朝、起きたら素早く身支度を整える。テキパキと簡単にではあるけれど朝ごはんの準備をして、あとはお皿に盛れば良い状態にするとそこからが私の朝の仕事の始まりだ。起きてからここまでは仕事のうちに入らない。
深呼吸をひとつ。早足でとある部屋の前に立ちノックを数回。返事なんてあるわけないのでそのまま勝手に入る。男性の寝所に女性が入ることははしたないこととされていますと注意されたけれどこうしないとこの部屋の主は太陽がのぼりきった昼近くにならないと起きてこないのだから仕方がない。
「ほーすーせんせー! 起きてください!」
そう言いながら布団を引っぺがす。びくともしない。そもそもこれぐらいで起きるならこの師匠は勝手に起きる。起きないのは今日もまた夜更けまで酒を飲んでいたからに違いない。
「もう若くないんだから飲酒して夜更かしはやめてくださーい」
耳元で大きめの声で声をかければ顔を顰める。無精ひげに天然パーマが混じった髪。身なりを整えればそこそこいい男になれるだろうに、ただの酒飲みなのでそんな日がくることは今後有り得ないだろう。へらへらふらふら。私の師匠はろくでなしだ。もちろん弟子もろくでもない。師匠を敬うとかそういったことなどどこかに吹っ飛んでいるという意味ではろくでもないに違いない。
「早くしないとセクハラで訴えます」
「なんにもしてないんだけどっていうかせくはらってなに」
「おはようございます鳳雛師匠」
今日は返事をしてくれた。上々だ。だめな時はベッドから叩き落とさなければこの師匠は返事をしてくれない。どうでもいいけれど私は師匠をししょう、ではなくせんせい、と呼ぶ。師匠と書いてせんせいと読む。意味はあまりないけれど、強いて言えばししょう、と呼ぶのは他の女の子の専売特許な気がしているから。これは師匠にも言っているけれどわけがわからないという顔をされた。まあそうだろうけど。
「今日の予定は仕事です。お酒は仕事が終わらない限り一滴たりとも飲ませません」
「えー」
「ただし終わったら先日お店で頂いた珍しい酒をお出しします」
今日の仕事はやってもらわねば困る類のものが多い。ので、とっとと仕事をしてくれれば勝手に酒でもなんでも飲んでくれて構わない。この無類の酒好きは一生治るわけないのでとにかく仕事さえしてくれれば私としてはどうぞ勝手に飲んでくれという話だ。
この師匠も私の性格を把握しているのでごろごろと布団で転がっていてはいたけれど(いい歳した男がばたばた転がっても何の可愛げもないということなど百も承知だろうに)私が黙って見ていればそろそろと起き出した。
「朝食、用意ほとんどできてますから。いきますよ」
背中を押してとりあえず部屋の外まで一度連れ出す。そこまでするとこの師匠は何かのスイッチが入ったかのようにその日の活動をきちんと始めるので、(きちんと、というのはこの場合師匠にとって、である)私はそこからはまた早足で朝食の準備に戻る。
この小さな屋敷には下働きの人がほとんどいない。私が住み始めてから女の人に関しては師匠が暇をやってしまった。と思っておい、私に家事全般やれというのかこの野郎ということを婉曲的な言い回しで追及したところ暇をやったのではなく住み込みから通いにしただけだった。どうも人が多くいるのは好まないらしい。私は良いのかと聞いたら弟子はどうせくっついてくるから今の内に慣れておくということだった。一応、弟子認定されててホッとした。ただ結局料理は私の仕事に入ってしまったわけである。ちくしょう。
師匠のお世話をここまでした後は師匠の執務室で言いつけられた雑用をこなす合間に私はひたすら読み書きの練習をする。唸って問題を解く私が愉快らしく毎日毎日宿題といっていろいろな問題を出してくれる。半分遊びで半分は弟子の為を思ってくれていると信じて毎日唸りながら勉強している。
これだけ綺麗に会話が出来るのに読み書きはやっぱりさっぱりでそんなに世の中都合よくいくわけないのだなと実感した次第だ。
「……うーん」
「俺のかわいいお弟子さんは今日の宿題できたかな」
「今日のいきなり難しくなってませんか?」
いつもなら山のようにたまった仕事をこなしている師匠の脇で取り組んでいれば師匠が終わる頃にはなんとか終わるのだけれど、今日は師匠の仕事が終わってもまだ終わらない。半分読めたぐらいだ。
どう考えても昨日のよりも難易度が跳ね上がっている。
「そりゃちょっと難しくしたし」
「……いきなり難しくされても読み書きは一朝一夕じゃできませんけど」
じろりとななめ上から見下ろしてくる鳳雛師匠をにらめばへらへらと笑われた。この師匠、何を考えてるのか時々わからなくなる。
「いや、ならできるかと思って。ま、俺仕事終わったからんじゃ」
「え、ちょ、師匠!」
「酒は棚の奥から二番目のだろう?」
「……そうです、けど」
「わかんなかったら俺の部屋来たら教えてやろう。あ、とりあえず今から昼食の準備よろしくなあ」
ひらひらと、手を振って出て行く師匠は振り返りもしない。ちっくしょう。
私の師匠は、のんべえのろくでなしですがやる気になれば仕事はあっと言う間に片づけてしまうし人を動かすポイントは押さえていて本当ににくたらしい師匠だ。
いつもは弟子、とか名前で呼ぶことがほとんどないのに、こういう時だけ、私の名前を呼んで、私をからかうように、そしてこういう時ばかり、師匠面して私に期待を寄せるから、私は何が何でも終わらせてやりたくなってしまう。
「あんのろくでなし師匠め」
そうやって、小間使いなのか弟子なのかよくわからないけれどでもちゃんと鳳雛師匠の弟子として、私はこの世界で生きて、きた。
悔しいのと誇らしいのと嬉しいのとにくらしいのと、いろいろごちゃ混ぜになった気持ちで厨房に行き昼食を作り始める。慣れたもので考えごとをしながらトントンと作業をしていく。
「……もう、二年」
読み書きの練習も一般書のレベルではなく、学術用のものを読むためのものになってきている。この世界の常識はだいたい理解して、師匠が突然屋敷を出て知人に会いに行く時にもひょいとついていけるようになった。弟子だというと周りが物珍しい目で見てくることも、男か女かよくわからない出で立ちの私自身を物珍しい目で見てくることも、全部、当たり前になってしまった。
今がいつなのか、とか、よくわからないけれど私は師匠を師匠と呼ぶ前から師匠が士元という名前で、鳳雛と呼ばれていることを、伏龍こと孔明と学友であることを、知っている。いずれ師匠が孔明が属すことになる蜀……玄德軍の傘下に入ることも。
「いつになったら、私は主人公に会えるんだろうなあ」
もう、お酒もたばこも大丈夫な年齢になってしまった。異国の人間である証なんてほとんど残っていない。耳のピアスと、今はしまっている向こうの服ぐらいだろうか。
この世界に来て、二年。架空の世界だとわかっていつつも、それでも確かに生きている世界で、もうしっかり根づいてしまった。屋敷で働く人の顔を、街で言葉を交わす人を、旅先で出会った人を、師匠を、私は、もう心に置いてしまっている。
ただ、それでも私はこの世界は、まだ動き出していないことも知っているし、私がここにいることの弊害が何であるかを知りたがってもいる。いつ、この世界の要がやってくるかも、私にとっては大きな関心ごとの一つだ。
「会いたいな」
会ったこともなく、会うはずもなかった年下の女の子。
私はただひたすら、彼女に会うことを願っている。
***
「……これはまた、懐かしい夢だ」
朝、少し布団の中でぬくぬくとのんびりとした優雅な時間を過ごす。そこから一日の活動に入るのだけれども今日は何ともいい難い気持ちだった。
まるで昨日の出来事のような夢だった。私は師匠の世話を焼いて日々を過ごす。そんな、昔の出来事。
「うーん、今日はこのままのんびりしたいなあ」
止める人もいないし私が少々サボったところで問題ないといえばない。
「……師匠みたいになるからやめよ」
適度に仕事をしてふらふら抜け出すのは私も師匠と大差はないものの、何日も執務室を空けて酒浸りの日々を送ったりはしていない。一日しっかり仕事をする時もあれば午前中にやるだけやってふらりと午後は街に繰り出すとか、それぐらいだ。長期的な離脱は、まあ、師匠譲りではあるけれど。
結局午前中に急を要するかもしれない仕事だけ片付けて午後はふらりと席を立った。情勢も落ち着いていることだし、問題ない。
見張りの兵士がいるほど重要な役職というわけでもないのに厚意で見張りがいることは抜け出す上で大変面倒なことではあるけれどあの手この手を使い毎度毎度抜け出しをはかっていたらとうとうお咎めなしになった。言っても無駄だと判断されたようである。必要最低限度の仕事は期限内に終わらせることにはしているので信用されたともいう。師匠と違って締め切り前日まで仕事を溜めこんだりしません。
「今日は木の上で昼寝かい? きみも相変わらず優雅なもんだ」
そう、天気も良いのでお気に入りの木の上で昼寝と洒落込んでいたのだ。細心の注意を払って人目につかぬよう木登りを実行したというのにバレたらしい。
見下ろせば見慣れた青年の姿。扇で口元を隠してにやにや笑っている。
「孔明、そっちこそ忙しいんだから、私に構っている暇なんてないでしょうに」
「だってきみに用があったから」
せっかくの昼寝日和だったというのに計画はパァだった。あの狐目男は私に降りて来いと言外に要求している。もちろん、私の上司にあたる彼の言うことをきかないわけにはいかない。盛大な溜息を落としながらひょいと枝から飛び降り、着地。
私とそう背の変わらぬ孔明がよくできましたと言わんばかりに笑っている。目線は一緒なのに馬鹿にされている気がしてならない。まあ、いつものことだった。
「こないだ話してた案を玄徳様にお話したんだけどさ」
「もう話したの」
「善は急げというだろ?」
こないだ、というのは昨晩の酒飲みの席でのことだ。昨日の今日で早速提案してきたというのだから主思いの良い臣下だ。
ただこうして仕事を早くこなしてくるということは提案者である私にも当然仕事が何かしらの形で回ってくるということである。
「で……?」
「きみに一任したいそうだよ」
「ですよねえ」
言いだしたのは私だけれどわかってはいるけれどそれでも実際にこうしてあれやこれやと任されるのは正直疲れる。師匠がサボりたがっていたという事実も頷ける。
まったく。文官は武官から馬鹿にされて民からは苦情を叩きつけられ主にはお前ならやれると期待され上司からはよろしくと投げられる。なんと七面倒な職だろう。
「そんなに嫌そうな顔をするなよ。せっかく玄徳様が期待を寄せてるっていうのに」
白々しい台詞を吐く孔明はやはり扇で口元を隠してにやついている。わかっている。この男は私が仕事が大して好きではないことも、しかしそれでもきちんと言った以上は仕事をやり遂げるということも。全部、全部わかっていてこうして仕事をしろとあの手この手で働かせるのだ。
この仕事をこれから取り組んだ後はまた落ち着いたかと思ったらすぐさま新しい案件がくる。間に戦も挟む。むしろ戦の期間が長い。そうして、あっと言う間に日々が過ぎていく。
「さ、一応仕事の確認するよ」
「今から?」
「そう。早くやれば早く終わって早く暇になれるよー」
「そして孔明がまた仕事持ってくるんだ」
そんなことはないと笑う孔明は嘘つきだ。どうせこまごました事案を割り振ってそこから私がうまくさばいてあれもこれもと補足の仕事をすることを期待している。
こんなにたくさん仕事ができるようになったのも孔明のせいだ。おかげとは言いたくない。
「給料あげろ」
「それは玄徳様に言って」
「……」
そして私が玄徳様に弱いことも、知っている。あの快活な笑顔を見せられたら頑張らざるを得ないじゃないか。あの人が頑張っていることを知っているのだから、頑張らずにいては何か悪い気がする。あの師匠ですら、何だかんだ言って身の丈に合った仕事を与えられるようになってからは基本的には真面目に仕事をしていたのだから。特に、玄徳様に直々に頼まれる時なんかはすごく面倒くさそうな顔をしながらも気持ちテキパキと仕事をしていた。
「打ち合わせしたら今日は早めに店じまいするから」
「きみはいつだって早めの店じまいだろうに」
「雲長と酒を飲む約束をしてるんで」
雲長と私が酒飲み仲間ということはどちらかと親しい人間ならだいたいの人間が知っている。恋仲という可愛いものの気配がないことも、知っている。どちらかというと何だかんだ働く苦労者同士の愚痴大会と思われている。芙蓉には「あんな陰険と飲んで何が楽しいのかしら」と面と向かって言われるけれど、私は何だかんだ雲長と気が合うのだ。彼との酒はいつも以上にうまい。
私の言葉を聞くと孔明もああ、と一言。彼も私と彼が飲み仲間であることを知っている。ただし私は孔明と二人で飲むのは構わないけれど雲長も交えて飲むのは好まないのでジロリと睨んでやる。恋仲でないとわかっているのに飲みに行った店で恋仲であるようにからかって遊ぶことをたまにやるのだ。狐目野郎と怒ったことはまあ、何度か、あるかもしれない。酒の席なので無礼講というやつだ。
「というわけでさくさく仕事」
「……ねえ」
「はい?」
資料は孔明の部屋だろうと勝手に孔明の部屋の方へと歩き出した私の背中に声がかかる。振り返れば孔明は扇をおろして私を見ていた。珍しく、真顔だ。
初夏を迎え青々とした葉をつけた木々が風に揺られている。孔明の後ろでざわざわと、音を立てて揺れる。
「僕は、きみと雲長殿が、時々遠くを見ているように思うよ――士元」
この男は――
「名前で呼ばれるの、嫌いだって」
「ああ、ごめん。そうだったね、鳳雛」
その鳳雛という名前すら、私は呼ばれることを極端に嫌っている。名など、なおさら嫌いだ。それを孔明はよくよく理解していて、それでもなお、時折こんな風に名前を呼ぶ。わかっているのか、いないのか。
「苦労性同士、遠いところを見たくなることもあるんだよ、孔明。どこかの誰かさんがあれやこれや仕事を回してくるせいで、とか」
「……ほうほう。じゃあその誰かさんはきみにかなり期待を寄せてるってことだね。いいことじゃないか」
「……」
飄々と笑ってじゃあ行こうかと、私の前を歩く。
師匠の友だち。私の友だち。師匠の学友。私の学友。諸葛孔明。師匠の上司。私の上司。
遅れて続こうと思いながら少しだけ進みだすのを躊躇った。孔明が歩く分、私と距離が空く。
「……何度目、かな」
少なくとも複数回受けた。彼の確認じみた疑問の言葉には私は答えることができたためしはなく、いつだって日常にとけて消えていく。
葉がざわざわと、音を立てている。風が強い日らしい。そっと、言葉を落とす。
「会いたいな」
会ったこともなく、会うはずもなかった年下の女の子。
私はただひたすら、彼女に会うことを願っている。
でも、それよりももっと、この言葉が届いてほしい人は一体どこにいってしまったのか。擦り切れそうな記憶は夢幻であったんじゃないかと、恐ろしい気持ちになりながら過ごす日々はあとどれだけ続くというのか。
「お願いだからもう一度」
この記憶が擦り切れてしまわないうちに夢だっていい。
「名前を呼んで、鳳雛師匠」
祈りは風に乗り、そうしてどこかへ飛んでいく。届けばいい。届かなくてもいい。でもやっぱり届いてほしい。胸のうちで巡る願いはまだ握ったまま、私は己の名を小さく口にし、前を向いて歩き出した。
(鳳雛せんせえ!)