迅が起きて目に入ったのは人が自分を見下ろす影だった。それから心地の良い枕の感覚を味わっていたいという名残惜しさ。それが人の脚だと気づき、その足の主が誰か思い出すまでしばらく。
慌てて起き上がりかけ、ぶつからないように頭を思い切り押さえつけられて呻いた。最高なのか最悪なのかよくわからない目覚めだった。
「めちゃくちゃ恥ずかしい」
「なに、生娘じゃあるまいし」
「さん言い方!」
起き上がりソファに座り直した迅にとって膝枕イベントという名の昼寝の代償は大きかった。
まず陽太郎と迅が膝枕で寝たままの状態でとのスリーショットが撮影されている。撮影者はレイジなので写真の流出は今のところしていないしレイジからの流出の危険は低い。ただしの携帯にデータが残っている。それだけで迅にとっては恐怖の脅迫材料だ。
はあ、と両手で顔を覆うところがの発言に繋がるのだが迅は気づく様子はない。
「寝顔の一つや二つそんな大したことじゃない」
「そうは言うけどね」
「悔しかったら私の寝顔でも撮ってみな」
けたけたと笑うの言葉に他意はないらしい。迅は一瞬ギクリと動きを止め、思わず部屋の中を見渡したが幸い陽太郎は起きた後部屋を出ていたし、レイジはキッチンにいて話は聞こえてないようだった。キッチンで何かを切る音が聞こえる。トントン。その音に肩の力を抜くことは初めてかもしれない。
肩の力を抜く迅とは違いはただ楽しそうに笑うばかりだ。自分の発言の際どさは当然わかっているだろうがそんな様子はかけらも見せない。
「玉狛には泊まらないんでしょ?」
「寝る時に人の気配が多いと落ち着かないんだよ。迅が我が家に泊まるなら考えてもいいよ」
「へ」
「ん?」
迅は自分の飛び出た声の間抜けさも相まって自分の頬が赤らんでいくのを自覚した。耳まで熱くなるような感覚に襲われるのに顔をそむけるのもしづらくて視線を泳がせる。
は三門のどこで暮らしているのかを迅に伝えていない。迅も聞いたことがない。それが一転するようなコメントだ。迅の動揺も仕方がないといえる。
「もし玉狛にいたくない日があれば一泊ぐらいいいよ。寝袋だけど」
「家、知らないよ」
「今日私を送ってそれで覚えればいい」
「いろいろとすごいこと言ってない?」
何がを変えたのか。
迅が目を合わせてもはにやにやと笑うばかりで真意は見えてこない。夜道の一回で道を覚えろというのが意地悪なことだけしかはっきりしない。
触れられて、迅が夢を見ている間には未来を視たのだろうか。今目の前にいるの未来は家に帰ることは確定している。迅はその場にいる。今夜のことだろう。を送り届ける以外の選択肢は迅の中にないらしい。の一言で未来があっという間に広がって固まった。
「私の家に泊まる未来は視える?」
「……今日のさんの未来は増えた」
そう言えばは吹き出して、それは良いことだと楽しげだ。本気か冗談かわかりにくい。
ただの家に泊まる未来はたった今、にではなく迅にその選択肢を委ねられた。だから未来は揺れていてはっきりしない。はどちらを選択しても受け入れる。未来を視ていなくてもわかる。だからこれは迅の迷いなのだろう。
「勘弁してよ」
「エリートボーダー隊員も様の手にかかればちょろいな」
「さん!」
何度彼女の名を呼んで咎めればいいのか。
今日のは終始ご機嫌である。迅が今日城戸と話したことを知ってか知らずか。
彼女の家が年季の入った古い、けれども手入れはされている日本家屋であることは先ほど視えた。の謎が一つ、あっさり消えた。
けれどそれは今の迅に対して教えられたことではない。今の迅はの家の場所を知ること、家に招かれる権利を得ただけだ。だから視えたものを迅は口にはしない。
「急になんでって顔してるから教えてあげよう」
「なんで」
「ゆりに年始に帰ってくるまではいろって言われたから。そろそろ一人ぐらい緊急連絡先教えといてもいっかなって」
迅は出張に出てしまったゆりに心の中でグッジョブと叫んだ。そしてこっそりこぶしを握り締めた。
はゆりに弱い。理由は知らないが他の相手が言うよりもゆりが言うとその言葉を割り増しで聞いている。そしてそれはゆりも気づいていて、同年代の新しい友人をゆりはわかりやすく構っていた。そして迅が知らない間に根無し草の彼女にあっさり重石をつけていた。
どうにもこの冬は慌ただしい気配がしている。その慌ただしさの中でが三門に居続けるかどうかは彼女の性格も含めて怪しかったがゆりとの約束は守ることに決めたようだ。
は好き勝手に振舞うけれど義理堅い人だ。迅との嘘のような口約束を暇だったからと嘯いて本当に三門に再びやって来た。ゆりが帰るまでここにいると言うのならばそれはきっと守られる。今の理由もきっと嘘ではない。全てではないだろうけれど。
「ゆりさんが帰ってくるまでなの?」
「あと迅が私に飽きるまでね」
つい欲張った問いかけの答えは迅の悩みの種を増やすには十分だった。うたた寝をするまでに、そう、彼女は確かに迅に約束した。飽きるまで。そんな残酷な期限だ。それは迅にとってもそうだし、自身にとってもだ。わかっているだろうはそれでも何てことのないように笑っている。
「優しいどころか、これひどい話だよ」
眠気に揺られて気づかなかった先ほどとは違う。今度は片手で顔を覆う迅には笑って流すだけだった。
***
いつの日か烏丸に送られるようにみせて送っていた日とは違い、は玉狛支部を出ると烏丸の家とは反対の方向に向かって歩き出す。
川を越え、ボーダー本部に近づくような足取りだ。迅は家を視ることができてもその場所を知らなければどこにあるのかを判断することはできない。三門市内の主要な建物は把握をしていても家屋の全ては到底覚えていられない。もっと覚えておきたいものはたくさんあった。
「さんが生活してるって、なんだか想像がつかなかったんだよね」
「ミステリアスな女だからね」
「まあ、そうだね」
出会った当時のは確かに謎の多い女性だった。ヒメノと、死んだ他人の名を名乗りその相手の願いを叶えようとしていた。それを聞かなければ彼女の詩集の読み聞かせも人生相談も迅には意味が分からない世界で終わっていただろう。追悼は必要だけど、迅にとってそれはこの世界の平和よりも先にするものではなかった。まだできることは迅の手の中に多くある。選ぶことのできる両の手は広げてもどうしても目に見える全てを拾うことはできない。悼むよりも嘆くよりも悲しむよりも、迅は誰かに必要とされ、迅自身もまた必要とされたがったのだ。
同じように未来を視る隣の人間が迅とかけ離れた世界を生きていること、それが迅にとっては不思議で、混迷していくだろう未来の直前、どうしても見逃しがたい個人的な興味でもあった。
「感情がこもってないぞ迅」
「うーん、でも、神秘のヴェールがない方がおれ好きだよ」
「へえ。詩的な言い回しだ」
隣り合って歩いているけれどの方が半歩前を歩いている。だからその相槌をしながらがどんな顔をしているのか迅にはわからない。
言った後に迅も言葉にならない音をあーだとかうーだとか言ったものの口にしたものが元に戻るわけでもない。気取った言い方も中身も、他意はなかったというのもおかしな話で、二人でしばらくの間沈黙のまま歩みを進める。
ボーダー本部がよく見える、警戒区域からやや離れたところにある区画にの家はあった。視た通りの佇まいで、人は他にいないのか一軒家のそこは暗いままだ。表札には「」と書いている。
「さんは、さんっていうの」
「そう。。フルネーム名乗っちゃうとよからぬ過去を探られるからあまり名乗ってない」
「へえ」
「父方の祖母の家でさ。今は私の持ち物になってる」
さらさらと、今まで決して口にしなかったことを簡単に口にしていく。迅にはそれを聞いて良いのかわからない。許されたなら、受け止めるだけだ。
ポケットの中から鍵を取り出して玄関の戸を開けるは慣れた調子だ。迅は送り届けたからとが玄関を閉めるのを待とうとした。
「入りなよ。お茶ぐらい出してあげるから」
「女の人ひとりの家に?」
「万が一はお酒飲ませて潰してタクシー乗せるから大丈夫」
未成年にする仕打ちではない。おそらく実行はされないし、迅も何かしようとは思っていない。
結局もしもの対処の何が大丈夫なのかわからないままだったが迅はの厚意に甘えることにした。
の家は庭付き一軒屋という立派な家で、彼女の祖母が昔から三門に住んで長かったのは想像に易かった。
迅は玉狛支部に住んで長いので板張りの廊下も畳の部屋も慣れ親しんだものではない。それでもどことなく落ち着いた雰囲気に肩の力も徐々に抜けていく。
は手洗い場を迅に教えて居間で待ってて、というと続き間になっている部屋の奥に行き、仏壇の前で手を合わせた。花束を抱えた女性の写真が飾られているのが見えた。
「おばあさん?」
「そんな上品な言い方する相手じゃないよ。クソババア」
そう言いながらは手を合わせる。ただいまと口にするのを見て迅はようやく本当にここがの家なのだと理解した。
旅を続けるような生き方の人だと思っていた。三門を離れてもそうなのだろうかと漠然と考えていたけれど彼女にも向かう場所、帰る場所があるのかもしれないのだ。
実際にこの数週間、三門にいる彼女は地に足をついた生活をしていたのだ。のらりくらりと振る舞うから、迅はを風が吹けば飛んでいくような、そういう不確かなものだと思っていた。思いたかった。そんなわけはなかった。
けれど迅はそんな考えを頭の隅に追いやって仏壇の前に見える写真に目を向けた。
「美人だね。さんおばあさん似?」
「若い頃によく似てるんだってさ。私に似て正解だって自慢げに笑ってた」
うんざり、と言わんばかりには答えながら仏間から居間を通り台所へと抜けた。
仏間と続いている居間には古い家の中での荷物とわかるものがいくつか見えて生活感がある。仏間は垣間見ただけだがふとんが隅にあるようなのではどうやらそこで寝起きをしているらしい。あまり見ないようにした。
一人暮らしの隊員の部屋へ行くこともあるけれど家族が住むような家には上がることもそうそうない。
やかんに火をかける音も、他人の家の匂いも、迅には懐かしいような、慣れないような、妙に落ち着かない気持ちにさせる。
「で、“さん”の家はどう」
「家を見るまで想像がつかなかったけど、見てみたらそういうものかなってなってる」
建物は古いけれどしっかりとした造りで敷地もまあまあ広い平屋だ。庭も小さいけれど居間から続く縁側の向こうに見える。がいない間に誰かが手入れをしていたのか、が住み始めてから手入れをしたのか。様子としては前者だろう。庭は荒れ果ててはいない。家も定期的に手入れをしていたのだろう。人が住まない家は荒れて朽ちていくことを迅は知っている。
少し見ただけでもの祖母が家を大事にしていたのがよくわかる。家財も長く丁寧に使っていたのだろう。もういない人の気配があちこちに残っている。この家で新しいものはの持ち込んだものだと見てすぐにわかるぐらいに。
は自分の家だというが長い間空けていたに違いない。だから、彼女の祖母の遺志をを尊重する誰かがいるのだ。迅はもういなくなり、会うことのない彼女の祖母がこの街を愛し、周囲を愛し、愛されていたのだろうと想像できた。
「素敵な家だよ」
そう言った迅に一瞬は動きを止めた。やかんの方を向いていて顔が見えない。
「オンボロだけど、まあ、居心地は悪くないからね」
それはきっとにとって最大限の誉め言葉なのだろう。早口のそれは彼女の照れ隠しのように迅には聞こえた。
その後座卓に出されたお茶は緑茶で、お駄賃だと言われて出されたのは地元老舗の羊羹だった。角越しに隣に座るは湯飲みではなくマグカップに緑茶を入れる自由気ままさだ。迅は一応茶托に載せられた湯飲みでもてなされた。小ぶりの白い焼き物で趣味が良い。きっとかつての家主のものだろうと、迅は黙ってその器を楽しんだ。
「この羊羹、さんって歳のわりに意外と渋い趣味してるよね」
「そんなこと言うクソガキ迅には羊羹あげないぞ」
「うそうそうそ! ここの美味しいよ! おれも大好きだから本当に取り上げないでよ!」
結局なぜか迅にと出されたそれを半分食べられた。理不尽である。素直に言えば家主の意向は絶対だと不遜に言い切られた。ご厚意には違いないしおやつを半分ずつにしてもめるなんて子どもみたいで、迅は思わず口元をほころばせてしまったので迅の負けだった。
お茶を飲み終わる頃、そろそろ帰りなとが言った。それはまるで子どものころ友だちの家に遊びに行ってそろそろ帰りなさいと促されるような、そんな淋しさがある。もうずっとずっと昔、迅にとっては数少ない子どもの頃の子どもらしい思い出だった。記憶も微かな頃、その頃も迅は帰るように言われて胸の奥がチクリと痛むように顔を微かに歪めた。
「そんな顔しなくてもまた来てもいいって」
「そういう未来でも視たの?」
「視てないけど別に好きに来たらいい。私玉狛にだいたい居着いてるからあんまりいないけど」
「確かに」
すっと立ち上がったはのろのろとまだ立ち上がれない迅の頭をその手でぐっと押さえるようにすると髪をくしゃくしゃにかき回す。迅はそうして何でもない振りをして迅に躊躇いなく触れてくれることにホッとする。躊躇い寄りも安堵を覚える自分自身になにより頬が緩む。
「髪が乱れるよ」
「乱れるようなことでもしたって誤解されるかな」
「冗談でもやめようよ!!」
の軽口に乗って迅もよいしょと勢いをつけて立ち上がる。には言ってないけれど迅はこのあと防衛任務なのだ。そう思いながらトリオン体になればくしゃくしゃになった髪は見られずに済むと思い当たる。引継ぎを終えて玉狛に戻ってしまえばトリガーオフしてもバレることなく平和に終われる。動揺して泊まる未来を想像したことも全て誰にもわからない。万事解決だ。
そういう風に誤魔化さないと迅はとどう話していいのかわからなくなる。が何を考えているのかわからないのだ。時折ふらりと気まぐれな猫のように彼女は迅の未来視をするりと潜り抜けていく。
「まあ気を付けて帰んな」
「……おじゃましました」
「はいはいまたね」
またねの響きで迅は結局この夜を機嫌良く過ごしてしまうのだ。はそんなことは知らないだろう。知らないでいいよと、見送るの姿も見えなくなった頃、迅はひとりごちた。
(続・聖者の行進7)