ぱくり。口にするとしっとりした生地の感触とすぐに上品なあんこの味が舌の上で転がった。
「さんそれ何?」
も神出鬼没だが迅もいつ姿を見せるのかわからない。未来を視るのに忙しいのだと三門市内のあちこちを歩き回っては定期的に人々を観測している。
急に顔を見せた迅には驚くことなくニヤリと笑う。
「ちょっといい生菓子。ここの分はさっき栞がしまってたよ。早い者勝ち」
何食わぬ顔をして玉狛支部に顔を出せるのは全て終わっているからだ。迅もも未来の断片が視えても過去は視えない。推し測るだけで、そこは他の人と変わらない。
「その宇佐美は?」
「本部に用事があるって出かけたよ。今日はそのまま家に帰るってさ」
「へえ」
の向かいの席に座りじっと見つめてくる迅を好きにさせておく。生菓子には興味がないらしい。
勝手知ったるよそのキッチンでお茶を淹れ生菓子を味わう。温かいお茶が特に胃に沁みるのは暦が十二月になったからだろうか。湯飲みをそっと置き、未だにの様子を窺う迅を見返した。
「顔に何かついてる?」
「最近調子悪かった?」
「普通だよ。何、顔出してなかったから? 寂しがり屋だな」
「そうだね」
適当に流すつもりが存外素直な返事には目を丸くした。素直に頷かれるのは予想外だった。
の驚く顔を見た瞬間迅はしてやったりとばかりに微笑み頬杖を突いた。
「さんには素直になった方がいいらしいから」
「その点は否定しない」
の反応に満足したのかにこにこと笑顔を崩さないまま迅は口を開いた。
「ねえ、ヒメノさんってどんな人」
「素直になって、ヒメノ?」
少し乾いた唇を一瞬噛みしめたのをは突然の疑問に気を取られて気づかなかった。お互いが気づかぬ間に僅かな緊張を帯びている。
ヒメノとはが詩集を売り、オマケにと有料の人生相談をしていた頃に名乗っていた名前だ。詩集の作者の名前でもある。
出会った日のことを迅は今まで一度も尋ねたことはない。
あの日の絵本についても、ヒメノという名と人物についても、全て終わったというのはどういうことなのかも、一つも聞かなかった。聞かれないのでも答えなかったし、再会した時に答えるつもりはなかった。
夢を見て日も経たぬうちにヒメノの名前を他人から聞くのは偶然だろうが夢に出てきた幽霊の仕業かと妙な作為を勝手に感じ取ってしまう。
当の迅はそんなことは知らないはずだがご機嫌を装う微笑みはグラデーションのように切なさの色が混ざる。
「さんの大事なもの、知りたいなって思ったから」
その言葉の瞬間、は迅の笑みの変化の理由を知る。
いなくなってしまった人に羨望を向ける相手には思わず苦笑する。迅は一歩、に踏み込むことに決めたらしい。その一歩がにとって重石をつけられることだと迅は気づきはしないだろう。
その重たさが存外悪くないと思っている自分をはそろそろ認めないといけなかった。
「そうだな……」
『にもいつか地に足がついたと思う瞬間がある』
そう言って笑っていた相手のことを思い出す。案外その瞬間は些細なことなのだろう。
「偶然会った私に面倒ごと押し付けて死んだただの作家志望だよ。あと、馬鹿がつくほどお人好し」
改めて口にしたことがなかった紹介はの思うよりも声に感情が乗った。懐かしい。慕わしい。寂しい。釣られるように厄介だったなと過去になったからこそ思える感覚も蘇る。
「病人だったのに私の面倒見て、夢だったって最初で最後の詩集を自費出版するだけしてさ。助けたよしみで完売よろしくってさよならする身勝手な奴だった」
「ヒメノさんのこと好きだった?」
好き、という言葉に思考は立ち止まる。ヒメノという人間を好きか嫌いか二択で迫られたら前者だった。言われた通りの言葉を返すのは居心地が悪く、代わりの言葉を紡ぐ。
「詩集を全部売るぐらいには」
答えに迅が苦笑いだ。
その笑いには反射的に顔を顰める。仕方のない人だと顔が訴えていた。
「それは、大好きってことだよ」
「あれにそんなことを言うとうるさいから適当でいいんだよ」
「いいね」
何に対してのいいねなのか。は返す言葉が思いつかなかった。
が言葉を選び切る前に何気なく問いかけられる。
「ヒメノさんは、視えること知ってた?」
「宝くじ当てる未来を視ろって言われたけど無理って断った」
「いいな」
羨望とは違う。軽く発せられた言葉には密かに胸を撫で下ろした。迅の周りはを羨ましく思うような環境ではないのは声の調子からもわかる。
多ければ良いわけでもない。けれど迅の周りは少なくはない人間が信頼を寄せている。当たり前のことだと迅の未来視を受け入れている。得難いことなのは迅もおそらくわかっているだろう。
にとってそれは祖母とヒメノだ。
祖母は身内ということもあったかもしれないがヒメノとの付き合いは短いものだ。家に寄り付かず街を彷徨っていた頃偶然出会っただけの人間。
僅かな時間だとしてもにとっては忘れられない時間だった。
一時滞在した祖母の家から父の元へと戻ってからも、家には寝に帰るだけだった。父も仕事の事で忙しく顔を合わせることもなかったし、そのせいかのことを良くも悪くも気に留めていなかった。
母の記憶は薄く、にとっての肉親は父と祖母の記憶で占めている。
未来が視えることは話さない方が良いと気づいた頃から人との付き合いは疎遠になった。不意に見える他人の世界とどう付き合うのか、ヒントをくれたのは祖母とヒメノだ。
未来を気にしない相手を見つけろと祖母は暗に示し、ヒメノは知っても自分自身を見る相手を信じろと伝えてきた。
「ちょっと寿命が延びたお礼」
躓いて十字路に飛び出しかけたヒメノを引っ張り込んで助けたのが出会いのきっかけだ。
未来が視えたわけではなく、助けたのは偶然だった。視えたのはむしろとっさに腕を掴んだ瞬間だ。平静を保てなくなった時、時折視えることはある。人が事故に遭いかねない状況はの閉じていた目が驚きで開くには十分すぎた。
ベッドの背を起こして何かを描いている。白くて素っ気ない部屋は病室だとすぐにわかる。必要最低限のものしかない、個人の主張の少ない場所。何よりベッド上の人間は腕から点滴らしきものを受けていた。
狭い病室に備え付けられた机の上で懸命に何かを描いている。文章ではない。絵なのはわかったが丸みを帯びた線は動物を描いているのかなと推測できる程度であとは手元が隠れて見えなかった。
管に繋がれている姿は痩せて顔色も悪かったが手元だけはしっかりとして、それが妙に印象的だった。
視えた未来は一瞬だったが病室にいたのは一人きりで、今は顔色は良いものの目の前の相手に違いなかった。
だからつい、余計なことが口から零れた。
「あんた具合悪いの」
「今日は絶好調。こけかけたけどね」
その人はお礼にと、断るを半ば強引にお茶に誘い病院帰りだったから驚いたと笑った。その声と笑顔の屈託のなさは家のことで荒れていたの気を不思議と落ち着かせる。
「改めて、ありがとう。ヒメノといいます」
「どういたしまして。名乗るの?」
「恩人の名前ぐらい聞いておきたいな」
お礼は言うが恐縮とは無縁の相手には名前を告げた。
ヒメノの声は妙に心地が良く、結局の所この声に負けたのだとは思っている。
「なにかの縁だと思ってバイトしない?」
「怪しい」
顔を顰めたにヒメノは笑って否定した。
「期間限定で友人のフリをして欲しいんだよ」
「なんでまた」
「今度から入院するんだけどね。見舞いに来てくれる友人がいるってアピールが必要な病人なんだ」
先程視えた病室は間違いではなかったのだ。
視てしまった居心地の悪さに、声の妙な心地良さに、自分を知らない相手に、は気まぐれに負けることにした。
「ヒメノは、初対面の時偶々病室にいるのが視えちゃったんだよ。視た未来が未来なもんだからいきなり友だちのフリしろっていう頼みもなんだか断りにくいしさ。その時暇だったのもあって友だちのフリするバイトしたんだよ。そしたら最終的に絵本売って他人の未来視る生活してたわけだ」
「かなり端折ってない?」
「友人のフリが急ごしらえの友人になっただけの話だからね」
ヒメノの病室で出会った家族は随分とおしゃべりで、フリをしたに見舞いに顔を見せる友人の貴重さと忙しくて顔を見せることがままならない自分たちの代わりに様子を見て欲しいと奇しくもヒメノ本人と同じようにバイトをお願いしてきた。
それを聞いたヒメノはくれるというなら貰っておけばいいと言い、次に病室を訪った際には随分と分厚い封筒をヒメノ経由で受け取った。その日以来彼らを顔を合わせることはなかった。
もらったお金は結局絵本の印刷費と販売経費に充てた。ヒメノのためにという話で渡されたお金はヒメノのために遣うのがにとって自然なことだった。
「いいな」
もう一度繰り返された言葉には笑う。
「迅は私の友だちになりたいわけだ?」
「友だちにもなりたいかもね。さんは?」
間を持たせるようにお茶を一口飲む。答えを出すのも出さないのもある意味簡単だった。
わかりやすい単語に意味を託すのは楽だが迅の求めるものとはには思えない。だからといって迅の求める言葉はわからない。だからにできることは一つだけだ。
「私は迅に大事なものが増えればいいと思うし、それが私なら嬉しいと思うよ」
迅の顔が奇妙に歪む。取り繕うつもりの表情はの言葉が意外なもので、反応が遅れたようだった。くしゃっと歪みかけ、困ったように眉を寄せ、ぎこちなく笑う。
現れるなり向かいに腰を下ろした迅には取り繕うための飲み物も手元にない。誤魔化すように指で頭を搔いている。
「さん、人たらしだね」
「伊達に占い紛いしてたわけじゃない」
「そう言われればそうだ」
「ま、だからってわけじゃないけどわかることもあるわけ」
「?」
迅から向けられる好意をは感じていないわけではない。迅が殊更にを気にかけ、動向を窺っているのもわかっている。それと同じことがにも言えるから、余計に。
も迅も、お互いの考えを想像できるからこそ踏み出せない一歩がある。が弱った姿を迅に見せられないように、迅も自分の弱いところを見せようとしない。
どちらが先なのか。あとは時間だけの問題だろう。
「考えすぎると眉間の皺がこびりつくぞ」
トントンと眉間に指を当てて見せれば迅も自分の額に手を当てて苦笑いだ。
「そんなに怖い顔しないよ」
「それならそれでいい」
真面目な話はそこで終わり、迅ももその後は他愛のない話に移っていった。
(続・聖者の行進10)