「怪しい新興宗教を見に行ってほしい?」
「みたいなもんだ」
「なんでまた、おれに」

 昼下がり、今日の玉狛支部は静かだ。学生組は全員出払っているし、クローニンは休日なので出かけている。ゆりと陽太郎が下にいるが陽太郎は雷神丸と昼寝をしている。実に平和な午後だった。
 そんな午後に似合わない言葉の並びに迅は首を傾げた。
 突然ちょっと行って欲しい場所があるんだとチラシを見せられた瞬間に顔を顰めたのは仕方がないだろう。
 詩の朗読会とメインで銘打ったチラシの中央には黒髪で前髪は綺麗に切り揃えられ、長い髪を腰近くまで美しく流した女が座っている姿が写っている。伏せた視線の先には詩集らしきものが見える。顔がはっきりと見えないが全身をゆったりとした白い服に身を包んだ女は神秘的な雰囲気を見せていた。
 そしてオマケのように日時場所の説明の下にあるのは「別途人生相談も受け付けます。お値段応相談」の文字。実に怪しさ百点満点だった。

「実はな、この広告塔の女と話すと未来を言い当てられるんだと」
「……未来を?」
「そう。大した事じゃないらしいんだがよく当たるって評判で、詩の朗読会よりもオマケみたいな人生相談の方で随分と金が落ちてるらしいな」

 気にならないかと笑いかける林藤の言葉に迅は頷く以外になかった。どう考えてもその女に未来視の能力があるんではないかと、暗にそう言っているのだから。そしてそれをお前ならわかるんじゃないかと、林藤は、城戸はそう思っているはずだった。

「情報は城戸さんから?」
「随分といろんなもんにネットワーク張ってるよな」
「……次の開催は?」
「ちょうどいいな。今日の夜だぞ」

 ちょうどいいも何も、仕組んでいるに違いなかった。今夜は防衛任務がない。いつから狙いすましていたのか。
 からからと笑う林藤にはいはいと、迅は笑うしかなかった。

「いいよ。会ってみる、教祖様に」
「感想よろしくな」

 軽い調子の林藤に、チラシ片手に迅はひらりと手を振って部屋を出た。





「今日は、37ページの詩から。みなさんご用意はいいですか?」

 人にどう話せば耳を傾けられるのかを知っている声色だった。
 朗読会はヒメノという広告塔の女が読み上げる形で、集まった人間はそれを聞くという。詩集は著者が彼女であり、自作の詩集を朗読する会、そしてその際に詩集を買ってもらうという形だった。
 参加者は十名ほど。平日の夜の回にこれだけ集まるのだから上々だろう。年頃は社会人から初老の人間までいろいろで、調べれば昼間の時間帯にも開催しているので平日の昼間、主婦やシフト制の人間や老人たちはそちらの回の参加が多そうだった。
 彼女が前に座り、参加者は並べられたパイプ椅子に座ってそれを詩集を見ながら聞いている。
 とある建物の貸しスペースで行われるそれは味気ない朗読会と言えばそうだった。ただ声を上げる女だけが自分の伝え方を随分とよく知っているだけで。
 自分の声質を理解し、伝えるということを理解した女は聞き心地の良い音で詩を朗読していく。
 その中身の是非を迅は理解できなかったけれど理解するよりも前に彼女の一挙手一投足に意識を向けるのに忙しかった。
 そして時折見える未来ではこの参加者たちの多くが彼女に手を握られ、その手を彼女が額に持っていき、祈る様に言葉を贈る様が見えている。そうして全員がそれなりの金額をおそらくは封筒に入れて手渡している。
 随分と、お金のかかる朗読会だった。

「今日もありがとうございました。夜の回は次は土曜に行います。皆さんぜひご参加ください。この後は自由参加で、私にご相談がある方は順番になりますが承ります。一生懸命お話をお伺いいたしますので、もしお時間がつく方はご参加ください。ご参加の際はお気持ちで構いませんので参加費の提示をお願いいたします」

 やわらかい声で相談するなら金をよこせと暗に言う女にほとんどの人間が素直に頷いて彼女に相談するために列を作っていく。
 最初から用意していたらしい衝立を待っている人間との間に配置し、中は入った人間にしか見えないようになる。
 結局ほとんどの人間が残り、迅は半信半疑でその列の一番後ろに並んだ。封筒には景気よく一万円を入れている。
 中で何を話しているのかは小声でほとんど聞こえなかった。待っている人間も中での会話は気にしていないようで、女が少し大きめに流した音楽が会場の人間の耳に流れ、それぞれが好きに過ごしている。随分と慣れた様子だった。

 この謎の朗読会はニか月ほど前に突然貸しスペースで始まったという。
 そして少しずつ、口コミで広がっていき、彼女、この会に参加する人間には「ひいさま」と呼ばれる彼女に相談をすれば未来がよくなるという噂が出来上がっていたのだという。
 確かに、今日だけでも彼女と相談した後の人間はほんのわずかな時間、それこそ5分10分の短い時間の中でスッキリとした表情になって奥から出てきては晴れやかな雰囲気で会場を後にする。
 何をされているのか。話しているだけのはずの衝立の奥で何が行われているのか。ヒーリングミュージックだろう音は時折鳴る波の音が妙に大きく響いている。そのタイミングを見計らったかのように衝立の向こうで会話が行われるのでどうにも落ち着かない。一人、また一人と人が帰っていくにつれ段々と不安が募る。

「本当にやばいのだったらどうしようかな」

 帰ってこなければ林藤がまず異変に気付くがその頃迅は正気を保っていられるだろうか。妙なことを口走っても気づかれなかったらそれは違う意味でショックである。
 不安で妙なことを考えているとどうぞと促される。その声は外にいる人間に向かって投げかけられるので意識が浮上する。
 迅の前にいた相談者が衝立の向こうから抜け、ちょうど部屋のドアを閉めた瞬間だった。

「はい」

 洗脳されてどうかなりませんように。
 そんな妙なことを想像しながらも本当のところは別の意味で不安が先立つことに迅は気づかない。
 慎重に中に入った瞬間、ふわりといい匂いがした。少し甘い、けれど一歩進めばあっという間に消えたそれは思わずもう一度嗅ぎたくなるものだった。
 もちろんそんな暇はなく、正体不明の相手を前に迅は先ほどまでの動揺が嘘のように微笑んで見せた。そうすれば相手も応えるように美しく作られた微笑みで返してきた。

「こんばんは。はじめまして、ヒメノと言います」
「はじめまして。迅です」
「よろしくお願いします。どうぞお掛けください」

 促されて迅は彼女の向かいのパイプ椅子に腰かけた。簡易の長机を挟んで向かい合う彼女だけがほんの少しだけ現実と離れた気配を見せている。
 整った長い黒髪はおそらくウィッグだろう。地毛にしては整いすぎるぐらいサラリと、彼女が動くたびにそれが不自然に動く。伏し目がちで、微笑みを絶やさない彼女の未来が視えたが、どうにもすぐのことらしい。今のところ迅の両手を握ってその手を額に当てるところしか見えない。それだけではさすがに迅も何がなんだかわからない。
 どうするのだろうと様子を窺えば、彼女ふんわり、安心させようと微笑んで見せる。心地が良いと思わざるを得ない、不思議な空間だ。自分の見せ方をよくよく知っている人間の振る舞いだった。

「迅さんのご相談は?」
「最近疲れてよく眠れないんですけどこれと言って原因も思いつかなくて、どうしたらよく眠れるようになるかなと、悩んでます」
「……それは、辛い夜もあるでしょう。もしよければ少しあなたの未来を祈らせてもらえませんか」

 そう言って彼女は右手を優雅な動作で差し出してきた。迅は左手を載せる。

「もしよければ、もう片方の手も」

 差し出された手のひらに左手を合わせていたはずがすっと彼女の右手が迅の左の手の甲を撫でていた。そうされてしまえば空いている右手は左の手のひらと合わせるように自然と手が動く。

「こうですか?」
「ええ。あなたのために、祈らせてください」

 やわらかく白い手で彼女は迅の両手を丁寧に包み込み、そのままその手を自らの額に近づけた。
 美しい所作の神秘的な女性が自分の両手を恭しく握り、自分のためだけに祈ってくれる。
 それだけで十分人は報われるだろう。彼女は確かに今迅のために祈って、願ってくれているように見えた。

「もしかして、迅さんは周りのことをよくみて気を遣ってしまう性分なのでは?」
「それは、よく言われるかも」
「きっと、そうして周りを大事にしてしまうからこそ、たくさんのことを考えてしまうんでしょう。今日は寝る前に深呼吸をして、それから、枕元に置いてほしいものがあります」

 そうしてゆっくり、名残惜しそうに手を離した彼女は足元の荷物から何か小さな袋を取り出した。ビニール袋に入っている手のひらに収まるぐらいの布の袋だ。

「安眠のポプリです。よろしければ、差し上げます」
「ありがとう、ございます」
「どういたしまして。今日はよく眠れると思いますよ」

 どうぞ、と言われたそれを受け取り、そして迅はお礼にと封筒を渡せばありがとうございますと彼女は恭しくそれを受け取った。
 今日はありがとうございましたとしずしずと頭を下げられ、迅は衝立から出ることになったけれど、出るその瞬間も彼女は深々と頭を下げたままだった。
 呆然と、迅はそのままその貸しスペースを後にし、建物を出た後にやっと大きく息をついた。

「別の意味でちょっとまずいよなあ」

 未来が視えるというよりもあれは人の精神にするりと入り込み弱く脆い部分をたやすく撫でる誘惑に近い何かだ。望みたい人間がいれば望む言葉を与える、そういう類の術に抜群に長けている。
 わかっていても通ってしまう人間は多いだろう。わからないままに通う人間も、わかっていながらもその言葉の心地よさに惑わされたいと願う人間も、彼女の魅力に抗えない。
 彼女は、彼女自身を魅力的に魅せているわけではないのだ。彼女はただ相手の望むままに自分を変える術に長けている。それは未来が視えるとか視えないとかに関係のない次元の話だった。
 深呼吸を一つ。
 頭を切り替えて、それから迅が行ったのは人気のない場所でのトリガーの起動だった。

「よっ、と」

 この為にトリガーチップを入れ替えておいたカメレオンを起動すれば姿が見えなくなる。
 あまり一般人に使用してはならない使用方法だけれどそもそもが上司命令の暗躍だ。当然目を瞑ってもらえる範囲だ。
 一番最後の迅が出た後、建物から出てきた人間はいない。まだ彼女のいる部屋の明かりはついている。
 迅は誰にもぶつからないよう、気取られないよう、細心の注意を払って建物の中に戻っていった。
 部屋の前に戻ってきたが、人の動く気配はしない。扉は迅が最後に閉め切らないようにと開けていた隙間が残ったままで、おそらくヒメノと名乗った彼女は外に出ていない。
 そっと、足音を殺して中に入れば衝立もパイプ椅子もきれいに片付けられいた。一脚だけが残り、そのパイプ椅子は入口の、迅の立つ方向を向き、そこにはヒメノが座っていた。誰もいないはずの場所で彼女は真っ直ぐに、勝手に開いた扉を見ていた。

「最後のお客さんはお帰りになったはずですよ?」

 まるでそこに人がいるのが見えているように、彼女は笑っていた。先ほどのやわらかな笑顔とは程遠い、皮肉気な笑みだ。

「見えないけれど、あなたがそこにいるの、私知ってます」

 営業用の顔は半分剥がれ落ち、面白がる素の顔が見え隠れしている。知っているぞと、自信のある笑みは、声は、嘘でも何でもない。その振舞い方を迅はよくよく知っている。

「あんた、未来が視えるんだろう」
「もしそうなら、迅さんはどうしますか? この女は頭がおかしいと、触れ回りますか」

 笑みを深める彼女はそんなことしないでしょうと、暗に言っていた。それをしておかしいと言われるのはどちらだと思っている。そういう目だ。
 話しながら一歩右にずれても迅の姿を捉えているわけではないらしい。真っ直ぐに入り口を見つめている。目線に追われないことがますます彼女の未来視を確かなものにしていく。
 彼女がおかしいと口にしても決して相手にされないだろう。ここを訪れる人間は突然現れた迅よりも彼女を信じる。彼女は先ほどまでこの何てことのない貸しスペースであの時間、絶対的な城を築き上げ、そう簡単にそれを落とされないと自負していたし事実その通りなのだ。信じて縋って安堵する彼らの顔つきが証明していた。
 けれど迅は彼らとは違う。未来を視てもらいたいわけではない。会話を重ねれば彼女と自分の選択肢が変わっていたらしい。大胆不敵な瞳はそのままでも表情と装いがまるで違う女性が見えた。

「視えるのが、自分一人だと思う? 随分と地毛は短いんだな」
「……」
「服も、結構趣味じゃないの着てる。今からホテルに帰るんだ?」
「プライバシーの侵害で訴えるわよ、透明人間」

 ガラリと、女の声が変わった。先ほどまでの人に伝わる様に意識して作られた声色は消え去り、棘のある、迅からすれば人間らしい声が部屋に響いた。

「何、同業? 縄張りでもあった? それなら明日にでもここ引き払うから放っておいてくれない? よそで稼ぐから」
「違うよ。同業とかじゃない」
「は? なに、あんた同業じゃないの? じゃあ何しにわざわざ偵察しに来たのよ」

 神秘的な彼女は姿かたちは変わらないのにあっという間に人間になる。
 迅はただその変わり様を呆然と見るだけだ。
 確かに彼女が地毛ではなくウィッグをつけていることも視たし、私服はもっとカジュアルなものだというのを視たけれどこんな風にしゃべるのが素というところまでは視れていなかったのだ。

「……え、そっちが素?」
「あんなもん24時間やってたら死ぬでしょ。営業用スマイルもタダじゃないんだぜクソガキ」

 そう言いながらまだカメレオンを解除すらしてなかった迅のことなど無視して彼女は立ち上がり最後の椅子を片づける。そうして着ていた服を脱げばゆったりとシルエットのワンピースの下は白いTシャツとジーンズを履いていたらしい。カメレオンで視線はバレないのに迅は思わず視線を背けたけれど彼女は意に介さない。ウィッグもよいしょと取り去って、その下はウィッグをかぶりやすいようにしているのかベリーショートの髪が出てくる。
 カバンの中にワンピースとウィッグを丁寧に仕舞う代わりに中から出した大き目のパーカーを羽織っていく。ついでに出したキャップを目深にかぶれば先ほどまでいた「ひいさま」と呼ばれて信奉されていた女はおらず、そこら辺に歩いていそうなカジュアルな格好の女がそこにいた。

「で、いつまで透明人間してんの。迅だっけ?」
「え、ああ」

 言われたとおりに正直にカメレオンを解除するついでにトリガーもオフしてしまう。トリオン体を見られる方が迅にとっては生身になるより都合が悪かった。と言っても、彼女はもしかしたらトリオン体の迅を既に視ているかもしれなかったが迅にはそれはわからなかった。
 迅は他人の未来が視えるけれど、他人が視た未来が視えるわけではないのだ。

「私ホテル帰るんだけどあんたどーすんの。追いかけてくる?」
「……性格違いすぎてちょっと、待って」
「早く帰って寝たいんだけど。それとも夕飯付き合ってくれる? 奢ってくれるなら多少話ぐらい聞いてやるわ」
「え、と」
「何がいい? 私ラーメン食べたい」

 話を聞くどころか荷物をまとめると迅のことを無視して外に出ることにした彼女の後を迅は慌てて追う。
 随分と無防備に歩く人だった。


「迅はなんで私を調べに来たのかと思ったけどあんたあれ? ここらのボーダーとかいう組織の人間?」

 ラーメン大盛りで食べる彼女はビールを既に一杯飲んだあとである。仕事終わりに飲まないの無理だわと、あんたもと勧められて未成年だと断ればこの世の終わりのような顔をされた。
 ラーメン屋に入る前、名前を尋ねればあっさりとと、そう名乗られた。
 あっという間に人間になった彼女の様子を、迅はまだ掴みかねていた。

さんって、オンオフはっきりしてるね」
「さっきも言ったけどあんなもん四六時中できるもんじゃないわけ。仕事、仕事ね。あんた切り替え下手そうだよね、ジューハチだっけ?」
「そうだよ」
「わっか」

 ハハハと笑ってラーメンの最後の一口を食べきってそのまま餃子とビールを追加で頼む女が「ひいさま」とは本当に結びつかなかった。
 ラーメン屋は2軒目できたり、遅めの夕飯に来てる客が多い。女性客もいるけれど彼女は実によく溶け込んでいた。

さんは、視える人だよね」
「ん? まあそうだね」

 先に来たビールを口にしてから彼女は頷いた。
 迅は自分以外のサイドエフェクト持ちに出会ったことはあるけれど自分以外の未来視の持ち主に出会ったことはなかった。
 それがまさかこんな形で自分の前に現れることがあろうとは、迅の想像力とは意外と平凡らしい。

「その力でこんな風に稼いでる?」
「その力じゃないよ。総合的に、稼いでる」

 餃子は15個入りでやってきた。食べなよと勧められるが支払いは迅持ちだと先程了承したので本来と勧める人間が逆である。
 よく飲んで食べる人だ。
 それが本人に対する追加の印象だ。後からわかる彼女の方が迅にとっては安心できるものばかりだった。

「結構な荒稼ぎじゃない?」
「私相談料を強いたことはないわよ。くれる分だけサービスはするけどそんなの当然でしょ?」
「まあそれはそうだね」
「お互い満足して対価とサービスが発生して文句言われないんだからその金どこから持ってくるかは私の知るところじゃないでしょ」

 ハン、と笑ってビールをもう一口。
 彼女の言い分は乱暴だけれど言いたいことはわかった。この朗読会は彼女の与える世界観に浸るための道具で、そこで参加者はきっと何かしらの安心や心地よさを得るのだ。それを詐欺というかと言えばそう言えないものがあそこにはある。

「まあ馬鹿が狂信するから潮時と思ったらズラかるわよ。私貧乏人から強請るほど困っちゃないし」

 傍から見てどう考えても詐欺にしか見えない商法だったけれど訴える人間が商法の割に少なさそうなのは彼女がまともにただただがめついからだろう。そして未練がましくない。

「商売するのに視えると便利ってぐらいであってもろくなことにはならないわよこんなもん」
「……喉から手が出るほど欲しい人なんて山ほどいると思うよ」
「ならあんたこの力持っていたい?」

 迅は、答えられなかった。



 美味しかったと、餃子をぺろりと食べてもう一杯ビールを飲んだ彼女は悪気なく迅におごられ、夜道なんだからホテルまで送るわよねとハッキリ言われて街の中を二人で歩くことになった。
 どうも放っておいても彼女はもうしばらくすれば三門を離れそうだし、それならそれで迅が何かをする必要はなさそうだった。
 本部からすれば未来視のできる人間なんてそれこそ喉から手が出るほど欲しい人材だろうけれど迅は彼女を繋ぎ止める条件をこれっぽっちも思いつかない。

「迅さ、タバコ吸ったことあんの?」
「……いきなり、なに」
「あるのか。酒もまあありそうだな。そしたら女の子と、じゃなくてもいいけどセックスは?」
さん?」

 人気が少なくなった繁華街、足取り遅く歩く二人のことなんて誰も気にも留めない。
 突然の聞き取り調査に迅は目を丸くする。少なくとも初対面の人間にそうそう聞きにくい内容だ。
 答えをはぐらかしても彼女は何も言わず、ほんの少し歩くスピードを緩めた。

「迅はどういう風に未来が視える?」
「……」

 今度は沈黙で返す。すると彼女は立ち止まり、迅も立ち止まる。そこはシャッターが降りた店の前で、誰の邪魔にもならないようにと図ったかのようだった。
 迅の目の前に回り込み、彼女は迅に両手を伸ばし、その頬を包み込んだ。嫌な気持ちはしない。アルコールを摂ったはずの彼女の手は思いの外ひんやりとしている。

「私はね、触れたら視えるよ。しかも視たいと思ったときに視られる。視たいものが視えるわけじゃないけどね。あんたは違うんでしょう」
「目の前にいる人の、確実な未来と、不確定な未来が視えるときがあるよ」

 そう、と彼女は頷くだけだった。お互いに視え方が違うことはわかった。だからといって深掘りする気もないらしい。目を見て話せない迅とは違い、真っ直ぐに視線を送っていることだけは視界の端で理解した。ただ、その瞳の持ち主から何を発せられるのかはわからないことばかりだ。

「迅、今日一緒に寝ようよ」
「は、え、それは、どういう」
「どっちでも、視たいように視れば。あんたの未来だよ」

 神秘のヴェールを脱いだその人は美しく笑っていた。




 カーテンを開ける音、そして差し込む薄い光で迅は目を開けた。

「おはよう」
「……さん早起きだね」
「まあ今日はね」

 電子タバコを吸う彼女は気怠げで、あくびを噛み殺す様はやはり実に人間らしかった。
 寝ぼけ眼で迅はそれを見つめ、ゆっくりと上体を起こした。

「迅、私この街を出るから妙な心配しなくていいって偉い人に言っときなよ」
「おれ、そんなこと話した?」
「こーんな魅力的な年上のお姉様を心理操作の得意な詐欺師みたいな女だと報告するあんたを知ってるだけ」

 迅は必要なこと以外自分から未来を言いふらすことは努めてしない。けれどそれでもそれは居心地のいいことではないことを今初めて体感として理解した。わかっていてもそれは言い当てられて気持ちの良いことではない。
 きっと彼女はわざと迅がそう思うように言ったけれど。

「私の放浪は詩集をすべて売り切るまであともう少しかかるから」
「詩集?」
「そう。これを詠いながら、この本を届けたいとヒメノが願った数の分、私が届けていく。人生相談なんてそのための資金繰りであってチラシの通りおまけなわけ。新規の客も減ったし頃合いだから、今度もしこの街に来ても詩集売り捌いて人生相談なんて乗らないから安心しな」

 深く彼女が吸うたびにタバコがチラチラと燃える。電子タバコ特有の少し甘い匂いが彼女がヒメノとして身に纏う匂いとほんの少し似ていた。
 今の彼女はわざわざ、それとは違う中性的な香水を身に纏い、椅子に片足を上げて膝を立て、ホテルの寝間着の隙間からその内腿を惜しげもなく晒している。

「何、したくなった?」
「ヒメノって、誰?」

 無理やり話を逸らそうとするにそう尋ねれば彼女は苦々しく笑う。タバコは1本、あっという間になくなって、ついでに電池も切れたらしい。用意良く替えを控えていた彼女はすぐにそれを吸い出した。

「死んでしまった詩人で、詩集を書いた人間。そうしてそんな奴が化けて出てきそうだったからって全国津々浦々遺書のような詩集を売り捌いてる詐欺師みたいな女が私」
「……大事な人だったの?」
「さあ? 祟られるのはゴメンだっただけ」

 彼女は昨日、ホテルのラウンジでそれなりに酒を飲み、タバコを吸い、なんでもない話を迅とした。
 未成年にタバコも酒も男も女も興味があれば手を出しておけばいいと、ケラケラ笑って、未来が視えても視えなくても動きたければ動けばいいと、なんでもないように彼女は昨晩ずっと笑っていた。

「迅」
「なに」
「私は私のしたいことのために他人の未来を視て都合よく使ってる女なわけだ」
「……そんなこと言った?」
「部屋でショット煽らせたら言うかもなと思ったことだけどだいたい合ってるだろ?」
「……それで?」
「あんたがそれをしてもいいってこと」

 まだ朝日は昇り切る前で、体は夜の気だるさを忘れてない。少なくとも目の前のはそういう風に見えた。
 好き勝手にしているという彼女は確かに迅から見て好き勝手にしているところもあるけれど、同時に迅と同じように何かに縛られて、強いられていないのに必死に歩いているように見えた。
 ただ確かなことは、未来の視える二人は互いの未来を視ても視なくても交錯は一瞬なのだと、言われなくても知っていたことだ。

「迅、好きに生きろよ。あんたの人生あんたのもんだよ」
「……さんの人生も、さんのものだよ」

 そりゃそうだと、彼女は笑う。
 まだチェックアウトには遠くて、朝食を取るにはほんの少し遠い。

「全部終わって死ぬほど暇だったら会いに行くから、それまではせいぜい生きてなよ」
「その時は思い切り抱きしめてあげるから好きなだけおれの未来を視てよ」

 迅はベッドから抜け出して、そして窓際、椅子に座ったままの彼女を見下ろしていた。

「金取るぞ」
「稼いでるからいいよ」
「かっわいくないガキ」

 そう言って丁寧に両腕を開いてきた彼女を迅は恭しく抱きしめた。



(聖者の行進)