太刀川と出会ってたまたま入ったカフェにはその日も立ち寄った。このカフェに行くときは適当に買った明るめの茶髪のウィッグを被りピンクにしている地毛より大人しい様を装っている。
オープンテラスで過ごすには寒い日だったが首回りはウィッグがあるおかげで多少の防寒になっている。そろそろテラス席での長居は難しい時期だが店側からひざ掛けを借りてみれば多少の時間であれば体が冷え切ることもないだろう。
は電子タバコを片手に適当に本屋で買った雑誌をめくっていた。特にこれといって興味を引くものでもなかったけれど時間を潰す程度にはちょうどいい。カップに淹れられたコーヒーは半分ほど減っていた。
それから程なく、視界に入る黒の革靴には視線を持ち上げた。
「隣をいいだろうか」
「席ならたくさん空いてるからよそはどうですか」
「君の隣がいいと言ったら、どうする。君」
わざとらしくフルネームを口にするその男とは間違いなく初対面だった。
鋭い目、顔に傷。後ろに乱れなく撫でつけた黒髪に堅苦しいが皺のないスーツ。足元の革靴も見ればすぐに上質なものと見て取れた。
「ボーダーの人間は強引で我が強いと思うだけです。やっぱり上に倣うんですか?」
「時と場合と相手によるが、我々も余裕があるわけではないのでな。できれば穏当に話をしたい」
「ハッ」
思わず鼻で笑い飛ばされてもの前に立つ男は微動だにしない。
この男が出てきた時点で穏当も何もあったものではない。は相手と確かに初対面だがこの街に来てボーダーのことを調べればその名前は簡単に知れた。
城戸正宗。ボーダートップの男である。
ボーダーの本部内にいた男が、きっとほとんどの時間をあそこで過ごす男が、わざわざ駅前のカフェに現れることそのものが非日常だ。彼の馴染の店はこんな通り沿いの店ではないはずだ。もし万が一そうだったとしてもそれはここ数年の話で、昔からの馴染みは四年と少し前に失われてしまったのかもしれない。彼を知らないにはわからないことだった。
「一般市民の私には穏当な話を望む選択肢がないらしい」
「話の流れによるということだ。なんならそれ以外の未来を視てみたらどうかね」
「……ボーダーの大人はマジで性格悪い」
不快感を隠しもせず、は顔を顰めて舌打ちまでしてみせたが城戸は眉一つ動かさない。
立ったままの城戸のもとへ店員がおずおずとコーヒーを持ってきた。どうやら既に注文をしたあとだったようである。
結局了承はしていないの目の前で立ったままの城戸に彼女はため息ひとつ。困っている店員にテーブルにコーヒーを置くように言い、どうぞと致し方なく席を勧めた。
歓迎の色など一つもなくとも城戸は平然と腰掛けた。供も付けず、周りにもこれといって警護が見えないが以前迅がに姿を消して近づいてきたことがあるのだ。同じように姿を消した隊員が数人はいるだろうとは検討をつける。この男がいなくなることは今のボーダーという組織にとってはあってはならないことだ。それぐらいはよそ者のにもわかる。
そんな重要人物が自ら出向いてくるその事態の大仰さはの好むところとは真逆である。
いつかここに誰かがやってくると予想はしていた。そして予想通りの人物の登場で、思った以上の相手だった。は軽くうつ向いて大きく深呼吸を一つ。
顔を上げ、前を見据えた彼女の瞳は曇ることもなく、そして眼差しは逸らされることなく城戸に向けられていた。
「司令自らどういったご用件でしょう」
「端的に言えばボーダーに入る気はないか確認をしたい」
顔を顰めるしかない予想通りの提案である。
一方で表情をほぼ動かさずにそれを口にした男はの動きにも何も動じずただ目の前の相手を見つめている。
この男がいる限り、ボーダーという組織は早々崩れないだろう。ここまでブレのない人間をはあまり知らない。ここに至る道のりがどれだけの困難と挫折に満ちていたのか、には到底想像できないものをこの男が歩んできたであろうことだけが察せられるだけだ。
それでもこの視線に負ける理由はにはない。
「結論から言えばボーダーに入る気はありません」
「参考までに理由を聞きたい」
「私はこの街を守る義務も理由もありませんから」
にとってこの土地は縁があれど命を懸けてまで守りたいほどの理由が存在しない。少し気の良い知人と友人と呼べるかもしれない相手がいるだけである。昔住んだ家も懐かしさを帯びてもこだわる理由にはならない。
「君のその未来視がトリオン能力の高さに由来する可能性と、その能力の高さ故に近界に狙われる可能性があってもかね」
「ボーダーだけが自衛手段ではなく、ボーダーだけが全てではない」
「否定はしない」
残念だという様子も見せず、まるでの答えを相手はわかっていたかのように冷静だった。
あるいは、本当に"知って"いたのかもしれない。
「私がいれば迅が少し楽だと思いましたか」
「君と迅の能力は同じ系統のものであっても別のものだと聞いている。あれの負担が減るわけではないし減らすつもりも本人はないだろう」
ならば本当にこれは単純にのスカウトだった。迅や、おそらくは太刀川を経由して知り得た情報がボーダーにとって有用だったのだろう。
は迅とは違う己の使い方の為にやって来た相手が城戸である意味を残念ながら想像してしまった。そしてそれに捕らわれた瞬間蜘蛛の巣に引っかかるようなものだということも、簡単に想像ができた。捕らわれるわけにはいかなかった。
「迅が元気でボーダーにいる限り、私はボーダーに特別不利益なことはしない。約束します」
「迅は特別かね」
顔を合わせた瞬間から何も動じることのない男の言葉はばかりを揺さぶる。が動揺を悟らせないように努めて冷静であろうとしていることも織り込み済みだろう。
何より、城戸の言葉はにとっては事実であり否定する要素も理由もなかった。
それでもそれをわざわざ口にされることが癇に障るかどうかは別だった。
「特別じゃないはずがないって、アンタ知ってるんでしょ」
「それは我々もまた同じことだ。我々は今迅を失うわけにはいかない」
から見る城戸は何ら動揺のない機械のような男に見える。
けれど今日実際に会話をしてみて考えを改めた。特に迅についての意見を耳にしてからは見え方が変わった。ピースがハマったように今日の訪問の答えを理解した。
「別に迅をどこかに連れ去るつもりもなければあの子はどこにも行くつもりがない。それが知りたかったんでしょう。迅にとって私はたしかに特別なのかもしれない。けどここと天秤にかけるような特別ではない」
一瞬表情がわずかに動いたことを確認しは納得した。このボーダートップはそれを確認するためだけにを勧誘する体を取ったのだ。勧誘の成否はおまけでしかなく、迅の所在をはっきりさせたかったに違いない。
から、傍から見れば迅がこの街やボーダーを捨て置くことなどあるわけがない。それでも、確かめたかったのだろうか。
この街を守っている組織のトップへなりの敬意はあったがそれ以上に見えてきた事実に言葉はどんどん荒くなる。城戸の疑いは迅への疑いだ。それはにとって、未来が視える者同士として感情的にならざるを得ないものだった。
「城戸さんアンタさ、私はボーダーの人間にはならないけど迅の味方ではありたいわけ。だから私がどこで何しててもボーダーの敵にはならない」
「そうらしいな」
「だからそんなに護衛までつけて嗅ぎ回らなくてもしばらくは平和に三門に住む一般市民としてほっといてよ」
が周りを見回してみても誰かが見張っているのかはわからない。
それでも誰かに目を合わせるように周囲を見回し、そして視線を城戸に戻す。
表情、視線、瞬き一つとっても無駄のなさそうな男の座る姿は完璧のようにも見えるしそうではないようにも見える。
じっと、を見つめること数舜。城戸は口を開く。
「君の平和な日々を祈ろう」
「お返しに握手でもしましょうか」
テーブル越しに差し出された手に城戸は躊躇いなくその手を差し出し、強くもないが弱くもない力での手をしっかりと握った。
その瞬間、の意識はふっと遠のいて、意識だけがここではないどこかへと飛んでいく。
『さんは何があってもボーダーに入らないよ』
『随分と入れ込むな、迅』
城戸の執務室だろう。座っている城戸と、机越しに城戸の前に立つのは迅だった。
対峙する二人の横顔を見つめては再び視てしまった司令室に外観だけでも機密情報がないことを祈る。
二人の顔以外は見ないように努めながらこれが未来ならなぜ入隊の話をしているのか、にはわからない。たった今、は断ったばかりである。
『心配しなくても大丈夫。さんがこの街にいてもいなくてもおれはずっとここにいるよ、城戸さん。ここは最上さんが守りたかったものがあるから』
が見た迅の顔は凪のようでその中で彼が何を考えているのかはすぐにわかりそうにない。目が穏やかに微笑み、確かに嘘はない言葉だとわかる声色なのにそれでも言葉は全てではないようにも聞こえる。
それは、迅が未来を視ていることを知っているからなのか、迅の性格を知っているからなのか、はたまた両方であろうか。
最上という名前をは知らないけれどその名前は迅にとって大事な人のものであり、それを黙って聞く城戸にとっても浅からぬ縁であろうことは想像に難くない。
『未来が視えると似るところでもあるのか』
『城戸さん、もしかしてさんに会った?』
『我々は彼女が無害である限りは特別な措置は取らない』
それは質問の直接の答えではなかったけれど迅はその瞬間に空気を緩めた。
はそれを見て、だから気疲れするのだと未来の彼にため息である。
その後も会話は続いていたが意識は遠のき、体の感覚が現実の風の冷たさを感じていく。
ぱちり。
自分が城戸と握手したままであることを確認し、はにこりと笑ってみせた。城戸は怪訝な雰囲気を見せる。きっと彼からすれば一瞬動きを止めた女が突然微笑んできたように見えたのだろう。
「寛大なご判断感謝します、って言っておくところですかね」
「……どういう未来だったか聞いても構わないかね」
「あなたと迅が私のこと話していました。放っといてくれるみたいでなにより」
迅との未来視の違いを測ろうとしているのだろう。迅と林藤が伝えなかったそれに詳しく答えるほどにはは親切ではない。
は自分の視え方はもちろんわかるけれど、迅のそれを詳しくは知らない。もちろんどう視えるのかは聞いてはいた。けれども聞いて知っていることと体感することとは別物だろう。きっと迅も同じように知識と知っていても体感は別物だと知っている。
けれど本当のところの視え方を知っても知らなくても、にはあまり大きな意味はないことだった。
それよりもの中で今あるのは少しの罪悪感と、それから半ば確信めいた疑問の答え合わせだった。
「城戸司令、最上さんって、誰ですか?」
時が止まったように空気が震えるのをは肌で感じた。目の前の男は一つも動いていないのに確かに彼の纏うものが先程とは違う。僅かな緊張。
「私の同輩で迅の師だった」
「だった、ですね。ありがとうございます」
お互いに顔を見合わせて、どちらからともなく手を離す。
用は済んだだろうと言わんばかりには立ち上がる。城戸もそれを止めることはない。
「私に何か用があれば林藤支部長を通せば対応しよう」
「万が一その日が来たら今度はそっちの馴染みの喫茶店でもご紹介ください」
「次回があればそうしよう」
城戸はすぐには立ち上がらず、頼んだコーヒーを口にしていた。
は一度背伸びをし、後ろを振り返らずに店を後にした。
(続・聖者の行進5)