意識を失って、目を覚ますと見覚えのない場所にいる。
 それは、彼女が体験してきた中で一番恐ろしいことになっていた。

「……ここ、は」
「起きた?」

 中性的な声。声の方へ視線を向ければそこには白と見紛う白金の髪に淡い紫色の瞳。
 先ほどまで被っていたフードは脱いでいる。
 小舟の上、海のど真ん中、深い深い霧の奥。おそらくここは霧の一番深いところだ。この霧の正体を、は知っている。

「性質の悪い……」

 吐き捨てるような言葉に相手はけらけらと笑うばかり。

「でも、それはきみが望んだんだろう?」

 睨みつければ彼の人はまたしても笑うばかり。軽い、歌声のように聞き惚れる音が耳につく嫌味な笑い方を落としていく。
 そして彼の人の言うことは事実なので。

「そう。私が望んだ。私が望む、彼だった」
「それは良かった。あの霧はね、ぼくの霧だ。望むままに、会いたいものに会える。そういうもの」
「……それは、この世界の霧ではないでしょう?」

 は、この霧がどうやってつくられたのか、その方法を知っている。には真似のできない、けれどの強さと同じ元のもの。
 まずいと思ったその時に、は目の前に現れたあり得ない存在に息をのまれ、そして望むがままに騙された。二度と会えないと、知っているはずの相手の姿に、一時ばかりの幻に、彼女は身を任せた。その力の元を、は知っている。

「これは、私の世界の、力」
「そう。これは、きみとぼくの世界の力。だからきみだけがより強く作用される。そういう風につくってある」

 彼の人はそう言葉を落とすと再び霧を生み出した。は息を止めようとしたが聞こえてくる声に絶望した。

「無駄だ。お前はさっきからずっと霧の中にいた。オレの姿を見ようが見まいが、お前はまだ罠の中だよ、

 この言葉はの記憶だ。の記憶が彼の人の言葉をの望む相手の言葉に、見た目に、声に、そしてにみせつける。
 の知る彼はこんなにも優しくはない。優しく見える時はこんな風に相手を目的の状態に誘う時。はそこに誘われている。もしくはそう思っている。
 楽しげに笑う姿は本当は先ほどの彼だ。が今見ている、黒髪の青年ではない。彼は、の記憶の人だ。もはや夢でしか出会えない。

「わかっているのに、どうしてこう、事態をややこしくしますかね」
「ややこしく? 会いたいというからわざわざ来てやったんだろう?」
「……彼は、来ません」

 もしいつか、万が一が戻れたとしても、彼はいつものように好きな本でも読んでいて、やっと戻ってきたを見向きもせず、背中を見せたまま口にするのだろう。
 案外戻るのが遅かったな。
 はいつでもその場面を想像する。叶うか叶わないかはには一生をかけなければわからない。

「私は、諦めませんが、それはあなたに叶えてもらうものでもないし私は今、やりたいことがあるんです」
「オレを諦めるような?」
「私は、」

 この声が脳の奥にしみ込んで、思考をしびれさせて、はそのまま嘘に溺れてしまいたいと思うがそれでも彼に対峙した。
 彼は来ない。彼は求めない。いつだって、ある意味で彼はを手に入れている。手に入れたものを、彼は求めない。は当の昔に彼の仲間なのだから。

「私は帰れるなら帰るけれど、それは、あの人が望む世界を見てからです」

 そして今のが望むのは、帰ることが一番ではない。

「今の私は、ハートの海賊団の船員」

 を拾ってくれたただ一人。を見つけてくれたただ一人。初めて世界から見つけてくれたその人に、はついていこうと決めたのだ。
 霧が薄まる。黒髪黒目の青年は白金に紫の瞳の男に戻っていく。

「私は、ローの望む未来を見たいし、そのそばにいたい」
「……なあんだ」

 元の姿に戻った彼の人はつまらなそうに、けれど切なげに瞳を揺らして笑っていた。
 霧が、どんどん薄まり、彼の人とだけの世界が徐々に消えていく。

「きみは、ひとりぼっちじゃなかったんだね」
「私が、あなたのことを忘れませんから」

 霧と共に薄まる体をは抱きしめた。ひんやり。人にしては冷たい体だった。
 その体も徐々に薄まって、薄まって、霧がほとんど晴れる頃、そっと離れた彼の人の体もまた、消えかかっていた。

「ぼくの指輪、持っていっていいよ。……大丈夫、仕掛けはない。ただの、思い出」
「大事にします」
「大事にして浮気だと思われないようにね」

 くすくす。
 が反論する前に彼は消えてしまった。

「それでも、大事に持ちますよ」

 小舟には真っ白なローブ。くたくたになったそのローブの中には朽ち果てた真っ白な骨。右手の薬指には、鈍く光る銀の指輪。中央には持ち主の目の色をした小さな宝石がはまっていた。
 はそれをそっと手に取る。大事に大事に、ポケットに入れた。

「もしかしたら、私があなただったかもしれないんですから」

 朽ちかけた小舟でそうしてしばらくぼんやりとローブを見つめていると、遠くから声が聞こえてきた。
 聞き慣れた声、自分を呼ぶいくつもの声には振り返り、そして笑った。


(いつか夢で見た)