「迅くん、お願い、どこにもいかないで」
彼女の腕が自分に絡みつき、せつなげに囁かれた時、迅はこれは夢かなと思ったけれど寝ているのは彼女で、そして苦しそうに眉間に皺をつくり、涙を流しながら口にされるのだからとても良い夢には見えなかった。
先日、忙殺を理由に食生活が不規則だという彼女に小南から夕飯招集がかかってからしばらく、聞き取り調査ののち、定期的に招集しようという話になった。そして招待をしだしてからしばらく。本日、夕飯当番は迅で、メニューは寄せ鍋だった。
その日は林藤も一緒に夕飯の席にいて、いい酒が入ったんだよなあと日本酒の話を何の気なしにしたのが彼女の運のつきだったのかもしれない。気になり出したは一口だけ、と言いながら結局美味しいとそれ以上に飲み、疲労もあってか酔いが回ってソファにダウンしてしまった。
当然のように寝てしまった彼女の世話は迅の役目となり、確かに言われずともそのうち世話をすると申し出たことではあっただろう。けれども付き合ってもいないのにそれを当然のように周りに察せられているのもむず痒いものがある。いくら大人びていると言われる迅も好きな人の前ではその器用さは発揮できないこともあるのだ。
空き部屋のベッドシーツを整え、他の住み込みの面々もそれぞれ部屋に戻った後、そろそろ起きるかと期待した彼女はぐっすりで、それならば運ぼうとしたらこれだった。寝ぼけ眼の彼女は抱き上げようとしたのに迅を認めた途端にしがみついて離れない。
「さん、何か悪い夢でもみた?」
「迅くんは、迅くんだよね? 迅じゃないよね?」
迅と呼び捨てられたことに首を傾げるけれど未だに夢の中の住人らしい彼女の意識は今のこの現実と混濁しているようだった。
彼女のみたものがなにか、迅にはわからないけれど、どうも迅くんと呼ばれる自分と迅は違いがあるらしいことはわかった。
残念ながら今視えるのは寝ている彼女をこれから自分がベッドに運んだ後寝かしつける未来だけだ。夢の中身が何かは迅自身が聞かなければわからない。
「おれはおれだよ。どうしたの、さん」
「……長い、長い夢を見たよ」
夢でよかったと、ぽつぽつと語る彼女の夢の概要は確かに壮大で、そして彼女が自分を掴んで離さない理由も、苦しそうにする理由もわかった。
彼女は夢の中で知ってしまった。
少し前まで普段通りに過ごしていた迅悠一という人間が実は死んでいて、死に際に黒トリガーを遺していたことを。そしてその黒トリガーは人間の、迅そっくりの形をしており、迅の振りをしてみんなのために存在していたことを。
そして夢の中の彼女はそのことを嘘でも冗談でもなく本当のことだと、理解してしまった。
夢の中のは迅が遺した黒トリガーの為に一からエンジニアの勉強をし、その後ずっと黒トリガーのメンテナンスをすることを選んだらしい。迅が遺したもののために、いなくなった迅のために何ができるのかと考えて考えて考えて、彼女の出した答えは現実の迅が聞いた限り目眩のするものだった。
夢の中のは何年も何年も、年を取らないがために迅悠一にもなれなくなった黒トリガーをメンテナンスし続けるのだという。サイドエフェクトの能力を不完全ながら引継ぎ、己が稼働し続ける限り迅から引き継いだ未来視の力を仲間のために使い続けるという、その黒トリガーの面倒を見ることにしたと。
話そのものが大きく展開することはほとんどないけれど、出発地点から絶望的な未来の先の先までを夢をみたのだという。
なだめながら、なんとかしがみつく彼女をベッドまで運んで、手を握り、が落ち着くまで迅はずっとその長い長い夢の話を聞いていた。
「迅が嫌いなんじゃないの。迅くんがいなかったのがどうしようもなく悲しくて、それに気がつけなかったことも情けなくて」
「うん」
「迅くん、迅くんは、お願いだから一人でしんじゃったりしないで」
「うん」
「私、あんなの、いやだよ」
しなないでと、何度も何度もお願いをしてくる彼女の言葉に迅は一つ一つ頷いた。この後の彼女の夢がどうか幸福なものであるように、ただそれだけを願いながら、空いている手で何度も何度も彼女の頭を撫で続けた。
眠気は先ほどのの話で全て吹っ飛んでいた。
ホットミルクに少しブランデーを入れて、暗く静まった台所でぼんやりと温かいそれを口にする。
「……さん、多分、おれがしんじゃったのは、おれが望んだからだよ」
どうして、いつ、どうやって。
夢の迅がなぜ死んでしまったのかを彼女は知らなかった。知らなかったけれど、長い夢の話を聞き、迅自身が自分がもしもその未来にいたのならどうしていたのだろうかと思えば、答えは絞られてくる。
迅は己がきっと高確率で夢の中の迅悠一と同じ選択肢をしただろうと、わかっていた。その点では実に迅のしそうなことを理解している。その夢は現実的な、万が一そんなことが有り得るのなら存在する選択肢の一つだった。
夢の迅が、自分が死ぬ未来を選んだのに執念とも呼べそうな黒トリガーの機能を遺したことはまだ"未来視"がなくなっては困ると、迅自身が強く感じていたからだろう。迅だって今死ぬと言われても困る。まだ何も、迅は望んだ未来にたどり着けていない。
「おれが自分より大事にする未来、おれ、今のところ一つしか浮かばないよ」
他国に攻められそうなこともなければ攻められた形跡もなく、日常が続いている中で迅悠一だけがいなくなってしまった未来。
彼がその命を手放して、そして手に入れた世界はきっと世界の平和なんてものじゃなかったはずだ。それなら迅悠一は自分が生き残らないと平和の確率が下がることを知っている。まだまだ未熟なこの世界で近界に対抗するのに“未来視”を迅も周りも手放せない。博打のように黒トリガーを遺そうなんて考えないはずだ。どんなものになるのかなんて迅自身ですらわからないのに。夢の中では結果的にうまくいっただけだ。
そうして考えれば、自分の命と天秤にかけるような、そんな存在はなんだろうと考えて、気が付いてしまった。
「きっと、死んじゃったおれと黒トリガーは、墓場まで持って行ったんだろうな、その秘密」
きみのためなら世界だって放り出してもいい。
そんなこと、言えるわけも、選べるわけもないと迅は思う。自分が視える世界のあまりの広さに、頼られる重みに、迅はいつだっていっぱいいっぱいだ。
けれど、本当にそうなって、どうしようもないと思った迅はどうするだろうか。
確かにみんなの未来の為に迅はたくさんの、数えきれない未来を視て、選んで、進んでいる。選ばなかった未来の先が全て悪いことなんて、そんなことはない。禍福は常に存在し、ただ迅とボーダーにとって最善に近い未来を選んでいる。選ばなかった未来の幸福を、迅は視たこともあるし視なかったこともあるだろう。
「おれなら、どうするかな」
選ばなければならないことなんて毎日山のようにある。選択肢はいつだって目の前に提示されており、迅以外だっていつも何かを選択している。
彼女の見た夢の未来を、迅は自分が選ぶのか、今はまだ答えが出せそうになかった。
不幸中の幸いはが夢の中身を覚えていなかったことだろう。
気遣って嘘をついたのでは、と迅はしばらくの様子を見ていたけれど朝ごはんを食べている間も特にこれといって不審な点はなかった。
今日は休みだから家で溜まった家事をしないと、とお天気の外を見ながらため息をつく彼女を本部へ行くがてら送っていったのは林藤で、迅は車の免許取ろうかなと二人を見送りながらぼんやりと考えていた。
その後も何となく、何をする気も起きずにぼんやりとリビングテーブルにぺたりと頭を預けてぼんやりとしていた。
土曜日の朝は皆活動的で、洗濯当番のレイジは上でシーツやらも含めて干しているところだろう。そのうち小南と烏丸と宇佐美もやってきて、訓練なり防衛任務なりに向かうこともあれば地下にこもって訓練室の改造をしたりと、それぞれ好き好き活動し始める。
そう思っていればレイジが下に下りてきていた。かごもしまって、朝からしゃきっとしているので迅とは大違いである。
「どうした、迅」
「レイジさんさ、大事な人と自分のどちらかしか助からないとしたら、どっちを助ける?」
レイジはその問いかけについて考える前にじっと迅を見ていた。そういう未来を視たのか、確かめるようなまなざしだったけれど迅に特別気負った感じもなかったのか、そうだな、と腕を組んで一考してくれるようだった。
迅はそんなレイジを見ながらどちらかを選ぶなんて、レイジはしないだろうと思う。彼の鍛えた肉体は、人よりも扱える武器の多さは、その努力は、何のためにあるのか、迅は昔からよく知っている。聞くだけ野暮な話だった。
その知っている事実通り、レイジはレイジらしい答えを口にする。
「大事な人を助けた上で俺も助かるようにするな」
「だよね」
「その為に鍛えてるからな」
わかりきったことを聞いてしまった自分に迅は苦笑いだ。どうにも昨日の夜中のことがだいぶ堪えているらしい。
レイジはレイジで妙な質問に首を傾げている。
「どうかしたのか」
「いや、ちょっとした疑問。レイジさんの答えなんてわかってたのにね。わざわざありがと」
「聞いてみないとわからないこともあるからな。別に聞かれて答えるのは苦じゃない。お前はもっと思っていることを普段から口にしておけ」
ぽん、と手のひらを頭の上に載せられ、そのまま軽く体重をかけられ、それから何度か撫でられる。迅はうわ、と声を上げたけれどお構いなしだった。
レイジの手は大きくて、そして固くて撫でられる心地よさはなかったけれど気づけば迅はへらりと笑っていた。
「レイジさん、手、かたい」
「鍛えてるからな」
「だよね」
気合が入らないなあとそれでも顔を上げずにいれば、なら訓練に付き合えと、生身でランニングに付き合わされた迅はそのあとレイジにギリギリついていけたものの明らかに体力の差がありすぎてたまには走ろうかなと独りごちてレイジに笑われた。
***
基本的にはパトロールと称して街を徘徊をするか玉狛支部にいることが多い迅だけれど、上層部への定時報告と、本部内の未来を視る為に本部にも顔を出している。
見つかると捕まることがある面々はなるべく避けるようにしたりはするけれど本部付近も含めて迅が行けるところにはたいてい顔を出すようにしている。
なのでその日休憩がてらとコーヒー片手に覗いたラウンジで風間を見つけたのも偶然だった。
「風間さん、一人? 珍しいね」
「報告書を出しに来ただけだからな。今日は隊としては非番だ」
「働くなあ」
働くといえば迅も非公式を含めれば働いているが風間のような隊としての報告書はそこまで多くない。玉狛の面々は一人で一隊換算されるので防衛任務も一人のことも少なくはない。そういう時は自分が見聞きしたことを簡単にまとめれば終わってしまう。
えらいよね、とするりと風間の向かい側に座る迅に風間は何を言うでもない。
昼食は食べ終えたらしくコーヒーを飲みながら今度はどうやら大学の課題をしているようだった。
「で、今日はなんだ」
「ただの本部内パトロールだよ。まあ、珍しい面子で休憩時間になったけど」
その疑問は風間が口にする前に迅の背後から現れた。
「風間さんに迅! 珍しい組み合わせだな!」
「なるほど、嵐山か」
「? 隣いいか?」
「どーぞ」
風間に嵐山に迅。確かに珍しい組み合わせで、会おうと思ってもなかなか会わない組み合わせだ。迅の出没が気まぐれなのもあるし、風間も嵐山もなんだかんだそれぞれ忙しい二人である。
迅も風間も昼は食べ終わったけれど嵐山は手にプレートを持っていて今から遅い昼食である。隣をどうぞと風間に聞く前に嵐山に席を勧めたが風間も課題を片付けることにしたようなので異論はないらしい。ぺこりと嵐山が軽く頭を下げて腰を下ろす。
「任務か?」
「広報の仕事です。今日は俺だけだったので他の隊員は久々の非番ですね」
メディアの露出も厭わずにこにこと続けられるのは本人の資質が大きいところだがそれを支える隊員たちや家族の存在も大きいだろう。嵐山は周りの応援や期待を真っ直ぐに受け止めて力にできる人間だった。
今日は大学生活とボーダー隊員としての生活の両立について地元のテレビ局の取材に答えていたらしい。もちろん品行方正な生活態度だ。根付の信頼も篤い。
「この間はローカル向けのフリーペーパーに写真付きのインタビューが載ったんですけど家族が切り抜いて取ってくれてて少し照れくさかったです」
「さんざんテレビにも出ててまだ恥ずかしいの」
「迅は例えば桐絵たちに切り抜きを取ってるって目の前で見せられたら恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいですめちゃくちゃ恥ずかしい」
そうだろう、とにこにこ頷く嵐山の例えが実にえげつなく、容赦なく的確で迅は本当にこの男は敵に回したくないと思う。無自覚で味方を刺しかねない素直さがある。それはとても良いことではあるけれど同時に迅にとってはたまに鋭すぎる。
嵐山は当然のように迅の身内を小南たちとして話すのだ。それは迅にとって時折むず痒いものがある。もちろん、それを誰かに言うわけではないけれど。
「たまにこういうのがあると背筋が伸びる気がするし風間さんや迅も出てみたらいいのに」
「遠慮する」
「向き不向きってもんがあるんだよ、嵐山」
性格は違うけれどそれぞれおよそメディア向きとは言えない二人は間髪入れずに答えていた。
残念だな。そんな言葉も嵐山にかかれば嫌味なく爽やかに聞こえる。そういうことである。
その後は嵐山は前半は食事のために聞き役になりつつも、個人ランク戦の話や最近の防衛任務の話、隊員の話など、お互いに普段の活動圏が被らないことも多いので面白い話も多かった。
諏訪隊隊室恒例の麻雀会では罰ゲームつきでやろうと言い出した太刀川がボロ負けして逆立ちでA級作戦室が並ぶ廊下を練り歩いて根付に見つかって叱られていたとか、平和なところだと木虎が修に時折辛口アドバイスをしているらしいとか、菊地原がチームメンバー以外と最近話すことが増えたとか、全体的に平和な調子だった。
話も一段落ついたとき、迅は少し迷いながらも口を開いた。
「……嵐山と風間さんは、もしね、もしもの話なんだけど」
「うん?」
「自分と大事な人のどちらかしか助からないとしたらその時どうする?」
この男はまた何か視たのかと、暗に二人の視線が物申そうとしていたのでもしもの話、と改めて何の意味もない、ただの疑問だと強調する。
そうして尋ねながら、人の答えはなんとなく想像できるのに、迅は未だに自分の答えを決め兼ねている。彼女の夢の中の自分のことを考えている。夢の自分と今の自分。何が違うのか。何も違わないのか。
もやもやとしている思考を晴らすのはからりとした嵐山の声だった。
「大事な人を助けて自分も生き残る!」
「嵐山はそう言うと思った」
「風間さんはどうですか?」
笑顔で風間に回答を迫れるのはある意味才能だろう。何の気負いもなく、単純な好奇心だけで嵐山は風間の答えを待っていた。
対して風間といえばその視線は嵐山の隣に、質問者である迅へと向けられている。
「迅」
「はい」
風間に名前を呼ばれると背筋が伸びる。
一部の隊員達の中で囁かれていることを迅は見当違いにも頭に浮かべていた。
「おまえは頭は回るが馬鹿だな」
「馬鹿って、ひどいな風間さん」
「俺は風間さんの言いたいことなんとなくわかるぞ。迅は時々仕方がないなと思う」
具体性のない回答に迅はわかるようでわからず、嵐山はそれにしたりと同意している。
馬鹿だと言われてはいるもののそれは見下すようなものでもない。呆れているニュアンスが強い。
「それってどういう意味?」
「さあな。回る頭で考えてみろ」
「それはそうとして、風間さんならどうするんです?」
サラリと回答を求めることを忘れないのはさすが嵐山だろう。
風間は今度は嵐山に視線を向けて、そしてふっと笑った。
「まずは生き残って、それから確実に相手を助けるな」
「みんな欲張りだよね」
「人間そんなものだろう。だからおまえは馬鹿だと言われるんだ」
わかるようでわからない。
言われていることの意味を迅はまだつかみかねて、それでもありがとうと答えてくれたことに礼を言い、また一つ、記憶にメモをした。
***
「お、迅じゃん! ちょうどいい! 俺と勝負しようぜ」
「太刀川さん……太刀川さんってブレないね」
本部のパトロールという名の徘徊もそろそろいいだろうと、夕方前、切り上げようかなと思っていたところレイジから連絡が入り、目当ての相手のいる場所へと向かおうとしていたところ別の人間に捕まった。その人間の名前を太刀川慶という。
ボーダートップの実力を持つアタッカーなのだが迅を見ると大抵第一声が勝負をしろ、なので迅はとりあえず流れ作業でその発言をいなすことから始めなければならない。なにしろ受けると十本勝負で済めば軽い方なので。
トリオン体で明らかに本日は個人ランク戦に打ち込んでいましたという様子だけれどまだまだ遊ぶらしい。ふむ、と迷って時計を見たけれど目当ての相手を待つにしてもまだ早かったし、目の前の相手とどうやら五本ぐらいは勝負するらしい未来が視えた。
「太刀川さん、勝負してもいいけど、代わりに終わったら質問に答えてよ」
「ん? いいぞ。で、何本だ? 十本? 二十本でもいいぞ」
「五本。おれ用事があるからそれが最大」
確定している未来と言わんばかりの迅の様子に太刀川は唇を尖らせたけれど珍しく二つ返事で勝負を受けてくれた相手の気分と未来が変わらないうちに事を進めなければと思ったらしい。早々にブースに行くぞと首根っこを掴まれて迅は思わず叫ぶ羽目になったのだった。
五本。きっちり五本。勝ち越そうが負け越そうが太刀川慶は迅悠一との勝負を削る気など一切ない。
爛々と目を輝かせて迫ってくる男が何年経っても変わらず、そしてその強さだけは磨かれていく様を迅は恐ろしく思う。ストイックに突き詰めればこうなるのだと、一つの見本のような人である。
結局スコーピオンと弧月でのシンプルな勝負で二勝三敗。未来視を使っても体が温まった太刀川の方に分があり、そして迅の気持ちは勝負に全力とは言えなかった。
だから最後の五戦目「マジでやらねーと質問答えねえからな」と真剣な顔をされたときごめん、と迅は素直に謝った。太刀川の前で手を抜いていい勝負なんて一つもないのだ。
ブースから出た後、最終戦前のぶすくれていた太刀川はそこにおらず、まあまあよかったと満足そうな顔で立っていた。
「まあ最後がマジだったから許してやろう」
「ほんっとえげつないね太刀川さん!」
「なんだよ、しけた顔してたから気晴らしに付き合ってやったんだろうが」
え、と声を漏らした時にはがっしりと肩を組まれて、それで、と低い声で耳元でささやかれた。
「何また暗いこと考えてんだ?」
「暗いって決めつけないでよ」
「じゃあなんだよ」
ドストレートここに極まれり。迅は諸手をあげて降参した。太刀川にこういうところで敵う気がしない。
太刀川になりたいと思ったことはないけれど、太刀川のみる世界を見てみたいと、稀に迅は思う。
「太刀川さんは、もしも自分と大事な人のどちらかしか助からないって場面がきたら、どうする?」
「は? なんだそれ」
「だから、もしもの話」
組んだ肩を外した太刀川ははあ、と意味不明と顔に出したまま迅の両肩をぐんと掴む。
ブースの並ぶ共有スペースの端の方ではあるけれど太刀川がいるのだ。遠巻きに何をしているのだと訝しむ視線を迅は感じて内心苦笑いだが目の前の相手の反応にいっぱいいっぱいでもあった。
「迅」
「なに」
「馬鹿か?」
「……それ、風間さんにもさっき言われたよ」
「言われたのにまだそんな馬鹿なこと俺に聞くわけ? 馬鹿だな!」
今日は随分と馬鹿になる日らしい。太刀川は心底呆れたと言わんばかりで、肩を掴む力も次第に強くなっていく。
盛大なため息。そして太刀川はもう一度迅、と名前を呼ぶ。
「俺ならな、そんなこと考えないでまず動く。大事な相手なら何が何でも守る。助かる助からないとか、そういうのはあとからついてくんだよ」
「いや、でも」
「視えてるって?」
「……」
太刀川は真っ直ぐと迅を捉えている。その底が見えない瞳が迅を貫くように、問うように、見透かすように、見つめている。
迅は、こういう時の太刀川のことが苦手だった。太刀川は理屈抜きであっという間に答えを見つけてしまう。迅が答えあぐね、言葉を選びかねる答えを、強引ともいえる力強さで掴んでしまう。
「俺はいつだっておまえの未来を覆す気だし、未来が視えようが視えまいがそんなことはどうでもいい」
「どうでもいいって太刀川さん」
「迅、おまえは相手が助かれば死んでもいいのか? それとも自分が生き残ればみんなのためになるとか考えるのか? 違うだろ」
言葉を包むということを知らない男は弧月で相手を貫くように真っ直ぐ迅を貫く。
「おまえの大事な相手なんて聞くまでもねえけど、どっちも選べよ。それがどれだけ無理な未来かなんて、知りたくもないしな、そんなの覆せ」
この人は本当に、苦手だ。
迅は何も、答えられなかった。
***
「千佳ちゃん、一緒に帰ろう」
「迅さん、ありがとうございます」
レイジから迎えに行けないので支部まで雨取と帰ってきてほしいと頼まれたのは太刀川に会う少し前だった。
スナイパーの合同訓練を終えた雨取を迎えに行けばそこまでなぜか太刀川までついてきた。
迎えがレイジではない上に太刀川までくっついていたのでスナイパーの面々に珍しがられて多少絡まれたけれど適当に巻いてなんとか二人、本部を出て支部への帰り道にたどり着いた。
晴れていてよかった。修くんは遊真くんの補習の課題を手伝ってるんです。本部でも仲の良い子ができて、随分慣れました。
おしゃべり上手ではないけれど気負うことなく今日のことを話す千佳に迅の気持ちもほぐれていく。彼女の空気はやわらかく繊細で、だからこそ周りは彼女のこのやわらかさを壊さないようにと慈しむのだろうと迅は思う。
迅も今日本部で見聞きしたことを少し面白く、千佳がふと笑ってしまうような調子で話してみせる。時折彼女の知らない昔のボーダーの話も混ぜたり、今はA級隊員の昔話など、聞く度千佳がくすくすと笑うので迅もふわりと笑ってしまう。
警戒区域から抜けて川沿いを通ろうと、夕日に照らされながら帰る道は放課後のような空気すら覚えてしまうのは隣に歩くのが千佳だからだろうか。
もう卒業してしまったし懐かしさはあっても戻りたいとは思わないその空気を思い出してしまうのは不思議な気持ちだった。
「迅さん、帰る前に太刀川さんとお話してたのは、なんだったんですか?」
他愛のない帰り道の会話、直前まで話していたことを聞くのはおかしなことでもない。自然な選択肢の一つだろう。
千佳に会う頃には他愛のない話をしていたけれど最後に別れる前、一瞬だけキラリと光った太刀川の瞳は先程の会話を忘れるなよと言わんばかりの色をしていた。
迅は少し迷って、千佳に合わせていた歩みをさらに落とし、それに合わせるようにゆっくりと、言葉を選ぶ。
夕焼けは雲に紛れて眩しさより淡く光り、二人を照らす。
「千佳ちゃんは、大事な人と自分のどちらかしか助からないって言われたとき、どうする?」
「……それは、何か危ない場面ですか?」
「なんでもいいよ。千佳ちゃんが想像する場面でいい」
今まで聞いてきた人たちはある意味で強い人たちだった。強いから彼らは当然のように迅の選択肢なんて蹴飛ばして自分の答えをはっきりと言った。選択肢そのものを最初から蹴飛ばして、自分がどうしたいのかを言えた。
迅は自分が質問をぶつけた相手を無意識に選んだのかと思うと思わず笑ってしまう。選んであの人たちならば、それならば迅の答えは半分ぐらい出ているようなものだった。それに付き合わされた人たちは随分とまだるっこしい質問に根気良く付き合ってくれたことになる。馬鹿と言われるのも甘んじて受け止めるほかない。
けれど千佳はどうだろうか。迅には想像できなかった。近くで過ごしている玉狛の仲間ではあるけれど迅が千佳と過ごした日々は修や遊真に比べれば表面的なことも多い。彼女の答えを迅は想像できなかった。
だから彼女の声が隣から耳に入る心地よさを帯びた時、迅は少なから驚かされた。
「……どんな場面でも、わたし、まず自分が生き残ります」
「うん」
「大事な人はたくさんいます。どの人も、みんないつもわたしにまず自分のことを大事にしてって、言葉だったり、行動だったり、いろんな方法でずっと、根気強く教えてくれました。だから、まずわたし、自分を助けて、それから大事な人も助けます。けど」
「けど?」
雨取千佳は強かった。彼女は小さく守られるだけの存在ではなく、しなやかに、確実に前に進める足を手に入れた。未来をみつめる強さを手に入れていた。生きる勇気を持っていた。他者の願いに応えたい、その願いを受け止められる心を持っていた。
「わたしの大事な人たちは、きっとわたしがわたしを助ける間に自力で助かっちゃう人がほとんどです。みんな、わたしよりもうんと強いですから」
「……千佳ちゃん、すごいな」
「? すごい、ですか?」
「うん。おれ、ほんとに馬鹿だった」
彼女のひたむきともいえる答えは等身大だった。彼女ができる最大限、努力する。もちろんその分、彼女の大事な人もできる最大限、助かる努力をする。
とても当たり前のことだ。誰だって、助かろうとする。それは誰にも止められない、その人の自由意志だ。
どうして、わかっていたはずなのに、未来は固定されていて、そこを避けなければと思ってしまったんだろうか。どうして、彼女は助かる選択肢を選べないと、決めてしまったんだろうか。確かに彼女は迅よりも弱い。物理的に弱いけれど、でも彼女がどうするかなんて、そんなこと迅には決められるはずもなければ選べるはずもないのに。どうして、夢の中の迅も己も、それに気づけなかったのだろう。それは、随分と驕った考えに違いなかった。
「迅さんは、いつも一生懸命だと、思います」
「……一生懸命? おれが?」
恥ずかしくて埋まってしまいたい。
そんな気持ちをさらに真っ直ぐな言葉で貫くのは千佳の声だった。今日は随分と貫かれる日でもあるらしい。
「はい。迅さんはいつも自分以外の人のためにって、しんどくても笑ってます」
「そうかなあ」
「迅さん、去年熱が出てるのに無理して寝込んだこと、忘れちゃいましたか?」
みんなで看病したじゃないですかと、そう言われて迅は確かにちょっとぐらい大丈夫だろうと過信して、ギリギリ倒れない未来と見込んだ挙句倒れて支部の面々とに随分と心配されたことを思い出した。あの時は迅が倒れたという断片情報がに回った為に仕事をほっぽり出して髪もくしゃくしゃで半分泣きながら彼女は迅の部屋に駆け込んできた。
「そんなこと、あったね」
「しんどい時は言うって、みんなで約束しました」
「したね。ちゃんと覚えてるよ」
女の子はあっという間に成長してしまうんだろうか。
迅は千佳が隣で真っ直ぐに歩く姿がこんなにも凛々しく見えたのは初めてだった。五つも年下の彼女の方が、随分と大人のようにすら見えた。
「迅さん、今、しんどいですか?」
「千佳ちゃんに窘められていることが年上としてしんどい」
正直に言えば千佳はきょとんとして、そしてふふっと声を出して笑っていた。大丈夫だと、わかってもらえたらしい。
それから少しだけ視線を迷わせて、隣の迅を見る。
「迅さん、帰りましょうか」
「うん、帰ろうか」
少し大人びた顔をした彼女は今はもう自分の発言に照れくさそうに笑って、ただ前を向いて歩いていた。
***
夜、どうしても声が聞きたくて、コールすること数回。出てくれた相手は何やら出た瞬間にものすごく音を立てたけれどなんとか返事をしてくれた。
『迅くんどうしたの』
「さん、今家?」
『……家』
「その間はなに?」
『いや、その、お風呂上りで』
「……」
『想像した?!』
「してない。大丈夫してないから」
本当はお風呂上りに鳴った電話に慌てて出てしまったんだろうと思えば当然想像してしまう姿はあったけれどそれは口に出さないことにする。想像するのはもう仕方ない。正直な彼女が悪いと、迅は心の中で言い訳をする。
迅の方はもうお風呂も入った後であとは寝るだけ、ベッドに腰かけているだけだ。
待ってね、待ってねとハンズフリーにしているのかバタバタと何やら作業する彼女にゆっくりでいいよと声をかけて、聞こえてくる音をなるべく聞かないようにする。聞いてしまうといろいろと想像してしまうので。
『大丈夫。ごめん、どうかした?』
「……さん、聞きたいことがあってさ」
『うん、なあに?』
ここ数日、何度も口にした質問の発端は彼女のみた夢の話からだった。
なのに迅はやっと、この質問を最後の最後に彼女にしようと思った。随分と遠回りで、それこそ千佳に言われなければもっと気づくのが遅かっただろう。自分の馬鹿さ加減に迅は夕飯の後からこっちじわじわと恥ずかしさは増すばかりだった。
迅の言葉を待つ彼女の声はやわらかく、迅ともしも戦えばあっという間に負けてしまうだろう。
でも迅は戦えばきっと勝てる千佳に、夕焼けに照らされながら心から勝てないと思った。質問に答えてくれた誰を相手にしても勝てないと思った。
みんな、迅が悩んでいたものを既にきちんとわかって、選ぶ強さを持っているのだから。
「もしも、もしもね、自分と大事な人のどちらかしか助からないとしたら、さんはどうする?」
『何としても迅くんのこと助けるよ』
「へ」
『へ? あ、あ! あ、ちょっと待って! あ、いや、あの! 待って!』
大事な人と聞かれて、迅くんと即答した彼女の意図を迅は図りかねて、思考が停止するとはこういうことかと思わず携帯を耳元から少し離してしまった。それでも彼女は慌てて悲鳴をあげたままで、声は聞こえてくる。
『みんな大事! 大事だけど、聞いてきたのが迅くんだったから!』
「う、うん」
『えっと、とにかく、大事な人のこと助ける』
「自分が死んじゃっても?」
『死にたくないけど……でも、それしか方法がないなら、じ、大事な人が生きてくれる方がいい』
自分と同じ選択をしてしまうだろう相手の声に、迅は苦笑いだ。
きっとこのままあの夢の状態になれば、迅は彼女と同じ未来を選び取っただろう。だって、助かるか助からないか、未来はその二択になっているのだと、迅が決め込んでいるから。そして彼女は迅を信じてくれているから。
「じゃあ、ちょっと条件を変えるね」
『うん』
「例えば大事な人がおれとしてね、おれが自分よりもさんを助けるってしたら?」
『だめ! 迅くんが死んじゃう』
「でも、おれもさんに死んでほしくないからさんを助けるよ」
『でも、私も譲れない』
「うん、じゃあ、どうなると思う?」
どちらもがお互いを助けたいと願えば、そうしたら未来はどうなるのだろうか。
『……お互いがお互いを選んだら、どっちも助かる?』
「かもしれないね」
言えば未来が変わるのかもしれない。もっと悪くなるのかもしれない。もっと良くなるのかもしれない。それは、迅だけではわからないことだった。
未来は迅だけのものではなく、誰かの動きでいつだって揺れ動いていて、固定できるものでもなければ望む通りにいくわけでも望まないことを必ず回避できるわけでもない。
誰もが自分の望むもののために生きて、望む未来のために必死にもがいている。
目の前に出てきた未来以外を、迅は望んでよかった。誰かが動くのではなく、自分自身で選んでよかった。いつだって誰かのために、確かに良い未来のために、大事な人のために、誰かのためにと望んでいる自分自身のために、迅は未来を選ぶけれど、そうであれと、誰かが言ったわけではない。
迅が望んでいることを、迅はいつだって叶えようとしてよかった。
「もし、もしもおれかさんしか生き残れないってなったとしてね」
『うん』
「どうしようもなく低い確率でも、でも、もし選べるならおれ、二人とも生き残れる未来に賭けたいと思う。どっちも生き残らないかもしれないけど」
『でも、迅くんはその未来を信じるんでしょう? 私も、二人とも生き残る未来があるなら、そうなるように頑張る』
いつだって、迅は確実に、良い未来を選ぼうとしてしまう。それはボーダーの為であったし自分の為でもあった。それが乖離することはなかったけれど夢の中ではそれが崩れた。そして彼女が確実に生きる未来を選ぼうとした。
大事だからこそ、夢の中の迅は確実に助けたかったのだろう。
迅でも、その場になったらそうしたかもしれない。それはあり得ないことではなかった。
こうして人に聞いて回らなかったら、どうしてもさんを助けたいと、そう思ったのなら迅は自分がどうなってもいいと、ボーダーと、過去までの自分にとって愚かともいえる選択をしただろう。だから、執念じみた黒トリガーが遺されたに違いない。
けれど、迅の周りは迅に生き残れとも、どちらかを選べとも、言わなかった。自分ならこうすると、彼らは迅が提示した選択肢以外を平然と選んでいった。迅にも、その選択肢以外の選択はいつだって用意されているのだと、全員が迅に伝えようとするかのように。
未来の確率なんて、誰もわからない。迅のように未来が視えるわけではない。でも、もしも彼らが未来を視たとしてもきっと答えは変わらないような気がした。
「だからね、さん。きっと大丈夫だよ」
『な、なにが?』
「きっと、未来は明るくなるよ。そもそも、そんな選択肢すら出ないようにする」
そう言って、迅は心の中で約束する。夢を見た、夢の中の彼女と、そしていなくなってしまった夢の中の迅に。
電話越しの彼女は迅くん?、と不思議そうに名を呼んできて、だから迅はうん、と優しく笑ってなんてことない話を始めた。
***
夢を見た。
その夢の中は暖かくなった春の陽気に包まれていて、迅は川沿いから橋の方に向かって歩いていた。橋の欄干に手をかけているその人に会いたくて、迅は早足に、気づけば駆け出していた。
「最上さん!」
橋の手前までやってきた時、その人の名前を叫べば彼の人はこちらを向いていた。光の向きで顔はよく見えない。
立ち止まり、こちらを見ているその人に迅は何かを言わなくちゃと、そう思うのに言葉は出てこない。
元気だよとか、がんばってるよとか、いろいろな言葉が頭に浮かんでは消えていく。どれもこれも、伝えたい言葉なのかわからないまま選び取れない。
現実の時間の流れと異なっているようで、午後の暖かな陽射しはあっという間に夕暮れの色をしている。日が沈んだら、橋にいる彼は向こう側に歩き出してしまう。それだけはわかっているのに、どうしても何を言えばいいのか迅にはわからない。
みるみるうちに日が沈み、町並みに紛れていくのを見ながら迅は泣きたくなる。
「最上さん待って」
橋の欄干から手を離し、その人は背中を向けようとしてしまう。
「待ってお願い。聞いて」
言葉は選べないのではなく、きっと迅の中に眠っていた。選びたくなかったのだ。それを選ぶことは、迅にとってとても大事なことだった。
前を向く。少し離れていたはずの彼はいつの間にか目の前にいた。橋の、ギリギリのところ。最上は待ってくれていた。
「最上さん、おれ、おれね、」
未だに言葉にできないものをなんとか口にしようとして、無理やり表情がどうしてもみえない最上へと向けてみる。それでも何を言いたいのか、どうしても言葉にできない。目の前にせっかく最上がいるのに視線が下へと移っていく。足元がどんどんと暗くなり、夕暮れは終わりを迎えようとしていた。
その時、頭の上にぽんと何かが載ったような、それからどうしてか頭をくしゃくしゃと撫でられたような気がした。動けばそれは終わってしまうと迅は知っていて、だからその感覚を忘れまいと、じっと自分の足元を見つめていた。
それはほんのわずかな時間のことで、頭の上の感触が軽くなった瞬間迅が頭を上げれば夜の帳が落ち、目の前にいた人は跡形もいなくなっている。
「待ってよ、最上さん」
名前を呼んでももう姿はない。
言いたいことを言う相手は他にいるんじゃないか。
そう言われているような気がした。
***
その日は奇しくも暖かな春の午後、夕暮れの帰り道だった。
川沿いから玉狛支部へと戻るその道のりを迅は好んでいて、最近は誰かと歩んでいくことが多い。
昔は一人でなんでもしようとしていたけれど、気がつけば周りにはたくさんの人がいて、迅が頼む前に迅の背中を押してくれて、声をかけてくれて、隣にも後ろにも前にも、迅の周りにはいつの日かのようにたくさんの人がいた。
「迅くんどうしたの?」
「さん、手繋ごうよ」
「へ」
返事を聞く前にするりと手を?まえて、理由もないのに隣の手をぎゅっと?まえる。解かれてしまうかもという不安は、握り返してくれる力を感じれば霧散した。
日が落ちるのも随分と遅くなってきた。が定時で仕事を終わらせて、すっかりとお馴染みになったご飯を一緒に食べる日、二人で歩いて支部に向かうまでの時間を楽しみにするようになってどのぐらい経っただろうか。
寒かった頃からコートも分厚いものから薄手のものになり、手袋をしなくても平気になってきた。
暖かな日差しが二人をやわらかく照らして、その暖かさはこの時間を望む心のようだった。あっという間に夕暮れになってしまった夢とは違う。
ふと、最上が出てきた夢のことを口にしよう、迅はそう思った。そうしたいと思ったし、そうしなければと何かに背中を押されるような気持ちもあった。
「今朝、夢を見たんだよね」
「どんな夢?」
頬を撫でる風は少し緊張した迅の体には心地よく、すれ違ったカップルは犬の散歩をしながら仲が良さそうに話をしている。向こう側から走り抜ける子どもたちはすれ違いざまに迅たちをからかう未来が視える。風は弱く、空の動きは穏やかだった。
「夢に出てきた人に何か話したかった気がするんだけど、よく覚えてないんだ」
「覚えてないのに覚えてるの?」
「川沿いだったなっていうのも覚えてる。だけど、何を話したかったか、わからないままだったような気もする」
理由をつけたりつけなかったり、手を繋いで帰るのが半分ぐらい当たり前になって、どのぐらい経っただろう。汗ばむぐらい緊張していた手は、今もまだ緊張はしているけれど以前よりも相手の体温の心地よさを感じる余裕は出てきた。
どのぐらいの速さで歩けばいいのかも、二人でなんとなくわかってきて、少しずつ、わかることが増えていく。
少しずつ、でも確実に二人で帰りの道を進んでいく。
「それで、何を話したかったか思い出した?」
「うーん、思い出せない」
ゆらゆらと、繋いだ手を大きく振ったり、きゅっと力を込めてみたり。
そうしていると駆け抜けてくる子どもたちはあっという間に迅たちを、手を繋いでいる大人を見つけてしまう。
こいびとだ! らぶらぶだろ! ちゅーしろ!
視た通りの顔で笑いながらませた発言を叫ぶ子どもたちにひらひらと手を振って流しても、隣の彼女は少しぎこちなくなってしまうので、迅は自分がぎこちなくなる暇がない。彼女の焦りを見つけて笑ってしまうぐらいには、迅は彼女について知っていることが増えた。
「思い出せないけど、でも今おれが伝えるならって、考えて、思ったことがあるんだ」
「うん」
繋いだ手を返してくれる人がいて、名前を呼べば応えてくれて、はからずもその先の未来も望んでしまう、そういう未来が迅の目の前には広がっている。
広がる未来以上の未来を、迅はもう知っている。視えないものがあるのかもしれない。それが良いことでも悪いことでも、迅が視えているものは多くを占めていたとしても、すべてではないことを、この川沿いで迅は知った。
世界は迅が思っているよりも広く、迅が望みたいことは思った以上にたくさんあった。そうしたら、後は手を伸ばすだけだ。
ずっと伸ばしかねた手を、望んでいいのかわからなかったものを、迅は自分のために伸ばす。そしてそれをきっと、あの橋の向こうの最上に伝えたかったのだ。
「さん」
「なあに?」
その手を引っ張って、歩みを止めればゆっくりとした歩調だったからか彼女も自然と足を止めた。
夕日の光を受けて彼女の髪が、瞳が、その色味を変える。頬をやさしく撫でるような風が二人の間を抜けていく。
この手を繋いでずっと歩いていければいいのに。
この気持ちを何というのか、迅はもう、知っている。
「さん、おれ、さんのことが好きだよ」
好きな人と一緒にどこまでも歩いてければいいのに。
その気持ちを、人はきっと幸福と呼ぶ。
それはこんな川沿いを歩いているとき、ふと名前を呼ばれた時、笑いかけれくれた時、その人の声を思い出した時。人の数だけその気持ちには形があり、それぞれの意味がある。迅にとってはこの瞬間、今この時は確かに幸福だった。
瞳がまんまるに開かれて、頬があっという間に赤くなり、呼吸すら止まったように、彼女はピタリと動かなくなってしまった。思考停止。判断不能。顔にそのまま出ているぐらい、わかりやすく、固まってしまった。
それが嬉しくて、嫌だということのないただの驚きに迅は嬉しくて、くしゃくしゃに笑う。
「ずっと、さんの隣にいるのがおれならいいのにって、そう思ってる」
「迅くん、え、どうしたの」
「おれ、世界よりさんを選ぶかもしれないけど、でも、わがままだからきっとさんも世界も救いたいって言うよ」
「な、なに?! なんなの、迅くん、ちょっとまって私頭が追いつかない!」
涙目になっている彼女のその姿がすべての答えのようなものだ。それでも手を離さないままでいてくれることが迅のすべてだ。離さないどころかぎゅっと握りしめてくるその手が、迅の心をやわらかく溶かしていく。
「迅くん」
「うん、手繋いでくれたままなら、おれいくらでも待ってる」
「待ってねえなにか視てる?! だからそんなに余裕なの?!」
真っ赤な顔で困ったようにしている彼女の未来を確かに迅は視ていた。視ていたけれどそれはこの唐突な告白に対しての反応ではなく、不思議なぐらい不自然に迅から目線を外してカレーライスを食べる彼女の姿なので、だからまだ迅はこの続きを知り得ない。
「おれのこと見ずにカレー食べてるのしか視てない」
「迅くん!」
「ねえさん、早く帰ろう」
答える余裕のない彼女のその手があっという間に熱くなって汗ばんで、それが自分のことで起こったのだと思えば迅はそれだけでもう今は満足だった。彼女の頭の中が今自分でいっぱいで、ずっと自分のことを考えて、そしてそれがもっと続くなら、それだけでよかった。
けれどぐんぐん引っ張る迅自身も本当は照れくさくて恥ずかしくて焦って不安で緊張していて、だから何てことのない顔しているのに本当は彼自身の手も熱くなって汗ばんでいる、それすら気が付いていない。
日が沈んでいく姿に急かされるように迅の歩幅が広がって、はあっという間に早歩きになってしまう。
ぐんぐん進む迅の背中に彼女は繋がっている手を力いっぱい引っ張って、精いっぱいの言葉を伝える。
「迅くん! 言い逃げしないで私のことも、聞いてよ」
「私のことって」
「私が、迅くんのことどう思ってるのか」
背中を向けた迅は数秒、そこで動きを止めて、そうして油が足りないブリキのようにぎこちなく振り向いた。先ほどまでの笑顔なんてどこかへ行き、目が泳いで、なんてことない顔もできずに気まずそうにと向き合った。真っ直ぐに彼女を見ることもままならない。
夕暮れの川沿いは人通りが多くはないけれど全くないわけではない。二人とすれ違う人々がすれ違った後微笑んでいることなんて二人に気がつく余裕はなかった。
「……」
「迅くん」
「はい」
「こっち、向いて」
大きく呼吸をして、迅は逸らしていた視線を前に向ける。
顔を赤くして、握ったままの手をさらに握りしめるがそこにいる。
「迅悠一くん」
「はい」
「私も、迅くんのことが好きです。大好き。迅くんがいつも笑っている明日がきたらいいって、ずっと思ってる」
気が付けばは両手で、痛いぐらいに迅の手を握りしめている。泣きそうなぐらい瞳を揺るがせて、くしゃりと笑って迅を見る。
迅は、自分の視界もじわりと歪むのを、気が付かない振りをした。
「ありがとう、さん」
「こちらこそ、ありがとう、迅くん」
照れくさそうな彼女に迅は目を細めて笑い、気がつけば風を切るように顔を彼女の頬に寄せ、一瞬だけその頬に唇を寄せた。考えるより前に体が動いていた。
ぱちり。瞬き一つ。
人の顔ってこんなに赤くなるのだと、彼女の顔を見て、自分の熱くなっている頬を感じて、迅は次の瞬間笑いだしていた。
残りの帰り道はもっと続けばいいのにと思うぐらい、あっという間だった。
(陽だまりのくに)