幻覚作用のある霧、と聞いて船員たちがまず行ったのは潜水の準備である。
 このハートの海賊団の船は他の海賊船はもちろん一般的な航海用船とは少し種類が異なっている。潜水艦なのだ。
 潜水しておけば多少は霧の影響も小さいだろうということで現在乗組員は全員中に入っている状態だ。

 それでも船外から悲鳴や鳴き声は聞こえてくる。おそらくは霧の成分もいくらか含まれているだろう。
 医師は今用意できる範囲での薬の準備に追われている。本当に幻覚作用が起こったら笑い事ではない。下手すると同士討ちしかねないのだ。必死である。

「しかしよくわかるな、匂いなんて」
「……一人で航海してたときにある島にこういう匂いの植物がありましたから」

 その植物の名前は「思いで草」かわいらしい名前だがその匂いの濃厚な者を嗅いだ者ないし薄い香りでも長時間吸い続けた者は幻覚を見てふらふらとさまよい出すという。
 崖の近くなど危険な場所に咲いていることが多く、幻覚を見た者は匂いの濃い方へと導かれそして足場を危うくするのだという。

「けどここは海の上だぞ? どこにさまよい歩くってんだ?」
「海に飛び込むんじゃないんですか? わかりませんけど」

 そもそもこの匂いが「思いで草」のものと決まったわけではない。似ているとはいえ実は全く違う効果の何かかもしれないのだ。
 がそう言うもののの情報以上に有力なものはなく、おそらくは「思いで草」、そうでなくとも類似のものだろうという意見でほぼ同意した。
 悲鳴や泣き声にも慣れてくる。船は不気味な空気にさらされてはいるものの着実に進んではいる。ログポースの指す方向を逸れてもいない。

「霧抜けちゃう?」
「どうだろうなァ」

 ベポの退屈そうな質問に楽しげに笑うのはローだ。彼の場合は完全に何か起こると確信している。むしろ起これと思っているに違いない。
 このまま何事もなく済めば良いのにと思っている面々からすれば頭の痛い話である。主にペンギンやのような後処理を任されるないしもともとめんどうなことは避けたいような面々のことである。

「ん、外に小舟が見える」

 それはキャスケットのつぶやきだった。海上にでている望遠鏡から様子をうかがっていたのだ。普段ならもう少ししゃべるのだがさすがに黙って仕事をこなしていた。
 キャスケットの言葉にまずローが望遠鏡をのぞく。次にペンギン、。ベポはおまえはいいだろ、とキャスケットに言われてしょんぼりしていたので仕方ない、とキャスケットが見せてやっている。

「おれが行く」
「船長が行ってどうするんですか」
「私行ってきますよ。一応医務室で薬もらってきます」

 誰かが文句を言う前に颯爽と部屋を出ていく。悔しそうにしているのはローとベポぐらいである。
 とりあえず小舟の状態を確認する為に船は減速する。そしてほんの少し、浮上してが外にでやすいようにする。
 一応その場しのぎの気付け薬を懐に入れはころ合いを見計らう。。一応そばには船員が二人ついてきている。

「でますけど、外から合図したら開けてください」
「りょーかい。無茶すんなよ」
「もちろん」

 連絡管で一言、操舵室へ。

「いってきます」

 返事を聞く前に彼女は軽い調子で外へでた。

「ん? でもさんが自分から率先して行くなんて珍しいですね。あの人いつもなら言われるまでやらないのに」

 的を得た意見を言う青年の声は隣にいた船員しか拾わなかった。それに何か不吉な感覚を覚えたのはたった二人きり。
 もうは外にでてしまっていた。






「あなたがこの霧の持ち主ですか」

 小舟には人影がひとつ。ぼんやりとした灯りを手に持っている。白いフード付きマントに身を包みその顔を隠している。気配は薄い。
 返答のない相手には警戒しつつも歩を進めていく。相手の間合いに入らぬよう気を配り、いざというときには動けるように警戒は怠らない。

「この船に何の目的があるんです」
「お前に用があるんだよ、

 その声には動きを止める。目を見開いて、警戒心も一瞬どこかに吹き飛んだ。
 相手はの名前を知っていた。相手の声をは聞いたことがあった。何年も前に聞いたきりの声。

「……、質の悪い夢ですね」
「数年ぶりの再会だっていうのにツレないな」

 フードが音もなくとれる。白いフードの中に隠れていたのは相反する黒の髪。奥に秘められていたのは底の見えない黒の瞳。理性的で理知的で、そしてその瞳のまま平然と人を殺せる。端整な顔立ち、ほほえめば好青年だともてはやされる。
 記憶と寸分違わぬ姿で目の前の男はの前に立っている。数年前、別れた時と同じまま。なにもかもがの知っている彼だった。

「私の一生返せこの馬鹿」

 舌打ちしては小舟に向かって飛んだ。とん、と羽でもはやしているかのように彼女は軽々、船と小舟の間をわたった。
 そして小舟に足をついた瞬間、強烈な匂いに顔をしかめた。そのままたまらず膝をつく。

、わざわざ罠に向かってくるなんてお前も随分馬鹿なことをするな」

 鼻で笑う相手を睨みつけて文句の一つでも言うつもりだろう。目を細めては相手の男をまっすぐ射抜く。ただその視線は相手の瞳を見ることができない。なんとか顔の方へと視線を向けてはいるが視界はおぼろげなのだろう。
 舌打ち。悪態。失態に対する思いはさまざまだがなんとか口を開く。

「やっと、会えた」

 かすれた声は男に届いたのか。
 ふっと意識を手放したにはわからず仕舞。


(ゆらめく面影)