ぼくは、あのこが3歳の誕生日のときにあのおうちにやってきた。
あのこはぼくのことを見て一番最初、きらきらと目を輝かせてくれて、わあ、と満面の笑顔でぼくを抱きしめてくれた。
ぼくはあのこのお母さんに見つけてもらうまで一体どこのおうちに行くんだろうなと店の棚の中でじいっとその日を待っていた。
どんなおうちなのかな。もらってくれるのは小さな子かな、それとも大きな子かな。それとも大人の人かな。
少し大きめのぼくは、それこそあのこぐらいの小さな子が抱きしめれば力いっぱい腕を回さないとぼくを抱きしめることはできない。
それとぼくはかわいいだけのくまというよりはほんの少しだけりりしい顔立ちもしていると、かわいいだけじゃないとぼくは思っている。
だから小さな子のところではもちろんともだちになれると思ったし、少し大きな子だってぼくはその子の様子に合わせてただ見守る時があっても待っていられると思ったし、大人の人のところにいってもいつか子どもだったその人のことを抱きしめて抱きしめられることができると思ってた。
そうしていつかな、まだかな、早く会えないかなとぼくがまだ会ったことのないぼくの大事な人を待っていた冬の終わり春も直前のころ、あのこのお母さんにぼくは見つけてもらった。
お誕生日のプレゼントにとぼくはほこりがどこにもついていないか、汚れてないか確認されてきれいな真っ青なやわらかい袋に入れられた。ぼくををつつむ袋は水色のきれいなリボンに結ばれるんだってことを視界の端で確認してぼくは満足した。これならきっと、喜んでもらえる。
でも、本当を言えばぼくのことを大事にしてもらえるのかな、飽きたらクローゼットの奥に仕舞われちゃわないかな、もしかしてもしかしたら捨てられちゃったりないかな。そんなふうにドキドキしてた。
いつかの日、棚で一緒に並んでいた隣のすまし顔のうさぎの子やかわいい顔立ちの犬の子はこう言っていた。
いつか古くなってさよならする日はくるんだから、それまで運良く大事にされたいけど最近の子はものを大事にしてくれるのかしら。おもちゃなんてたくさんあるんだから早々に飽きられて私たちよそへやられてしまうわよ。
そんなふうにおそろしいことばかり言うものだから、袋から出られる日までぼくはただただ祈って、どうかいいともだちと出会えますようにって、ずーーっと、お願いしてたんだ。
「くまさん!」
その日、ぼくはとっても嬉しかったんだよ。
ゆういち、と呼ばれたきみがぼくの入っている袋を手にして、きれいな水色のリボンをほどいて青い袋を開いていく。わあ、と言った声におとこのこだ、って思ったけれどきみはゆっくりていねいにぼくの入っている袋を開いてよいしょとぼくを抱えてくれた。
ぼくの明るい茶色の毛の色はどうかな。ぼくはとっても気に入ってるんだよ。この黒い目もツヤっとして、きみのことを見つめてるのがすぐわかるでしょう? きみが抱きしめてくれたらぼくはすこしだけかたいお腹で受け止めて、やわらかい腕で沿えるようにきみの体を抱きしめるよ。
『よろしくね、ゆうちゃん』
「くまさん、よろしくね」
少しだけ舌たらずで、でもぼくをまっすぐ見て嬉しそうににっこり笑ってくれる姿をぼくはずっと忘れないと思う。
ゆうちゃんはぼくとたくさんたくさん遊んでくれた。
ぼくのことを絵に描いてくれたし(ぼくはそれがただのまるい何かにしか見えなかったけれど、ぼくだというからそれはぼくだった)、くまさん、くまさんと、ぼくを呼んでいつだって一緒にいてくれた。
でもゆうちゃんはいちねん、またいちねんと、毎年大きくなり、ぼく以外のおもちゃで遊んだり、外のおともだちと遊ぶこともあった。
ぼくはそれが寂しかったけれど、嬉しかった。ぼくもぬいぐるみのともだちが店で並んでいた頃はいたし、みんなとは会えなくなった今でもともだちだったから。
でもゆうちゃんはそのうちひとりで遊ぶようになったみたいだった。おうちにいるときしかぼくはゆうちゃんを知らないけれど、ランドセルを背負うようになったゆうちゃんはまっすぐおうちに帰ってきて、真面目に宿題をして、それから外に出ていったかと思うと夕方おうちに帰って、ごはんをたべて、時々ぼくをぎゅっと抱きしめて、それから眠ってた。
「みんなくまさんみたいならいいのに」
それがどういうことなのかぼくにはわからなかったけど、ぼくはゆうちゃんの味方だからね、とぼくはそおっとゆうちゃんを抱きしめてあげた。
ゆうちゃんは、どうも人の未来がみえるらしい。
それはゆうちゃんがぼくのことをぎゅうっと抱きしめている時にどうして、とかなんで、とかぼくがおかしいの、とか、とってもとっても苦しそうに言う時間が多くなればなるほどわかってきたことだった。
でもぼくはくまのぬいぐるみで、目を真っ赤にさせて泣き帰るゆうちゃんのことをただ迎えて、ゆうちゃんがぼくを抱きしめたい時にこの体をいくらでも抱きしめてもらうとしかできなかった。
ぼくはきみを笑顔にさせるハンバーグにもエビフライもなれなくって、デザートのアイスクリームにもなれなくって。それでもぼくがいるだけで笑顔になってくれたらいいのにって、ずっと思ってたんだよ。本当だよ。
ぼくはずーっと、ゆうちゃんが大きくなっても大人になっても、ゆうちゃんの味方なんだよ。どうか、ぼくのこの気持ちがゆうちゃんに伝わりますように。それから、ゆうちゃんがぼくとずっと一緒にいる未来をみてくれたいいのにな。ぼくはそっと窓の外に見えたお星様に願いしたんだ。
ゆうちゃんはもうずいぶんと大きくなって、そのぐらいの年の男の子はもうぬいぐるみと遊ばなくなるんだってこと、ぼくは前から知っていた。それはぬいぐるみたちの中では言われる前から、それこそ生まれる前からわかっていることで仕方のないことだった。
それでもゆうちゃんはぼくを捨ててしまうことはなく、部屋の奥に仕舞うこともなく、ベッドの脇にそっと置いてくれて、そして時々ぼくの頭をそっと撫でてくれたから十分だった。
ぼくと出会った日からずっと、ゆうちゃんはおはよう、おやすみって小さく声をかけてくれて、それがどれだけぼくにとって嬉しくて幸せなことなのかゆうちゃんは知らないと思う。知らなくていいと思う。ぼくは世界で一番しあわせなくまだってこと、ぼくが一番知っているから、それでよかった。
ゆうちゃんが何日も家に帰ってこない日があった。ぼくはこんなに長い時間きみを見ない日なんてなかったからとても不安になって、きみに何かあったのならどうしようって、ゆうちゃんとずっと名前を呼んでいた。
そうしたらゆうちゃんはある日やっと家に帰ってきて、最近は大事な仲間、というのができたみたいでぼくはよかったと思ってたのに、そんなよかったと思っていた気持ちはゆうちゃんを見たら全部どこかにいってしまった。
ボロボロになって帰ってきたゆうちゃんはなんとかお風呂に入るだけ入ってきたのか、ベッドまでやってきたらボスン、と沈んでしまった。ああっ、とぼくが声をあげてもゆうちゃんはしばらく起き上がらず、それからしばらくするとぐっとぼくの腕を引っ張って、ベッドで横になりながらぼくのことをぎゅっと抱きしめた。
とっても久しぶりに抱きしめられたその腕はずいぶんと大きくて、力強くて、それなのにぼくが抱きとめてあげないと壊れちゃいそうだった。
『ゆうちゃん、ぼくここにいるからね』
ゆうちゃんはその日いつまでもぼくを抱きしめて、そして静かに泣いていた。
ゆうちゃんはいつからかひとりになって、住んでいたおうちもなくなって、そうしてゆうちゃんが大事にしていたおもちゃもどんどんなくなって、ゆうちゃんをずっと知っているのはぼくぐらいになってしまった。
ゆうちゃんは何人かの人たちと一緒に暮らし始めて、ぼくはその人たちのことを時折部屋にやってくる声で知ってるぐらいだった。
連れてきてもらった部屋で、ぼくは寝るとき以外はそっとベッドに隠されていた。それも時々部屋で見つかりかけると、ゆうちゃんは部屋に積み上げているお菓子の箱に紛れるようにぼくをベッドの近くに置くようになった。
ゆうちゃんはもうゆうちゃんと呼んだらおかしいかもしれないぐらい大きくて、かわいくて少しりりしい顔のぼくなんかよりもずっとずっとかっこよくなっていた。
毎日おはようもおやすみも言わなくなったけど、でもやっぱりゆうちゃんは時々ぼくのことを撫でてくれて、でも大人みたいに笑うようになって。
ねえゆうちゃん、ぼくはいつだって抱きしめられる用意あるから、いつだってぼくのことを頼ってね。でもぼくじゃなくてもいいから、ちゃんと小さいときみたいに泣いて、抱きしめてもらってね。
少しくたっとしてしまったぼくの体は、ゆうちゃんがきれいにしてくれてもやっぱり色が変わって、明るいきれいな茶色の毛は出会ったころよりもくすんでしまったけれど。ゆうちゃん、きみはぼくのこと気に入ってくれたままかな? そうだといいな。
ゆうちゃん、まだぼくと一緒にいる未来はみえるのかな?
滅多に泣かなくなったきみのこと、ぼくずっと心配してるよ。
ある日、とっても嬉しいことがあったんだ。
ゆうちゃんが部屋にちょっと照れくさそうに人を連れてきたんだよ。ゆうちゃんがあんなに嬉しそうで照れくさそうではにかんでるの、ぼくすごく久しぶりに見たよ。
ゆうちゃん、ぼくが隠れているところからベッドに腰掛けるきみが見えてるの、知らないんだろうなあ。
「初めて入った……迅くんここぼんち揚げしかないよ?!」
「だけってことはないんだけど」
ぼくからは見えないその人は女の人の声で、ゆうちゃんを呼ぶ声にぼくはとても安心した。この人は、ゆうちゃんのことを大事にしてる人なんだなって。ぬいぐるみはね、そういうのにはちょっと敏感なんだよ。
ゆうちゃんはベッドに腰掛けたまま、その女の人は部屋を探検しているみたいで声が遠くからしたり近くからしたりする。
「迅くんそこだけなんで奥に箱がないの?」
「ベッドのすぐ横のこと?」
「そう」
「うーん、内緒」
それはそうだろう。だってそこにはぼくがいて、ゆうちゃんはもう大人みたいで、ぬいぐるみは子どもが持つもので、ぼくはくたくたで、ちょっと恥ずかしいものだから。
そっか、とその女の人は返事をして、うん、とゆうちゃんが返事をして。
「迅くん大事なものは隠すタイプなのかあ」
「え、なんでそうなるの」
「だって」
だって、なんだろう。隠されているぼくはものすごくよく耳を澄ませることにした。
「時々そっち見てふって表情緩んでるんだもん」
ねえ、その時のきみの顔、ぼく隠れてるところから見えてね、それでね、ぼくはゆうちゃんがぼくのこと大事に大事にしてくれていたこと本当は知ってたけど、それでも不安になることだってあったんだ。
でも、きみのその顔を見たらぼくはきっと大好きだったハンバーグやエビフライやアイスクリームにはなれなかったけど、きっともっとすごいものになれたのかなって、ダンボールの上にきれいに布を敷いてもらって他の人には見えないけど、ゆうちゃんからは見える場所に座りながら思うんだよ。
「小さい頃からの宝物かもね」
ああ、やっぱりぼく、世界で一番しあわせなくまのぬいぐるみだよ。
本当、ぼく、きみのくまのぬいぐるみでよかった。ぼく、ここにいられてよかった。
だけど、だけどね、もう少しだけぼくはわがままがあるんだ、ゆうちゃん。
『ゆうちゃん、ぼくね、たまにはおやすみもおはようも言って、ぼくのこと抱きしめてほしいな』
だってぼくはきみのぬいぐるみだから。そのぐらい、たまにはお願いしてもいいと思うんだ。
ぼくはそっと口にして、にっこりきみに笑いかけた。
おしまい
(せかいでいちばんしあわせ)