※物語上固定の名前(変換不可)で呼ばれます。
梁山泊の片隅には小さな子どもたちが集まる場所がある。数はそれほど多くはない。一人の女が子どもたちとそれぞれ言葉を交している。
それを少し離れたところから見つめている二人の人影があった。
「まるで東溪村を見ているようですね」
「あいつの姿は変わらぬままだしな」
東溪村の頃のことを知る人はほとんどいない。だからこそ目の前の景色は多忙な彼らにとってほんの少し振り返るに懐かしいものだ。だから時折晁蓋が時機を狙って呉用を連れ出していた。巡視という名の気分転換である。
内政の全てを背負っている呉用はいつも疲れ切っている。ありとあらゆることを自ら処理しなければ気が済まないのだが無理が祟るというおのだ。この学び舎を見た後の呉用は幾分か休む気持ちを取り戻すので晁蓋にとっては子どもたちの為よりも呉用のために必要な場だと思っている。
梁山泊では誰もが自分のするべき仕事を与えられその仕事を全うしている。雑然としているけれどよくみれば秩序だったこの場所は日々と変わらぬ様子を見せていた。
二人が並んで見ていることに子どもたちの一人が気付いた。子どもたちは大きな声で全員が挨拶をし女だけが近付いて来る。
「晁蓋に呉用とはまた大物のおでましだね」
「なに、部屋で煮詰まった呉用を引きずり出しただけだ」
そう言うと女はにやにや笑う。
呉用は眉間に皺を寄せる。彼女の小憎たらしい笑い方は悪戯好きな子どもとそっくりだった。
「念願の働き詰めだ。良かったね、呉用」
「東小花」
からかいの言葉に呉用が咎めるように名を呼ぶ。
まだ娘と呼べる年頃だ。子どもたちと接している姿も姉といった様である。
「梁山泊一の頭脳も東小花にかかれば形無しだな」
闊達だった。歯を見せて笑う姿に東小花はつられるように先ほどとは違う笑みを見せた。
梁山泊の片隅で子どもたちに読み書きを教えたいと言ったのは東小花だ。天気が良ければ外で読み書き以外のことを東小花は教えることもあった。
「最近は兵たちにも読み書きを教えているらしいな」
「やりたいって人には教えてるよ。みんな良い子ばかり」
東小花の学問所は近頃子どもたちはもちろんその親、さらには兵たちにも評判となっていた。若輩の少女に教えを請う兵士は多くはない。けれど教えてもらった兵士たちは東小花の変わった教え方には好意的だった。
その彼らは彼女を二十歳に届くかどうかの少女と思っているのだが、本当は今年で二十八になる。多くの若い兵士は彼女よりも年若い、良い子と称されても仕方のない年頃だった。
「お前にかかると屈強な兵士も良い子になりそうだ」
「だって良い子だもん。晁蓋とは違ってね。晁蓋は体が我慢しきれずに駆け出すよ」
「今日は何を教えていたのだ」
呉用が熱を上げる二人の間に入るのはいつものことだった。
東小花を拾ったのは晁蓋だ。十年は前のことである。そのとき東小花は読み書きはおろかしゃべることすら出来なかった。
名前すら言えぬ少女を東小花と名付けたのは晁蓋だ。東溪村の東に幼くも可憐に咲く花として東小花。彼女はその名前を気に入っている。
「今日は空の名について。季節によって違うことを教えてたよ」
東小花は不思議な人間だった。異国の者らしく最初は言葉が通じなかったのだが学はあった。学ぶことは彼女にとっては当たり前だったというが呉用や晁蓋からみればかなりの水準だった。時に晁蓋や呉用ですら知らぬことを当然のように知っている。
季節によって雲が違う。それは知っているが彼女は子どもたちにその雲に名をつけさせていたらしい。二人にも何かと聞いてきた。
「あれは卵みたいだな」
「あれが?」
気兼ねなくしゃべる二人を呉用は止めない。東小花が幹部の中でもここまで砕けた態度を取るのは晁蓋と呉用にだけだった。その二人だけが東小花と出会った頃からの付き合いだからだろう。周りも晁蓋や呉用と親しいことを知っているからかある程度交流はあるようだが特に親交があるとは耳にしない。
この二人が男女の仲かどうかは呉用にはわからない。ただ晁蓋の部屋や呉用の執務室に気兼ねなく入ってくる精神の持ち主だ。以前同室で一夜を過ごしたこともあるのだがそのときは二人で朝まで札遊びだった。違うときは飲み比べて床で潰れていた。
ぼんやりと雲を見上げた呉用はふと脳裏に出てきた単語を口にする。
「……魚の鱗ようだな」
「呉用!」
晁蓋と話していたはずの東小花は嬉々として呉用に飛び付いた。嬉しくなると東小花は人に飛び付くことがある。鰯雲なのよと東小花ははしゃいでいた。二人には分からないことだが彼女の不思議な喜び方も昔から変わらない。飛びつくのも変わらなかった。
女性だからもっと淑やかにとたしなめたのはいつだったか。
晁蓋はまるで気にしていないし呉用は諦めた。これが東小花である。
「呉用は私の期待を裏切らない! だから好きなんだよ!」
「良かったな呉用」
「あれ晁蓋、妬いてる?」
どちらに、という東小花の言葉に晁蓋は呉用から東小花を引き離して対峙した。喧嘩を売られたと判断したらしい。
二人が男女の仲であるかどうかを呉用は知らない。けれど十年以上続いている二人のやり取りは変わらない。
ひたむきに晁蓋を見つめる一瞬を呉用は知っている。晁蓋にもその一瞬があることもまた、知っている。
「妬けますね」
「どちらに?」
尋ねる声が重なった。
三人で顔を見合わせる。それから誰からともなく笑い始めた。
(一、星への夢)
晁蓋は東小花のことを詳しくは知らない。どこで生まれたのかも、本当の名が何かも知らない。
東小花は何も言わない。気紛れに口にすることはあっても今まで晁蓋に説明してくれたことはない。晁蓋もまた聞かなかった。
「あの娘とは恋仲なのですか」
「娘?」
すぐに東小花だと気付いた。噂されるような年頃の娘は知らないと思ったのだが東小花は見た目だけは立派に年頃の娘だと気がついたのだ。彼女は今も昔も変わらず年頃の少女のような見目のままだ。
質問した楊志は二竜山からやって来ていた。梁山泊に来る時は今夜のように晁蓋と話すこともある。
どこからか噂を聞いてきたのかもしれない。楊志は晁蓋の反応に口にしたことを悔いたようだが遅かった。晁蓋はしっかりと耳にしたあとである。二人きりで話していたからか。珍しい話題だった。
「余計なことでした」
「いや、最近は面と向かって聞かれることもなくなったからな。少し驚いただけだ」
東小花が梁山泊入りしてしばらくは晁蓋との噂が絶えなかった。好奇に満ちた視線は東小花には一時期は当たり前だったという。晁蓋もあからさまなものは少なかったが視線は感じていた。
様々な憶測が飛び交う中当人たちは気にすることもなく変わらぬ付き合いを続けた。色気のかけらもない二人のやり取りは出会った時から変わらない。
結局は限り無く黒に近いという曖昧な情報が出回った。もはや公然の秘密である。
「楊志にはどう見えた」
「双子のよう、と言いますか。宋江殿とはまた違う繋がりを感じました」
戸惑いながらもはっきりとした言葉に晁蓋は頷いた。一杯、酒を呷る。
「そうか。双子か」
微笑む姿に楊志はつられるように自身も笑んだ。
「お前のような片割れはごめんだな」
「わざわざそれを言いに来たの?」
楊志と別れた晁蓋はふらりと東小花のもとに訪れた。彼女はよく星を見ているので星見の場所を知っていれば会えることが多かった。
「楊志が双子のようだと言った」
「まあ、やわらかい表現だね」
実は最初に恋仲かと尋ねられたことは伏せた。
何の気なしに手を伸ばす。手と頬が触れ合った。
「消えないものだな」
「触れたら泡のように消えると思ってたの?」
夜、晁蓋が東小花に触れたことは一度しかない。初めて出会った日だ。東溪村の外れの丘で星空を見上げていた。
その手が頬を撫ぜれば温かく、やわらかい頬の感触が伝わってくる。星明りの下、瞳の奥まで見通せるわけではなかったが、晁蓋は己の指先が好きに触れるのを許されているのを知った。
「もっと前から触れておけば良かったか」
「助兵衛な奴だなあ」
言葉は呆れを含んでいたが不意に全身を包む腕に東小花は抵抗一つしなかった。
腕の中に存在を感じながら晁蓋は星空を見上げる。
「東の国から来たか弱い花」
「……覚えてたの」
「数少ないお前の話だ」
東の海を越えた遠い世界に故郷がある。
たった一度、酒の席で零した言葉だった。誰も拾うことのなかった言葉を拾ったのは晁蓋一人だったのだ。
「抜け目ない男だな」
「惚れたか」
「呆れたよ」
それから、どちらからともなく笑い出した。
(二、帰郷には遠く)
呉用の執務室には多くの人がやって来る。案件を抱えた訪問者ばかりで呉用はただひたすらにそれと向き合う。
呉用の私室には限られた人間しか訪れない。やって来るときは仕事の話をする者もいる。呉用自身と話しに来る人間はその中でもさらに限られていた。
「呉用、酒飲みだ!」
ごく限られた珍しい人間の筆頭は東小花である。彼女は多くの人間から好かれるのに嫌われ者の呉用とは親しい。
呉用はなぜ東小花が呉用なんかと、という周りの視線に気付いている。当然だと思った。それに彼女が気づいていないはずがない。聞こえてないと言わんばかりに彼女は昔と変わらず当然の顔で呉用に気軽に声をかける。公の場で話しかけられたくない時、その時機はきちんと見計らうのだから、彼女は周りが考えているよりも気を遣って呉用との付き合いを続けている。
「仕事で忙しい」
「休むこともまた仕事」
酒瓶を手に東小花は居座り始めた。こうなると気が済むまで帰らない。今はもうそうないが、下手をすれば朝方まで飲まされた。
東小花は呉用が本当に忙しいときには姿を見せず休もうという時に時機を計ったようにやってきた。他の者にもそうらしく彼女は都合良くそばにいる。
「土産もあるよ」
酒のつまみをしこたま持ち込み我が家のごとく寛ぎ始めた東小花に負けた。差し出された杯を一口で呷った。
二人でひたすらに飲む。酔ってからが二人の本番だった。
「呉用は、マゾか」
「まぞ? なんだそれは」
「苛められることが好きな人のこと」
睨み付けても東小花はびくともしない。呉用が睨んだところで高が知れている。
素知らぬ顔で酒を飲む東小花は以前と違い化粧をするようになった。化粧は彼女に年齢通りとはいかなくともある程度の大人の影を落とした。
化粧を落とすと少女にしか見えない素顔を持っているのだがそれを知っているのは少ない。古参の者たちぐらいだろう。その多くもまさか十余年、姿を変えていないとは知りもしない。もはや知っているのは呉用ぐらいである。
「いや、自虐趣味かな。自分を追い詰めてる」
「趣味ではない」
「役目か」
姿の変わらぬ少女を恐ろしいと思ったことがないわけではなかった。老いる自身を感じながら目の前の少女は女にはならないのだ。
触れられぬ存在だった。
「呉用はね、もう少し気持ちを緩めて鷹揚としたらいいのにさ、トゲトゲなんだよ」
嫌われ者の呉用。
呉用は自分がどれほど嫌われているかを知っている。自身はそうあるべきだとも思っていた。
仲良しの集団はいらないのだ。時には妬まれる者も必要だった。
「……最近は、特にひどい」
何を指すのか、二人揃って口にはしない。
黙って酒を飲んだ。飲み干す。呉用はもう意識が半分なかった。
「こんな器量良しを置いてくなんて最低だ」
誰が器量良しなのだ、と文句を言った気がしたがはっきりとはしなかった。
次に目を開けた時には空っぽの酒瓶と呉用の寝台を占有する東小花がいた。
(三、天王よ、何処へ)
空は澄み渡っていた。日差しは穏やかなもので、降り注ぐその光は人の心を和らげている。
東小花は釣りをしている。相手は宋江である。船頭は趙林というこじんまりしたものだった。盧俊義と三人で釣りに興じたこともあったが最近は二人でか、宋江一人の釣りになっていた。
「宋江は釣りが下手だね」
「東小花も似たようなものだろう」
お互いの腕はよくわかっていたのでそれ以上は言わない。船上ではそれぞれが思いのままに過ごす。ただ釣糸に視線を注ぐのだ。
船が水に揺られるに身を任せ、ただ黙って釣り竿を持つ。言葉を交わすことなく、喧騒と遠い今を船上の彼らはじっと味わっていた。
それからどのぐらいが経ったのか。宋江は隣の空気が揺らぐのを感じた。
「宋江、晁蓋の剣を私に頂戴」
「ああ、構わない」
今晁蓋が鍛えた二振りの剣は宋江の手元にある。それを東小花は駄目元でわがままを言っていた。そして許された。
いわば晁蓋の形見と言える片割れである。即答されると思っていなかったのだろう。口を開けて宋江を凝視した。
「晁蓋に頼まれていた。東小花が欲しがった時にはくれてやれと」
「何も言わなかったら?」
「私にくれてやると言っていたな」
東小花の腕が震えた。それから宋江を睨んでみせる。
鬼の様な形相である。宋江はびくともしない。ただ何事もないようにその眼と対峙するだけだ。
「あんの野郎!」
いくら罵ってみたところで相手はもう手の届かぬ彼方だ。好きに生き早すぎる死を迎えた。
彼女の在り様は志を掲げる宋江にとっても斬新だった。悪く言えば礼儀知らずなのだろう。今の言葉だって、他の誰も晁蓋に向けて叫ばない。叫んで、許されると彼女は知っている。
それでも短くない時間彼女を見ていて宋江は知っている。自由に見える彼女は誰も知らない世界を歩みいつも一人だ。数少ない理解者であろう晁蓋といるときも彼女はどこか一人だったのだ。
「一人ではないと言いたかったんだろう」
「素敵な殿方がたあくさんいますからね!」
彼女にとっての素敵な殿方など真の意味では一人だ。彼女を最初に見つけて最後まで共にいた男。
剣の行く末を宋江は想像しかけたが詮無いことだと再び釣糸の先に集中し始めた。
この水の滸では終わりを迎える気配が少しずつ滲むように近づいていた。
(四、彼の心)
皆建物を駆け抜けて行く。普段は落ち着いた雰囲気を見せる聚義庁だが今は騒ぎの真ん中である。
東小花はその中を悠然と歩いている。いつもと変わらぬような顔で、不自然とも思える落ち着きぶりだった。
「まだ残っていたのか」
「呉用こそ」
梁山泊は水軍に囲まれていた。陸では禁軍との勝負に敗北を喫したのだ。結果梁山泊は沈んでいこうとしている。
非戦闘員は離脱しているが、中で残る者もいる。彼らは腹を据えている。湯隆や李雲、安道全、薛永などはその筆頭だろう。彼らは梁山泊に生きた。そして梁山泊に死ぬつもりなのは見て取れた。
呉用は最後のための処理に忙しいのだろう。髪も乱れいつもと違い浮き足立っていた。
「後始末は着けねばならん」
「そうか。頑張って。私は宋江に会ってくる」
東小花がやるべきことは終えた。あとは宋江に会うことが唯一やるべきことだった。
呉用は何も言わなかった。ただ暫時その瞳を東小花に注ぎ、わずかに口の端に笑みを浮かべた。
珍しく、呉用の人並みの表情があった。もう、滅多に見られなかった。
「またね、呉用」
「……ああ」
呉用の笑みに応えるように微笑んだ東小花はそのまま呉用に背を向けて歩き出した。
いつまでも変わらなかったその背中はとうとう小さなまま呉用の記憶に残るのだ。少女はいつまでも少女だった。
「また、か」
それがいつのことを指しているのか。それは誰にもわからない。ただ、東小花は振り返ることはなかった。
呉用は東小花の背中が消える前に自らもまた歩き出した。
宋江は部屋にいた。じっと自らの剣を見つめている。
その剣の片割れは今東小花の腕に抱かれている。この剣を佩くのはただ一人だ。そしてそれは東小花ではなかった。
「宋江、さよならを言いに来たよ」
「……」
「夢から醒めるんだよ」
微笑む姿はこの世から遠ざかっていた。死の匂いはないのに東小花には生きるものの持つ力がない。
泡の様に消えてしまいそうだった。眼を離せば瞬く間に誰の手も届かなくなるだろう。
「宋江、冥土の土産に聞いていきなさい」
「東小花」
「私はこの世の者ではないんだよ」
国どころか時代も違う。それどころか彼女にとってここは夢のような伝奇の世界だった。夢の様に遠い現実を、彼女はずっと生きてきた。もう、この事実を知っている者はいない。唯一託した相手は遠い月日の向こう側に消えていた。
託された宋江は表情を変えない。ただ黙って東小花を見ていた。宋江の脳裏にいつの日かの記憶が過る。
「晁蓋が、お前は天女だと言ったことがある」
「天女」
「惚気かと思ったのだが真実だったらしいな」
彼方の世界の女。羽衣すら持たず地に立った。
ただ天女といったその心に東小花はたまらなく愛しさを覚えた。
「天に帰るか」
「羽衣がなければ空は翔けられないよ」
羽衣を持たぬ手が晁蓋の剣を抱く。宋江は己の剣を見て笑う。
彼女の望むさよならが見えてきた。
「晁蓋に抱かれて死ぬか」
「宋江は違うみたいだね」
彼はこの梁山泊の象徴だった。誰もが認める頭領。志の向こう側にはいつも宋江が、晁蓋がいた。
最後までここを離れはしないだろう。そして最後のそのときまで宋江は待つはずだ。
ただ何処か。それだけが定まらない。死の後は考えていなかった。
「ずっとね。死ねば、私の世界に帰れるかと思ってた」
「死の向こう側か」
「晁蓋はそういうときに必ず茶茶を入れたよ。……死ぬなと、言われた気がしたなあ」
東小花を繋ぎ止めていた人はもういない。絶対の楔はもうなかった。
晁蓋亡き後彼女を繋いでいたのは小さなものばかりだ。それが積もり積もって晁蓋の代わりになっていた。
しかしそれらは全て東小花は手放した。積み重なったものを彼女は壊したのだ。
「もう、帰れなくて良いんだよ」
この地で二十年近くの歳月を過ごしたのだ。故郷への思いは変わらずとも叶わぬ願いと思っていた。
誰の瞳からも十代の少女に見える東小花は誰も知らぬところで疲れ切っていたのかもしれない。化粧をした顔立ちすら変わらぬ姿は訝しげに見られることも少なくなかった。
彼女の思いの変化に誰も、気付かなかった。気付けたとしたなら晁蓋一人だろう。少なくとも宋江には分からなかった。
「晁蓋に会いに行っても罰は当たらないと思わない?」
「……お前がそう願うなら」
晁蓋の死から少しずつ東小花の体から何かが欠け続けてきたのだ。それがここにきて完全に消えようとしていた。
梁山泊の敗北が拍車をかけた。崩壊は、誰にも止められないことだった。
東小花はもう一度剣を抱き締めた。
「ついでにお願いを聞いてよ」
「それを聞くと私は晁蓋に殺される」
「ちょっと剣を一刺しなのに?」
ちょっとどころではない。その一刺しの先は東小花の心臓なのだ。それを彼女は望む。
剣を望んだ日から決めていたのだろうか。宋江が負けたときを考えたときのように東小花もまた負けたあとを考えたのか。
「死に場所は」
「宋江と話すまで決めていなかったけれど今決めた」
決断した東小花は晴れやかだった。いつもの東小花だ。子どもたちにものを教え兵士たちの悩みを聞いてやる東小花がいた。
彼女は晁蓋が目指したから梁山泊に入ったわけではなかった。仲間と共に生きたいから梁山泊にいたのだ。
彼女に相応しい場所は梁山泊だった。
「替天行道。宋江が語り晁蓋が名を付けた。そここそ、晁蓋に抱かれてることになる」
「……共に晁蓋に、志に、仲間に、包まれるか」
そう言われて断れるわけがない。宋江は観念し、重い腰を上げてその小さな天女の提案に乗るのだった。
喧騒の中二人で旗の元に向かうが、少し前を歩く東小花はまるで死地に誘う者のようだった。
好色だと言われた宋江だが東小花に手を出したことはなかった。もちろんそれを強く止められていたからなのもあったが、彼女はいつだって晁蓋の、晁蓋だけの花だった。そうであって欲しかったのだろう。彼女自身が逃げの名手でもあった。ゆらりゆらりと、羽衣こそなけれど彼女は上手くこの砦で踊りきった。
「お前がいるから、逃げるわけにはいかないな」
「女は腰を据えたら男より強いのよ。宋江、逃げたら女より意気地無しの謗りを受けるからね」
東小花に、負けるわけにはいかなかった。それこそ晁蓋に笑われるだろう。
足の腱を切っておくつもりだったがそれすら必要なかった。
「今日は、良い天気だな」
「絶好の死に日だね」
穏やかな空気だった。
ゆっくりと、死を待つ空へ二人は歩んだ。
(五、終幕)
(天にはこの手は届かない)