
今日もきれいにまとめたコーディネートで、その格好で座りこむにはオススメしない外廊下だったが彼女は気にしていない。
声をかけるまでそのままなのだろうか。風間がじっとする彼女を同じようにじっと見つめることしばらく。
「蒼くん、おかえり」
「アンタのせいで帰れないんだが」
扉を遮るように座り込んで、今も俯いたままくぐもった声で出迎えの言葉を告げた彼女はまだ立ち上がる気配を見せない。
「退いてほしい」
「昨日別れたんだ」
それは風間の知る最新の恋人なのか、ひと月の間に更新された恋人なのか、風間にはわからない。この別れたという報告もされたりされなかったりと彼女の気まぐれによって行われるために風間は彼女が今まで実際に何人と付き合ったのかわからない。覚える気もない。
「よかったな」
「意味わかんない」
毎回、彼女が別れたと告げた時には必ずそう言っていた。風間には彼女の悲しみを分かち合うこともできなければするつもりもなかった。自分以外の誰と付き合おうとの心から祝福できなかったし誰と別れようと喜びはしてもほとんど憐みもしなかった。
意味がわからないという割には彼女は度々別れたと報告する。だからその度に彼女のろくでもない男からの解放と、己の飽きもしない嫉妬からのしばしの解放とを祝って、よかったなと口にする。それぐらいが風間にできるささやかな嫌味だった。
「それで次は」
「いないよ。蒼くんのせいでそれどころじゃなかった」
彼女に恋人がいないなんて何年ぶりだろうか。
本当は、思い返すまでもなくそれが何年前のことなのか確かに覚えていたけれど、ただ黙って彼女の言葉を待つ。
「いつもそう。蒼くんといると調子が狂うんだもん」
兄の進が亡くなった日からもうすぐ五年が経つ。
兄が死んだ直後から一年ほど、には恋人がいなかった。
兄の葬儀も終わり、非日常が終わりかけていた日のことだ。は風間家に昔のようにやって来て、部屋にいる風間のことを大きな声で呼んだ。「蒼くん、勉強みてあげる」彼女は大学生で、その頃は高校生の風間のことはほとんど放ったらかしだったのにわかりやすく風間に構いだした。
風間は面倒を見られるほどに成績不振ではなかった。それでも彼女は予習復習と、毎日風間に勉強をさせては次の日の課題だと一問か二問、宿題を出した。かなり難しいものが多く、解けないものもあったけれど彼女は取り組んだ形さえあればよくがんばりましたの判を押して解説をした。
「彼氏はいいのか」
ある日そう聞いた風間には嬉しそうに笑った。おそらくそれまではろくに口もきかなかったからだと、風間も今ならわかる。勉強だけをして、出された宿題だけは律義に取り組むだけのロボットのような状態から口を開けばそうなるだろう。
「蒼くんの勉強みるのが今一番楽しい」
毎日必ず、彼女は風間の宿題の進捗を確認したし、風間が家にいなければ帰ってくるまで次の宿題を用意して待っていた。
また明日と笑って出ていくその姿を、風間は記憶の中でも鮮やかに思い出せる。
「調子が狂うなら会わなきゃいいだけだろう」
「だって蒼くん以外に私の話きいてくれない」
風間も実際は三分の一も聞いていなかったけれどそれは黙っておいた。どうせいつも相手が違うだけで訴えは同じなのだ。同じ相槌なのに彼女はそれで満足していた。
時折レポートが差し迫って無視することがあったけれどそういう時は隣でうるさかった彼女も気づけば黙って読書を始めている。
ふとした時に現れるその狭くて閉じられた二人だけの世界を風間はいつも静かに待っていた。
「蒼くん、あんなことしないでよ」
「知っていたくせにそれか」
「だって、蒼くん、聞いたら終わっちゃう」
「何が」
彼女の主張は意外と理に適っていることが多いのだけれど時折こうして漠然としている。何が、とかどう終わるのか、とか、そういう具体性をわざとぼやかしている。
それは彼女自身がはっきりとさせたくないという気持ちの表れかもしれないし、本当にわからないのかもしれない。
どちらにしても、風間から見れば遅かれ早かれここに至る話なのだ。風間はどうしたってが好きだったし彼女はそれを知っていた。
「蒼くんは、とくべつなのに」
の言う「とくべつ」は風間にとっても他とは違っていたしその響きに心がざわつかないわけではない。
ただその「とくべつ」はおそらく彼女と出会ったその時から存在しているし「とくべつ」の事実も関係もなくなったりはしないだろう。
「、特別なものは唯一ではないし増える」
「変わるんだよ。もとに戻らないかもしれない」
「何もしなくても変わる」
顔を未だにあげないがびくりと体を震わせた。
彼女が何をしたいのか風間にはわからない。不明瞭で言葉足らずだ。
家の中にはまだ入れないのだろうか。気まずそうに同じ階の住人の女性が階段から現れて部屋に入っていく。玄関側に窓がなくてよかったと風間は思う。あれば大抵の人間がこの面白そうな他人事に耳を澄ませていただろう。ドアを閉める際、住人は名残惜しそうにその扉を閉めたのがいい例である。
「俺はマンションの人間に噂話を提供するほど暇じゃない」
「でも、私、この家に今、入れないよ」
入れないという割にじっとドアの前で風間を待つ矛盾を彼女はどうしたいのか。
面倒だった。
風間は手に持ったままだったキーケースを持ち直し、鍵穴に差し込んだ。そして鍵を開け、彼女のことに構うことなくドアを引いた。
「蒼くん」
「邪魔だ」
ひどい、と前にずらされる彼女はそれでようやく顔を上げる。困ったように顔を歪ませて途方に暮れているのに未だにその重い腰を上げることはしない。
わずかな入口の隙間に滑り込み、振り返りざまにもう一度彼女を見下ろした。
「入るのか、入らないのか、五秒で決めろ」
「蒼くん」
「五、四、三」
「入る」
不満だという顔を隠しもしない彼女は風間がドアから手を離した後、自分の手でドアを開け続けたままするりと部屋に入り込んだ。
そして靴も履いたまま、狭い玄関で扉が閉まると同時には風間に抱きしめられていた。ついでのようにドアの鍵を閉められる。
「蒼くんひどいよ」
「入ると言ったのはだろう。俺は聞いた」
ひどいのはどこのどいつだと、風間は腕の中におさまったままの相手に内心毒づいた。
入ると決めてこの腕を振り払わない。ひどいと言って甘んじる。それ以上にひどいことはないと風間は思う。
いつだって勝手に押し掛けて居座って好き勝手に振舞う癖にここに来てこの部屋に入ったことがないような顔をする。随分な話である。
「蒼くん、離してよ」
「嫌だ」
「……どうして、ちゃんって、呼んでくれないの」
ちゃんと、何の躊躇いもなく呼んでいた頃は風間は確かに迷いなくが好きだった。わがままだったけれどは風間が一人で退屈な顔をしていたらずっと一緒に遊んでくれたし、時折お姉さんぶって頭を撫でてくれた。それが兄のものとは違う撫で方で、風間はその手の感覚が好きだったのだ。
ちゃんと無邪気に呼べなくなってしばらくしてからだろうか。彼女は絶え間なく恋人を作り続けた。告白されては付き合い、思わせぶりに笑顔を見せて、そしてそのうちまた新しい相手と付き合いだす。そのほとんどが告白されて付き合っていたことを風間は知りたくもないのに知っていた。
「年下の幼馴染に見られたくなかった」
「それなら、ずっと一緒にいられるよ」
彼女は勉強はできたけれど時折こういうところで頑なで、それは彼女が中学生のころから変わらないところだったかもしれない。
菊地原はを好きな風間を趣味が悪いというしを目の前に気に入らないとはっきり言う。けれどは菊地原を気に入っている。
菊地原は風間に本当に悪意があれば誰であっても風間の傍から排除するだろう。はいつだって風間が本当に大事にしているものは同じように大事にしようとしていた。
モテるなと、面白そうに笑う諏訪の声が聞こえたような気がして風間は一瞬顔を顰めた。
彼女は頑なで、そして誰から見てもわかりやすかった。
「幼馴染で恋人でも、一緒にいられるだろう」
「蒼くんなんで今になってそんなこと言うの」
「俺はずっと、に触りたかったから」
腕の内側で震えた彼女の体は昔頭を撫でられていた時と比べて小さかった。
五年前、毎日蒼くんと家にやってきては宿題を出し続ける年上の彼女と今の風間は同じぐらいの年齢になった。
腕の中で固まったままの彼女が思っていたよりも歳が近く、そして手の届くところにいたのだと風間はようやく確かめられた。
「蒼くん、恋人は、いつか別れちゃうんだよ」
「がいつも大して好きでもない男と付き合ってたからだろう」
「ひどい」
「ひどいのはどっちだ」
腕の力を緩めて顔が見られるようにすれば、彼女は気まずそうに風間を正面から見られない。視線を斜め下に外したままだ。
「だって、蒼くんとそんな風になったら、いつか別れて、普通に会えなくなるんでしょう? そんなの、嫌だった」
それを人はなんというのか、風間は口を開きかけ、止めた。
その代わりその顔を手でそっと自分の方に向かせて有無を言わさず今度こそ唇に触れた。
驚く気配が目の前にあったけれどやんわりとその唇を舐めれば意地になって閉じられたので笑って一度離れる。
「俺と一緒にいて、ずっとそのまま過ごせば、別れなくて済むぞ」
「愚痴言って憂さ晴らしする相手、いなくなっちゃう」
「愚痴になる前に相手に伝えればいいだろう」
目の前の瞳が大きく開かれてぱちりと何度も瞬きをする。
目からうろこだと言わんばかりの反応に風間は珍しく笑みを深くする。
「なんで今まで教えてくれなかったの」
「なんで好きな相手の恋路を応援する義理がある」
知っているはずなのに目の前の彼女はだんだんと頬を赤らめて、それはそうかもしれないけど、と小さな声で言い訳のようにしゃべりだしそうだったので今度こそ黙ってしまえと風間はもう一度先ほど同じように顔を近づければ自然と目を閉じてきた相手に思わず毒づきながらもその唇を堪能することにした。
title:まほら