霧を抜けた後のは数日眠り続けていた。
命に別状はなかったが霧の成分を深く吸い込んだせいだろうというローの見立てに従って船員たちは大人しくの目覚めを待っている。
ローはその日ふと目を覚まし、まだ夜も明けきれぬ中看板へと身を踊らせた。
そうしたら薄暗い看板の先頭にが立っていた。
真っ直ぐ、船の進む先を見ている。
ぴんと伸びた背筋は前しか見ていない。振り返ることをするまいとしているようにも見える。
思わず立ち止まってその後ろ姿を眺めているローに気づいたのかはくるりと振り向いた。
彼女は気配に敏感で、静かに船のいろんなことに気がつこうとしていた。
「おはようございます、ロー」
静かな声だった。
ローは黙って振り向いたを見つめている。
瞳がぶつかり合う。確かに二人はお互いを見つけたのに、二人の間には沈黙が落ちている。
元々必要以上に口を開かない二人だがどちらもどことなく話の切り出しを迷っているような、いつもとは違う間の取り合いがあるようだった。
語るべきこと、語りたいこと、語って欲しいこと、それらは二人の間に思っている以上にあるのかもしれないが、二人はそれを見てみぬふりをしている。
その中、一歩踏み出したのはローだった。
「いつでも見つけてやるから、不安そうな顔するな」
「何も言ってません」
「おれはお前の"居場所"になってやる」
ローの言葉には返事ができない。
突然口を開けたかと思えば快復を言祝ぐでもなく何かの話の続きのように彼は話し出したのだ。
ただぼんやりと歩を詰めるローを見つめることしかできない。
あの霧の中、ローはいなかったはずだ。誰もいなかった。誰も、と亡霊の話なんて聞いてはいなかった。だからローは彼なりにが目覚めるまでに考えて、考えて、そして口にしているのだ。
だがは何も答えられない。
目つきの悪い男はお互いに表情がはっきりとわかるぐらいにまで近づいた。距離は一歩と少し。触れれば届く。
「ここはおれの船だ。お前はおれのもので、この船はお前のものだ」
「ただ、乗り合わせた賞金稼ぎの女ですよ」
「それもまた運だろう」
運とは、都合の良い言葉だ。
だが運は確かに存在していて、が選んだのかが選ばれたのかはわからないがその時この船が目の前にあったからはここにいた。
「ロー」
「なんだ」
ローが奇しくも初めて意識して気配を絶っていたを見つけた初めての人間だった。
これがローでなくともはその人についていっただろう。それでもは見つけてくれたのがローで良かった。
だからこそは祈る。
「ここはあなたの船なんですから、私はあなたのものなんですから、あなたは、私のものなんですよ」
「おれはおれのものだ。お前もな、」
「そうですよ。私はいつでも私のものです。あなたもあなたのものです」
居場所を与えてくれる船長とこの船はぶっきらぼうだが優しい。
はこの船が好きだった。ローが好きだった。
ホームと呼んだ故郷と、家族のように育った仲間と同じぐらい、好きになってしまった。
「あの霧に、彷徨えるとすら思ったんです」
「許さねえ」
「うん、できませんでした」
故郷に離れた仲間の声が甘く響いて、身を任せたらきっと幸せな夢を見られた。それが夢だとわかっていてもそこは平穏だった。
なのにローが名前を呼ぶのだ。と。
「ロー、この責任とってくださいね」
「このハートが尽きるまでお前はおれのものだから安心しろ」
「尽きさせたりしませんよ」
反射的に答えていた。
驚くローにも驚いていた。
海賊なんて因果な商売だ。命がいくつあっても足りやしない。
それがオペオペの実を持っている人間でもそうだ。悪魔の実は万能ではなくローもできることに限りがある。
驚きつつもはもう一度口を開く。
「私がここにいる限りあなたのハートを尽きさせたりなんてしません」
「同じことをそっくりそのままお前に返してやる」
感動の目覚めの再会かと思えば二人の瞳は挑戦的で負けてはならぬと不穏な空気を漂わせている。
誰にも知られぬ二人の約束は本人たちもそうと取らぬうちに始まっていた。
(朝の冷たい匂い)