人が寝静まったその世界で彼女はゆらり、甲板で立ち尽くしていた。
 波の音は絶え間ない。昼間は人の声であまり聞こえない音が今はよく響いた。

「なんですか、船長さん」
「この距離で気付く、か」

 後方数メートルのところで彼女は不意に口を開いた。その反応は近づいてきていた男を納得させるものだったらしい。彼女は大抵己の近くにいる人間を見ることなく当てることが出来る。今回も恐らくもっと前からその存在に気づいていただろうが男がこの場から立ち去る気配を見せないので声をかけたのだろう。それぐらい、男は彼女を見ていた。

「月のない夜に星見でもしてんのか」

 彼女の手には半分ほど注がれている杯。隣に並ぶなり彼は杯を奪って飲み干した。

「うまいな」
「こないだ買った秘蔵品ですよ。もっと味わってください」

 高かったのに、と零してはいるが彼女は特に惜しんだ様子はない。

「で、何してた」

 ニヤリと、笑みを浮かべてはいるがその目は存外真面目で逃げることを許さない。

「……今日、新月ですから」
「あ?」
「見えない月はいまどこにいるのかと思って」

 空を見上げる姿は遠い。見えぬ月を見て何を思っているのか。横顔は、彼を映さない。彼の笑みは内に潜み瞳は彼女にのみ注がれる。
 海の波が船にぶつかる。ひんやりとした風が頬を撫ぜる。月に注がれる瞳、横顔に注がれる視線。

「おい」
「はい」
「おれの秘蔵の酒、飲ませてやろうか」

 その言葉に彼女はようやく彼に顔を向けた。それぞれがその瞳に映される。ぶつかる視線。耳に響くは、さざ波。

「じゃあ、一杯」
「ついてこい」

 そう言うなり空に背を向けた彼インついて行く。
 背には夜空。
 彼女は一度だけ振り返り、一瞬微笑み前を向いた。


(月に祈る子ども)