時代を隔てて出会った主はその正体が掴めない存在だった。




「長谷部、おかえりなさい。大事ないようでなによりです」

 当たり前のように出迎えられる声を日常と感じるようになってどのくらいの日々が経っただろうか。ある日呼ばれる声に応えれば、正しき歴史のためにともに戦ってほしいと静かに頭を下げられた。美しい所作の人だというのが長谷部にとって主である彼女の第一印象だ。
 静かに、少しずつ、けれども確実に刀を呼び出し、彼女はその声で名を呼んでいく。彼の審神者は古来の名を縛る力を持つ者のようにそれぞれの名を呼ぶたび、少しずつ刀剣たちの何かをその手に収めているようだった。
 誰もそうしたことは口にしないが審神者が名を呼んでいけばいくほど彼らは彼女に主としての親しみを覚えるのかその眼差しはやわらかくなっていった。
 華美なところは一つもない。目立って秀でた武勇もない。彼らの主はいつも静かに本丸で刀剣たちを待っている。

「主命を無事果たせましたこと、嬉しく思います」

 一番初めに呼び出された長谷部が見続けた本丸も今は随分と刀剣たちも増えて賑やかになった。だが初めて出会った時から審神者がいる空間は不思議な静けさに満ちている。
 今もそう遠くない庭で短刀たちが訓練と称した鬼ごっこをしているというのに彼女の部屋はその喧騒を遠ざけて涼やかだ。時の流れが別のもののように深く沈んでいる。
 声のする方に視線を向けたからだろうか。彼女も釣られるようにそちらを向き、思い出したように口を開く。

「長谷部が他のものと手合わせするところをあまり見ませんが、一人で鍛錬することが多いのですか」
「? ええ。この本丸には腕の立つ者が多くいますから。他の者に負けぬよう日々鍛錬を怠らずにと思っています。もちろん手合わせもしますが」
「そうですか。他の者との手合わせ、たまには見せてくださいね」

 そうして彼女は立ち上がると本丸の様子を見てくるからその間に隠している傷を癒やすように申し渡すのだ。長谷部の素知らぬ顔は彼女に通じた試しがない。
 万全の体調もまた主への義務だと涼やかに微笑む彼女の方が長谷部より一枚上手だった。




 隠していた傷も癒え、料理当番である薬研に食事の支度ができた旨を受けた長谷部は主の元へ向かう。
 彼女を探すにはまず執務室前の縁側だ。いなければ執務室の中にいる。そこにもいなければ屋敷内を歩き回らなければならない。気が付けば刀剣たちの様子を覗いあちらこちらへ移ろっている。今は夕飯前の時分なので歩き回っている可能性は低いけれど。
 なぜまず縁側かと言えば単純明快で、彼女は庭が好きなのだ。時間があればよく縁側に腰掛けて何をするでもなく庭の植物を愛でている。
 そんな主の姿を見て幾人かが庭の手入れを始めたのはいつだったか。
 今は終わりかけのあじさいが寂しげにそこにいる。次は向日葵がどこかで咲くだろう。
 本丸の何処かで季節の花が咲くようにと悪戯心で内緒の種植えをしていたのは鶴丸を中心とした何人だったか。
 彼女はその話を聞いてからそれを楽しみにしている。刀剣たちの様子を見て回りながら芽吹き花開くであろう花々を目の端で探している。

「主、夕餉の用意が整いました」

 予想通り縁側にいる主を見つける。いつものように一つ控えて声をかけた。
 いつもならばすぐに返事があり、彼女はすっと立ち上がるのだがその白い肌はまだ明るい陽に照らされている。
 ぼんやりしすぎて気がついていないのかともう一度声をかけようとしたところで彼女はその横顔を崩し両の瞳で長谷部を捉えている。 

「ここからは庭がよく見えますが、周りからもよく見えるんです。ここにいるとあなた方が誰彼と声を掛けてくれるんですよ」
「はい」
「あなた方のことをいつも見ているのは呼び出した者の務めはもちろんですが、ごく個人的な理由もあるんです」

 注意深く刀剣たちを見ている瞳の中に務め以外の何かがあることを刀剣たちは知っている。だから彼らは彼女を主と定めその声に応えるのだ。報いるのだ。
 長谷部は黙ってその瞳の光を受け止めている。

「あなた方の、人のような立ち居振る舞いを、私は好ましく思ってるんです」

 夕刻、透けそうなほど白い肌、落ちる日の光の中で彼女はぽつりと言葉を落とした。
 それは彼女にしかわからない感覚なのだろう。
 この本丸に、人間は彼女しかいない。
 彼女に呼び出された刀剣として長らく様子を見てきた長谷部だが彼女のことはとんとわからない。
 刀剣たちを呼び出す力があること、あまり体は強くないこと、それから本丸の庭が好きなこと、細かくあげればあげられるだろうがそれでも彼女のことは遠く感じていた。
 それが今、いつもよりほんの少しばかり近い気がしていた。

「夕餉を共にしてくれる者がいるのは、嬉しいものですね」
「主」

 思わず呼んだその人は、儚くて、人というものにしてはあまりにも脆かった。それでも彼女はそれ以上を見せてはくれず、ふわりと笑えば彼女はさあ行きましょうと立ち上がり、先程までのことなどないかのように気配の薄い歩き方で歩き出す。
 聞いてくれるなという背中に長谷部はただついていくしかなかった。




「審神者の力というのはいわゆる“異能”というやつらしい」
「“異能”」

 今日もせっせと庭の植物の手入れをする鶴丸国永の手は存外繊細に動いている。ありとあらゆる驚きのために彼はどんな努力でもしてみせる。
 その彼が主を必要以上に意識している長谷部がいつにもまして神妙な顔で庭の手入れを手伝っているものだから何か笑わせてやろうと冗談混じりで問いかければ生真面目にも主の対人関係を案じていた。
 だから鶴丸もその答えらしきものを口にした。彼の案じている主の対人関係についてはどの刀剣たちも心配している。彼女はこの本丸にきて外の人間と連絡を取ることは稀だったのにそれに関して刀剣たちと話すことはない。誰もが気になっていてそれでいて誰も聞けないことだった。

「主の話を全てかき集めて推察するにだけれどな」

 そして数瞬のためらいの後、鶴丸がぽそりと落とした言葉は恐らく刀剣たちはさほど意識していないことだった。

「俺たち自身がいわゆるただの道具から力のある存在へと変化したものだから意識しないが人の子は時に逸脱する者を疎むものさ」
「審神者としての力がか?」
「唯一無二とは言わんがそう誰にでもできることではないからな」

 鶴丸の手は土いじりのために必死で動かされており、当然顔もうつむきがちでその表情はわからない。

「力がある事は素晴らしいだけではない」
「……」

 長谷部にとって持ち得るものは発揮してこそだったし持てるものを苦に思うことはそうはなかった。それが振るえなかった時には悔やまれるが。
 鶴丸はその点はおそらく長谷部とは違うのだろう。一言一言苦味が滲んでいる。

「独りは寂しい」

 ふとその背中を見ればそういえばこの面白おかしく生きたがる刀もいわれがあるのだったと、長谷部はただ肯定するしかなかった。






「主」
「長谷部、どうかしましたか」

 もう一つ、長谷部は鶴丸から聞き知ったことを考えていた。

「執務室から見える中庭には何が見えているのですか」

 近侍は交代制で、それぞれと言葉を交わしたいという主の意向で定期的に持ち回りが回ってくる。
 近侍によって見える主の姿は違うらしく、鶴丸から聞いた姿も長谷部にとっては知らない一面だった。そうして彼は笑顔で言ってきた。彼女は自分が近侍の時はもっぱら執務室にいて、そして時折熱心に何かを見つめていると。そちらは縁側とは別に中庭が見える。
 何やら書簡をしたためていた彼女は顔を上げ、口元にふわりとやわらかな弧を描いた。

「以前から一人で鍛錬をするあなたが見えていますよ」
「は」
「鶴丸が話したんですね。内緒だと言ったのに」

 てっきり鶴丸が植えた植物が育っているだろうと思っていた長谷部にとってその言葉は予想外だった。聞いていない。
 今日もどこかで驚きを求めている男はこの結果に何処かで微笑んでいるだろう。目の前で見られるならばそれが至上だがそうでなくともそれが極上の驚きとなり得るならやる男だ。それが鶴丸国永である。
 もうすぐ彼の植えた向日葵が一人で鍛錬をする男の背後に咲くのもまた、彼の楽しみの一つだ。

「この力ゆえ、あまり人と関わらぬ生き方をしていました。体も強くはありませんし」
「……」
「ですからあなた方が己を人の身に模して過ごしている中にいると初めて味わう人の賑わしさで柄にもなくはしゃいでいました」

 今日の主は言葉が豊かだ。彩られさながら花開く直前のようだ。
 物静かな主は頬を赤らめて人に語ることもあるのだ。長谷部は初めて知った。

「使命のある日々は栄誉ですが、それに伴ったこの生活は私にとって得難いものなのですよ。きっとあなた方は気にしていないと思いますが」

 絶え間なく響く刀剣たちの声、語られるいつの日かの人の世のこと、彼らの思い。
 物静かな主にとってそれらは少しずつ彼女の中で芽吹いていた。

「あなたの鍛錬する姿はいつだって変わらなくて、私はあなたの姿をここから見守るのが好きなんです。ただ、不躾に見ているとも言えないので気が付いた鶴丸と秘密だと言っていたのですけれど」
「見られても見られずとも鍛錬はたゆまず行いますが、そういうことはおっしゃっていただきたい」
「ええ。たまには語らねば、わからぬこともあると言われました」

 鶴丸は私よりもよほど人のようですね、なんて笑う彼女のほうがよほど人らしく色鮮やかに笑っていることを、彼女自身は気づきもしていない。

「……初めてのことばかりで、驚いています」
「では、成功ですね。皆はもちろん、あなたにはきちんと知ってもらいたかったのです。私の初めての刀剣殿」

 ああ、どうしてやろうかあの白き刀よ。
 微笑む主はいつもより楽しげで、ここにはいない鶴丸はきっとしてやったりな顔をしている気がして、長谷部は思わず顔を覆い天を仰ぐのだった。


(人知れず咲く花)