時は少しさかのぼる。太刀川がと出会って翌日、太刀川が遠征に向かう直前のことだった。
 その日は本部で遠征前の会議があり、幹部と遠征に参加する隊の隊長、それから迅が参加だった。迅は未来視で遠征中に大きな問題が起きるかどうかについて確認する役目で、大きな作戦ではいつも通りの呼び出しである。その道すがら太刀川と鉢合わせるのは有り得ることだった。
 目が合った瞬間、いつもなら太刀川に軽く笑うぐらいはするのだが表情が出てこない。昨日の今日だ。自分が知らないの話をされて迅は虫の居所が悪かった。出会った瞬間、太刀川の未来が視えたのもある。
 隊のレポート提出を忘れて忍田と沢村を前に説教されている姿で、ほぼ確定している未来だった。教える義理もないからで迅は口を噤むことにする。

「よお迅。機嫌わりぃな」
「そうだよ。太刀川さんのせいだよ」

 太刀川に見栄を張っても何も得なことはない。太刀川のような手合いにはわかりやすすぎるぐらいはっきり言い放った方が喜ぶ。実際今も太刀川は不機嫌さを向けられても楽し気に笑っている。
 迅は自分の顔があからさまに歪むのを感じたがそれも取り繕うことはしなかった。

「太刀川さんもそうだし、城戸さんも。なんで灰汁の強い人ばっかりさんに会いに行ってるかわけわかんないよ。城戸さん興味なさそうだったのになんの気まぐれ?」
「俺が迅のタイプだと思うって言ったからじゃね?」
「太刀川さんさあ」

 視えていなかったし誰にも伝えられなかった新情報に迅の顔がさらに強く歪む。ボーダーに関することであれば表情を取り繕うのはある程度難しくはない。
 けれどただの迅悠一は気になる女性が関わると途端に出来が悪くなる。
 タイプという言葉に迅が否定しないことで太刀川はさらに楽しそうに笑みを深めた。

「俺、さんと真夏のビーチで出会いたかった」

 真夏のビーチならあるいは楽しく過ごしたかもしれないと嘯くの言葉を覚えていたのだろう。迅ももちろん覚えていた。あからさまに顔を顰めて非難するのは付き合いが長いがゆえの気安さだ。

「今真夏でもなければビーチもない三門市内だから諦めて。というか太刀川さんお願いだから変に口開かないで」
「なんだよ迅マジじゃん。いいな」

 迅にとって忠告もお願いも場合によって聞く耳を持たない太刀川は厄介な相手である。未来を視たことを頭から信じるのに未来を覆すことを諦めない。
 だからこそ、出会ってしまったと太刀川の未来の一つが長い付き合いになるものなのだろう。もちろん迅は言う気は一つもない。
 も迅が嫌そうだからと迅を探しついでに本部に行ったりはしないと言われている。そもそも本人が上層部を警戒しているので近寄る気もないようだったが。
 それなのに未だに再会の可能性が見え隠れするので迅は二人が再会し親交を深める未来を潰すのに必死だ。これも当人たちの知らない迅の個人的にあ暗躍である。
 は太刀川を好みのタイプではないと言ったけれど迅の見立てでは人としての太刀川は嫌いではない。そして人は好みの相手だけを好きになるわけではない。

「よくないよ」
「何で? おまえ俺とさん会わせたくないぐらい必死なんだろ?」
「……そうだよ」
「たまにはその目でみえたもん好き勝手使えって思ってたからちょうどいいだろ」

 太刀川はそのまま迅の頭をぐしゃぐしゃと撫でるのでセットしていた髪が崩れる。振り払ってもまだ無理矢理撫でてはなははと笑う太刀川は平然としている。
 付き合いが長い分、気兼ねしない分、迅にはっきりとものを言う貴重な相手だ。厄介な相手ともいう。

「昔のおまえ思い出すな。なあ、思い出しついでにポイント外でいいから模擬戦しねえ?」
「会議で呼び出されてるし太刀川さんも参加するやつだよ」
「その後その後」
「時間があればね」

 ガッツポーズする太刀川の方が呼び出されて模擬戦をする時間がなくなるのだが迅はそんなこと顔にも出さず会議室に向かった。
 そのまま太刀川とは対戦する暇もなく遠征が始まりホッとしたところで周りは迅のことを放っておいてはくれないらしい。それは時間差でやってきた。



 会ったことのない相手が三門にやって来ることで未来に変化がある。
 遠征組が不在の中、呼び出された幹部会で漠然とした予告をすれば最近はトリオン兵の出没も増えているので本部側でも注意をすると返事があった。迅の未来視でも不確定な未来だ。良し悪しもわからない中できるのは増えているトリオン兵への警戒ぐらいなので迅も巡回を増やして人の動きを注視するしかない。
 一仕事終えてあとは本部の人間を視て回ろうとしたときだ。
 会議室と幹部の執務室が多いフロアは用向きのある人間しかおらず、防衛隊員は隊長クラス以外は普段縁が無い。人気のないところで油断をしているとエレベーターから東が現れた。迅と目が合った瞬間楽しそうに笑いかけられるがそんなにいい笑顔を向けられる覚えがない。首を傾げたところで笑顔の相手が口を開く。

「新しい彼女、噂になってるぞ」
「東さんいきなり何の話?」

 太刀川が遠征に向かいしばらくは平和だと思った矢先に伏兵は現れた。
 と直接会った隊員はそう多くない。迅が知る限り玉狛支部の人間以外だと遠征中の太刀川、それに三輪と米屋だ。
 との件を吹聴しそうな人間はこのうち太刀川が有力だが遠征任務で不在。三輪はまず話題にしないし、米屋も吹聴はしないだろう。そもそも本部の人間ではない迅のことを話題にして興味を示すのはある程度在籍が長い隊員か緑川ぐらいだ。

「最近迅が外部の女性とよく街を歩いているって噂だ」
「彼女じゃないよ。外部の人と会ってるからって大げさだな」
「物珍しいんだろう」

 一見にこにこと害のない笑顔だが明らかに面白がっている。物珍しさを感じているのは東本人だ。
 もちろんわざわざ声をかけてきたのは親切心からだろう。本部の人間に情報が流れているから任務にしろそれ以外にしろ秘密にしたければ気をつけろと。
 迅は思わず苦笑いを浮かべてしまう。

「隠してるわけじゃないよ。その人がボーダーに関わりたくないってだけ」
「なるほどな。遠征前に太刀川が麻雀の席で零してたんだが」
「太刀川さん口軽いなあ」
「その場で口止めしたから派手に広まらないと思うぞ」
「ありがとう東さん。助かる」

 じゃあ、と立ち去ろうとした瞬間だった。

「泊まりは太刀川にバレないようにな」

 東は後輩指導も熱心な良い先輩と言われているが古い付き合いの人間からすればそれは一面にしか過ぎない。
 なんてことはないようににこにこ笑顔の東に迅は不自然に止まった体を向き直し両手を挙げて降参した。未来視は万能ではなく、不都合は思いがけずやってくるのだ。

「おれのこと試して楽しい?」
「めちゃくちゃ楽しいな」

 古馴染みは皆迅に手厳しいしそれ以上に甘い。
 からかわれながらも相手が相手である。今日はそれに甘んじることにした。

「他に知ってる人いる?」
「いいや。今朝防衛任務の帰りに見かけたから他は知らない」
「これだから東さんは油断できない」
「偶然だろう。むしろ他の奴らに見られなくてよかったな」

 口の固さで言えば東の言うことに間違いはないが弱点を押さえられたような気持ちになるのは迅の気のせいではないだろう。敵でないからいいとはいえ居心地の悪さは否定できない。
 つい恨めし気な視線を送れば苦笑いで肩を軽く叩かれた。

「迅の余裕を奪う相手は誰でも気になると思うぞ」
「勘弁して」

 どうにもただでさえ三門の状況が視え辛いのだ。変化の兆しが見えるということは未来は不安定で注意深く用心しないと視えたものが覆されることでもある。
 まだ確証はないので幹部に零した程度のものだが肌に感じる街のざわめきは気のせいと呼ぶには気にかかる。
 街にも気を配らなければならない中のことで波乱の展開は望むところではない。迅自身も自覚している程度に彼女との距離感は微妙な瞬間があるのだ。
 幸い東はそれ以上追及することなく笑顔で立ち去ったがこのままでは質問攻めにされる未来は逃れられそうにない。

「本当、勘弁して」

 ため息とともに落とされた言葉は誰に拾われるわけでもなくころりと廊下に転がった。


 玉狛支部の人間は基本的には支部で活動しているが旧本部という立ち位置から本部との関わりは他の支部よりも深い。
 京介や宇佐美も一年前までは本部所属だったこともあり交流もそれなりにある。
 だから宇佐美が本部にいることは不思議なことではない。ただし組み合わせが意外だっただけだ。

「宇佐美? 秀次と二人の組み合わせは珍しいな」
「迅さんだ。こっちで用事?」
「そうそう。忍田さんに用があってさ」
「趣味の暗躍?」
「そんなとこ」
「さっきの件頼む」
「うん、わかったよ伝えとくね」

 迅がやって来たからかちょうど用を終えたのか、その両方か。三輪は迅が声をかける前にあっという間にその場を去った。
 声をかけてもよかったが三輪が頼むといった瞬間に確定した宇佐美の未来の方が迅にとっては気になるものだ。

「秀次の用ってさん関連?」
「前に会ったときに話したみたいですよ~」

 にこにこ笑顔だが口止めが入っているらしい。詳細を口にしない宇佐美に迅は両手を上げて降参した。聞くとしたらに真正面から聞くしかなさそうである。今日は降参ばかりでどうにも分が悪い一日だ。
 この後本部のオペレーターたちと集まりがあるのだと三輪に続いて宇佐美も笑顔でその場を去っていく。
 オペレーションについては各隊の構成によって特徴があるものの課題やノウハウは定期的に情報交換をしているという。玉狛には結成時からのベテランオペレーターゆりがいるが様々な視点からの意見は大事なものである。何度か頷きながら宇佐美の背中を見送った。
 宇佐美と別れた後、迅は本部内の人間の未来を視て前回までと大きく変わっていないことを確認して本部を後にする。

 外に出れば下校時間に当たったらしい。警戒区域を抜ければ学校帰りの中高生や遊びに出てきた小学生とすれ違う。冷え込む日も多い中頬を赤らめて駆け抜ける姿に迅の口角も自然と上がる。
 公園で声を上げて笑う未来、塾に通っているのか教室で必死に問題を解く姿。平和な姿の中に異変がないか。不自然にならない程度に視線を動かす。
 どれだけ視てもキリはない。神経質になればなるほど集中力を削がれるのは経験済みだ。帰り道に見かける範囲だけ、無理に追うことなく視ることを繰り返す。
 ここ数日、本部で言われた通りトリオン兵の出現が多いらしい。誘導の調子も良くないという報告は本部のオペレーターから上がっている。鬼怒田の見立てでは軌道の近い国から何らかのアプローチがあり警戒区域への誘導をすり抜けている可能性があるという。通りすがる幾人かの未来にも目撃する者がいた。どこに出現するかは視た限りではわからない。本部で警戒区域外の反応を警戒してもらうようにはしているが後手に回らざるを得ない状況である。
 己の視た未来とトリオン兵の動きは関係があるのだろう。迅自身が風刃を手放すつもりがなくても手放さざるを得ない未来にこれから繋がっていく。避けようのない未来に心が少し重たくなり、つられて足取りも重たくなる。

「迅!」

 それをわかっていたかのように呼ばれた名前は光明のようだった。偶然だとしてもそれは迅の心を軽くした。

さん」

 呼ばれた名前に振り返れば手を軽く降るがいた。通り過ぎた角からやって来たのだろうか。
 歩みを止めて彼女に歩み寄ろうとし、東の目撃談を思い出し動きを止める。何度も二人で市内を歩き回っているので今更何があるわけでもない。それでも東の生温い視線と微笑みが脳裏をよぎった。

「固まってどうしたの。何か視た?」
「いや、なんでもないよ」

 迅が固まっている間に隣に並んだは迅の知る通りだ。短い期間しか知らないいつもがどれほどなのか迅にはわからないけれど。
 顔の筋肉が歪むのに気がついて前を向く。彼女には随分と心を許してしまっている。意識しないと感情がすぐ表に出てしまうぐらいに。
 はその様子を気にすることもない。隠そうとしたのだからそう振る舞っているに違いない。それなのに心がざわつく自分に今度は苦笑いが浮かんでくる。

さんが絡むとどうもうまくいかないや」
「私のことが気になって仕方がない?」
「そう。秀次とどういう関係なのかな、とか」
「ボーダー本部の帰りか」
「まあそんなとこ」

 直球勝負をかけるのは婉曲な方法がまだるっこしいほど気になって仕方がないからだ。どうせ好意は知れている。隠すこともない。押し付けるものでもない。
 は好意を避けるわけでもなく、かといって明確に何かを返すわけでもなく、ただ聞いてくれている。迅としてもに返してほしいわけではない。ただもうしばらく、できればゆりとの約束を果たしても三門にいて欲しい。
 言葉にせずともはそれを敏感に感じ取っているだろうけれど。

「こないだスーパーで買い物しすぎて困ってたところをとっ捕まえて荷物持ってもらったんだよ」
「秀次に?」
「半分無理矢理だったけど助かったからお礼のお菓子を栞に頼んで渡してもらったってだけ。ボーダー本部入れないし、もし入れても行かないし」
「そっか」
「そうだよ」
「秀次のこと羨ましくなるところだった」

 返事は一拍おいて先程と同じだったけれど声色が先程よりも複雑な色を含んでいるような気がして迅は思わず口元を緩ませる。
 たったそれだけの変化で容易く気持ちが動かされるのはある意味で心地よく、同時に不安も覚える。

「本部でさんのこと聞かれたんだよね」
「なんで?」
さんがボーダー以外の人間だから。おれボーダーの人間以外で知り合い少ないからね」
「それはお互いどうしようもない。何、噂になるなら会うのはやめとく?」
「それは嫌だ」

 強めの断定だからかの返事がなく、隣を窺えばちらりと視線を送られる。困惑と、困った子どもを見るような、くすぐったくなるものに迅は唇を噛みしめる。
 長くはない期間なのにと歩いた場所は少なくない。駅前の通りでも閑静な住宅街でも、は退屈な様子を見せることなく迅の隣を歩く。
 非日常ではなくなったが日常というには日が浅い。今はまだ期間が区切られた彼女の居場所は重しが足りない。

さんが学生時代三門で過ごしてたらどうだったかな。噂になったかな」
「案外ボーダーに入ってたかもね」

 もしもの話に思いの外が乗ってきた。ボーダーに入ったかもしれないという言葉に凝視すれば苦笑いを浮かべられる。

「祖母のいた街ってだけで親しみがあるぐらいなんだから長く住んでたら街を守りたいと多少は思うかもって話」
「三門で過ごしたことあるって言ってたね」
「その頃に迅と会ってたら嫌いだったかもね」
「え」

 これもまた思わず上げた声だったが今度は楽しそうに笑われた。からかわれたらしい。

「視えることに折り合いつけてる頃だったから。あとは反抗期で尖ってた」
「尖ってたって、不良だったの?」
「鬼ババァが案外怖いから大したことはしてないよ。口喧嘩したり夕飯すっぽかしてフラフラしてただけ。人と絡むのは視えそうで嫌だったし」
「うまくコントロールできてなかった?」

 迅が問いかけるとは歩調を緩めた。
 迅にとってのコントロールは視た時の己の反応だ。表に出さないこと、視えたものに冷静に対処すること。
 にとってのコントロールは何なのか。深く考える前に尋ねれば返答は思いの外慎重だった。

「“もし視えたらどうしよう”」
「……」
「神妙な気持ちだった頃があった」

 笑いながら話すの声には今抱える恐怖はない。ただ過去の事実を話す淡々とした調子があるだけだ。

「視たくなければ目を閉じたらいいって、単純なんだけど意外と平常心を鍛えられるわけだよ」
「そうだね」
「昔会ってたらだ。迅のがその辺先にうまく折り合いつけたフリしてそうなんだよ。んで私は気づかないで迅を毛嫌いしそう」
「それおれにはどうしようもなくない?」
「今出会ったから仲良くできてるってこと」

 確かにそうかもしれないと迅も思わず笑う。いつ出会うかは案外重要なのだ。出会いは未来を塗り替える。なかった未来があっという間に広がり、無数の選択を起こす。逆もしかりだ。出会いによってあり得た未来がなくなる。
 どれも現象であり良し悪しではない。今この瞬間に選べるものを選ぶだけだ。
 今の迅にはそれがようやくわかりつつある。

「いつ出会ってもおれはさんと仲良くなりたがると思うよ」
「意外と根気強いな」
「自分の欲しい未来を手繰り寄せる人間は欲深いんだよ」

 最善の未来は何か。
 それはいつも迅の頭の中にある。大きく未来を変えるものを視た時はもちろん、ただ何気なく日常を送っていても頭の片隅にある。
 多くは迅個人にとってというよりはボーダーにとっての最善の未来だ。迅が望むものと大きく外れていない。近界に対する姿勢は違えど三門をはじめとしたこの場所を守りたいという気持ちは同じなのだから。
 ただ彼女のことは違う。これは迅が望んでいるだけのわがままだった。

「私を手繰り寄せて良い未来はありそうなわけ?」
「おれの毎日が今までより楽しくなるよ」
「良い未来ではある」

 迅の幸いを願う人が隣にいる。利害関係がないよそから来た他人だからこそ、ただ願っていることを迅は信じられる。
 もっと前から知り合っていれば重石にはなれたのかもしれない。けれど今隣にいる人の言葉はきっともらえなかった。
 そう考えればやはりの言う通りなのかもしれない。

さん」
「ん?」

 の好きはどういう意味なのか。自惚れてもいいのか。
 自分が思っていたよりも彼女の重石の役目になれているかもしれない。
 それならば迅は今できることをするし望んでいいと彼女が言うのなら望むだけはしようと思うのだ。

「おれもやっぱり今出会って良かったなって思うよ」

 彼女に見守られる目線を送られても、躊躇っても、迅はいざとなればを抱きしめることができる。視たくないという彼女の視界を閉ざせるよう手を伸ばすことが出来る。嫌な未来を嫌だと叫ぶ相手になれる。そうでありたいと思えるのは今だからだ。

「それはよかった」

 何気なく、でもその声が嬉しそうなのを迅は知っている。
 気づけば不安のある未来もなんとかしてみせよう、そんな気持ちで帰り道を歩いていた。





(続・聖者の行進12)