その日の玉狛支部は静かだった。ゆりとクローニンはスカウトの為に長期出張で先日から留守にしており、迅は防衛任務、他は全員学校に行っている。部外者だというのに今日も当然のようには留守を任された。様子を見ていてくれと頼まれた陽太郎はお昼寝中で支部の中にはほとんど人がいない。
雷神丸の頭を軽く撫で、しばらく起きそうにないお子様の寝顔に表情を緩めた後、はリビングを後にする。向かう先には迷いがなく、普段立ち入ることのない部屋を前に立ち止まり深呼吸を一つ。ノックを三回。どうぞと、ドアの向こうの人物は訪問客を受け入れた。
「どーも」
「俺のところにわざわざ来るなんて珍しいな。何の用だ?」
近づくことのないその部屋の主はこの玉狛支部のトップだ。の来訪は予想外の事だろうに、にやりと食えない笑顔でのことを見ている。
はこの相手と話すことはほとんどない。初めて玉狛支部に来て以来、彼は基本的に部屋で仕事をしているか、本部かどこか外へとふらりと出かけている。食事の際に下りてくることもあるがと食事の時間はほぼ被ったことがない。と顔を合わせないように気を遣っているのかもしれないが支部の運営は若者へ託しているようで、初対面からそれなりに玉狛に出入りしているというのに林藤と改まって会話をするのは二度目だった。
の滞在目的は主に迅で遊ぶことなので林藤と会わないことは特に問題なかったが今回だけはこの男と話す必要があった。
「この支部、外泊許可っているの?」
林藤の目が見開かれる。それから瞬くこと数度。完全に予想外の質問だったらしい。もこんなことを聞くとは思わなかった。それでもここの保護者枠はこの男に違いないのだから、は尋ねるしかなかった。
の言葉の意味をどう取ったのか。表情も雰囲気も先ほどの驚きを隠されてしまえばにはよくわからない。
「特に厳しくは言ってないぞ。夕飯が要らないことを言っておけば一晩ぐらいは何にも言わないさ」
「支部長として?」
「保護者としてだな。まあここに住んでるガキと言ってもレイジと迅の二人だ。そこまでとやかく言わずとも二人ともわかってるさ」
他の面子は家から支部へ外泊しに来ることはある。その場合はもちろん保護者の同意を取ってからだがよくあることでみんな慣れたものだ。も週末にお泊まり会のように集まる桐絵と栞を見ている。
林藤の言い分だと一晩なら恐らくレイジ経由で連絡をしておけばなんとかなるんだろう。はそれならいいと一人納得する。そもそも、が言い出す前も迅は外泊を誤魔化している前科がある。少なくとも一晩は既に共犯の仲だった。
初めて出会った頃のままならはこんなことを隠れて林藤には聞かなかっただろう。思ったより、はこの街に長くいる。
「迅が一日ちょっと姿を消しても問題ないならいい」
「そういう未来でも"視た"のか?」
はその言葉に顔を顰める。
この街は、正しくはボーダーという組織は、随分と迅という存在に、未来視という能力に依存している。
顰めた顔を戻すことなくは林藤を睨みつける。
「視てようが視ていまいがそれはどうでもいい。悩める青年一人、家に帰りたくない日があると思ってるだけ」
「……そうか」
「そういうところがここの大人の嫌なところ」
はそう言いながら林藤を睨んでもそれ以上は何もしない。ただ顔を顰めるだけ。林藤もそれを甘んじて受け止める。
人のいない平日の午後、特に迅がいないのを狙ったのは偶然ではない。聞かれたくも、察せられたくもなかったのだ。例えもしそれを視られていても、それとこれはの中で別問題だった。
「私だったら全員ぶん殴って家出してる」
「はは! 吹っ飛びそうだな。迅も今はああだが多少荒れた時期はあるぞ」
どこまで察しているのだろうか。それとも城戸から話でも聞いたのだろうか。
が見る林藤は飄々と笑うばかりで手札をなかなか見せてくれはしない。ここが林藤の執務室でなければ早々にポケットの煙草に手を付けていただろう。
「荒れてるぐらいでちょうどいいよあの良い子は」
「お前さん相手なら悪い子になれるだろ」
「そっちにとっては随分と都合が良いだろうね」
「ああ。都合が良いんだ、俺たちは」
そう言った直後、林藤は真顔になりを正面から見て姿勢を正した。
「わかってるが、あいつのこと、できたらよろしく頼む」
突然立ち上がり頭を下げる相手にはすぐに返事が出来なかった。目の前の相手が突然真面目な調子で頭を下げて迅を頼むだなんて予想外だった。
にとって林藤は悪い人間ではないけれど気に食わない相手だ。迅にとっては頼りやすい大人なのもわかる。ずるく、都合が良い面はあっても迅のことを心配しているのも事実だ。
お互い、この場にこの出来事を予想できる相手がいないから、察せられる状況ではないから起こせたことだ。
が何かを口にする前にすっと頭を上げた林藤は途端に気の抜けるような笑みを浮かべて場を崩す。
「甘えるのが下手なガキなんだよ」
「根無し草にそんなに期待されても困る」
「まあそう言わずに、な」
林藤が念押しをしようとすまいと、結局のところは林藤の望むに近い道を進む。
わかっていたのではこれ以上となく林藤を睨み舌打ちしたが相手は嬉しそうに笑うだけだ。用は済んだのだからとは挨拶もそこそこに部屋を後にした。
少しだけだから、と目を離してしまった子どもは変わらずリビングで心地よさそうな寝息を立てている。その様子に肩の力を抜き、は空いているスペースに座ると午後の日差しを受けながら軽く目を閉じた。
*
奇しくもその足音が聞こえたのは先日レイジがお昼寝現場を目撃したのとほぼ変わらない時刻だった。座ったまま意識が緩んでいくのを感じていたは玄関からの音で誰かが戻ってきたことを理解した。
理解したことと体の動きはすぐにはリンクせず、ぼんやりとした意識のまま目を開けずにじっとしていれば足音の主はリビングに入ってくる。そしてその足が一度立ち止まり、そこから気配を消すようにそっと、おそらくは近づいてきた。
「さん?」
「なに?」
「……なんだ」
名前を呼ばれ、目を閉じたまま返事をすれば上から拗ねるような声が降ってくる。
目をパチリと開けてゆっくりと後ろを振り向けば声のトーンの通り面白くないと顔に書いている迅がいた。
「何が?」
「寝てるのかと思った」
先日寝顔を見られた意趣返しができるとでも思ったんだろう。は素直な反応に思わず口元を緩める。
「迅じゃないからね」
「どういう意味?」
「さあ」
それでもなぜか迅はそれだけで機嫌を直したらしい。拗ねた様子はどこかに消えてしまっていた。
換気のためか、窓を少しだけ開け、迅は空いているソファに腰かける。そして何が楽しいのかにこにことを見ている。まだうたた寝から調子を取り戻せないはその様子を見てとりあえず好きにさせることにした。小難しい顔をしたり塞ぎ込んでいるよりはよほど平和な景色だ。
常日頃から騒がしい玉狛支部は時折人が出払うタイミングが被ると驚くほど静かだ。静かだが、いつも賑やかで誰かがいる空間はそれでも孤独には程遠い。ここが本当に静まり返ることはないのだと、きっとここで過ごす全員がわかっているのだろう。
窓を開けたその隙間から川の気配が入り込む。秋と冬が溶け込み、季節が変わりきろうとするのは外に出れば肌身で感じられるようになった。
ひんやりとした空気にようやく目も覚めた頃、ねえ、と声がかかる。
「さん、膝枕してあげようか」
「ちょうど良いスペースもないし男のふとももは硬いから嫌だよ」
「……」
少し躊躇いながらも告げたそれをばっさり切り捨てられた迅はつまらない、と顔に出していたけれどは無視した。眠気も緩い判断も換気された空気と一緒に外に出ていってしまったのだ。
「膝枕されたことあるんだ」
「老若男女問わずあるね」
「それって普通?」
さあね、と嘯くからそれ以上聞くことはできず、二人の間に沈黙が落ちる。
そのまま沈黙が続き、は固くなった首や肩を動かして体を伸ばし、迅はソファに座ってそれをじっと見ている。
「何みてる?」
「さんのことみてる」
「面白いことなんてないだろうに」
伸びをして体をほぐしたは視線を送る迅に構うことなく、ローテーブルに置かれた文庫本を手に取った。先日も読んでいたそれは進みが遅く、栞の位置は半分よりも手前の位置にある。本を読むよりも面白いことの方がここ最近は多いのだ。
迅は特に用があるわけでもないらしく、ぼんやりとの方を見ているだけだ。いつも忙しなく動く相手のその様子をは一瞬視界に捉える。妙に考え込みそうな気配もないので、は再び活字へと視線を落とす。
時々陽太郎の寝言が聞こえ、紙をめくる音が響く。迅は気づけば膝を抱えるように座っている。
何でもない、何にもない時間が過ぎていく。
気づけば非日常であった存在が日常になっていることを不自然に思うこともない。人は慣れて、今までになかったものも当たり前にしていく。
ふっと本から視線を上げた時、その疑問はなんとなくの脳裏によぎった。
「ねえ迅、ゆりっていつ戻るの?」
「スカウトもあちこち行くから全部終わるのは一月か、もう少しかかるんじゃないかな」
「……ゆりの野郎」
「野郎じゃないよ」
「いいの」
ゆりと約束はしてもどの程度の期間かを彼女は出るまで口にはしなかった。恐らくは一か月以上、とも踏んでいたがその倍はある。一時的に戻ることがあっても約束の意味は仕事を完全に終えるまで、と言い張るのは目に見えていた。
文句を言おうにも、言えばそれはそれなりに楽しんで報告を受ける相手であることをはもう知っている。
「さすがにこの本読み終わるか」
落とした言葉に迅がの顔を真っ直ぐ見つめてきた。ただの呟きと取ればそれで終わるのに視線の先の相手は他人の言動に敏感なのでは思わず苦笑いを浮かべる。
「読みたい?」
「読み終わったら、どうするの?」
「どうして欲しい?」
栞を新しい場所へ挿し直し、文庫本は適当に脇に置いてしまう。
の意地の悪い声色に迅は顔を歪め、どう答えるかを悩んでいる。
沈黙は、迅にとっては居心地が悪いのだろうか。にはわからないそれを、助け船を出すことはしない。ただ、急かすこともしない。黙って言葉を待っている。
「もう一冊、新しい本を見つけてよ」
悩ましげなその答えには思わず口の端を上げた。
「迅が好きな本教えてくれたらそれ読もうかな」
そう言うと悩まし気な顔は困惑に様変わりしたのでは思わず声を出して笑った。そのままツボにハマって陽太郎が起きるまでお腹を抱えることになったのでその日、迅のおすすめは聞き損ねた。
(続・聖者の行進8)