城戸から個別で呼び出しを受けた時、話題は一つだなと思った迅の予想は見事に当たった。
「という人物について本部で調べさせてもらった」
老若男女公私ともにモテるのは彼女の稀有な性質だろうか。公私と言うのが正しいのかを迅は知らないけれど。
ボーダー内の人を視る時、そこにが出てこないことを願っていることを気がついたのはいつだったのだろうか。出て欲しくない気持ちは確かに迅の中にあるのに、なぜなのか、迅は考えることを避けている。
ボーダーという枠は窮屈そうで似合わない彼女がそこに深く関わらないことを、迅は祈っているのかもしれない。
答えはまだ出ていない。
「それで、どうでしたか」
「我々に害意はないと判断した」
端的だ。そして出てきた言葉に迅はそっと表情を緩めた。城戸は今のところに関しては容認するということだろう。
はボーダーの事情をある程度把握している。日々話していると迅にボーダーに質問した後も一般に公開されているボーダーの情報を一通り確認をしたようだった。その上で彼女は組織としてのボーダーに個人的な協力はしないと決めているようで、口にせずとも玉狛支部の全員がそれは理解していた。
の意志に関する未来は視えにくいがイメージとして視える一つの未来だけは変わらない。彼女がボーダーに入る未来を迅は視ることはない。
「さんは何があってもボーダーに入らないよ」
「随分と入れ込むな、迅」
その言葉尻に迅は眉を小さく動かした。城戸らしからぬ発言に思えたのだ。
まるで迅がにこだわって意地を張っているかのようだ。
けれど、と迅は考える。城戸から見て迅はにこだわっているように見えるのだろう。調査報告を聞き、たった今初めて迅との話題を交わしただけでわかるぐらいに。
のような根無し草に憧れているように見えたのだろうか。自由にこの街の外へと旅をしたいと思われたのだろうか。
迅は笑って城戸の言葉を振り払う。
「心配しなくても大丈夫だよ。さんがこの街にいてもいなくても、おれはずっとここにいるよ、城戸さん。ここは最上さんが守りたかったものがあるから」
の身軽さを迅が憧れなかったわけではない。気ままに振舞う彼女に羨望がなかったといえば嘘になる。
けれど彼女は言動のままに自由気ままではないし彼女なりの不自由さに迅は気づいている。その不自由さを彼女は笑って抱えて生きていて、それは迅には未だに上手にできていないような気がするものだ。
だから、が傍にいると彼女の未来が気になってしまう。視ることの難しい彼女の未来を、ただ何も考えずに見守ることができればと迅は密かに思っている。
迅が今したいことは、彼女のように不自由さを笑って抱えてみせることではない。まだ、迅はそんな風に笑えない。抱えるものは腕をすり抜けるものが多すぎるほどで、自分の不自由さを見つめる時間も余裕も覚悟も、迅にはなかった。
最上という言葉に城戸は何を思ったのだろうか。迅はその表情からは何も読み取れなかった。ただ小さく息を吐いた彼の口から出た言葉は予想外のものだった。
「未来が視えると似るところでもあるのか」
未来が視えるのは迅とだけだ。似ていると城戸が言うそれは調査をした情報として得た何かへの言葉ではない。見たものを比べる言葉だ。
「城戸さん、もしかしてさんに会った?」
「我々は彼女が無害である限りは特別な措置は取らない」
それは質問の直接の答えではなかったけれど先ほどよりもはっきりとした答えだ。城戸本人が会って判断したのなら側が何か動かない限り当面安泰だろう。
城戸は何を話したのか答えてくれる様子はなかったけれどひとまずは安心だった。
「ありがとう」
「礼を言われることは何もないな。私はボーダーに必要なことをしているだけだ」
それでも迅はもう一度礼を言い、城戸はただそれを黙って受け止めていた。
「ただいま……って何してるのさん」
「あ、迅じゃんおかえり。何って、見ての通りよ」
少々気力の要る呼び出しを終えて玉狛支部へ帰ってみれば、迅は呑気なの声に出迎えられた。
彼女は居間のソファで何やら本を読んでおり、振り返って迅を見ても動こうとはしない。理由は簡単で、彼女の膝を枕にして陽太郎が気持ちよさそうにお昼寝と決め込んでいるからだ。その前にはソファで遊んでいたのか、大きいソファにすぐそばの一人掛けのスツールを一つくっつけて随分と長めのソファにしている。雷神丸は陽太郎の下、の足元の近くで体を丸めて寝ていた。
「気持ち良さそうに寝てるな」
「みんな出払ってるんだよ。留守番ついでに遊んでたら寝ちゃった」
がボーダー部外者でなおかつ民間人ということを全員忘れてないだろうかと迅は心配になる。林藤は上にいるらしいがそれにしても陽太郎のことは任せたと仕事に戻ったというのだ。トップがそれならば考えるだけ仕方のないことなのかもなと諦めた。先ほどまでとの落差に思考を放棄したともいう。
陽太郎を起こさないようにソファの反対隣に腰を下ろしたものの、そのままずるりとお尻がソファを滑り足は前に投げ出す形になる。随分とだらしのない格好でソファに座ってしまうけれど座りなおす元気もないのでそのままだ。
隣のはおやおやと笑いながらそれを咎めることもなく視線は本に戻っていく。迅はふうっと一息。
「ねえ、さん」
「ん?」
のことをこわいと認めろと言われた日から彼女が変わった様子はない。迅も何もなかったかのように努めてはいるが繕ったものを一枚めくれば臆病な己がいることを自覚してしまっている。
はいつまで当然の顔をしてここへ足を向けてくれるのだろうか。迅にはわからない。ある日突然気が変わったのだと荷物をまとめてまたどこかへ旅に出られてもなんの不思議もなかった。
そんな明日は迅には今のところ視えないけれど、いつでも有り得そうな未来ではあった。
「膝枕して欲しいな」
「なんだ迅、甘えたがりか。仕方ないな」
は優しい。あの日から特に、彼女は迅に甘かった。
気怠い体を持ち上げ、後頭部から彼女の腿に預ける。ゆっくりと、確かめるような動きをはただ黙って見ていた。本を読んだままだったかもしれない。迅は見ないようにしていたから本当のところはどちらなのか、わからない。
「十分五百円ね」
「エッ」
「冗談だよ」
思わず仰ぎ見た彼女は笑っていて、目が合うとさらに笑う。
は片手で本を持ち直し、空いた手がゆっくり迅の頭へと近づいていく。
「嫌ならやめるよ」
「頭撫でられるなんて役得でしょ」
じっと見つめる迅の瞳の中にが映る。
その手が躊躇うことなく己に触れる日がきますように。
そっと、慎重に頭に触れられた瞬間、迅は自然とそう願っていた。その手が頭をゆっくりと撫でていくにつれ、迅はその感覚に微睡むように目を閉じる。
しばらくの間その手は迅に構ってくれた。そうして触れる時と同様に離れることを知らせるようにその動きは静かに止まり、そっと頭から手が離れる。終わったその時間を名残惜しく思いながらも迅は本部から帰るまでに巡らせていた疑問を口にする。
「さん、城戸さんに会ったの?」
「会ったよ。話してたらムカついて勢い余って帰っちゃったわ。支払いせずに帰ったからおごらせちゃったの後で気づいたんだよね。迅、今度城戸司令に会ったらコーヒー代渡してくんない?」
「どこからツッコめばいいのかわかんないな」
閉じてた目を開けかければ、離れていたの手が視界を覆うように迅の瞼の上に降りてきた。その手の望む通りに迅はもう一度目を閉じる。先程よりも暗い瞼の向こう。手の微かな重みが心地よく瞼から体へと沁み込んでいく。
「大丈夫だよ」
手の重みと温もりに意識を奪われていた迅は一瞬何を言われたのかわからなかった。言われても、それが何に対しての大丈夫なのかはやはりわからない。
が呼吸する度に預けている頭が合わせるように微かに上下する。ソファからはみ出した足が真っ直ぐにしたままだと足先がはみ出してしまうから、そろりと膝を立てた。
投げ出していた手の片方、ソファの背もたれ側の手を自分の頭の方へと持っていく。その手はそこから目を閉じていても所在のはっきりしている、迅の瞼の上にある彼女の手を辿り手首を捉える。
「何が大丈夫?」
己よりも華奢なその手首ごと、その手をゆっくりと瞼の上から遠ざけ、己の腕を肘までソファに預けなおす。肘から先は背面に預けながら、指先は手首から彼女の指を探す。
目を閉じていると人は人の温もりを辿りたくなるんだなと迅はドクドクと早鐘を鳴らす心臓なんて考えないように思考を散らせていく。異様に早い心音について考えてしまえばそのうち息もうまくできなくなりそうだった。
の指はたどたどしく彼女の指をなぞる迅の指をふわりと包み込む。迅の肘が落ち着く位置で手と手は絡まったまま。その手はほどけはしないけれどほどこうと思えばすぐに解けてしまうぐらいの加減だ。
「なんでも。城戸司令と会ったことも、コーヒーおごらせたことも、私が迅に触れることも、迅が私に触れることも」
「……」
彼女の前で格好をつけられたことなんて出会って時間を重ねれば重ねるほどなくなっていく。他の相手には上手にかわしていく出来事も彼女の前だと迅はとんと不器用になってしまう。
慈しむその声はきっと迅を背中越しに見ている。過ぎた己の過去を重ねるように、それでいて迅の歩みだけを見ている。
「大丈夫だよ。私は迅が飽きるまではそばにいてあげる」
「そんなにやさしくしないでよ、お願いだから」
「やだね」
切実な迅の願いは鼻で笑って却下された。最大限の意地悪に、迅は目を閉じたまま困ったように眉根を寄せて笑うとそのまま沈黙を選ぶ。
片手を塞がれたままだというのに頭上から紙をめくる音がするのを迅は器用だと感じながらどんどん意識が曖昧にぼやけて沈んでいくのを遠くに感じていた。
大学の講義を終えて帰宅したレイジを居間で出迎えたのは健やかな寝息を立てる陽太郎と珍しくも人前で寝ている迅、その二人に膝を貸したまま片手で本を読むだった。片手で読むのは随分と読み辛そうだと視線を辿れば彼女の手を迅がソファに挟むように握って離さないようだった。ぎゅっと握っているその姿はおそらくレイジが見てはいけないものだ。指を絡めてないのだけが救いだろうか。少なくとも迅は頭を抱えて記憶を消してくれと頼む類のものだ。恋人のそれというよりは縋るように手を離さないそれは迅が置いてきた子どもの部分のようだったから。
一瞬その光景についていけなかったもののレイジに気がついたが口だけでシーッと沈黙を促すので我に返った。足音を消しながらソファに近づいても陽太郎はおろか迅もぐっすりだ。そのことにレイジはつい微笑んでしまう。
「随分と窮屈な読書ですね」
「子どものお守りしてればそんなもんよ。レイジ、ブランケット二人分持ってきてよ。そろそろこのままだと風邪ひいちゃう」
子どもと一括にされた二人のことをレイジは何も言わずに心得たと踵を返す。なにせ限りなく事実に近いのだから否定することが彼にはなかった。
持ってきたブランケットをそれぞれにかけても目を開ける様子はない。時間帯的にあともう少ししたら起こした方が良いのだろうが起こすには忍びない光景だった。特に、迅に関しては。
レイジはローテーブルを挟んでの斜め向かいの一人掛けのソファに腰かけた。子どもが二人、すぐ傍で寝息を立てているとなると彼女も普段よりもやわらかい表情を浮かべるらしい。ブランケットをしっかりと被っている二人を見て少し口の端を上げる彼女はいつもよりもやわらかな雰囲気だった。
「レイジは大学生だっけ?」
「は、はい」
「大学にボーダーに忙しいね」
「昔からそういうもんなんで、あまり気にしたことがないですね」
ボーダーに入る前からも父親の教えもあって体は鍛えていた。その延長線上にボーダーでの訓練と任務がある。それは非日常ではなく日常の中に溶け込んで、レイジにとっては自然なことだった。
その答えにはなるほどと頷いた。普段から鍛えていることは何かの折に話したことがある。二歳差でも体の鍛え方でたくましさが変わるだなんてが笑って呟けば彼女の見ていない瞬間に迅が明らかに拗ねていたのでレイジの記憶に残っていた。
最初は同じ能力の仲間意識で傍にいるのかと思っていたしそれはそれで普段周りに話せないことがあるならと見守っていた。というのは理由の一つではあったがほとんど建前だった。レイジ自身はからかうようなの軽口は正直苦手で遠巻きに見守っていたのが本音だ。
それがどうしたことか。気が付けば迅は彼女に関しては取り繕っていても駄々をこねるような子どもみたいに感情を隠すのが下手になっていた。の言うことに素直に反応して、いつもは周りを巻き込む迅が彼女の軽快な調子に巻き込まれている。仲間同士というよりは保護者と被保護者の関係のようにすら見える。
「迅とは昔から付き合いあるんだってね」
「ここがボーダーの本部だった頃からあいつのことは知ってますから」
「へえ。ここ、本部だったんだ。前身ってところか」
前の本部はまるで家じゃんと目を丸くするにレイジは頷いた。あの頃、この場所は家のようだった。家族のようだった。だから違う世界の相手ともそうあれると夢を見ていた。
あの頃この建物で日々を過ごした人の半分も今はいない。この場所に残った人間だって数えるほどだ。
「迅はずっと、レイジが傍にいてよかったね」
「それは、どういう意味ですか」
「頼るの下手くそだけどレイジには少しぐらい頼ってるでしょ」
「ああ」
お互いに視線を迅に注ぐ。その言葉の意味するところにレイジは思わず深く頷いた。
レイジは知っているから言えないことも、見守るしかできないこともある。知っているから言ってもらえることも、頼ってもらえることもある。
ただ、こんな風に人前で無防備に寝る姿を許すことを、レイジは迅に与えることはできない。
「さんが迅に会ってくれて良かったと思ってます」
「ピンク頭の女と? 不良の道に今から誘うかもよ?」
彼女はおどけたように笑って見せるけれどが今までここで行ってきたことが実に平和で何でもない日々の積み重ねであることをレイジは知っている。
任務だと人を視に行くためにふらりと姿を消す迅にが無理矢理ついていってみたり、だれかれ構わず料理当番の手伝いをしたり、支部内で陽太郎と小南と本気でかくれんぼをして見つけてもらえない小南をからかってみたり、京介と真顔で嘘のつきあいをしてみたり、ゆりと楽しそうに雑誌を見合ったり、クローニンと宇佐美の近界談義に突拍子もない質問を投げ込んでみたり、鍋の具の取り合いをしてみたり、こうして子どもの昼寝に付き合ってみたり。
の奔放さと優しさは共存するし、根本的に優しい人であることをレイジは彼女の行動から知っていた。
「そうだったら多分陽太郎も迅もそこで呑気に寝てませんよ」
「そういえば台詞に対して絵面が間抜けだったわ」
失敗したわとからりと笑うにレイジも笑い、それからがレイジの昔話を聞いて大笑いをして迅が起きるまで午睡の時間は和やかに過ぎていった。
(続・聖者の行進6)