「東くん、私と付き合おう」
「ああ、いいよ」
彼女が勇気を振り絞って振り絞って届けた言葉に迷う間もなく返事をした男は常と変わらずに穏やかに笑っていた。
まるで明日の買い出しの約束をするかのような気安さだった。
「東くんってなんで私と付き合ってるんだと思う?」
「知らねーよ。そんなこと本人に聞け」
「ひどいよ洸ちゃん。堤くんもそう思わない?」
「えーっと、こういう話はデリケートな部分ではありますよね」
堤をいじめるなと横に座る諏訪に頭を押さえつけられては悲鳴を上げる。
場所は駅前の居酒屋。店内は賑わっていて三人が多少騒いだところでかわいいものである。
「デリケートも何も付き合ってまあまあ経ってるだろ? 別に不仲どころか順調なオツキアイなんだから勝手にやってろよ」
「洸ちゃん自分が彼女いないからって可愛いお姉ちゃんに対してひどいよ」
「自分で言ってりゃ世話ねえわ」
堤は二人の様子に苦笑いだが手元の酒はちゃっかり飲み進めているので慣れた様子である。
諏訪と堤は同じチーム内の成人二名として飲みに行くことは少なくないが、ここ最近、堤の目の前の彼女、もよくこの飲み会に参加する。
と諏訪は従姉弟で、彼女の方が四つ年上の、三門市内で勤めている社会人だ。
その彼女がなぜ堤のいる飲み会に参加するのかといえば共通の知人もとい彼女の恋人、東春秋の話を彼女がしたいからである。
「私と東くん、大学で同級生だったけどすごく仲が良かったわけじゃないの。ゼミが同じだったから会う機会があったぐらいで、ゼミの飲み会もお互い参加してたけど後半なんて東くんボーダーに入りびたりだったし」
「ああ、東さん大学生の時にもうボーダー入ってるんですね」
「っていうか話続けるのかよ」
現在の東の肩書は大学院生だけれど半分以上はボーダー関連の動きで占めている。最近になってからは随分と年下のチームメイトもできたため指導に鍛錬に上層部との絡みに後輩からの相談に後輩との飲み会に彼女との付き合いにと東はなんだかんだと忙しい。今日も夕方からミーティングがあると聞いたは大変だからと飲みには誘わず代わりに従弟を誘っていた。
その東とが再会するきっかけはこれもまたここにいる諏訪と堤と飲んでいるのがきっかけだった。
当時のは連休の旅行計画を前に彼氏に振られ、傷心の飲み会を友人に願い出ても連休前で誰も彼もが彼との予定とか、他の友人との予定だとか、見事に当てが外れ、悲しみのあまり彼女が取った行動は確実に街にいて運が良ければ飲みに付き合ってくれるボーダー所属の年下の従弟に連絡を取ることだった。
さすがに年下の従弟に振られて傷心でやけ酒なんてみっともない姿を見せるのはと思ったけれどどうしても連休で浮かれる空気の中一人で部屋にいるのは嫌だったしかといって一人で飲みに行くのもまたさらにひとりぼっちを痛感してしまう。とにかく誰でもいいから一緒にいてほしかった。
「久しぶりに会った時びっくりした。洸ちゃん堤くんの話はよくするからあの時も二人飲みかなと思ったけどまさか東くんとか他のボーダーの子もいるとか思わないんだもん」
「言おうとしたらがもう家出てたんだろ」
「あの時は他には風間さんとレイジさんがいましたね」
「礼儀正しそうな子たちだったのに酔っ払って第一印象最悪じゃない? 東くんあの後彼女の趣味悪いとか思われてないかな?」
趣味が悪いとは言わないけれど野郎ばかりの席でしこたま飲んで、従弟がいるからと気を緩めた表情を浮かべてしまったのは悪手だったと諏訪は思う。諏訪はこれはやばいと、なんだかんだ人の良さを発揮して早々に従姉を隔離して、けれどずっと面倒を見るのもと思い同級生だったという東に投げたのだが案外東がに落ちた。
別に諏訪としてはその場にいた面子の誰がとどうなろうといいかと思う程度にはできた人間ばかりだったのであの場に太刀川あたりがいなくてよかったとは思っていた。あの辺は諏訪としては従姉の恋人として素直にオススメはできないし万が一ではあるけれど将来親類関係になるのも自分がごめんだった。
「そう思うなら俺と飲むときにも上限を設けろ馬鹿」
「洸ちゃんいたら送ってくれるもん」
「もんじゃねえよ」
自分の面倒ぐらい自分で見ろ、という言葉通り諏訪はよほどでない限りの飲み方を諫めたりもしない。それにこう言いつつも家には送り届けるし何なら最近は動向を東に連絡だってする。
そう、諏訪は随分と従姉に甘かったし、愚痴も相談も随分と聞いてきた。なのでたまにはそのあれこれを本人が受け止めた方がいいと、回ってきた酒を体に感じながら携帯を手に取った。時間を見て、それから少し画面をいじる。
「洸ちゃん?」
「そろそろお開きだ。明日休みだろうけどお前飲みすぎ」
「ええ……堤くんがいると美味しい日本酒のお店だから飲んじゃうのは仕方ないよ」
「俺のせいですか」
堤はとんだとばっちりだが顔は笑っている。は堤が薦める酒を美味しいとにこにこ飲んでくれるので薦め甲斐があるのだ。そしてそれによって彼女の酔いが回るという循環体制が整ってしまっているのだが諏訪は絡まれる堤が楽しそうなのでまあいいかとこの形が定着してしまった。は酔っ払うといつにも増してよく笑うぐらいで、楽しい酒には違いないのだ。
なので酒を適度に薦める堤が悪いのではなく、節度を持って飲まないが年上としてよろしくない。
「ったく。も昔は……いや、酒は置いといて昔から変わんねーな」
「変わんないってなにがよ」
「愚痴を俺にぶつける」
「だって洸ちゃん聞いてくれるんだもん」
諏訪は大概年上の“ちゃん”に弱く、幼い頃はその背中を追いかけては周りの大人を微笑ませたものである。も弟がいなかったので彼のことは弟みたいなものとしてかわいがっていた。
少々言葉遣いが変わったり、案外隙が多い“ちゃん”に諏訪がやきもきしたらすることも増えたけれど二人は昔から仲の良いままだ。
まだ残っている冷酒をちまちまと口にするは美味しいと堤を見て微笑み洸ちゃん、と猪口の残りを飲ませようとする。
「マジでその飲み方実家か東さんがいるときか俺がいるときだけにしとけな」
「そりゃ、そのくらい節度はありますようだ」
舌を出して可愛らしく威嚇する従姉に諏訪はわかってない、とため息。
「ずいぶんと出来上がってるな」
「お、東さん結構早かったな」
「東くん?!」
堤は気づいていたけれどは彼氏が呼び出されていたことに気が付かなかったらしい。慌てて背筋を伸ばして髪を整えて、付き合いたてなのかと思わせる反応である。
東はそんなを見て軽く笑っている。酔っぱらっているのも初めて見る姿でもない。慣れたものだ。
「洸ちゃん?」
「送ってもらうついでに話せばいいだろ。俺らも帰る」
「ん? 何か話か?」
素面と酔っ払いの対面で勝ち目なんてほとんどない。相手は東春秋である。はこの後のことを考えて逃げられないことを悟った。そして後日従弟に文句を言うことを決めた。
会計するぞという諏訪の声には慌てて財布からお札を抜いてぽいと渡す。
「多いぞ」
「釣りは二人で缶ビールでも買って宅飲みしていいよ」
半分ぐらい酔いがさめたらしい。シャキッとしだした彼女にほんの少しつまらなさそうな色を東が見せたことに気がついたのはたまたま東に視線を向けた堤だけだ。
おや、と思ったけれど本人に内緒だと言わんばかりに微笑まれてしまえば軽く頷くしかなかった。
の家に東が行くのは初めてではない。
自然に手を繋いで帰る二人の足取りは東の方がしっかりしていて、まるで東の家に向かうように彼女の隣を歩いている。
はといえば時折確かめるようにきゅっと手を握り直し、彼女の動きに東はゆっくりと手を握り返す。
これといって何の変哲もない順風満帆な恋人の帰り道である。先ほどの彼女のふとした疑問を除けば。
「東くん」
「ん?」
先程までのアルコールはまだ抜けきっておらず、ほんのりと赤い頬を見せた彼女は隣の東の顔を見つめる。
少しばかり潤んだ瞳は先程諏訪が零していた話したいことがあるからだろうか、緊張の色をはらんでいる。
「東くんは、あの時どうして私と付き合おうって思ったの?」
瞬きをいくつか。
東は言われた意味を咀嚼する。
あの時に至るまで、奇しくも諏訪の言葉通り、東は順当に彼女と連絡を取って、会って、付き合うことになった。
久々の再会のあと、帰り際にせっかくだからと連絡先を交換し、彼女の仕事終わりや休みの日に時々飲みに行き、昼間にも買い物と称して街を二人で歩き、行きたいカフェがあるのだと誘い、そういうことをいくらか繰り返したある日の帰り道、夕暮れ時、手を繋いでまるで学生のような時間だと笑いながら彼女は照れくさそうに付き合おうと口にした。
「といるのは肩肘張らずに済むから、っていうのはすぐに返事をした理由だけど」
「だけど?」
「最初の理由は多分お気に召さないと思う」
「いいよ」
東くんの言葉が聞きたいんだもの。
少しばかり舌足らずな口調が酒のせいか、酒のせいということにしているのか、東はどちらか判別する前に考えるのをやめる。
いつの間にか止まっていた歩みを進めだし、東は視線を彼女から前へと向ける。
「彼女が欲しかったから」
「フツーだ」
「俺だって人並みに彼女が欲しいさ」
東の答えは彼女のお気に召したらしい。くすくす笑いながら繋いでいる方の腕をぶんぶんと前後に大きく振り出した。
何がそんなにおかしいのやらと東はその腕の動きに任せきりで、彼女の笑い声にただひとしきり耳を澄ませていた。
日付を越えるほど遅くはないけれど仕事帰りには遅く、人通りはまばらで、二人が少し広めに歩道を歩いても咎める人は誰もいない。
ぶんぶんと振れていた腕はゆっくりと動きが小さくなり、次第に歩く動きに合わせるようになる。
「はどうして俺と付き合おうって思ったんだ?」
「東くんかっこいいなあって、最初思ってたのと」
「それと?」
歩みを止められ、確かめるように隣を見れば彼女は悪戯めいた瞳の輝きをしていた。
彼女のわかっているようないないような、それでいてやはりわかっているその瞳の色が東は好きだった。
「東くんに甘えられたいって思ったの」
そういうの、彼女にしかしないでしょ。
艶のある微笑みに東は思わず笑みをこぼしてしまう。
「そうだな。普段年下が多いからそういう機会は少ないと思うし」
「そういう人の緩んだ顔、好きなの」
彼女は彼女で東にだけ見せる笑顔の奥の色味をわかっているのだろうか。
思っていたよりもいろいろな顔を持つ彼女に東は日々発見ばかりだ。
「そんな、甘えさせてくれる彼女に質問」
「なあに?」
こてんと首を傾げて上目遣いの彼女に東もにっこり、とびきり優しく笑ってやる。
「“東くん”呼びはいつまで続く?」
「えっ」
その途端、先程まで余裕すらあった表情は崩れ、慌てふためいた挙句アルコール以外の赤みを顔に出して東から視線を逸らしてしまうのだから人間というのは面白い。
片手は東が離さないので空いている手を頬に添えて困ったように東を見てくる彼女に東はご満悦だ。
「えーっと」
「えーっと?」
「……呼び方を、迷っていて」
おや、と東は照れくさそうな彼女の反応に興味津々だ。慣れているからつい呼んでしまうと言っていたけれど考えてはいたらしい。
彼女の答えを笑顔のまま待ち続けることしばらく。
怒らないでね、と彼女はようやく口にする。
「無難に春秋、って思ったけど、その、春くんって、かわいいなとも思ってて」
子どもっぽいかな、と彼女の舌の上で転がるその音は確かに子どもっぽいとも取れたけれど東からしてみれば甘く耳に残る音にも取れた。
まだ迷ってるの、と視線を斜め下に落とす彼女の睫毛を見つめ、呼ばれた名前のどちらも反芻する。
「どっちになってもそれぞれ良さがあるな」
「うーん、じゃあもう少し待って」
「部屋に泊まっていいなら待とうかな」
そう言うと彼女はぱっと顔を上げ、そして目を合わせたかと思えばすぐに目を逸らす。東がどうしたんだと問えば、少し拗ねるような、唇を尖らせるような、そういう口元が小さく開かれる。
「泊まってくものだと、思ってたんだけど」
明日用事があるんだったら無理しないで、なんて誤魔化すように早口になりぐんぐんと歩き出した彼女に東はついていく。
明日の朝には呼び方が決まるかな、なんて背後で思われてることなんて知らない彼女は家に帰りつくまでひたすら早口で他愛のない話を続け、東はただのんびりと相槌を打っていた。
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