もしも、あの日夢だといったそれが、それこそが現実だった時、なんて顔をしたらいいんだろう。
 彼女はその瞬間をもう二度と思い出したくない。地面がどこにあるのかもわからなくなって、視界が真っ白なのか真っ黒なのか、目の前にあるものは先程見ていたものなのか、何がなんだかわからなかったあの時。
 あれが世界の終わりならどんなによかったか。
 それでも今もは生きていて、そうして迅悠一のいない世界を生きている。

 彼は、ある答えを探している。
 それは子どもの雑多なおもちゃ箱の底に潜んでいるのか、公園の砂場の中に埋もれているのか、学校の机の中、その奥の方に忘れられてきたのか、彼のよく着ているポケットの中に本当は入っているのか、彼の部屋の机の引き出しの中に仕舞い込まれたままなのか、それとも。
 それとも彼の中にその答えはあるのか。
 彼はずっと、ある答えを探している。
 そしてその答えに対する問もまた、彼は見つけあぐねていた。



「人の顔見てどうしたの、さん」
「……なんにもないよ、迅」

 ある日を境に彼女は彼のことを『迅』、とそう呼ぶようになった。
 突然ボーダーを辞めると言い出したかと思えば遺留されながら仕事を減らしつつ、外務営業部から開発室へと転籍し、そしてボーダー提携校の理系学部に社会人枠で入学した。
 『迅』は彼女がその選択をすることを知っていたけれど、なぜ、どうして、彼女がそれを選ぶのかは理解できなかった。推察はできても、どうしたってなぜ、と問いかけが入り、その度に『迅』にはその答えを明確に出せなかった。

 『迅』のことを知った、正しくは思いだした彼女はその瞬間は壊れた機械のように動きを止めていたけれど、その後なりふり構わずに駆けだして、制止の声も振り切ってこの組織の一番上に立つその人のいる部屋へ押し入った。そして彼女は絶望とはこんな形をしている、という姿で城戸を捉えてこう口にした。「迅くんはどこ」城戸は、何も答えられなかった。
 そのやり取りは城戸と、その時居合わせた『迅』本人だけが知っていて、伝聞で知ったのも幹部たちぐらいだ。それ以外の人間は疑いこそすれ、『迅』と迅悠一の関係性について正解にたどり着いた人間はまだいなかった。

「"おれ”の機能チェックに付き合ったって特に面白いことはないと思うよ」
「勉強してるから、いいの」

 迅悠一のように振舞う『迅』は今までにないブラックトリガーの形態ということで極秘で開発室でのチェックを義務付けられている。『迅』自身ある程度自分自身の構造をわかっていても外側から見た際に差異があるかまではわからない。特に迅悠一は人間で、『迅』はブラックトリガーなのだ。トリオン体として彼の肉体を模していてもどこまでそれがどういう状態で続くのか今の時点では誰にもわかっていない。
 ただ、『迅』からしてみれば推測はできて、きっとおそらく、迅悠一が望んだことをこのトリオン体で果たせる限り、このトリオン体は維持機能を放棄しない。少なくとも『迅』はこの状態を維持する意思があった。

「ふうん」
「前回と変化なさそうみたい。よかったね」

 ぎこちなく笑い、彼を迅と呼ぶ彼女、が、迅悠一と一体どういう関係性だったのか。
 『迅』は自分の中に残されている記憶を参照しても二人の関係性に名前をつけられなかった。
 は迅くんと彼を呼び、迅悠一はさんと呼び合う。本部で顔を合わせれば話をして、時折時間があればラウンジでお茶をする。休みがあってないようなものの迅が本部に入りびたりになっているを無理やり職場から引きはがし、外に出て、警戒区域近くの公園で寒いのに二人で鼻を赤くしながら自販機で買った飲み物を飲んだりする。そうかと思えば玉狛で鍋をするからと彼女を呼ぶ。仕事漬けになっているのは玉狛では知れたことで、彼女は時折都合が合えばごちそうになっては美味しいと半分ぐらい本気で涙ぐんでいた。
 それでも二人は手をつないだことなんて冬の寒い、本当の寒い日に冗談のように触れたその日きりで、大の大人と年頃の青年が育むにはまるで幼い、確かめるような関係だった。

「……"おれ"が正常に稼働してて、嬉しい?」

 はその言葉に一瞬体を強張らせ、息を呑み、そしてぎこちなく笑う。

「迅がみんなのこと守ってくれること、迅くんは願ってたんでしょう?」
「それはまあ、そうなんだけど」
「私、迅が嫌いとかじゃないよ。迅が私のことどういう風に捉えてるのかわからないけど、嫌いなわけないよ」

 迅悠一と同じ顔で、同じ声で、同じ話し方をする自律型トリオン兵が本物の迅悠一でないことを知っていて、そして日常的な会話をする相手は今のところ目の前のぐらいだった。他は幹部の面々で、彼らは常に忙しく、目下最大の懸念事項に違いはないが『迅』のことだけに注視するわけにもいかない。開発室の事情を知らされている開発員だって必要以上に会話はしない。雑談ぐらいはしても彼らも『迅』をどう扱えばいいのか決めあぐねているようだったし、彼らと迅悠一は元々さほど交流がない面々だった。それはきっと、鬼怒田の配慮だ。
 だから、『迅』として話すのは目の前のがほとんどで、そして彼女は『迅』としゃべる度に苦しそうな顔を何かしらするというのに話すことを止めようとはしなかった。その時浮かぶ苦痛か苦悩か何か、『迅』には判断のつかない表情をするのに『迅』を嫌いではないという。

 チェックは終わり、多少時間のかかる項目の結果待ちの合間のことだった。
 頻繁に開発室に入り浸って不自然なことにならないようにと医務室の隣に関連施設として増設された部屋の隅のベンチで検査結果を待つ時間、毎回付き合って、たどたどしく、それでも話し続ける彼女の意図を、『迅』は図りかねた。

「ごめんね。まだ、迅を見てなんにもない顔みたいにして、笑ったりできないんだ」

 『迅』に会うと連絡がくる度、目を腫らしてそれでも会いに来るが謎だった。
 ただはっきりしているのは、彼女は彼女のために『迅』を見ているのではなく、『迅』を願った迅悠一のために、数少ない『迅』を見守れる人間としてどんなに苦しんでも立っていた。
 手すらまともに繋ぐ関係でもなかったのにどうして。
 でも記憶の中の彼女はとても幸せそうに、その一瞬一瞬を過ごしていた。それだけはその場にいなかった、人ではない『迅』にだってわかるぐらい、わかりやすかった。
 迅悠一の姿を『迅』は彼の記憶がゆえに見ることは叶わないけれど、彼は一体どんな顔で彼女を見つめていたのだろうか。
 こんなにも生きるのが苦しそうな人間を前に、『迅』は何も言えず、今日もただ黙ってその姿を見守り続けるしかなかった。
 願われ、託されたことを、『迅』はどうすれば叶うのか未だにわからない。




 大学入学後、体を壊しかねない勢いで彼女は勉強し、時折ボーダー内での元々の仕事をこなし、そして苦し気に『迅』のメンテナンスに参加し始めた。
 大学に所属する傍ら、引き継ぎつつも手が回らないとなれば仕事をし、その合間を縫って『迅』と会い、時折話をした。
 最初のころよりもは自然に『迅』と話すようになっていたけれど、それでも時折苦し気に笑うことは変わりない。その度に『迅』はどうしようもなくなってしまう。それは『迅』がもたらしている結果で、本物よりも精度の低い未来視でだってよく視えるぐらい決まりきったことで、そして何より彼女がもういない迅悠一にどこまでも囚われたままであることの証左だった。

「最近は私でもできること増えてきたでしょう?」
「前から思ってたけど、さんは働くのが趣味なの?」
「そんなことないよ?! ちょっと根詰めちゃう癖は、あるけど」

 『迅』にわかることは、はフリが上手になったということだ。平気なフリ、『迅』ではなく迅悠一と相対するようなフリ。他の人がいる時に会う時は特にそうだ。
 時折仕事以外でも顔を合わせていたことを知られている二人が突然会わなくなるのは不自然で、不自然が目立たないように二人は最低限本部内で顔を合わせる必要があった。
 幸い、が転籍をしているのでこもりがちな分多少会う機会が減ったという言い訳はできるし、今日みたいに開発相談という風にして他者を避けて会うようにすれば二人とも気が楽だった。
 勘の良い人間はどれだけ巧妙に細工をしても敏感にその違いを感じ取る。例え『迅』が限りなく本物に近い構成要素で成り立っていても、記憶を持ち合わせていても、それは完璧ではなく、本物の得た感覚は得られず、ただ情報として保持している。その分彼の感情表現は迅悠一本人よりも薄いし、よく知っている人間ほど違和感を抱くだろう。
 どこまで『迅』は迅悠一のフリができるのか。『迅』にはわからない。ただ彼は彼の最善の行動を取り、学習し、試行錯誤するしかない。いつかは終わりの来ることだとしても、『迅』は彼の最大限の努力でもって迅悠一を続ける必要があった。

「たまには休んだ方がいいね」
「……そう、だね。迅も、あちこち視て回って、大変でしょう」

 ブラックトリガーとして稀有なことに本人の所有していたサイドエフェクトをすべてとは言えないがかなりの能力値を保持したまま引き継いだことはボーダーにとって最良の結果だった。
 迅悠一は『迅』に自分が残せるほぼ最高の結果を残し、『迅』は彼自身の最高のパフォーマンスで人々を視続け、そして足りない分を迅悠一よりもたくさん視て、その未来をその思考で選別していった。

「まあでも、"おれ"はそんなにしんどいって思わないから。その点は変な心配しなくていいよ、さん」

 人の未来を視て、様々な情報を総括し、整理し、並び替え、そして取捨選択し、ボーダーにとって、三門市の人間にとって、最善と思われる未来を多く選び取っていく。
 個人の大小の未来を『迅』は流れ作業のようにほとんどを気に留めずにいられる。ただ情報として処理をし、必要であれば記憶として留まらせ、それ以外はどんどん処理をしていく。
 けれど、迅悠一はどうだっただろうか。まだ20歳を越えたばかりの彼にとっては。
 そしておそらくそれに気が付いていた『迅』の目の前の彼女は。

「……そっか。迅は、辛くない?」
「そうだね。"おれ"はただのトリオン兵で、そういうのは人間よりずっと疎いから、さんはそんな風に"おれ"を見なくても大丈夫だよ。ちゃんと視るよ」

 自分の、ボーダーの、大勢の他人の、良い未来を選ぶ。自分だけが見えている選択肢の中から、良い未来を。
 その傲慢さと残酷さを、迅悠一は正確に理解して、そしてそれに心を痛めて、嘆き、それでも未来を見て前に進む人間だった。
 『迅』は多くの人間を知っているわけではない。様々なことを知識として眠らぬ体で記憶していったけれど、そのすべてがわかるわけではない。
 けれど迅悠一が選んだその道は、人が歩むにはおよそ過酷で、むき出しの手足のまま荒れた道を歩き続けるような過酷さがあった。
 それでもそれを選び取り、歩み続けることを決めることが容易ではないことを、『迅』はそろそろ理解していた。

「……辛くなったら、言ってね。お願いだから」
さんにはちゃんと言うよ」

 彼女は知らない。彼女を守る未来を選び取ったから迅悠一は死んだのだと。
 『迅』は言わない。それは彼に託した迅悠一が最も忌避した出来事の一つだったから。

 幸せそうに笑っていた彼女は滅多にそんな顔を見せることはなくなった。『迅』を認識してから最初、苦しそうに、何かに耐えるようにしていた。今はその時よりも少しだけ深く息をして、それでも朝、部屋から外を見る、そんな何気ない日に泣いていることを『迅』は見たことなんてないけれど、知っていた。窓越しに視えた彼女は静かに泣いていたから。

 迅悠一と同じような形をしているのならば、せめて彼のような選択肢を掴むのは『迅』がしてはいけないことなのだろう。
 彼女の"幸せ"を『迅』は考えあぐねているけれどそれは答えを出さねばならない願いの終着点だから。だから、彼女が同じように悲しむ未来を選び取ってはいけない。
 それがたとえ、彼女が今度こそ死んでしまうことでも。
 今のところ、それが『迅』に出せる「」にとっての"幸せ"の一回答だった。




 『迅』に託されたことは機能としての面と、迅悠一が果たせなかったことを果たしてほしいという願いの面と、それぞれで重なっていて、時々一部外れていた。
 機能としてはもちろん引き継いだサイドエフェクトを活用し、迅悠一が果たしていた未来視による危険回避をなるべく現状維持し続けること。ボーダーにとっての有益な隊員としてその能力を使い、責務を全うすること。
 そして彼の願いは、彼の大事な人をなるべく多く守る未来を選ぶこと。それはボーダーに居続け、その機能を果たすことによっておおよそ果たされる願いだった。
 けれどその願いの中の一部、本当にそれは小さい願い。他に比べれば『迅』の中で容量を取らないのに、それでいて優先順位を変えることもできなければ排除不可避の願い。迅悠一が個人的に願って、折れなかったわがままだった。
 「さんに幸せになってほしい」
 たった一言で、それでいて彼の記憶を辿れば辿るほど一体何が「」にとっての"幸せ"で、何が「迅悠一」が望んだ彼女の"幸せ"なのか、『迅』にはおよそ想像もつかないことだった。

「幸せって、何かな」
「哲学でも始めるつもりか」

 その日『迅』は鬼怒田との定期面談だった。おそらく城戸あたりは時間があるならこれを見ているはずだが『迅』にとっては大した問題ではない。どうせいつものように『迅』を運用する上での通常時の問題の有無、懸念点、対策、未来視に関してのあれこれ。聞かれることも答えも最終的には同じだ。今を維持し続けること。『迅』にはそれしかできないし、それ以上も以下もなかった。
 ただ彼に残された彼の存在意義を全うするのに足りないものは確かに存在していて、それを得るために彼は努力する義務があった。

「他人の幸せをただの道具の“おれ”が推し量るのも無茶とは思うんだ」
「ただの道具とも思わんが、そもそも自分以外の幸せが他人にわかるわけもなかろう」

 ふん、と鬼怒田は腕を組んで答えてきた。

「そんなもん?」
「これがお前の幸せだろうと押し付けるのもエゴだが人間なんてエゴの塊だからな。望むようにやるしかないし、もしそれがお前の考えうる“幸せ”と違うのなら伝えればいい」
「伝えるの? 本人は幸せだと思ってるのに?」
「お前は幸せとは思わんなら、伝える自由ぐらいはあるぞ。お前は“幸せ”じゃないんだからな」
「“おれ”が?」

 一応ブラックトリガーとして高機能の演算処理能力も人の心理状態を推察する機能も人並み程度にはあるはずだったけれど自分のこととなると別だった。
 そもそも『迅』は機能であって存在ではないのだ。それなのにその機能が抱いた判断を伝えることに意味はあるのだろうか。

「意思を持つ道具があって何が悪いんだ?」
「……鬼怒田さんってこういうとき開発室の室長でエンジニアだなって思うよ」
「何を当たり前のことを言ってる。一人で考えてわからんことなら聞くなりお前の中で探すなりしてみろ。下手な脳みそより回るだろう」

 さて今日は終わりだと立ち上がる鬼怒田は『迅』を知っている中でかなり普通の反応をする人間だ。まるで『迅』を人間のように扱うのに迅悠一としては扱わず、トリオン仕掛けの存在が意思を持って話すことを当たり前のように扱う。
 それは『迅』であることを隠さなくていい瞬間で、彼にとってはとても楽なことだった。『迅』が抱く疑問は誰にも気づかれてはならないから。
 立ち上がってすぐ出ていくのかと思えば目の前に座ったままの『迅』を見て、鬼怒田は一度ため息をつく。そして、もう一度、彼のために口を開く。

「迅、お前はあいつとは違うがお前の元はあいつには違いない。それは別に善悪正誤なくただの事実だというのは忘れるなよ」
「……鬼怒田さんってもしかしておれのこと好き?」
「馬鹿なことを言ってないで仕事に戻らんかい」
「わかってますよと」

 今度こそ鬼怒田は部屋を出て、残された『迅』はふう、と一息。
 鬼怒田が楽なことに変わりはなくても、謎のまま、ほどかれることのない複雑に絡んだように見えるそれはさらに『迅』自身の問題も絡ませて、本当に答えなんて見つかるのか、『迅』にはだんだんわからなくなってきた。

 さて、『迅』の幸せとは何であろうか。
 彼のトリオンはどこを流れ何に消費され彼の意思はどこにあるのだろうか。
 答えはまだ見つからない。





 その日『迅』は街を一人で歩いていた。
 通りすがりに見える人々の未来を機械的に分類し、必要なものは記憶に留め、それ以外は流していく。
 冬の最中、マフラーは人によるけれどコートは着ていないと不自然で、だからトリオン体の『迅』はそこにさらにコートをトリオン体に設定する。
 迅悠一は何から何まで心配性の気があったのかブラックトリガーの核を誰もが使っている共通のトリガーホルダーの形にした。実際にチップをセットできるという細やかさで、意識的か無意識的かはともかく、いかに彼がなるべく長い時間をかけて『迅』に代わりをさせようとしていたのかよくわかる。

「人の為ばっかりだな、迅悠一は」

 さすがの『迅』も延々と人を視続けることは労力で、少しずつ人気のあるところから外れて、このまま玉狛に戻ってしまおうかと川沿いを歩いていた。
 冬ではあるものの川沿いを歩く人はそこそこいて、時折視えてくる未来が他愛のないことを確認しながら『迅』はのんびりと歩いた。
 『迅』はこの川沿いを一人でしか歩いたことがないけれど、この川沿いを二人で歩く景色を知っている。

 なんてことのないただの道なのに、彼の視界は色鮮やかで、隣で鼻を赤くしながら笑いかけるその人のことばかり視界に入れている。
 今よりももっと寒い時期だというのに彼は歩き慣れたその道をことさらゆっくり進み、彼女が引っ張るぐらいゆっくり進む。
 そう、彼女が彼の手を引っ張ってくれるのだ。彼の手の先に彼女がいる。ぐんぐんと、重たい足を引きずろうとする彼をなんとか進ませようと、一生懸命な彼女がいる。
「もう、迅くん玉狛帰るまでに日が暮れちゃうよ」
 そうやって急かす彼女を見つめる世界は優しかった。
 彼女の手のぬくもりが彼の手に伝わって、「日が暮れてもいいよ」だなんて、『迅』と同じ声なのにまるで別人のようにやわらかく溶けそうな声で話しかけている。
 冬枯れの景色、顔に当たる冷たい風、橋の向こう側で石焼き芋と調子をつけて歌う声、子どもの何かを叫ぶ声、すれ違う犬の散歩をする人、どんどんと色が変わっていく空。冷えていくのに手の先だけはあたたかく、それでいて緊張して少しだけ汗ばんでいて、足取りは相変わらず重たい。彼女はもう少しで怒り出しそうで、そこでようやく彼の歩みは早くなる。
 冬のある日、何てことのない、それでいてその瞬間だけが永遠だった。

 とても遠い過去ではないのに、今この道を歩いているのは『迅』一人で、その時彼が何を感じて何を思っていたのかまでは、正確には『迅』には知り得ない。
 でも、彼の見た景色は『迅』が見たことのない、見ることができそうもない、そんな世界で、それを考えるたび『迅』はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
 前に進み続けなければならないのに、どうしたらいいのかわからずこの道の真ん中で立ち止まり、その機能を止めてしまいたくなる。
 もちろん、『迅』はそんなことはしないし、できない。そんなことをすればそれは『迅』が『迅』である理由そのものの否定になってしまう。それは彼にはできなかった。

「迅?」

 その声がした瞬間、『迅』は振り向いて、そして、動きを止めてしまった。
 暖冬と言われている通り、今日は暖かな冬の日で、マフラーなんていらない。『迅』もマフラーをしていなければ目の前の相手もマフラーはしていない。夕暮れにはまだ早く、陽気は空気に残り、もうしばらくすれば夜のひんやりとした空気が日没とともに近づいてくるだろうけれど、それはまだ遠くの気配だ。買い物帰りの女性が遠くから歩いて、先ほどすれ違った学生は冬休みで部活帰りなのかジャージ姿で友だちと楽しげに話しているのが見える。今日は右隣の少年の家はカレーライスだ。シーフードカレー。
 視界に入る目の前以外の情報に意識を割こうとして、それでいて目の前に現れた現実のその人に『迅』は大半の意識を取られていた。

さん、こんな昼間にどうしたの」
「今日の私はお休みですよ。……最近あんまり遊びに行ってないから小南ちゃんに誘われたの!」

 玉狛の面々は『迅』の不自然さに気が付いているようだけれどそれが何なのかはまでは言葉にならないようだったし、そんな不自然さととの距離が遠のいたことは関連付けて考えたらしく、以前よりが支部にこなくても誰も何も言わなかった。
 それでもたまには遊びに、という小南はおそらく突然転籍してエンジニアを目指しだしたに思うところがあったのだろう。適当にがはぐらかしても全員が何があったのかと訝しみ、そしてその答えを彼女から聞き出すことは叶っていない。

「今日はレイジさんの当番のはずだけどな」
「だからおいでって。美味しいごはん食べて体調を整えなさいってことみたい。小南ちゃんのカレーも元気になるけど、今日は今日で楽しみなんだ」

 振り返った『迅』の隣にが並んだため、『迅』も前を向き、二人並んで歩き出す。
 歩調はゆっくりすぎず、早すぎず。ごくごく普通を『迅』は装った。そうしなければならなかった。
 隣の人の顔を見ることなく、何てことのない会話をして。

「それにしても日が暮れるのが早いなんて言ってたのにもう冬至も過ぎちゃったね。年末あっという間」
「今年はこの時期に休めるの珍しいね」
「そう、だね。今年は鬼怒田さんに休んでないのバレて本部本日出禁を食らったうえに大学にも連絡されてどこにも行けないってなったところで小南ちゃんから連絡がありまして」
「それ林藤さんからの根回しもあるでしょ、絶対」
「そう思う」

 なんとか、『迅』は隣の声の人を見ないようにと必死だった。
 それは彼女のことを視たくないわけではない。別に視たっていい。彼女が不幸になったり、そんな未来を選ばなければ、『迅』はどんな未来だっていいと思っている。あわよくば、彼女自身で幸福であることを選んで欲しいだけだ。誰に強いられることもなく、彼女が望む幸いに彼女自身でたどり着いてほしい。
 だからこんな道のりは今の彼女に不必要で、そしてまた『迅』にとっても不必要であるべきだった。
 フリが上手になった彼女にこんなところで恨めしく思うなんて、『迅』は知らなかった。

「迅」
「なに?」
「どうしてこっちみないの? 何か視たくないの?」

 不安げな声に『迅』は逆らえない。彼女を不安にさせるのが自分自身だなんて、そんなことは迅悠一に許してもらえない。
 だって『迅』は「」の"幸せ"のためにも存在しているのだから。彼女を不安にさせ、不幸にさせることは『迅』の根本に反している。
 だから、『迅』はゆっくり、願うように隣を見た。川を背景に、を見た。

「なんにもないよ。なんとなく、前を見て歩きたかっただけ」
「そう? なら、いいんだけど」

 記憶に残った景色があっという間に重なって、ただ、今日は穏やかな日差しの午後で、風もなく、すれ違う人の雑談は遠く、目の前で何気なく『迅』を見返すその人だけが記憶の姿と重なった。
 どうしてこんなにも違うのだろう。
 そんなわかりきったことを考えて、そしてそれをおくびにも出さず、『迅』は何気なく振舞える。だけではなく、『迅』だってフリは上手になっていた。

 その後は何てことのないように、二人は少しだけ距離ができてしまった迅悠一とのフリをして、何てことのないように歩き続けた。
 ただ『迅』の中を駆け巡るその景色と、それをもたらすものの正体を、『迅』は掴みかねていた。

さん、ちょっと帰る前にコンビニ寄ってくるから先に行ってて」
「わかった。気を付けてね」

 もう少しで到着するという時、『迅』が告げたとってつけた用事には一瞬瞬きして、そしてすぐに了承した。
 二人で揃って支部に向かうことに悩んでいたのだろう。は特に何かを聞き返すことなく真っ直ぐ玉狛へと向かった。
 その背中を見送って、見送って、見えなくなった頃、『迅』はおもむろに座り込んだ。邪魔にならないよう、端に寄ることだけは忘れずに。

「ねえ、これは、あんたの残骸かな」

 答えなんて出ない。返ってくるわけもないけれど、『迅』は思わず口にした。

「それとも、あんたの願ったその"幸せ"を、わかった気になっているだけかな」

 記憶に残った視界を、どうして『迅』自身の視界で見つけてしまったのか。
 彼の願った幸いは、彼のいない世界で彼女が"幸せ"であることで、それはおそらく、彼が見ていた彼女のことそのもので、それでいてそれは『迅』には一生見られそうにないものだということを、彼はわかっていたのだろうか。
 きっと、わかっていればもう少し二人の関係性の名前は『迅』にとって簡単なものだっただろう。
 ぽつり。地面に落ちた水滴に雨かと『迅』が見上げても、空は快晴で、天気雨なんてものもなかった。

「なんだ、ブラックトリガーって、泣けるんだ」

 頬に伝う感触に『迅』はからりと笑って、指でその水滴を払う。
 地面を濡らしたそれはわずかで、乾いた部分とあっという間に馴染んでわからなくなってしまう。

「……結局、"幸せ"ってなんだろうな」

 ため息も一緒に地面に落ちる。はらりと前髪が落ちて、そんなところばかり人みたいだなんて一人笑って。
 答えもなければ問いかけることもできず、『迅』は強く目を閉じて、開き、そして立ち上がる。

「はー、迅悠一、しんどい」

 空を見上げて誰にも聞こえないぐらい小さな声で口にして、それから彼はもう一度笑う。今度は、少しだけ満足したように。

「さて、行くか」

 コンビニでデザートでも買って、なんてことない顔して、先ほど視えたごはんに参加する面々のために何を買っていこうかなと、彼は歩み出した。



(初恋)