カレンダーを見る。日付の確認をする。
それは彼にとって過ぎていく日々を確認するための記号にしか過ぎない。そして記号に合わせて動く人々と同じように自らもまた動くのだ。日々の活動の基準となる記号。それ以上でも、それ以下でもない。そのはずだった。
しかし彼は以前、区切りをつけるための認識記号でしかなかった日々の一つ一つが誰かにとって意味のあるものかもしれないことを知った。
春というには早いけれど春を意識しだす頃だという日、彼は便宜上年を一つ重ねた。
その日を人は三月一日と認識し、人によっては美風藍の誕生日と認識した。便宜上一つ年を重ねることはロボットである彼には大きな意味はないのだが、その日はやけに事務所の人間が声をかけてきた。現場のスタッフも同様だ。
やれ美風、アイアイ、アイミー、美風先輩、藍、藍ちゃん、藍先輩と、それぞれが様々なタイミングで、様々な方法で美風藍の誕生日を祝っていった。
食事に関して重きを置いていないことを長くもなければ短くもない付き合いのある人間は承知しているため、食べ物のプレゼントはそう多くはなかった。しかし食べ物以外はプレゼントをいくつも手渡された。欲しいなんて言ってもいないのに花を贈ってくる者もいれば誰から聞いたのか藍がチェックしていた高性能のイヤフォンを贈ってきた者もいればはたまた言葉一つで終える人間もいた。
厚かましいといえば一度スタジオ兼自宅にやってきた翔と那月が今度快適に過ごすため、とやけに肌触りのいいクッションやブランケットをプレゼントしてきたことだろうか。どう考えても藍のためではない。藍はあの部屋に快適性を必要としていないのだ。つまりプレゼントという名の訪問者用の備品の増資である。そして二人はスタジオ設備に関しては絶賛だった。そこから導き出せる答えなど簡単だった。
また来るのと顔を顰めればあのスタジオは素敵ですからとにこにこ那月が告げてくるので勝手にすればと溜息をついたことは彼の記憶に残っている。
この経験から、彼にとって一日を区別するための記号であった日付は時折特有の意味を持つ記号となった。
それは特に人間らしい行動の一つだと、藍の保護者かつ管理者である博士は藍の渡した感情値のデータを画面で確認しながら告げてきた。
「誕生日は相手が生まれてここに存在することに対して祝福していること、といえるかな」
「今ここに存在することは事実として既にあるのに、それをわざわざ祝うの?」
「でも、ここにいる自分は決して自分一人では存在しえないし、様々な要素の上に現状がある。お前もそうだろう」
藍の体を動かすパーツはここで作られたものもあれば特別な場所で作られたものもあるし藍のパーツだなんて知らない人たちが作っているものだってある。どれかが欠けても美風藍は今の状態で存在しないだろう?
博士の言葉に藍は頷いた。確かに、彼はたくさんのパーツを有している。そしてどれかが足りなければおそらく機能できない。美風藍という体の中には膨大な量のパーツが詰め込まれている。そしてそれらは緻密な動きを担っている。欠けては困るものばかりだ。
「物理的に言えば、そういうこと。まあ人間の場合は物理的なパーツというよりはそれまでの記憶と経験だろうね。人格を形成するまでに経た過程。それらがなければもしかしたら藍も藍を祝ってくれた人たちも、出会うことはなかったかもしれない。出会えたからこそ、祝うのかもしれないね」
「わかったような、わからないような。……ただ、記憶と経験は、ボクに圧倒的に足りないものだね」
「それを増やすために今藍は外に出ているんだよ」
博士の言う通りだ。そしてこの問いかけ自体、藍はきっとラボにいるだけでは発しなかった。祝われて、初めて藍は誕生日という言葉を己が有する辞書上の意味以上のものを見出した。そしてそれは他者への問いかけとなった。
「それで、藍は誰かの誕生日を祝うつもりかな」
「……最近、やけに誕生日についての話題を振られることはあるね。言われなくてもボクは彼女の誕生日をデータに入れているのに」
「おやおや」
その彼女のことを、博士は藍を通して聞いている。最近彼の日常に時折現れる女性。詳しいことを藍は言わないけれど、珍しく近づくことを許容されている。小さく、しかし確実に藍の感情を揺らす相手だ。
その相手の言動はわかりやすすぎるほどにわかりやすく、博士は思わず微笑んだ。藍にはそれぐらいわかりやすい方がいい。
「それは暗に藍に祝ってほしいということだろう?」
「祝ってほしいとはっきりといえばいいのに」
「じゃあ藍は彼女を祝う算段があるのかな」
そう言われると藍は黙ってしまった。彼の思考回路はくるくると高速回転しているのだろう。発言から類推すれば藍は彼女の誕生日を認識し、それを言及することを望んでいる。つまり、それに対しての相応の返答を用意していることになる。
しかし藍は明確な回答を導き出せない。感情に基づく言動は、藍にとって最難関の事象だ。
「ボクは、彼女に誕生日にお祝いをされたんだ」
「うん、そうだったね」
藍ちゃん、と藍の名を呼び、彼女は藍にウォータードームをプレゼントした。小さな半球は深い青みがかった透明で、中には砂が散りばめられていた。振ればきらきらと中の砂が星のようにきらきらとドームの中を舞う。海が好きみたいだったからとプレゼントされたそれを、藍は時々傾けては砂を舞わせている。
「祝われたのならば、祝い返すのが礼儀だと人は言うよね」
だから誕生日に祝い返すのはおかしなことではない。
藍はそう口にしながらも自分自身納得しかねている様子だった。
「ヒートアップしそう。今日はもう考えるのはやめておく」
「そうだね。急な負荷は避けたい。今日はもう休みなさい」
おやすみ。
メンテナンスにきた藍はそのまま起動しているシステムを最低限にして目を閉じた。
「ねぇアイアイ、この間アイアイが夢に出てきたよ」
限定のスペシャルユニットであったはずの四人は好評のまま、毎回全員一緒にとはいかないが単独以外にもペアで仕事をすることも増えた。
ニーズがあればそれに応えるのが仕事である藍からすればユニット関連の仕事で発生する他者と自身との煩雑な作業工程を憂うことはあれど拒否する選択肢は基本存在しない。なぜなら美風藍はアイドルとして歌うためにここにいるのだ。アイドルの仕事ならばそれは全うすべきことだった。
だからといって目の前の嶺二の冗談を全て聞いて応対してやるほど藍は暇ではないしそもそも待ち時間の今彼と話す義務もなければ必要性もない。完全なる雑談だ。藍はすべてを一応聞き取りながら反応はする気もなかったのだが己が夢に出てきたと聞けば思わず視線を上げた。
ファッション雑誌の撮影とインタビューで、スタジオのセットを入れ替えている中、隅でそれを眺めていたかと思えばにこにこと自分を見つめてくる嶺二は本心が読めない。本心、という推測ができたのはここ最近のことで、それまで藍は嶺二のことをただの阿呆だと思い込んでいた。彼の表面的な態度の底に隠れた何かに気が付いたのは、本当に最近なのだ。認識をしていても、理解したという意味では。
「勝手に人の夢に引っ張り出さないでくれる?」
「まあまあいいじゃな~い。それでさ、アイアイったら夢の中で今まで見たことのない神妙な顔でさ、「ボクはこの歌を歌ったことがないんだ」ってもう真剣に楽譜を見てるわけ」
「出演料取っていいかなそれ」
「いやあきっと難しい歌に違いないってぼく思ったよね!」
人の話を聞かないまま突き進む男、寿嶺二。
いつものことだったがなまじ自分の知らないところで自分に関わるような話をされるのも釈然としない。藍の顔がだんだんと曇るのに対して嶺二の顔つきは変わらずにこやかだ。
スタジオのセットの組換えが少しずつ完成に向かっている。それをわかっているのか嶺二もタメを長引かせたりはしないらしい。
「そうしたらアイアイ、「子守唄を歌うんだ」って」
「……子守唄?」
「そう。歌ったことがないのって聞いたらうんって言われたからぼくちんもうこの華麗な歌声を披露しちゃったよねっ」
「へえ」
「どーでもよさそうっ!」
ひどい、とよよと泣き真似を始める嶺二に藍はもう見向きもしない。思っていたよりもまともな夢だったようで、不機嫌そうな気配は消えていた。
それを嶺二も察したのか、もう嶺二を見てもいない藍に歌うように語り掛ける。
「でもきっとね、アイアイがぼくのこと好きだからぼくの夢に出てきたんだよ~」
「は?」
「昔の人はほら、夢に出てきた人の方が相手を思ってその人の夢にまで出てきたってこないだクイズ番組で聞いたんだ♪」
ぼくちんってば思われてる~っ。
るんるんとリズムでも取り出しそうな相手を見て見ぬふりをし、藍は黙ってスタッフの声を待つことにした。
彼女は電話を通話にした瞬間、正座をしていた。
先日、メールが一通入った。必要最低限の連絡だけしかしてこない、というかメールなんてほとんどしたこともない相手から。奇妙なメールだった。
メールは一文。タイトルはなし。
キミの普段の就寝時間と電話番号を教えて。
ただそれだけの、短いメールに一時間ほど悩み、悩みぬいた末質問の通りの回答を添えれば、そう、ありがとう。というただ一言でメールは終わった。いったい何だったのだろうと思った、それがおよそ二週間ほど前だった。
それから数日は寝る間際は妙にそわそわしていたのだが一週間もすれば何か気になることでもあったのかなと気になってはいたが普段通り寝るようになっていた。
それが時間差で突然の電話攻撃だった。
遅くなったがお風呂に入ろうと思っていたところで着信を知らせる画面。日付が変わりそうな時間に誰だと画面に目を走らせてそして思わず携帯に飛びつき両手で持ち思わずそのまま正座をした。
美風藍。
連絡先に入れたものの一度も電話などしたことのない番号から、電話がかかってきていた。
切れたらどうしようとあわてて通話ボタンを押したものの何も言えず、向こう側の藍も黙っていること十秒ほど。
「声、届いてる?」
「はひ」
「夜中に悪いけど、今時間大丈夫?」
「も、もちろん」
変な声出た、と心の内で己の間抜けっぷりに恥ずかしさを覚えるもののそれをカバーする前に話しかけられる。メールならばゆっくりと返せたが突然の電話には心の準備などできていない。部屋にいてよかった。人がいなくてよかった。彼女の心の中は今嵐の只中だった。
だからいつもなら竹を割るような潔さを見せる藍が言葉を躊躇う希少な出来事に遭遇していたのに、彼女は彼女で自分の動揺をおさめることに必必至で気が付かない。
「いろいろ考えたんだけれど、キミは前にボクの歌声が好きだと言ったから」
「うん? 藍ちゃん?」
「誕生日おめでとう。キミのために、ボクは初めてこの歌を歌うよ」
嵐のような心はその一言で一気に静まり返った。
電話越しに聞こえる声は、透き通っていた。ピアノの音に、聞こえてくる音は外国の言葉だ。電気信号を伝わって耳に入る音は生の音よりも機械的だったけれど、それでも電話の向こう側の相手の歌う様を簡単に想像させた。
彼のスタジオで、置かれているキーボードを柔らかなタッチで奏でながら彼は歌っている。きっと、今この時のためだけの歌だ。少しひんやりとしているのに、包まれて、あたたかみを覚える歌。ゆっくりと、目を閉じる。
子守唄だった。
一分ほどの短い歌を歌い終えた後、二人の間には言葉はなかった。
そうしてようやく言葉を見つけたのは、藍だった。
「ボクは、夢を見ない性質だから。キミは良い夢を見なよ」
「あ、藍ちゃん」
先ほどからすんすんと鼻をすする音も揺れる声も気が付いているだろうに、藍は何も言わなかった。ただ、声だけが優しい。見えない分、伝わってくる声色に耳を澄ませれば、いつもとは違う藍がいた。
「音源は今度贈るから」
「ありがとう。本当に、うれしい」
なんとか涙声ながらも言えたお礼の言葉は電話越しの笑い声で返された。くすり。かすかな笑い声だったけれど、それは確かに仕方がないなと、笑っている。
「誕生日に泣き顔なんて、やめときなよ」
「藍ちゃんのせいだよ」
「じゃあ瞼はしっかり冷やしておくように。後はキミの責任だ」
「ひどいよ」
二人の声が笑っている。
藍はふと目に入ったウォータードームを振ってみる。海の中を星が舞う。きらきら。
「今夜はボクの夢が見られるかもね。おやすみ」
「へ、あ、うん。お、おやすみなさい」
あっさりと切れた電話をしばらく見つめて、見つめて。
ああ、お風呂にはいらなくちゃ。
あったかくして、瞼はしっかり冷やして、そうしてお礼を言いに行こう。とびきりのお礼を。
視界はどんどん歪んでいくばかりでも、胸はあたたかくて、じわりじわりと響く音は思わず笑顔になる。
「おやすみなさい、藍ちゃん。良い夢を」
夢で会えたら、もう一度またお礼を言わせてね。
そうして彼女は夢を見る。
(彼は深海の星の夢を見るか?)