彼は、重度の幸福恐怖症である。
そのことに私が気がついたのは彼が私の店に食事をしに何度か訪れた後だった。
こじんまりとしていて一度に基本一組、多くても二組しか受けない紹介制の店だ。元々本業の片手間に趣味の料理を振舞う店を出そうと思ったところ友人のネイサンから隠れ家的な店にしないかと声をかけられた。趣味の店なのでそれもいいと、なんとなく店を続けている。最近ではもっぱらヒーロー関係のための店だといっても過言ではない。
今日も連絡を入れてきたのは街で話題のヒーローだ。外食も気軽にできないというのは顔を出すヒーローの難儀な点だなと思うけれど彼の見た目はヒーローとして使わない手はないとも思うから難しいところだ。
「バーナビー、今日はひとり?」
「ええ。ここの料理を食べたくなって」
営業用であろう茶目っ気の含まれる笑顔に私は笑いながらカウンター席を勧めた。
テーブル席もあるのだが、一人客のために設けたカウンターの椅子たちは意外と愛された。一人でなくても私と話そうと、カウンターで会話を楽しんでくれる人もいれば、バーナビーのように静かに食事をする人もいる。彼は狙ったように客がいない日にやって来て、彼が来ると分かった日、私は店を貸し切ることにしている。
「一人暮らしのバーナビーくんのために特別メニューをお出ししましょう」
メニューはあってないようなもので、気分で仕入れたもので適当に料理をつくるのだ。大抵の料理をお客さんたちは楽しんでくれる。良いお客ばかりに恵まれ、私は自由に食べてもらいたいものを提供できていた。
トントントン。深夜に差し掛かろうとする時間帯に鳴るには普通の家だと遅い音。バーにしては家庭的。食堂にしても閉店するような時間。
そんな時間に音を鳴らしだすこの店は、店というよりは家を改造したような奇妙な空間なのでこの中途半端さはお似合いなのかもしれない。
バーナビーは一応つけているテレビを観るわけでもなく、料理をしている私と時々言葉を交わす。時折、先に出したあたたかいお茶を口にしてはほっと息をつく。そんな様子を見て私は作業中、彼に背中を向けた瞬間微笑んでいる。
「野菜が多いですね」
「最近忙しそうだったからビタミン剤とかで誤魔化してるかと思って。たくさん食べて悪いものじゃないわけでしょう? ご飯はしっかり食べないとね」
「気をつけてるんですけどこう忙しいと……助かります」
一番初め、彼が他の仲間たちと来店した時に比べて、ずいぶんとやわらかい表情をするようになったと思う。
先日、テレビで彼が告白した激動の人生について私はすべて知っている。けれど、それを知る前に出会った彼と、今の彼を生身で見比べるからこそ、わかることもある。身にまとう雰囲気が、ヒーローたちに対する態度が、言葉が、時間をかけてやわらかくなっていった。今、コトコトと音を立てる鍋の中でやわらかくなっていく野菜のように。
そうして出来上がった料理たちを、マットをひいたところに置いていく。野菜たっぷりのスープ。それから野菜と豚肉を茹でたさっぱりサラダ。白いご飯に朝ごはんにしようと思っていた魚を焼いて出した。
男性相手のメニューとしては少しあっさりとしていたけれど夜中なのでこのぐらいでいいだろう。並んだ料理をじっと見ているバーナビーに声をかけた。
「どうぞ、めしあがれ」
「ありがとうございます。……今日は、家のご飯みたいですね」
「まかない風、といっておこうかな」
笑いながら彼のななめ向かいに自分用のスープカップを置いた。ここの店主は自由なのでカウンター越しに客とご飯を食べることもある。
その斜め向かいのお客さんは、家のご飯みたいだと笑みをこぼした瞬間、ほんの少しだけ顔が強張ったような、強張っていないような、本当に微妙な変化を見せたことを、自分では気づいていないんだろうなあと、ぼんやりと考えながらもスープを一口飲んだ。胃があたたまる。
「バーナビー」
「なんです?」
なんてことない私の料理を、丁寧に味わって食べてくれる彼に笑みがこぼれる。
「また、ご飯食べにきてね」
「ええ。またきますね」
願わくば、この彼が少しずつ、気づかぬうちに幸福に身を包まれて微笑むことができるよう、そのひとつの要素になれるよう、私は明日もまたここで料理をつくろう。
そうしてまた笑ってくれれば、良いなと、そう思う。
(彼は幸福恐怖症)