「蒼くん」
その、自分の名前を呼ぶ甘さの混じる声に風間はまたかと振り返る。
昔家が隣だった。それだけのはずだったのにお互い一人暮らしを始めた今も、彼女は風間に連絡を取り、時折食事をしたり、家に押し掛けたりする。
変わらないのは蒼くんという呼び方と、彼女の誘いをいつまでも風間が断れないことだろうか。
雑踏の中でもはっきりと彼女を認識してしまう己に風間はもうそういうものだと諦めている。
「やっぱり、蒼くんだと思った」
振り向いた途端に嬉しそうに表情を綻ばせる彼女に風間の隣にいた諏訪がにわかに驚く様子が見て取れた。最悪である。この後は諏訪も含めた飲み会だ。最低の形で本日の酒の肴の提供だがそんなことはお構いなしの彼女はいつも通りに近づいてくる。
「なに風間、彼女か?」
「幼馴染だ。しばらく黙ってろ」
「へーへー」
後で話は聞いてやる。だから余計な口は挟むな。
風間の簡潔なやり取りに諏訪は心得たと沈黙を選ぶ。その点においては今日の隣が諏訪だったのは不幸中の幸いだろう。
風間隊の誰かだったならば面倒はさらに少なくて済んだが今はこの場をやり過ごすことが風間の急務だった。
「蒼くん、今度のお休み空いてる時間ある? 聞いてほしいことがあって」
「アンタいい加減そのぐらい自分でなんとかしてくれ」
「だって、蒼くんが一番頼りになるんだもの」
何の話をなんて彼女は言わないし、風間もわかっているようで呆れ顔である。
おそらくかなりわかりやすい呆れ調子だというのにびくともしないのだから随分と彼女は風間に慣れていた。
「アンタな」
「私の名前はです。ちゃん、って昔は読んでくれてたのに」
むっと唇を尖らせて拗ねてみせる幼馴染に風間はもう一度盛大にため息をついた。
は風間たち兄弟の幼馴染で、風間よりも四つほど年上だった。
幼い頃の四歳差は男女といえど大きく、いつだっては蒼くんと呼んでは風間を弟のように扱いお姉さんなのだと年上を強調していた。
年上の彼女は風間が小学校高学年になる頃には中学生で、その頃から今までほとんどの間恋人が途絶えたことがない。
そして付き合っている恋人と何かあると蒼くんと、甘さの残る声で風間を呼んでは時に愚痴を吐き時に静かに泣き、時に苛立ちをぶつけた。どうせ今回の声掛けもその類に違いない。それ以外で呼ばれた試しがないし風間は最終的にその誘いをほとんど断ったことがなかった。
「ところで、俺は今から飲み会で、このままだと遅刻なんだが」
「え、ごめんね。蒼くん見つけたと思ったら嬉しくなって声かけちゃったの。また空いてる時間、教えてね」
申し訳なさそうに手を合わせる彼女は確かに悪気はないのだが風間がそれを怒ることがないことを知っている。無理に呼び出すことはせずとも、風間の予定に合わせてでも会うことは止めない。
その悪魔的な声を、誘いの言葉を、風間は否定できなかった。
「わかったから。アンタもデートだろ。早く行かないと遅刻だ」
「そうだった! お友だちの子、おじゃましちゃってごめんなさいね。蒼くん、またね」
じゃあ、と慌てて早足で立ち去る彼女を風間は見送り、その風間を諏訪が見守っている。デート向きの手持ちの服装がわかるぐらい、彼女は風間に会っている。
その姿が雑踏に紛れてしまった途端、行くぞと、本来行くはずの店の方へと歩き出した風間の背中を諏訪は慌てて追いかける。
「風間お前ああいうのが好きなわけ?」
「菊地原から耳にタコができるぐらい言われてるから黙ってろ」
「なんて?」
「趣味が悪い」
その言葉の瞬間、諏訪は大笑いして風間の背中を盛大にその手で叩いたのだがすぐに肘鉄で脇腹を抉られて身を捩ることになった。
***
「さんと会ったのか」
今日の飲み会は同い年の集まりで、風間、諏訪に木崎、寺島の四人だったが諏訪が話した先ほどの出来事に木崎だけが納得した顔で件の女性の名を口にした。
「何だ、知ってんのか」
「旧ボーダーに時々顔を見せに来ていたからな。ゆりさんと仲が良い」
高校時代の先輩と後輩で、は隊員ではなかったけれど幼馴染の一人である風間の兄もいたことから時折出入りをしていたらしい。木崎はさほど親しいわけではなかったけれど当時を知っている人間はもう数えられるほどだ。今も時折ゆりと会っているようだけれど移設した本部はもちろん、支部となった玉狛にはあれ以来ほとんど立ち寄っていないようだった。
風間はただ黙って聞きながら一口杯を煽った。
「風間の幼馴染なんだろ? 一刀両断しないどころか「蒼くん」だ? お前そうとうあの人に甘いな」
「放っておけ。知ってる」
「風間がペース乱されたままとか珍しいな」
コークハイを飲みながら揚げ物メニューを続ける寺島を誰も止めないまま、先ほどから風間が枝豆をりすのように頬張っては食べつくそうとしていることにもツッコミが不在である。ある意味でいつも通り放置だったが今日は話の方に夢中になっている気が強い。
よく集まる店で好きに飲んで適当に話して、時折それぞれのチームの話や所属の話をして情報交換も兼ねている気楽な飲み会は今日の主役は風間だと彼以外の三人はその視線を注いでいた。そして質問役は本日現場に居合わせた諏訪がする形になっていた。
「あの人は昔からああで、俺も別にそれでいい」
「昔から? あれお前に恋愛相談してんだろ?」
「そうだな」
「お前あの人が好きなのにか?」
「そうだ」
マジかよ、と諏訪は目を見開き、寺島はそのストレートさに口笛を吹く振りをした。木崎は今知った、みたいな顔をしていた。それに諏訪が気が付き呆れ顔である。脳筋は色恋に疎く己の色恋を隠せないようだ。ゆりさんと、名前を呼んで照れくさそうにする男のわかりやすさに全員がこの頃はあえて反応すらしていない。
この面子での珍しい色恋沙汰ではあるが中身としては意外なものである。
つまるところ風間は長期片思い中なのだ。
相手については趣味が悪いと、それこそ一刀両断したという菊地原の言葉を諏訪はわからなくもないと思う。真面目な顔をしている風間を前に苦い顔だ。
「惚れた弱みか?」
「何とでも言え。どこにも迷惑はかけていない」
「そりゃそうだ」
恋愛で参っている風間蒼也など誰も見たことがない。
けれども目の前の風間は迷惑をかけていないものの風間も人の子なのだと思わせるには十分な程度に普段とは違っていた。好意にははっきりと肯定する割にいつも以上に口は固い。
話としては三人にとってはなかなかに興味深いものだったが風間はそれ以上話す気はないようで、次第に別の話題へと移っていった。
***
は憂さ晴らし、と風間を捕まえた日には買い物に付き合わせたり美味しいと評判の店に連れて行ったりと好き勝手に振る舞う。恋人と喧嘩をした夜に風間を捕まえた日には風間の一人暮らしの部屋まで押し掛けるか自分の部屋まで呼び出そうとする。
そろそろ十年近くになるこのの風間への好き勝手な振る舞いのほとんどを風間は人に教えたことはない。彼女が言いたい範囲で風間の周りに言うことはあっても、彼女もそれほどこの二人だけの時間について口を開くことはなかった。
だからについて知っている人間は旧ボーダーからの人間と先日の諏訪、それから風間隊の面々ぐらいだ。
が風間と二人以外で会うことは稀にあり、それが風間隊の集まりに顔を出すことだった。彼女は菊地原に会いたいと時折風間隊の集まりに顔を出す。
当の菊地原に毛嫌いされても菊地原を可愛がっては帰っていくし菊地原も悪態をつきながら本気でと風間を引きはがそうとはしない。
ただいつも風間を目の前に「風間さんは本当に女の趣味が悪い」と言うだけである。風間はノーコメントだったし菊地原もそれ以上は口にしない。歌川と三上は時折菊地原を止めるぐらいで静観していた。
三上加入前の風間隊の集まりにもは顔を見せに来ていたがその頃は宇佐美がいた分いろんな意味で場が賑やかだった。菊地原は左右に文句を言うに忙しくてそこまで場は荒れずに会話は空中分解していた。その点は今よりも混乱は激しかったがある意味で平和だったかもしれない。
その頃のは随分と当時の恋人に執心で、あまり顔を見せていないのも平和な印象の一つだろう。風間は変わらず一人呼び出されてはいたけれど。
偶然の邂逅から数日、風間は律義に彼女に連絡を取ったし、彼女が行きたいというイタリアンバルで話を聞いていた。それを聞けば菊地原は嫌な顔をしただろうけれど風間は彼にそれを悟らせないことに成功していた。菊地原の前では通話しない。連絡を取っていることはバレていてもそれ以上は菊地原も追求しない。ただ甘やかしすぎたらつけあがりますよと言って隣の歌川を困らせるぐらいである。
話を聞きながらも最近はコロコロと会う度に恋人の名前が違うので風間はいい加減相手の名前を覚えるのを止めたかった。けれどもなんだかんだ最新の恋人の名前だけは脳裏に焼き付いて離れないのだから、自分の感情とはいえままならないものを抱えるのには慣れていても嫌になる。
「、飲みすぎだ」
「ちゃんって呼んでよ蒼くん」
創作イタリアンバルは風間が仲間内では選ばないような洒落た店内で、客も女性客が中心だった。友人たちとの集まりだろうか、ざわついた店内の声も風間がいつも聞く声たちよりも少し高めで、そしてのよく言う憂さ晴らし、なのか時折気兼ねのない笑い声が聞こえてくる。
はこのワインを美味しいよ、と早いペースで飲んでいく。
酒に弱くはない。風間よりもよほど飲めるけれどほんのりと頬は赤らんでいて、風間はと飲むときはいつも以上に慎重に、間に水を挟みながら飲むことにしている。
に何と煽られようと、彼女を家に送り届けることにしていた。酒に溺れれば何をするか自信はなかった。そして風間がそれをすれば彼女は途端に避けるのも目に見えている。
それなのには外で食事をする時、デートかと言われてもおかしくない程度には着飾って、頬を赤らめて隣の風間を愛称で呼ぶ。
風間には彼女のことがわかるようでまるでわからない。わからないまま、気まぐれに彼女のわがままに付き合うことにする。
「ちゃん」
「なあに、蒼くん」
「呼べと言うから呼んだだけだ」
「いじわる」
それは己のことを言うのだと、風間は口にしかけてやめた。
美味しいものを食べ、恋人が自分の話を聞いてくれない、服の趣味を押し付けてくる、スキンシップが多い、等等、彼女の愚痴は枚挙に暇がない。それを幼馴染とはいえ異性に語ってくるのもいかがなものかと風間は思う。
今は自分だけに零しているとわかっている愚痴も、いつ自分の立ち位置を他人に取って変わられるのかわかったものではない。そんなことはないだろうと自信のある己と、わからないぞと警戒する自分とが入れ代わり立ち代わり頭の中で囁いている。どれがいいのか、正解はわからない。
そんな風間の葛藤など露知らず、隣の彼女はまた一口。注がれた白ワインを口にする。
昔は少女らしい丸みのあった体も今はすらりと伸び、隣に座る綺麗に着飾った相手は妙齢の女性だった。社会に出て働く人の顔つきをして、時折風間の知らない表情を見せて疲れたように笑う。
「みんないじわる。なんで、結婚とか子どもとか、そういうの言うのかな。私、一言もそんなこと言ったことないのに」
一年ほど前。風間が大学二年生の上がった頃から、彼女の愚痴に時折結婚という言葉が入ってきた。付き合う男性にそれを仄めかされ、逃げて逃げて逃げ切れなくなると別れる。最近に至っては仄めかされた時点でかなり警戒するようになっていた。
昔はお嫁さんになるのが夢なのだときらきらとした笑顔を風間に向けていた彼女はそんなこと忘れてしまったかのように、あるいは忘れるために残り少なくなった白く透き通った液体を喉元に運んでその細い首筋を風間に見せた。
「それでやめておけ」
「明日休みだもん。蒼くん、家まで送ってくれるからいいの」
その言葉は全て事実だったけれどだからといって必要以上に酒を煽る理由にはならない。
どこで甘やかし方を間違えたのか。それとも最初から間違えていたのだろうか。
「俺がいつまでも面倒みられるわけじゃないからな」
風間の言葉は事実で、そして願っていないことで、願っていることだった。
いつまでも、彼女が定まらない恋をして早く別れてしまえばいいような男と付き合うのを目の前で黙って見守り、甘えてくるときにだけただ都合よく甘やかし、すぐに逃げ出して来いと願っている。
それを、彼女もわかっていることを風間は知っていた。
「どうして、蒼くんまでそんなこと言うの」
一体彼女は誰に何を言われたのだろうか。風間にはわからない。
彼女について知っていることは昔からひとりになるのがこわい人だということ。こわいことをこわいといえないこと。それでも誰かの隣にいないと耐えられないこと。安全圏に風間を置きたがること。
もう二人とも酒を飲める年になった。とうの昔に結婚できる年になった。何も変わらないようで変わり続けている。
「俺がを好きだからだ」
アルコールで蕩けたはずの瞳はやけに静かに風間の瞳を捉えている。すぐに言葉は返ってこないまま、二人の間だけが妙な沈黙で満ちていく。
驚きはない。そんなことははとうの昔から知っていて、そしてわかっていて風間を呼ぶのだから。断られないと知って、それでいて蒼くんと、誰も呼ばない呼び方で風間を呼び、甘えれば甘やかされること知り、それをして風間を甘やかす。
けれどそれは永遠ではない。いつか必ず終わりのあることだった。
「それでも、私は」
その後の言葉は言葉にならず、杯に残る白ワインを流しこんだ彼女は机に突っ伏した。どうせ静かに泣いていることを風間は知っていた。その涙は本当なのに、一瞬すれば嘘みたいに乾いているのもまたわかっていることだった。
風間は勘定を済ませてタクシーに彼女を放り込んで自分も乗り込む。
その頃には彼女の涙は予想通り嘘みたいになかったことになって、拗ねたように唇を尖らせて当然のように後部座席で座っている。
「みんな大人ぶって、それっぽいことばっかり言うのよ」
「もう、俺もアンタも大人だよ」
意識も朦朧に高さの変わらない風間の肩に寄りかかる彼女はその言葉に顔を歪ませる。
「そんなの、知りたくない」
吐き捨てるような言葉はきっと風間しか聞くことがないだろう。彼女は付き合う相手にはにこにこ笑って、こんなに理不尽には振舞うことをしない。
その理不尽を風間もまた甘んじていたのだから、きっとそれはそのツケなのだろう。お互いが甘えて甘えられて、その脆い関係にとうとう果てが見えている。
タクシーを降りてマンションの部屋の前まで支えながらも彼女はある程度は一人で立って歩いていた。いつも最後の最後で家にたどり着けないほどに彼女は飲みつぶれたりはしなかった。
「今日は化粧だけ落としてさっさと寝ろ」
「蒼くんのばか」
玄関を跨いで二人は対峙する。壁を支えに立ちながら睨んでくる年上の幼馴染の頬に風間はそっと触れた。アルコールで熱くなった頬から風間の手に熱が移っていく。
「もう俺は、ちゃんとは呼べない」
「蒼く」
唇に触れるか触れないか、頬に微かに触れたかもわからない、そのぐらいの接触にはただ固まっていた。
終わりは唐突に訪れて、そしてその先の道はまだ誰にも見えていない。
「おやすみ」
熱のない挨拶と共にの頬から風間の熱が離れていく。
名残惜しそうにすることもなく、風間はあっという間に立ち去り、ドアもパタリと閉じられる。
閉じられたドアの前、はしばらくの間立ち尽くしていた。
title:まほら