警報音に一瞬視線を上げる。遠くから聞こえるその音にはすぐに前を向いて歩き出す。
三門市内で門が開く警報音が鳴るのは珍しいことではない。そのほとんどは警戒区域内での近界民発生を知らせるものだし、住民にとって警察や消防のサイレンと同じような意味合いだ。近くて遠い場所で危険なことが起きている。でもそれは誰かによって解決されるものだった。
も最初の頃はサイレンに驚いていたが今は住民たちと同じように慣れてしまった。
今日も警戒区域内にはボーダー隊員が急行し、現れた近界民を倒しているはずだ。それが顔を知る相手かどうか、には知る術はない。出来るとすれば誰であろうと怪我がないようにと応援するのみだ。
「ここにがいるのも驚かなくなってきたわね」
「私は林藤と陽太郎しかいないのにフリー入場できることに不安を覚える」
「陽太郎が勝手にドア開けてるんだからいいのよ」
行きがけに警報音を聞きながらも食材片手に玉狛支部にやって来たはどこからどう見てもボーダー関係者のようだが未来が視えるだけのただの部外者だ。玉狛支部が異様にフレンドリーなだけであることをもわかっているがそれにしても程度というものがあるだろう。
小南はやって来るなりキッチンに立ちエプロンをしたら野菜を切り始めた。夕飯当番らしい。じゃがいも、玉ねぎ、にんじん、と近くにルーを出しているので今日の夕飯はいつも通りカレーだ。大きな鍋がコンロに既にセットされていた。
「陽太郎と迅が何にも言わないなら後はそれぞれ好きに付き合うわよ」
「随分と信頼が篤い」
「がだからでしょ」
キッチン越しにを見る小南はチラリと視線を向けるだけで特別なことは何もないと言わんばかりだ。実際小南にとってはそうなのだろう。だから視線をそらした瞬間にが戸惑いの顔を見せたことに気が付かなかった。
「それより、最近警報多いから一人の時は気をつけなさいよ」
「心配してくれるんだ」
「は警報鳴ってても何かあれば飛び込むでしょ。トリオン量も低くはないんだから気をつけなさいよ」
「はいはい」
トリオン量を自発的に測定したことはないのだが小南の言い方だと何かしらの方法でのトリオン量は調べられているのだろう。林藤の顔が脳裏に浮かびは思わず顔をしかめた。これも幸いなことに小南の視線はにんじんに向かっていて気づかれない。
他の誰もが厚意でを迎え入れたとしても林藤や城戸には意図がある。今は迅の傍に置くメリットが大きく、いざとなれば再交渉するだけの能力がにあるから容認しているだけだ。
もしもがボーダーの敵に回ればここにいる人たちは結論と敵対する。それでいいとは思う。彼らとただの仲良しこよしになった覚えはなく、組織の性質からすればごく普通の対応で、むしろ迅に配慮された甘い処置だろう。
絡まった糸を知らないわけはないだろうに小南はそれらを重く受け止めることもなく出会った頃から変わらない。きっとボーダーの面々に対してもそうなのだろう。
「小南はカレーを作るかわいい小南のままでよろしく」
「何よいきなり」
「小南はかわいいって話」
「なっ! そんな褒めたって何も出ないんだから!」
「はいはい」
褒め言葉に慌てる小南をはからからと笑って流すことにする。ほんのり顔を赤らめて作業の手が怪しくなるのは危なっかしくて見ていられない。包丁は立派な凶器である。
栞曰くそんな小南はボーダーのアタッカーでランキングトップ3に入っているというのだから世の中は見た目や騙されやすさで強さが決まるわけではない。
いつかこうして雑談をするのが遠い過去となるとしても、小南と袂を分かつことがあってもは小南を嫌うことはない。小南もきっと同じだろう。そう思えるだけでもにとっては十分だ。
野菜を切る音をBGMには携帯に届いたメッセージに目を通す。数秒、出てきたメッセージに目を落とした後立ち上がった。
「小南〜、今日の夕飯の面子は?」
「陽太郎、ボス、うさみ、迅。とりまるはバイト、レイジさんは他の支部と合同で防衛任務」
「じゃあ持ってきた肉2/3唐揚げにするか」
「冷蔵庫に入ってたやつ? どれだけ持ってきたのよ」
「食べ盛り多いと食べる量すごいよね。ここに来てから肉屋で買い物するのに初めてビックリした」
その後は小南の手が危うい動きのない程度のおしゃべりをし、も隣で唐揚げの下味をつけ始めた。不在の二人分は取り分けて冷凍する。カレーを煮込む間に野菜を盛り付けてサラダにし、唐揚げは直前に揚げて出来立ての提供だ。そして夕飯の時間は何食わぬ顔をして普段通り食事を共にする。
クローニンとゆりがいない分人数は少ないが陽太郎と小南と宇佐美がよく喋るので賑やかさはさほど変わらない。全員が揃うこと自体防衛任務の関係上少ないのでいつも通りともいえるが夕飯ギリギリに戻ってきた迅はと一度も目を合わせなかった。
夕飯を食べてしばらく陽太郎の遊びに付き合い、陽太郎のお風呂の時間だと部屋を出たところでも立ち上がった。
「そろそろ帰るわ」
「送っていくよ」
流れるような言葉にはこっそり笑う。烏丸がいなければ迅がそう言い出すことは多いものの、今日の声掛けはいつもより少し早かった。
「小南、そのまま駅前の方を視てくるから帰りは遅くなる。戸締りとか頼んだ」
「はいはい。言われなくてもやるわよ」
「さんまたね~」
「またね栞。夜更かししすぎないようにね」
泊まり込む栞に言葉を送れど彼女はにこりと笑って返事を誤魔化した。最近訓練用のトリオン兵の設定をいじるのにハマっていると言っていたので懲りずにやり込むつもりだろう。あまりにひどければ林藤あたりが止めるに違いないとはそれ以上は何も言わないこととした。
『今日、さん家に行ってもいい?』
一応交換した連絡先は使われることなどほとんどなかった。それぐらい頻繁に会ってたし、連絡するようなことがと迅に間には何もなかった。
いいよと、一言返信を入れた後、顔を見せた迅は不自然な自然さで、いつも通りだった。もメッセージをもらわなければ気づかなかっただろう。
玉狛支部を一歩出ればひんやりとした風が頬を撫ぜる。川の真ん中に立つ支部はいつも川の音が響き、暗い水面がすぐそばにある。支部からの明かりを受け、水面で光が揺らめいているのを視界の端に入れ、は隣を歩く青年へ視線を移す。
笑っているように見える顔で前を見据える相手の普通らしさには覚えがある。
「今夜は我が家で無断外泊?」
「うちのボスには連絡済みだよ。一応帰るつもりだし」
「真面目か」
「心配されるからね」
その声は淡々としていたけれど歩き続ける迅は一度もを見ない。
未来を視たくない時、ことさら迅はを見ない。それをしたからといって視えなくなるわけではないだろうに、それでも迅は視界から避ける。
「泊まるか帰るか、どっちの未来が視えてる?」
「どっちも。おれとさん、二人とも絡むとすごく視えづらいんだよね。分岐が普段よりも多くて不安定」
「この先どうなるかなんて誰にもわからないもんだよ」
そうだねと、返ってきた言葉は珍しく力のないやるせなさが伝わるものだった。
わかりやすさはが相手だからか、隠せないほどに調子が悪いのか。それとも両方か。
仕方がないと言わんばかりにはため息をつく。
「お茶と羊羹は出してあげる」
「優しいね」
「弱ってる生き物には優しいから」
生き物か、と迅が隣で笑う気配を感じる。
未来が視える青年は大人びて、何でもわかっているように振舞うし、実際迅にできることは多い。
弱さを見せない青年はわかりにくい調子で弱っていることを伝えようとしてくる。その伝え方をは知っていた。
沈黙がしばらく続き家が近くなってきた頃、はゆっくりと口を開く。
「私さ、人の未来を視て、望む言葉を贈ってきた時間ってまあまあ長いわけ」
「さん?」
点在する街灯に照らされながら二人は歩いていく。迅はの隣に並び一度も足取りに迷うところはない。の家を覚えているのだろう。ただ声だけが訝し気にの言葉の意味を探っている。
「相手が望む言葉も、望んでいる未来もわかるし、お金貰う分視える限りの中で最良は贈ってきた」
「仕事だね」
「そう。詩集を買ってくれたお客へのサービス。だけどお客だろうが身内だろうが望んでもいない未来だって視えることがある」
「そうだね」
返事に間を置くこともない。その程度はにとってはもちろん、迅にとってもよくあることなのだ。
視た未来を全て言って解決するのなら世の中は随分と簡単だっただろうか。
の視える未来はほんの一時のことで、視たくないと思えば他人から遠ざかり視えるその目を閉じればいいけれど隣の青年には多くの未来が絶え間なくその脳裏に描かれている。
この街は一見して平和を保っていても常に危険と隣り合わせだ。戦い続ける場所で失わないために動くことがどれほどのことか、は想像もできない。
はただ自分のために未来を視てきた。誰かの未来のためではない。自分が望むもののためだけに、未来を視る自由があった。選べる自由があった。
「未来は変わるから、視えたものは変えていい」
「それが最善ではなくても?」
家の前までたどり着く。敷居を跨ぐ前、は立ち止まり迅もそれに倣う。
迅を見つめるの瞳は灯りがあるとはいえ夜の闇の中でもはっきりと燃えている。激しさはない。静かに、確実に、奥底から消えることなく火を絶やすことはないだろう。
迅はその瞳を凪いだ瞳で見つめ返す。
「未来が視えるから最善を選ばなきゃいけないなんて誰が決めた? そもそもその最善、『誰』にとっての最善かって話」
「さん、怒ってる?」
困り顔で窺う迅の表情にはさらに顔が歪む。
「選ばざるを得ないけど嫌な未来なんだって、叫ぶぐらいしてみせろよ」
言い放った言葉に迅はさらに困ったように小さく笑むだけだ。
はそれを見た瞬間、迅の腕を乱暴に掴むとぐんぐんと敷居を跨ぎ音を立てながら鍵を開け、家に上がる。靴は乱暴に脱ぎ捨てる。迅は困惑しながらも土足で踏み上がらないようにすぐに靴を脱いだ。揃える暇もない。
「ちょっとさん」
「迅」
「はい」
「洗面所で手を洗って、それから座って待て」
「はい」
反論を許さない調子に迅も口を噤む。
その間には台所で手早く手を洗い、やかんに水を入れ、コンロにかける。戸棚から茶筒と、羊羹の入っている箱を取り出した。湯飲みと皿だけは音を立てることなく丁寧にテーブルに置いた。洗っていた自分のマグカップも湯飲みの隣に置く。
お茶を淹れる間手を洗い終え居間で神妙に座る迅の姿を見ては肩の力を抜く。いくつも年下の相手に取る態度としては大人げなかっただろう。
「迅、お盆出すからお茶先に運んで」
「了解」
口癖だろう。その言葉には一瞬目を向けたが表面的にはいつも通りの迅だ。台所まで来た迅は急須からお茶を注ぎ湯飲みとマグカップを居間に運んでいく。その間に羊羹を切り皿に置くとも居間に移動し腰を下ろす。
静かな家の中、雑な物音はが起こすものだ。迅は座ってから物音ひとつ立てない。じっと座って待っている。
「良い羊羹なんだからそんな顔で見ないしお茶ぐらい飲みなよ」
「さんがおれを緊張させるからだよ」
そう言いながらも迅は羊羹を一口含み、それからゆっくりとお茶を飲む。言うほど緊張はしていないように見えたが居心地は悪いのだろう。
それでもは言わずにはいられないのだ。
「嫌な未来視たって、愚痴ぐらい零したらこんなにイライラしてない」
大きなのため息に迅は動かない。息を止めたかのように固まり、目の前の卓に並ぶ湯飲みと皿の上の羊羹を見つめている。
他人の家で団欒とするには遅く、眠る時間にはまだ早い。食後のデザートをとるには遅めの時間だ。先ほどまで人のいなかった家のように僅かに冷たい空気が漂っていた。
良い未来は言いふらしたいだろう。他人の悪い未来は注意したくなるだろう。どちらも知らせたとして悪いことは起きにくい。良い未来に期待を持たせ、悪い未来を回避させる。そこに大きな不幸は起きにくい。
では自身の悪い未来はどうであろうか。それを避けた時、本人以外の、あるいは全体にとっての不都合が視えたなら、どうするだろうか。
「どうしてそう思ったの」
「昔嫌な未来視たどこかの誰かとそっくりだっただけ」
の視た未来は大した未来ではなかった。
この家に住んでいた頃、雨上がりのある日お気に入りの白いコートを着て祖母と歩いていた時に視た未来だ。スピードを緩めない車が泥混じりの水たまりを跳ね、それが道路側の祖母にかかる光景が視えた。その日祖母が着ていた着物は価値を知らないが見ても綺麗で、何より祖母がその着物を気に入っていることをはよく知っていた。亡くなったの祖父が選んでくれた数少ないものだと聞いていた。
だから少々強引に歩く位置を変わったのだ。今のからすれば祖母が保護者として孫を気遣った立ち位置にいたのだとわかったが祖母の着物が汚れるよりは自分のコートが汚れてもいいと思った。チクリと胸が痛んだが、視たくない未来をは回避することにした。
「どれを選んだって止めない。でも誰にも言えないなら私に言えばいい」
「さんは、どうして、そんなにおれに優しくするのかな」
コートを汚したは大層怒られた。コートを汚したことではなく、身代わりになろうと黙って祖母を庇ったことをこんこんと怒られた。耳にタコができるとはこのことだろうかと呆れて聞き流せばさらにお説教は続いたほどだ。
「迅はあの頃の私と違って上手くできることはするでしょ」
祖母はなぜその未来を話して二人で泥水を避けようとしなかったのだと、一人で勝手に決めるなと、大きく口を開く様は化粧が崩れかねない勢いだった。猫目のきつい顔立ちはさらに際立ち、幼い子どもなら泣いていただろう。は辛抱溜まらずクソババアと罵詈雑言で返していたが。
歩道は狭く、避けるには未来は近かった。だからどちらかしか選べなかっただろう。
それでもあの日のことをは悪い思い出とは思っていない。むしろ笑って思い出せる。白いコートはクリーニングに出して綺麗になった。戻ってきたコートを手渡された時にも小言があったがそのコートはくたびれて着られなくなるまでのお気に入りだった。
「それでも暗い顔するぐらいなら」
「なら?」
「その未来、選ばなくてもいいって思う」
「それはできない相談」
「どうして」
なぜこの青年は身を粉にしてボーダーという組織のために、三門という街の為にここまで尽くすのか。十代の自分のことでいっぱいの時期にいつだって周りのことを一番に考える。
「おれはこの街を、ボーダーを守るって決めたから」
「そこまで迅が責任持つ? 未来が視えるってだけで?」
「それだけでもないんだけどね。約束みたいなものだよ」
そう言って迅は左足に下げているベルトに手を伸ばし、手に持ったものを卓に置く。黒く細長い形のそれは卓の上で固い音を立てた。
無機質な物体に迅のまなざしはやわらかい。
「師匠の形見。今はまだおれだけのトリガー」
目線を上げにこりときれいに笑う迅には顔を顰めた。
この話の最中、今だけは迅のものだというそれをに見せる理由など一つしかない。
「形見手放してまでその未来、欲しいわけ?」
顔に瞳に、他人から見える部分に薄いが剝がれない仮面を一枚。飄々と未来を視て全体の最善を選ぶ自称エリート隊員。十九歳のその手にいくつの未来を手繰り寄せてきたのか。いくつの不都合な未来を遠ざけてきたのか。
大人びた瞳を見るとは顔を顰めて悪態をつきたくなる。何年も前、自分もこうして顔を顰められていたのだろうしそうしたくなる気持ちもようやく理解ができた。
事情は大きく異なる。それでも、はこの世界で稀な立場にいる迅の味方だ。どれだけ本人にとって理不尽な未来を選んでもは迅の気持ちを否定できない。
「この先のために選ぶけど、苦しくないわけじゃないよ」
「当然でしょ」
即答するの言葉に迅は笑う。
「さんは優しすぎるよ」
は首を横に振る。
「迅が優しすぎるだけ」
「そうでもないよ」
おれはおれの望むものだけにやさしい。
冷たくも聞こえる言葉には目を閉じる。その望みに自身が入っているのかとは問えない。
その代わり、とは己に似つかわしくない言葉を口にする。
「自分から不幸にならないって、私と約束しろ」
「さん、それは過保護だよ」
「自分の人生、好きにしていいって言うのに忘れた振りするからだ」
「好きにしてる、って言っても納得してくれないんだよね」
「もっと好きにしろってこと」
の言葉を聞くと迅は黙り込み湯飲みを手に取った。小さく傾けてこくりと喉を動かす。
考え込む迅を見ても落ち着くためにと羊羹を食べ、お茶を飲む。祖母が好きだった羊羹を昔よりも美味しいと感じるようになった。古臭いとげんなりしていたこの家は今はにとって数少ない居心地の良い場所だ。
迅にとっての居心地の良い場所はどこだろう。玉狛支部は入るだろう。それ以外をはまだ知らない。
「さん」
「なに」
「抱きしめてもいい?」
返事の代わりには立ち上がり、迅の隣に膝をつくなり頭を抱え込むように抱きしめた。ついでにと、セットしている髪をぐしゃぐしゃに手でかき混ぜる。
「うわ!」
「迅はばかだな」
「ははっ」
悪口だというのに腕の中で迅は嬉しそうに笑い、の背中に腕を回す。その腕を確かめるように触れ、大丈夫だというかのように抱きしめ返す。
「さん」
「なに」
「おれのこと好きになってよ」
「迅は本当にばかだな」
口をついて出た言葉だった。
もう一度迅に伝わるように抱きしめ直す。
「迅が思うより私は迅が好きだよ」
躊躇うように迅の腕の力が緩み、それでももう一度はその腕に抱きしめられた。縋るように抱きしめたのか、確かめるために抱きしめたのか、には判断がつかない。
「そうだといいな」
わずかにすれ違うような会話には目を閉じる。そしてただ受け止めるように腕の力を伝わるようにまた強めるだけだった。
(続・聖者の行進11)