夜は嫌なことを考えてしまいがちだと思う。その反面、夜は静かで、いつもは日常の底にしまって言えない大事なものもそっと拾い上げられる時間だとも思う。
 どちらにもなり得るある日の夜、私は嫌なことを考えた気持ちのままに恋人と会ってしまった。
 そうしてその嫌な気持ちをぶつけて喧嘩別れのようになり、そのまま一週間が過ぎようとしていた。
 どうしようと思いつつも連絡しように何を言えばいいのかもわからず、夜、家へ帰り着きあとは寝るだけ、というところまで準備をしてソファへとその身を沈めた。
 今夜は、大事なものをそっと拾い上げられる時間がある。




 毎週夜の一時間、便利になった携帯電話のアプリを開いてラジオを聞く。
 パーソナリティである神宮寺レンの近況からリスナーからのお悩み相談にミニコーナーまで充実しているその一時間はクッションを抱えてソファに蹲り、じいっと流れる音楽や音に耳を澄ませる。
 それは録音で、でもできる限り最近の声を届けたいという本人の希望でなるべく日付の近い時期に撮っているらしい。それでもどうしてもスケジュールの都合もあるので生放送とはならないのがアイドルの大変なところだと思う。
 この数年でやわらかくなった声はラジオで聞くとなおそれを感じる。
 いつもはST☆RISHやQUARTET NIGHTの誰かと一緒のことが多い。普段はテレビの仕事が主で、話すことそのものよりも視覚的要素も大きいからか、ラジオは声がよく聞こえる気がする。話しかけてくるその声に見えない誰かへの思いが真摯に感じられて私は一番好きだった。
 どんな表情で笑っているのか、リスナーの相談に一緒に悩んでいるのか、ミニコーナーのエピソードを楽しんでいるのか、声だけが電波に流れて伝わる彼の全てだ。この音だけに耳を傾ける時間はとても居心地が良かった。
 ミニコーナーは明るい話題で話題も多岐に渡るが時々お休みの時もある。ただお気に入りの曲の紹介と悩み相談だけは必ず入る。今夜もそうだった。
 それは進路の相談で、今年受験生だけれども進路に迷っている女子高生の悩みだった。
 私にとっては懐かしい、彼にとっても過ぎた日々のことだけれど丁寧に答える彼は真剣だった。

『恥ずかしながらオレはどうしてもアイドルになりたいと思って進路を決めたわけじゃなくてね。……でも、どうしようもなかったオレのことを待っていてくれて、一緒に進んで行こうと言ってくれる仲間に出会えたから今ここにいる』
『それから、こうしてオレのことを応援してくれるレディたちに出会えた。そうやって、今までオレを信じてくれていた人たちに報いたい、一緒に笑顔になりたい、今はそう思ってアイドルとして頑張っているところだよ』
『もし迷っているのならレディの大事な人に頼ってごらん。きっと力になってくれる。』
『でもね、レディ、覚えていてほしい。選ぶ自由も決める自由も、それは君の中にあるから。それだけは忘れずにね。オレはレディの選択を応援するよ。選んだ道を一緒に頑張ろう』


 この投稿をした高校生はもちろん聞いているだろう。他にも、私と同じように一人静かな部屋で聞いている人、電車の中で聞いている人、寝る前に聞いている人、録音したものを後から聞く人、いろんな人がこの神宮寺レンと言う人の言葉を聞いている。そしていろんな思いを抱いている。
 レディ、と気障な呼び方をし、黄色い悲鳴が上げることを素面でしても、それでも神宮寺レンがちやほやされるだけのアイドルではないのは、彼を見ていたらよくわかる。彼らを見ていればよくわかる。レディ、ジェントルマン、彼の呼びかけはファンに届くようにといつだって思いが籠められている。
 人の相談なのに、その答えに勝手に泣けてきた。だんだんと視界が滲んできて、聞いていたラジオもしっかり聞けなくなってきた。録音もしているので、諦めてタオルを取りに行こうとしたら着信で携帯が震えた。
 こんな時間に電話がかかることなんて一人からしかない。
 わかっていたのに出てきた名前にさらに視界がぼやけた。応えられそうにもないのに震える手は気づけば応答ボタンに指を添えている。

『夜分遅くにごめんね。もしかして寝ているかとも思ったんだけれど』
「……おきてる」
『……もしかして、泣いているのかい?』

 夜、ソファで膝を抱えて、クッションを抱きしめるようにして電波に乗る声に耳を澄ませることが好きだ。
 その時は、神宮寺レンは電波の向こうのたくさんのファンひとりひとりに、愛の言葉を乗せてくれる。
 同じように電波を乗ってくる声は今はただ私だけに向けられているのに、それが怖いだなんて臆病者だろうか。

「ラジオ、聞いてた」
『……もしかしてオレの?』
「うん」

 神宮寺レンのテレビに映る姿も好きだ。雑誌に写る姿も好きだ。ライブで歌う姿も好きだ。でも、私はアイドル神宮寺レンの中で声だけを頼りにこちらに語ってくれるラジオが私は一番好きだった。
 こんなに真剣に聞いているのがバレるのが恥ずかしくて、ラジオ好きだということも毎週必ず聞いていることも、録音していることも、内緒にしていた。
 私はあのラジオの前では、ただの一人のファンだったから。
 ラジオを聞いた夜、私は前を向いて頑張ろうと思えるなけなしの勇気をもらうことができるから。喧嘩別れしたきりの恋人にも、伝えようと思える。
 今夜もそうだった。

「レン、聞いて」
『うん』
「今レンと話してて嬉しくて、同じぐらい不安になる」
『うん』
「どうやって接したらいいかわからなくて、こないだは、嫌なことたくさん言った。ごめん」

 アイドルと付き合っているなんて、普通は夢みたいで嬉しくて飛び上がってしまう。浮足立ってそわそわしてしまうんだろう。
 でも、私は恋人であると同時にファンでもあった。ファンである私がいつも後ろで彼に恋人がいるなんてショックだと叫んでいる。応援したい気持ちもあると同時に応援している大好きなアイドルにも大事な人がいるかと思うと複雑な気持ちになる。それだけじゃないにしても、憧れというものは一種の恋みたいなものなのだ。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、愛の伝道師と言う彼の言動はスマートなことが多く、私は一人で焦っている気になって、そうしてこの間彼を傷つけた。
 少しの間沈黙がある。
 それは私にとって胸を抉るように長く、きっと彼にとっても私の言葉はそうだった。

『ねえ、レディ……
「うん」
『今、とてもに会いたい。オレたちはもっとたくさん話をする時間が必要なんだと思う』

 たくさん言葉を飾ることを知っている人なのに、大事なことは飾り気を知らないかのように思っていることを真っ直ぐ伝えてくれる。今もそうで、それがたくさん彩られた言葉よりも真っ直ぐ届くことだってある。
 涙でもう視界は見えないどころか返事すらままならず。嗚咽混じりに見えもしないのに頷くしかできない。先にタオルを取ってくるべきだった。近くのティッシュを当ててもどんどん涙が滲んでいく。
 今、彼はどこにいるんだろう。私と繋がる電波の先は、どんな場所だろう。すぐにでも走っていける場所だろうか。

『お願いだから思っていることを伝えてほしい。オレはそれを全て叶えるよとは言えないけれど、その願いをすべて受け止めて抱きしめるぐらいの役目は果たさせてほしい』

 恰好をつけてしまえばいいのに。でも、彼はしないのだ。できるかわからないと言いそれでも私に希望を捨てるなと言う。捨てられなかった希望を忘れず抱えていくことを約束して、夜の闇を光を望んで歩けと言う。
 それはなんて、なんて。

「ずるい」
『オレもそう思う。でも、傍に居て欲しい。願って欲しい。声を届けて欲しい。それがオレのへの我儘だ』
『ねえ、の我儘を聞かせて』

 アイドルは、光り輝いているものだ。たくさんその周りに影が落ちていても、アイドルというものは惹かれてやまない眩しさを持っている。
 今電話の向こうにいる人はアイドルではなくてただの私の恋人だけれど、同時にアイドルをしている人でもあって、光はずっといつもそこにあるようなものだ。
 そうして私はその光に手を伸ばさずにはいられないぐらい、その光をどうしようもなく愛おしいと思っている。

「今すぐ会いたい。会いに来て。抱きしめて。今だけ私のレンになって。何にも考えないでいいぐらい、抱きしめて」
『ねえハニー、それじゃあオレが嬉しいだけだよ』
「だって、私、それ以上我儘を言ったらしんでしまいそう」

 それに夜も遅いし明日は仕事だ。会いに来ても大変なのだ。彼のスケジュールを知らないけれどのんびりできるということはないだろう。
 だから言えただけでいい。それが叶うかどうかではなく、私は多分、またこうして願いを叫ぶことができる。それは、私にとって何より大事だった。叫べば声は届く。私の声は、たくさんの声に混じりながらもきっと、届く。
 だから、ほんの少しの期待を胸に抱くことぐらいは許されたいとは思ったけれど。

『オレだけにその我儘を見せて。オレは飛んで駆けつけてみせるから』
「……レン?」
『12時を過ぎても魔法は解けないから』

 意味深な言葉にまさかと思う。

「本当に来るの?」
『会いに来てって言ったのはハニーだよ。何より、オレが会いたいだけだから、これはオレの我儘なのかもしれないね』

 今いる場所をさらりと口にする彼の居場所は家からそんなに遠くはない。
 もしかしたらそもそも電話は私に立ち寄ってもいいかという電話だったのかもしれないと思うぐらい。
 突然声が近く感じられるようになると勢いで言いだしたことが現実味を帯びだして、私の考えもぐんぐん現実的になっていく。

「私、目が腫れてるかも」
『どんな顔でも綺麗だと言っても怒られてしまうね。でも今夜のことはオレの胸の内に秘めてしまうから許してくれないかな』
「……来るまでに冷やしておく」

 少しだけ笑い声が漏れて、涙は引いていた。
 まだたくさん話せていないことがあるんだろう。今夜はその始まりなのかもしれない。
 抱いていたクッションを置き、私は立ち上がる。

「待ってる」
『ありがとう。すぐに行くよ、ハニー』

 通話が終わる。
 私は前を向く。
 今夜はほんの少し苦しくて、ほんの少しだけほっとして、また一歩明日へ前へ行ける、そんな時間になりそうだった。




(夜の音を聞いて)