それはまだ彼が雪に埋もれる街に住んでいた頃の話だ。
その日はその頃好きだった道具屋のお兄さんが彼女持ちだと知った日で、つまり失恋した日だった。ぼろぼろ涙をこぼしながら誰もいないはずの空き家に入って居間に行けば、いつも通り彼は古ぼけたソファに座って読書をしていた。
大きな音を立てて乗り込んできた私が既に泣いていたのを見て彼は一瞬驚きそしてすぐに小さな溜息を吐いてソファの隣をぽんぽんと叩いた。私はその合図がきた直後にはもう隣に腰かけている。
「……またか」
「なによ」
あの頃はすぐにあの子が好き、振られた、でもあの人が優しくしてくれたの、なんてころころと好きな相手を変えて毎日のように浮き沈みが激しかった。やれ目が合っただのやれ話しかけてくれただの、今考えるとどうでもいいぐらい些細なことに毎日一喜一憂していたと思う。
その些細なことが起こる度、私は屋敷を抜け出し空き家に逃げ込んだ彼の元を訪れ、そのことを話してやはり一喜一憂していた。
「毎日毎日飽きないなあ」
「家だと義兄さんに心配されるからここにいるのにうるさいこと言わないでよ」
家では年の離れた姉と旦那さんの義兄が私の親代わりだ。私の本当の母は亡くなっていて、引き取ってくれた両親は正確には祖父母だ。彼らも亡くなり、今は三人で暮らしている。
姉は私が泣いている理由が惚れっぽさ由縁のことだとわかっているからいいけれど、義兄は恋愛事情にはとんと疎く、浮き沈みする私を過剰に心配するから家でそういう話はしなくなってしまった。そして都合の良いこの空き家で好きにしているのだ。ここでも気を回すなんてごめんだった。
文句だと捉えた私に彼は違う違う、と笑っていた。呆れてはいたのかもしれない。それでも彼は懲りない私に辛抱強く付き合ってくれていた。
「俺はお前みたいに毎日泣いたり笑ったりできるのは幸せだと思うぞ」
「どこが幸せよ。さいあくよ」
ぎゅっと膝を抱えて頭を押し当てて、ぐすぐすと泣くのは彼の前でだけだった。今思えば私は本当は彼に一番心を許していたと思う。今思ったって、それは遠い過ぎ去った過去の話だけれど。
とにかく彼はいつでも私が泣いてたら泣き終わるまで付き合ってくれたし面白いことがあれば付き合ってくれた。
でもある日、彼はまた飛び込んできた私にこう言ったのだ。
「なあ、お前はいつまでもそれでいいのか?」
開口一番だった。
私は面白い旅人がやってきたと彼に教えに来たのに、彼といえばそんなことを言うから一瞬何を言われたかわからなかった。ぽかんと口を開け、ソファに座ってこちらを真顔で見つめている彼を見つめ返すしかなかった。
「は、」
「それでいいなら、俺はいいけど」
「何がよ」
私と彼は同年で、昔懐いていた女性のところに一緒に出入りしていた幼馴染みたいなもので、私の愚痴を聞いてくれる人で、一緒に遊ぶ人で、それで?
いつになく真剣な顔をていた。随分と精悍な顔立ちをして、街に溶け込みそうでいて、今日みたいな顔をされればそれは幻だったのだと突きつけられてしまう。
「俺が少し位似ていたら……いや、それはそれで不毛だな」
私は彼のことを信頼していた。敬愛していた。事情がある人だと知る頃には彼の視線は別にあったし、私は彼を好きだったけど恋はしなかった。彼も私に恋をしなかった。それが私たちにとっては心地の良い距離だったから。
「似てたら私は泣けなかったよ」
もうその頃にはにわかに人を好きになったなんて言うことはなくなっていたけれど、彼がいたから私は不毛な恋愛ごっこを何年も続けて、私の恋心と折り合いをつけられそうになっていた。
「ああ、お前はちゃんと、終わりそうなんだな」
あなたはそうじゃないんだね、とは言えずただ黙っていれば、良かったなと静かに微笑まれた。
それが、彼と、ピオニーとあの家で顔を合わせた最後の日だった。
「お久しぶりです、陛下」
「久しぶりだな」
再会したのは彼が私的に使っている部屋だった。あの日座っていたソファは上質な、最上級のものになり、私と彼の距離は物理的にも立場的にも遠く離れてしまった。
私は、遠い日の彼方にある、隙間風の冷たいあの空き家をとても恋しく思った。
「やっと、また会えました」
あの日問いかけられて以来、なんとなく彼と私は疎遠になり、二十も過ぎればあの頃毎日のように顔を合わせていたのが不思議なほどになった。まるであの日々が夢か幻のように。
私が二十三を過ぎた頃、突然実の父親というものが街に現れ、家の騒動に巻き込まれた。その結果、彼も含めほとんどの人と別れの挨拶もまともに交わすことなく、私は強制的にグランコクマに引き取られた。
よくわからないままにいなかったはずの父に跡取り娘だと言われ、よくわからないままに当主の教育を受け、あまりの理不尽にせめてもの抵抗と、教育の一環と言われた学舎に研究だと居座れば、実の父という男にはとても嫌な顔をされた。その後も早々に婿を迎えて跡継ぎをと言われるのが億劫で家に寄りつかなければあっという間に十年経った。
そのとてつもない月日の後、彼が玉座に座ることになったことを知った。
「なんだ、自分から俺を避けていったのにな」
笑う顔は十年以上昔に見たときよりも年齢を重ねた笑顔で、私の知らない彼がそこにいた。
私はあの頃の無鉄砲な自分を思い出して苦笑いだ。そして、私室に呼ばれたのがあの頃と同じように求めるものだと理解した。
「もう、むやみやたらに泣きついてわめくことはやめたのよ」
「今も俺の懐なら空いてるのに」
「国中の人間が求めてやまない場所でしょう」
笑う彼が恐らくは今も求めても仕方のない相手を想っていることを知っている。あの頃の我儘で自分勝手な子供の駄々をこねる行為は出来はしない。
それでも私は彼を昔から知っていて、幸か不幸か今の彼に会える立場を手に入れてしまった。知っていて、今なおこの水の都でも避けていたことを彼は何も咎めない。
「義兄のことは、折り合いはついたか」
どうして、この人は知っていたんだろうか。あの頃恋をしたと騒いでいた相手の髪の色が、手の大きさが、声の低さが、笑い方が、名前の呼び方が、すべてすべて、願っても仕方のない相手への恋慕であったと。
とても長い長い時間がかかったけれど私の苦い初恋は見ないふりをしなくても良いぐらいに心の中で落ち着いて、私はもう面影を追うことはなかった。
笑い返せば彼もまた笑い返す。あの頃と、お互いがまるで別物で、そしてその瞳の奥に微かな名残を見つける。
「陛下、また、お会いできますか?」
あの頃と同じように名前を呼ぶのを避けた。意気地なしと言われればそうだろう。それでも、本来なら名前も呼べぬ世界だ。そして私が、彼がお互いの名を呼ぶのは立場と性別が余計な詮索を呼ぶ。本当なら、こうして会うことも憚られるだろう。
それでも、彼はもちろんだとあの頃と変わらぬ笑みを浮かべたから、今日は少しだけ幸福な世界にひたってみようと思った。
(いつか奏でた音を愛す)