玉狛支部というのはボーダーの中でも異色の場所だ。
 内密ではあるが近界民が支部のエンジニアとして普通に暮らしているし、支部長と一部の隊員は住み込みだし、そうでない隊員も支部の人間は家族のように過ごしている。
 そんな玉狛支部も、今は大きくなった本部も、迅にとっては大切な場所だ。昔も今も、守りたい、何にも代えがたいところなのだ。
 それでも、その場所が、そこにいる人たちが、迅にとってはどうしようもなく重たく、苦しく、息のできないものになることがある。
 そういう時、迅はサイドエフェクトで良くないことばかりを見て、それを覆そうと頭の中をそれでいっぱいにして、そしてまた人の未来を見て、そんなことを繰り返している。そして繰り返してもなかなか見えている未来は良い方へといかない。そもそも、何が良いのかもわからないのに、迅は迅とボーダーにとって良い未来をいつだってもがき苦しみながら手繰り寄せようとしていた。

「は~、趣味も根詰めたら結構疲れる」
「暗躍のこと? 好きでやってるんでしょ。自業自得じゃない」
「桐絵ちゃん、事実は時に人を刺し殺せるよ」
「そう言いながらさん笑ってるしフォローになってない」

 玉狛支部のリビングは平和で、そこにいた三人は本日は防衛任務もなく、学校も終わった夕方で、夕飯前ののんびりした時間だった。
 もう少ししたら今日の夕飯当番の迅が準備を始めるだろう。小南は学校の課題を広げているので夕飯までは継続だ。は読み進めていた本にしおりを挟んで二人を見た。
 小南はいつも通り。彼女はブレることが少ない。いつも通り難しいらしい課題を取り組んで顔を顰めている。迅やに頼る気はないらしく、真面目にするらしい。学校ではここで見せるような小南桐絵ではなくいろいろと慎ましやかに生活しているらしいのでそのためもあるのかもしれない。
 迅は確かに本人が言うとおりに疲れた様子で、へらりと笑うその表情も明るくはないけれど過度に心配すればそれはそれで本人が気に病むという少々面倒な性格だというのを小南ももなんだかんだ知っているのでいつも通りに接している。
 ただは迅よりも年上で、迅の人に頼り損ねる損な性格を知っていて、かなり疲れていることもわかってしまったから、彼女はいつも通り口を開く。

「疲れたら休めばいいんだよ。今日は暗躍はやめてゆっくりしなよ。話したかったらいつでも聞いてあげるからさ」

 私も今日は久々に家に帰るぞとは笑って、小南はもうここに住めばと呆れている。
 は玉狛支部のエンジニアで、本部では取り組みにくいトリオンの開発を本部にも流用させられそうならという条件で好き勝手仕事をしている。もちろん、そこには近界民の同僚を監視しろという命も含まれており、はその"便宜上"の密命をミカエルに伝えて、そのまま研究内容を報告している。面倒くさいことするとは全員が思っているのだがその点は本部の内部事情から鑑みても致し方ないことだった。
 エンジニアは本部の人間ももちろんだが大抵はのめりこんで作業をする人間が多く、泊まり込みもザラで、かくいうだって月の半分ぐらいは玉狛支部に泊まり込んでいるようなものだった。
 住んでしまえばいいのにとは何度か複数名に言われていたけれどそのたびには笑って断っていた。曰く、私にだってちょっとしたプライベートはあるんだと。ほとんどの時間を開発に当てているのを誰もが知っているので誰も信じていなかったが。
 そんなプライベートな家に今日は帰るぞと笑うに迅はそれこそさんがゆっくりしなよなんて笑って、そして夕飯のために席を立った。
 はその背中を見て、微笑み、そして読み止しの本を手に取った。



***



 呼び鈴が鳴るとは一応防犯カメラを見て、予想通りの人物を認めてロックを解除した。ついでに玄関へ向かいそこも鍵を開けてドアを開ければちょうどその相手はするりとドアの隙間から部屋に入ってきた。

「こんばんは、さん」
「こんばんは、悠一」

 入りなよとは中に入り、迅はドアの鍵を閉めてから慣れた様子で彼女の家に上がった。
 月の半分しかいないという彼女の部屋は最低限のものしか備えておらず、ベッドと大き目のソファ、それから申し訳程度にテレビ。あとは彼女が読み終わった本が本棚に詰まっている。台所はほとんど触られた形跡がない。人が住んでいるというよりは滞在している、というような部屋だった。
 夕飯は二人とも玉狛で食べていて、面倒だからとはお風呂にまで入って部屋に帰ってきている。自宅といっても玉狛支部から徒歩ですぐなのだ。大した距離もなく、彼女は一人になりたいとき、それから今日みたいな日に家に帰る。
 迅は勧められる前にソファに腰かけた。背もたれが高めで、少し硬めの記事のソファは沈み込むことなく、でも背中は預けられて迅はいつもこのちょうどいいソファに体を預けると自然と目を閉じてしまうのだ。視界は閉ざされる。その目の奥には見たことのある"これから"を思い出しても今何かを視ることはない。

「アイピロー温めてくるわ」
「いつもありがとう、さん」
「どういたしまして」

 は旧ボーダーの生き残りだ。迅や小南やレイジと同じ。本部にいる大人たちと同じ。あの頃から迅たちは子どもで、今もまだ学生で、年上の二人がようやく子どもを抜け出そうとする、そんな年ごろにようやくなった。
 大人は昔から若くても大人で、はそんな大人と子どものその間にいた。あの頃からもう半分大人ぐらいの学生の終わりかけの頃で、でもまだ少し子どもだった。今はもう、大人になってしまったけれど。
 ボーダーはこの世界の人々を守るためにある。そのためにできることは何でもやるような集団だ。使えるものはほとんど使ってきた。
 そんな中で未来視という迅のサイドエフェクトは群を抜いて"使えた"。
 発足して間もなく、力もないこの集団にとって迅は、迅のサイドエフェクトはなくてはならなかった。迅自身もそれを望んだ。
 望んで、望まれて、使っている。だからと言って迅はそれをすべて受け止めて耐えて乗り越えられたかといえば答えは否だ。彼は今ようやく十九歳。まだ二十年も生きていない、十分子どもの枠に入る存在だった。
 アイピローをレンジで温めて戻ってみれば迅はソファで横になり、足を投げ出し、目を閉じた上に両腕で顔を覆っていた。
 悠一、と名前を呼べば迅は腕だけ顔から遠ざけて、はそこにそっとアイピローを乗せた。じんわりと、迅の目にあたたかくて心地よい重みが訪れる。

「悠一は頑張るね」
さんも、頑張るね」

 は近界から聞き知ったトリオン技術の有用性を守ることや、救うことに使いたかった。今はまだただ耐え忍び、相手を攻撃することでしか退けられないこの世界に、もっと平和な意味で近界の技術を持ち込みたかった。そして攫われた行方の知れない人々を助けたかった。
 玉狛ではそのために実を結ぶかわからない研究と実験を繰り返して、その合間にトリガーの武器開発を続けている。今のボーダーに役に立つ研究開発もすること。それが城戸司令の出した条件だったからだ。
 は時々一人になるためにここにいる。昔と変わってしまった今を、時々迷子になったかのようにさまよう時、この部屋でじっと息を潜めてその波が終わるのを待っている。でもそれは今ではない。今日この夜は、疲れたと未来を視られるその目を閉じたがっている青年のためにあるのだ。

「悠一がいつか苦しくてどうしようもなくて、もうボーダーも、仲間も、大事なものも、全部手放したくなったらいつでも言いなよ。私が悠一を殺してあげるから」

 それはいつからかここで過ごしたがる彼のためにが用意した言葉だった。
 誰も迅悠一に頑張るのをやめていいとは言わない。言えない。だからは言う。彼の望む言葉を。それが誰かにとっては残酷な選択肢でも、はそれを選ぶし、今の迅はその言葉を望んでいる。

さんがさんでよかった」
「どうせ私が本当にそうするかもしれない未来でも視たことあるんでしょう。安心して暗躍していいよ」
「うん、そうする」

 いつだって、ここで目を閉じるその子どもの声は震えている。ここで迅悠一は必要とされない。ただ疲れ果てた子どもを、黙って受け入れて望むようにしてくれるだけだ。どうしろとも、どうするなとも言われない。ただいつだって止めていいんだと、そう思われていることをここでは素直に受け止められる。
 この夜ここにいるのはただ疲れてしまった子どもと、それを知って甘やかしたい子どもだった大人がいるだけだ。
 は旧ボーダーのメンバーだ。今のボーダーのメンバーだ。ボーダーの為に、ボーダーにいる人間の為にここにいる。
 迅悠一は旧ボーダーのメンバーだ。今のボーダーのメンバーだ。ボーダーの為に、ボーダーにいる人間の為に、この視える世界を守る為にここにいる。
 迅悠一の為に誰が動けるのかといえば、きっと彼の望むように動く人はこの世界では実に少なくて、彼の能力なんて捨ててしまえなんて誰にも言えなくて。
 だからそれを知っているは、自分だけでもそれを選ぼうと決めた。迅悠一を、迅悠一のサイドエフェクトを絶対視しない、いざとなればそれを打ち壊す人間としていようと。大人になる前、子どもよりも少し大人に近かったはまだ子どもだった迅を見て、決めたのだ。それはあの時あの日々の中でにしか決意できないことだったから。

「悠一、今日は朝まで何にもみなくていいよ。私が起こすまで、おやすみ」
「……ありがとう、さん。おやすみ」

 明日なんて来なきゃいいのにね。
 その言葉にはそうだねと、心からの声で応えた。



(死にたくなったら呼んで)
title:うばら