警報が鳴っている。
 世界の終わりみたいなことがそう何度もあってならないのだが、この土地においてはそれはいつだって有り得る未来だった。
 それでも景色はまだ平和な街の中だ。人が騒ぎ出す騒然とした気配はあれど、実際に建物が壊れたり、火事が起きたりなんてことはない。嵐が来る前の警報に、この三門の人たちは誰よりも敏感で、そして警報を鳴らす存在を信じていた。
 彼女もその一人で、同時に信じられている存在、ボーダーの人間でもあった。
 一番近くの本部へ続く入口へと急ぎ駆け抜けて、息切れも激しくなってきた頃、視界の端に見慣れた姿を見つけて思わず立ち止まった。

「迅くん!」

 叫んだその人の名前を呼んでも、彼はこちらを見てもくれない。ただ、その横顔が空中に向かっている。
 何を見ているんだ。未来が視える目には何もないそこに何かが視えているんだろうか。
 もう一度彼の名前を、彼に届くようにと叫ぼうとして、そして彼がそれよりも前にこちらに体を向けた瞬間、世界は暗転した。




「ゆめ?」

 目を開けば見慣れた自宅以外の天井だ。職場の天井である。正確には、職場の仮眠室の、天井。
 見慣れるほど世話になるのは夜勤が通常業務に入っていない彼女にとっては嘆かわしいことだったが泊まり込んだ方が早い日もあるのだ。明日の朝一に必要になった書類を仕上げるのに通勤時間など加味していたら間に合わない。本部職員全般的に過労の気があるのだ。
 飴と鞭を巧みに使われてすっかりと社会に貢献せざるを得ない精神を得てしまった彼女はお給料ちゃんと出るんだから、と律義に働くものだから余計に仮眠室とは仲良しだ。
 しかし今日はいつ仮眠室にたどり着いたのか、とんと記憶がない。それこそ先ほどの夢はいつから見ていたのだろうか。はて、と首を傾げつつも体を起こしてよろよろと部屋を出た。

「ああ、目が覚めた?」

 廊下に出て彼女を待ち受けていたのは夢の中で名前を呼んだ人だった。
 仮眠室近くのベンチに座っていた彼はすっくと立ち上がり、こちらに歩んできた。

「迅くん」
「気分が悪くなったみたいだったから、ここまで運んできたんだ」
「そうだったんだ。ありがとう。さっきまで何してたか記憶があやふやで」
「そうなの? 悪い夢でも見た?」

 ううん、と言葉に迷いながら苦い顔をする彼女に迅は静かに待っている。
 今は何時なのか。仮眠室周りは人が来ないようになっているとは言えどもあまりに静かだ。もしかしたら夜更けなのかもしれない。
 先程警報音を聞いて走っていた夢とは違って迅は手にトリガーを持っていないし暗転する前に見た姿でもなかった。

「迅くん、今日は防衛任務だった? 私夢の中で迅くんを見た気がする」
「今日は昼間に任務で、その時に具合が悪くなったさんを見かけてここまで運んできたよ」

 目をパチパチ。瞬きする。
 そんな彼女を見て迅も瞬きする。
 じゃあ、あのとき見た“あれ”は夢ではなかった?

「迅くんって、家族は」
「母親がいたけど、今はひとりだよ」
「昔から、ボーダーにいる?」
「旧ボーダー時代からいるから、結構長いかな」
「迅くん、最近ずっとトリオン体だよね」

 にこにこ。目の前の迅悠一は笑顔だった。穏やかで、揺れない。
 それはいつもの彼の飄々として、オープンのようでいて、一番奥深くのところを踏み入られないようにする笑顔のようでいて、奥が見えない笑顔で、彼女はそれに首を傾げる。
 目の前の迅悠一はトリオン体で、玉狛のデザインのものを着ていて、セットしたトリオンチップは起動していない。
 本部の廊下は静かすぎるぐらい静かで、まるでここが二人だけの世界のように感じるほどだった。

「迅くん、夢で見た迅くん、私が名前を呼んだら振り向いてね、その時、見えていなかった側の顔が見えたの」
「うん」

 名前を叫んだとき、彼は塀の上に器用に立っていた。横顔は表情がなく、ただ空中を見る瞳は虚ろのように彼女には見えた。
 そんなわけがないと必死になってもう一度呼び、意識を失う直前に振り返った迅は、彼女の予想を違える顔をしていた。

「顔が割れていて、そこがトリオン体特有の穴みたいになってなくて、機械みたいになってた」
「そっか。じゃあそのおれは、トリオン体のおれじゃなかったのかもしれない」

 淡々と答える迅の顔は表情がない。瞳もこちらを見ているようで見ていない。それなのに声だけは妙に感情がこもっている。
 彼女の瞳を、今の彼はどう見ているんだろうか。
 世界は時間が止まったようだった。もしかしたら止まっているのかもしれない。二人以外、音がない。

「本当の迅悠一は少し前に死んじゃったんだ。おれは自律型トリオン兵。何の奇跡か、迅悠一のサイドエフェクトの機能を一部だけ引き継いで、迅悠一の振りをしているんだ」
「……迅くんは」
「さあ。どうして死んでしまったのかはおれも知らない。ただ迅悠一の肉体の一部と、持ち歩いていた試作型のおれの一部は生きていて、あいつの記憶と能力の一部はこの"迅悠一だったもの"に引き継がれてる。気づかれないと思ったんだけど、失敗しちゃったね」

 どうして。なんで。これはなに。
 体の芯から冷えていく感覚に彼女は思わず両手を交差して二の腕を掴んだ。何かを掴んでいないと頼りなくて仕方なかった。
 目の前の迅は先ほどと同じように立っているだけなのに見る見るうちにの知らないものに変化していた。何も変わっていないのに、そこにあるものは得体のしれない何かだ。

「どうして」
「ボーダーは機密情報を外部の人間に知られたとき、記憶封印措置をするって、知ってる?」
「……私に、それをするの」
「今日のことだけ、ね。あそこにさんが来ることは"おれ"には視えてなかったんだ。本物と違ってニセモノだから、毎回見て視えるわけじゃないんだよ。困っちゃうよね」

 困った調子なんて一つも見せない。軽い調子で口にするこの存在は一体何のための存在しているのだろうか。
 は一歩後ずさる。迅はそのまま動かない。

「もしも迅悠一が死んでしまった時に替わりになるものが用意できないかなんて、開発室もひどいことをするし、迅悠一もそれに関わっちゃうんだから、なんだかね」
「このこと」
「ごくごく一部の人間しか知らないよ。今日さんに知られてしまったことと、記憶を消すことはもっと一部の人だけだと思う」

 逃げようと、が動こうとした瞬間には迅だという相手がを抱きしめていた。捕まえるためだろうが、その力は加減していて、優しく抱きしめているようだ。

「ごめんね」

 おれの好きだった人。
 その声がに聞こえたのかどうか。
 彼女はくたり、迅に寄りかかって返事をしなかった。







「ひっ!!!!」
「え、なに、さん幽霊でも見たような顔して」

 仮眠室で起きてすぐ、は慌てて部屋の外に飛び出し、そして目当ての人物が珍しく本部にいたことと、夢の内容もあってひっくり返りかけた。声はひっくり返った。

「迅くんなんでいるの」
「なんでって、会議に呼ばれたからだよ。さんが多分夜明けまで書類作ってた資料が使われてる会議」
「あ、ああ」

 そう、仕事があって書類を作ったのだ。そうして仮眠したら仮眠した後に所要で外に出た後、警報が鳴り慌てて本部に戻る夢を見た。そしてそこで迅を見たのだ。見たと思ったらそれが随分とひどい内容で、だから会って早々驚いたのだ。
 悲鳴をあげられた迅の方は突然の反応にきょとんとしている。

「迅くんが、自律型トリオン兵になる夢を見てた」
「……おれが?」
「正しくは、死んじゃった迅くんに、自律型トリオン兵が成り代わってた」

 目を真ん丸にして、迅はをまじまじと見ていた。それはそうだろう。突拍子もないにもほどがある内容だ。もその視線を受けてなんだか落ち着かず、両手を組んで指をいじりだしてしまった。
 今はお昼間だ。起きてまず、が時間を確認したら昼過ぎだった。真夜中ではない。明け方に寝たので仮眠どころか完全に睡眠だったが突貫作業だったのでおそらく寝続けるのも許されたんだろう。
 寝ぼけた頭でおかしなことを言ってしまったのだとが自覚するまでに、話を聞いた迅の方はやっと話を理解しきったらしく、ひいこら笑いだしていた。

さんたまの休みに映画の観すぎじゃない? おれ殺されてるし!」
「だ、だって! みちゃったんだから仕方ない!」
「まあそうだけどさ~。せっかくならもっとかっこいい感じで出演させてよ」
「怖かったんだよ?! もう!」
「ははは。おれはちゃんと本物だから安心してよ」

 半泣きで文句を言って二人で騒いでいるとひょい、と通路の向こうから空閑がやってきた。

「あ、迅さん」
「どうした遊真」
「林藤さんが呼んでたよ。ちょっと聞きたいことがあるって。それが終わったら基地に帰るって」
「ああ、ありがとな。遊真は一緒に帰るか?」
「いや、ランク戦してから帰るからいいよ」
「そうか。じゃあ、さん、また」
「うん、またね」

 空閑と二人で迅を見送り、さて、寝ていた分仕事に戻らなくてはとが動こうとすれば視線を感じた。空閑がじいっと、を見ている。

「空閑くん? どうかした?」
「……いや、なんでもないよ」

 そう、とくるりと向きを変えたを空閑は何も言わずその背中を見送ろうとした。

さん」
「なに?」
「さっき、迅さんと何の話してたの?」

 首を傾げる姿にはかわいらしいなとほほ笑んで、先ほどの奇妙な夢の話をした。
 ふうん、と空閑は話を聞いて頷いた。

「わかった」
「何が?」
「面白いこともあるんだなって」
「?」
「じゃ、おれランク戦に行くから。さん、またね」
「うん、またね空閑くん」

 足取り軽く立ち去る空閑を見送って、はなんだかなあと、しっかり眠ったはずなのに妙に疲れた気分で仕事に戻ったのだった。



(オートマティックヒーロー)