「さん、仕事終わり。ご飯食べるよ」
「へっ?!」
その日、外務営業部の扉を開けて開口一番告げれば間の抜けたさんの顔が見えた。
ちらりと唐沢さんを見れば軽く微笑まれた。もちろん本人を通さず事前申告済みでは今日フレックスで早上がりだったし、今視えた彼女はすきやきを嬉しそうにつついて熱いとしかめ面をしていたので間違いないだろう。
戸惑いのあまりなぜか書類を自分の体で隠して守ろうとするさんに帰るよと声をかければ仕事が、といつも通りの返事が来る。
「君、今日取り掛かってる仕事は急ぎじゃないよ」
「え、でも唐沢さん」
「たまには早く帰るのも気分転換になると思うよ」
暗に帰れと言い渡す唐沢さんの言葉にさんはそれでも躊躇い、唐沢をうかがい、おれをうかがい、そしてとても困った顔をして、帰っていいのかなと自信なくつぶやいた。
「唐沢さん帰っていいって言ってるよ」
「でも仕事」
「急ぎじゃないんだから帰れる日は帰ります。ちなみに夕飯は玉狛へご招待で今日はすきやきです」
「えっ」
「帰るよ、さん」
加えて外務営業部にフレックスの実績作りたいんだよねと唐沢さんが追い打ちをかけてくれる。この人本当になんでもできる。
兎にも角にも、結局すきやきの言葉の魔力にさんは逆らえず、もちろんおれはわかってて早く早くと彼女を急かした。
実は急かしてみても早上がりだから夕飯には早いし、買い物はもう済ませてあるし、働き詰めの社会人を強制的に労る会として全員が協力体制だからおれはたださんを玉狛に確実に連れて行けばよかった。
もうここまでくれば未来は確定で、だから警戒区域を出て、たまの散歩だとゆっくり歩いて玉狛に帰るぐらいは許されると思う。
年も明けて寒さはさらに厳しくなり、今日もカラリと晴れてはいたけれど時折冷たい風が吹き、生身の体が震えた。
隣のさんもしっかりマフラーはしているみたいだけど明らかに肩が上がって、鼻先はほんのり赤い。
「寒いね」
「風があるからかな? 冷えるねえ」
はあ、と息を吐くさんの周りが一瞬白くなる。今度は両手を口元に当てて息を吹きかけていた。
川沿いを歩いてるのは景色がいいかなと思ったからだったけど失敗だったかも、と思ってでも、と頭によぎった考えを流すことなく考える。
今日は寒くて、おれはトリオン体じゃなくて、それから、さんもおれも手袋をしていない。
言い訳を数えて、おかしいものではないか確認して。
まるで中学生みたいで、思わず笑ってしまった。
「なに、迅くんどうしたの」
「いや、そんなに寒いならほら、手繋いでたらあったかくなるんじゃない?」
何気ないように装って、なんてことのないように出した手を、さんはビックリしたと、わかりやすい顔で見て、視線を泳がせて、それからおずおずと手を重ねてきた。
どうしよう。今日のおれ、運を使い果たしたりしないかな。
逃げられないように、でも驚かせないように自然を装ってその手を握って、そのまま自分のコートのポケットに突っ込んだ。だって、寒いから。決して、隣の人との距離を最短にしたいからじゃない。それは後付の願望だということにしたい。
心臓は過剰反応をするのに頬を切る風は冷たい。でも、そんなの気にならなかった。繋いでいる手だけに意識が全部持っていかれたようだった。
よく通るなんてことのない川沿いの道なのに、隣にさんがいるだけで別の道みたいだった。
一瞬ぎこちなくなった会話はゆっくり歩き出せば繋いだ手の部分以外はいつも通りみたいになる。
休憩がてらに諏訪隊の作戦室でいつものように麻雀をしていたこと。諏訪さんが珍しく一人勝ちしていたこと。さんは相変わらず負けはなかなかなくて東さんにいずれきっちり勝ってみたいななんてにこやかに宣戦布告されたこと。
おれは今回小南がさんの働きぶりにドン引きしてたまにはゆっくりご飯を食べるべきだと会の開催が決定したこと。そのくせ準備はおれとレイジさんとゆりさんでやっていること。まあ、ゆりさんがいるからレイジさんは嬉しそうだけど挙動が不審で買い物に行く二人が少し心配だったこと。
二人でなんてことのない会話を、ゆっくり歩みながらして、緊張しすぎて手が汗ばんでないかななんて心配して、本当中学生だ。まあ、中学生のころはそれどころじゃなくてそんなことしてなかったけれど、でもまあ、そんな感じ。
ただ歩いているだけなのに馬鹿みたいにこの道のりがもっと続けばいいのにと、おれの足取りはわかりやすく鈍っていく。
そうしたら歩むスピードが変わらなかったさんが少しだけ前に出て、おれのポケットに入っている腕が少し前をいく。引っ張る様に。
最初は気のせいだと思ってたみたいだけどどうにもおかしいと思ったのか次第にぐいっと繋いだ手がほどけないように握りなおしながら腕を前に引っ張られる。でも、おれはさんより力があったのでそんなに前に進むこともなく、彼女が何回か引っ張ろうと試すのを馬鹿みたいに緩んだ頭でうれしく感じていた。馬鹿みたいだったけど、それがどうしようもなく嬉しくて、笑いたくて仕方なかった。
「もう、迅くん玉狛帰るまでに日が暮れちゃうよ」
いい加減わざとだと気づいたさんがむっと口を尖らせて訴えかけるけれど、それでもそんなことも気にならないぐらい、今おれを取り巻く世界は優しかった。
ポケットの中からさんの手の体温が伝わってくる。振りほどかれることもなければ、ほどけそうになれば繋いでくれる。
「日が暮れてもいいよ」
「もう」
冬枯れの景色、顔に当たる冷たい風、橋の向こう側で石焼き芋と調子をつけて歌う声、子どもの何かを叫ぶ声、すれ違う犬の散歩をする人、どんどんと色が変わっていく空。
さすがに耳が冷たくなってきて、冷えたなと思うけれど手の先だけはあたたかく、それでいて緊張して心配してたのに汗ばんでいて、足取りは相変わらず早めることができない。
さんはそろそろいい加減にしなさいなんて怒ってしまいそうで、だから仕方ないと少しだけ歩みを早める。
「すきやきが待ってるんでしょ」
「そうだよ。さんのためにいいお肉買おうって言っといた」
「お、お肉」
「それにみんなで食べるの美味しいしね。たまには大勢で食べようよ」
本当は、いつか二人で、美味しそうだななんて笑う隣の人をひとり占めしたかったけれど。
この冷たいのにあたたかくて二人だけのこの瞬間がいつまでも続けばいいと思ったけれど。
でも今は不意に視えた明日のさんが嬉しそうに今日のことを話す姿が見えたから。
だから今日はあと少しだけさんをひとり占めして、そうしてみんなで美味しくご飯を食べることにする。
「さん」
「なあに、迅くん」
迅くん、と呼んでくれるその声にどうしたって頬が緩んで、それが聞けるならなんだってできる気がした。
「お肉って聞いて顔がゆるみきってるよ」
「迅くん!」
声を出して笑って、それから確かめるように彼女の手をもう一度握りなおして、握り返される幸福をおれは噛みしめた。
(希(こいねがわ)くは幸いを)