凍えるような夜を過ごしたことが、君はあるだろうか。
ぼくは、ある。
それはぼくが今よりもずっと若いころ、と言えれば随分とかっこうがついたのだろうけれどあいにくまだ数年前の話だった。
売り出されたばかりの不慣れさも消え、いわゆる「みんなの寿嶺二」というものが浸透してきた頃、まだ二十を越えて少しの寿嶺二は最高に浮かれていた。若かった。今だって若いけれど。でもその頃の彼はまだ新人に分類されたし、かわいいだなんて言われることも多かったのだ。今では面白い、が大半だけれど。
その寿嶺二といえば夜の公園で酔いつぶれていた。今話題のアイドルが絶対にしてはいけないような醜態であったろう。泥酔して公園のベンチにかろうじて座りながらも目の前のくるくると回転する世界のあまりの愉快さに時折笑い声が漏れているのだ。通報されなかったことが奇跡だった。
「れいちゃんだ」
「ぼくはあ、れいじ、れす!」
「わあ、酔っぱらってる」
遠くでくるくる回るネオンライトのまぶしい世界、そこから少し離れた小さな公園に現れた人影は化粧っ気のないジャージ姿の女の子だった。女の人、かもしれない。マフラーが口元近くまできていてよくわからない。ただ化粧をしていない顔ではあった。
化粧をしていない彼女は装った女性独特の気配がなく、家にいる姉を見ている気分だった。彼女は姉の歳よりもむしろ嶺二と歳が近そうだったけれどこの時の嶺二にそれを考えるだけの冷静さは残っていなかった。
飲みなよと、その黒いジャージから除く白い手首は妙に細く見えた。寒い夜の冷えた空気がそう見せるのかもしれない。
彼女の手に握られているのはどこにでもあるミネラルウォーターだ。慌てて蓋を開けるところを見れば買ったばかりだったらしい。
「おんらのことかんせつちゅーじゃない!」
「今開けてるのに。れいちゃんそれじゃあすっぱ抜かれるよそのうち」
ほら飲む、とご丁寧に蓋まで開けてくれた彼女に嶺二は回らない頭でなんとか受け取り、水を時折飲み損ねつつも半分ほど飲んだ。
先ほどまでは酔いが回った気持ちよさばかりだったが飲めば飲んだでひんやりとした感覚がのどを通り過ぎて気持ちが良いのだろう。ふわふわと定まらなかった嶺二の瞳は今は少しだけまともになっていた。
その間彼女は嶺二の目の前でその姿を見ていた。ベンチとは一メートルほど離れて、じっと。
「みず、おいしい」
「全部飲んでいいよ。れいちゃん見かけて買ってきたから」
「……きみは、だあれ?」
ぱちり。ぱちり。ゆっくりと瞬きをして、彼の意外と大きな瞳が彼女を初めてまともに捉えた。ふわふわとした気分はいつまでも味わっていたいけれどあいにく嶺二はほんの少しだけだが現実に戻れるだけの冷静さを取り戻しつつあった。
夜のジョギング、というには夜は深すぎる。明け方というには早く、中途半端な時間だ。そしてこの冬場では寒すぎる時間帯。
「通りすがり。コンビニに用があったんだけど行きがけにれいちゃんを見つけたから。この中で放っておくと酔っぱらって寝て凍死しそうだし、声かけたの」
彼女の「れいちゃん」は嶺二にとっては耳慣れたものだった。テレビの前の彼のことを、多くの人がそう呼ぶ。それは「嶺二」だったり「寿さん」だったり、いろんな呼び名があるけれど、でも彼女のその呼び方は多くの人が彼を呼ぶ時のそれだった。
テレビの前の寿嶺二は、今デジタルの電波から抜け出してここに生身でいるのに、彼女の中では電波の中の彼と同じらしかった。芸能人と偶然出会ったにしては落ち着き払った態度ではあったけれど、今の嶺二にそれを正確に理解する頭は残っていなかった。
彼女は首元にマフラー、寒さを誤魔化すためか髪の毛をなるべく肌にひっつけて、手はポケットに突っこんでいる。
「ぼくの、ふぁん?」
「ううん。ふぁんじゃないよ」
ファンだったらもっと浮かれてるって。
そう落としてくる音は冷たくはないけれど離れていて、それでいて親しい友人のような温かみもあった。
こてんと首を傾げる彼の元に落ちてきた次の音は、やわらかく、寒い夜更けの中、雪のようにそっと、落ちて消える。
「れいちゃんの友達の友達。如月愛音の」
世界が凍った。
酔いなど、一瞬でとんだ。嶺二は瞬きを止めて、目玉だけがくるくると泳いだ。右へ左へ上へ下へ。ななめ上だけが、見られない。
聞こえた音の並びは、聞かなくなって久しかった。聞かないようにして久しかった。それは、その音は、並べてはたくさんの苦々しさと辛さと悲しみと痛みと懐かしさと愛しさとがひっちゃかめっちゃかになっている。どうしていいのかわからないものがたくさん、詰まっている。
どのぐらいの間彷徨っていたかはわからない。それでも嶺二はなんとか顔を上げた。壊れかけのおもちゃのようにぎこちなさを残しながら、ゆっくりと時間をかけて。
見えた瞳は冷たくはなかった。けれど距離は離れていて、そしてそれでいて少しだけ瞳にあたたかそうな何かが見えた。見えたような、気がした。
詰る友人の顔が脳裏によぎった。目をそらした友人の姿が未だに忘れられない。どうして。なんで。頭の中にこびりついて離れない声。鳴り響くコール音。ディスプレイ。名前が表示される。それは――。
「れいちゃんは、わるくないよ」
「でも、いや、ぼくは」
「誰も、わるくない。愛音も、れいちゃんも、響も、圭も、誰もわるくないの」
「でも愛音は」
口にした音が苦い。音に苦味なんてないのに。嶺二は苦しくて、そしてそれから自分の呼吸が浅くなっていることに気が付いた。息がうまくできない。それでも口にしてしまうのは陳腐な謝罪だ。
「ごめん」
「愛音、最後に会ったときれいちゃんの話してたよ。しんどいことしんどいって言えないから、心配だって。自分だって悩み事を人に言うのが苦手なのに」
嶺二に冷たくするでもなく離れるでもなく、むしろ見守ってすらいるこの人は、何なのだろうか。嶺二を悪く言うこともしないこの人は。
嶺二の顔はひどかった。酔いは醒めて、顔色は真っ白。寒さをようやく感じてきたのか少し体が強張っている。呼吸は浅くて肩で息をして、目は泳いだままだ。
「ぼくは、……愛音を、たすけられなかった、やつだよ」
「そんなことない。…………愛音ってね、失敗したら家のクローゼットに隠れてじーっと息をひそめてたの」
「……?」
「お腹がすいても、眠くても、体が痛くても、何よりもそこから出ることのほうがこわい子だった」
突然のその言葉は幼いころの如月愛音を指しているのだろう。彼女の瞳の奥には幼い愛音がいるようだった。
失敗らしい失敗でもないのに、愛音はおびえてるの、と寂しそうに笑う彼女の言葉を嶺二は理解できた。如月愛音は天才で、そしてそれでいて繊細で、少しの躓きにも心が傷ついた。
「学園に行って、夏に、冬に、見る度少しだけ強くなってて、よかったと思ってた。クローゼットにこもらなくても話せる相手ができたって」
「ぼくは、なんにもできなかった。おちゃらけて、わらって、ごまかして」
「でも、愛音はれいちゃんのこと、とても好きだよ。今もそう。愛音は人を嫌うことができない」
彼女の言葉は雪だった。降って、降って、重なる。でも冷たいのに、その冷たさはあたたかい。溶けて水になって体温に混じってしまう。
冬の凍えるような空気の中で、彼女の言葉は冷たさの中のあたたかさだった。
「私も、れいちゃん好きだよ。愛音が言ってたこと、わかるもん」
彼女は、彼から何を聞いていたのだろうか。
でも、あの後に初めて出会った嶺二を、彼女は詰ることもなく憎悪の視線を向けることもなく、ただ「れいちゃん」と呼ぶのだ。愛音が呼んだ呼び方でもなく、彼女が聞いて、そして見た、「寿嶺二」として、彼女は彼を呼んだ。
こんなにも、「れいちゃん」と呼ばれることに胸を打たれる日がくることを、嶺二は予想だにしなかった。
「れいちゃんには、れいちゃんが思っているよりもれいちゃんのことが好きなファンがいる。れいちゃんがそれを忘れない限り、れいちゃんのマイガールは名前を呼んでくれるよ」
彼女は、愛音の友達だという彼女は、もしかしたら嶺二が今まで呼びかけてきていたガールたちの中にいたのだろうか。ラジオで呼びかけたリスナーに、テレビ番組を観た視聴者に、万に一つ、ライブ会場の観客に、彼女はいたのだろうか。「れいちゃん」と、彼女は呼んでくれていたのだろうか。
ただじっと見つめることしかできない嶺二に彼女は初めて、目を細めて笑いかけた。
「いつか、愛音はクローゼットから出てくる。だからね、れいちゃん、その時は愛音におかえりって言って、それからお説教してあげて。私もうんと怒ってやるんだ」
彼女はクローゼットの中の愛音を疑っていない。
そのクローゼットの場所を、嶺二は知らない。きっと、彼女も。
それでも真冬の切るような冷たさも今は気にならなかった。泣くのはかっこわるくて、嶺二はくしゃくしゃになった顔でなんとか笑い返す。
「ありがとう」
彼女は笑って、お酒はほどほどにねと、何でもないような顔でそのままくるりと背中を向けて歩き出した。
それがあまりにもあっさりしていて、まるで友人との別れのようで、嶺二はそのまま見送りそうだったけれど慌てて立ち上がった。
「ねえ! きみの、名前は!」
歩くのが早いのか、もう公園の入り口近くに来ていた彼女は振り返り手でマフラーを握ったかと思えばぐいと口元からマフラーを遠ざける。
「愛音に聞いて! おやすみ!」
そうすると彼女は嶺二が声を出すよりも早く駆け出して行ってしまった。
夢みたいに突然現れて、あっという間に消え去った彼女を、嶺二はいなくなっても見送って、そうして手に残るペットボトルの水を飲む。顔を上げた。空は暗い。星は遠い。
「……夢、だったのかな」
冗談みたいに頬をつねれば痛みが走る。
嶺二は小さく笑って、ベンチの背にもたれかかって目を閉じた。
「痛い」
頬に伝わる冷たさに嶺二はただ黙って甘んじた。
(冬の夢)