*名前変換されていない名前がありますが仕様です。
くちゅんっ。
そのかわいらしいくしゃみに私はくるりと振り返る。
「レオ君、風邪?」
「多分。昨日ザップさんにずぶ濡れのまま連れ回されたからだと思います」
控えめに、けれどもジロリとザップを睨むレオ君だったがソファに寝転ぶザップは携帯ゲームに夢中のようでその視線に反応すらしなかった。負ければいいと思う。
本日のザップはクラウスさんが不在かつスティーブンがザップを無視していることにより少々、いや、かなり気を緩めている。時々笑う声が次第に大きくなっているのでそろそろ怒られるのではないか不安になる。今のところザップが無事なのは有害認定されていないというよりは存在を拒否されているパターンだ。多分スティーブンは徹夜だ。他の余計な情報を遮断して仕事を最優先にしている状態とみている。
本日ゲームに夢中なザップだがあれは開き直って疲れ切った故の現実逃避だった。
というのもザップはここ数日必死になって探しものをしていた。女のところに入り浸りもせず、それこそ血眼になって。
その過程でレオ君は人手が足りないと雨の中にも関わらず文字通り振り回されてずぶ濡れになったわけだ。
私も勘を働かせて探してくれと泣きつかれていたけれど無視していた。探してやる義理が一つもない。
私の勘の良さはこのライブラの中では周知の事実だ。でもこの勘の良さが特にさがしものに有効ということはザップに教えていない。そのことを教えれば何かと体よく利用されるだけなのは目に見えていたので。今回は特にしがみついて離れなかっただろうと想像すると本当に話していなくてよかったとホッとしている。
そんなこんなでザップの努力も虚しく探しものは未だ見つからず、とうとう開き直ってここでゲームをして現実逃避をしているのだ。レオ君を振り回していたのはいつものことだがずぶ濡れにさせて放置したのは八つ当たりだろう。レオ君が哀れだった。
私は立ち上がりながらこちらに意識を向けもしない薄情なレオ君の先輩、私の後輩ザップに声をかける。
「ザップ、後輩は大切に」
「ア? 今いいとこだから話しかけんなエレ公」
「探してたピアス見つけたけど捨てるね」
途端に寝転がっていたソファから飛び起きた男は夢中になっていた携帯ゲームを放り出して私のデスクへ滑り込んできて床に膝をついて正座になった。目が異様な輝きを持っていて正直怖い。見つけたピアスを捨てたくなった。見つけたくなかった。全てが全てザップのせいである。
そう。無視を決め込んだ。決め込んでいたのに先日残業している際、完全無視を決め込む私にキレたザップがさがしものに至る一部始終を無理やり聞かせてきたのだ。彼の八つ当たりの行為は今回の場合彼にとって良い方向に働いた。私の勘の良さゆえの捜索アンテナに当該ピアスが引っかかってしまったのだ。
残業終わり、ふと妙に気になったデスクの下、コードが混線するその中にキラリと輝くガラスに色が入ったおもちゃみたいなピアスを見た瞬間ゾッとした。ヤバい念が入っているのだと素人でもわかった。曰く付きのピアスを手に持ちたくなくてハンカチ越しに持ってしまったほどだ。
「エレナ様! 後輩大事にするとか当たり前じゃないっスか〜!! レオナルド君! なんてことだ! そんなに震えて! 大変じゃないか!」
「エレナさん一体ザップさん何を探してたんすか」
レオ君がザップの豹変ぶりにドン引きしている。当然だった。
先ほどまでの冷たい態度はどこへやら。正座をしていたかと思えば今度は素早く立ち上がりソファにかけられていたブランケットを猫なで声と共にレオ君の肩にかけている。今のザップほど気持ち悪いものはないだろう。私ならすぐさまそのブランケットをはぎ取ってザップにぶつける。心優しいレオ君は素直にかけられたままにしている。外す勇気がないのかもしれない。
理由もわからずに雨に打たされたり打算にまみれたブランケットに包まれたりと理不尽な仕打ちを受けるレオ君があまりにもかわいそうだった。かけられたブランケットはもはや嫌がらせの領域に入っている。
ザップがなぜこれほどまでに必死になっているのかを伝えるのは非常に嫌だったが致し方なく伝えてあげる。
「持ち主に返さないとザップが呪われるピアス。具体的に言うと返すまで不能になる。いろいろヤバすぎて正直今すぐ捨てたい」
「ぅおいこらてめえ!」
「ザップ、うるさいぞ」
本日も秘密結社ライブラは実に平和だ。私の上司がここまで会話を放置し、なおかつ今もまだ部下を見もせず嗜める割に黙らせない程度には。
しかしこれ以上はザップが騒がしくなるしスティーブンも予備動作なしで部下を殺意をもって黙らせる可能性も出てきた。私も厄介ごとはごめんだとハンカチ越しに手にしたピアスを早々にザップに向って投げた。
もちろんザップは見事にキャッチしその瞬間に事務所を飛び出していた。お礼もない。呪ってきた相手に土下座して謝りの上なんとか問題を解決するつもりだろう。そしてそのまま今日は戻ってこないはずだ。最低最悪の男だ。
嵐の去った後のように事務所は静かになり、疲れ果てた私とレオ君が呆然としている間、スティーブンがキーボードをたたく音だけが静かに響いていた。
ふと我に返った瞬間、レオ君が予想以上に疲労困憊の体であることに気が付いた。昨日から心身ともに疲れ果てただろう。嵐が去ってその緊張が緩んだとしても何の不思議もない。
「レオ君、諸悪の根源も帰ったし今日は早く帰って寝たほうがいいよ」
「そうします。なんだか寒気がしてきました」
先程かけられたブランケットを外してのろのろと立ち上がるレオ君の足取りが覚束ない。このまま数日寝込むのが簡単に想像できた。
あまりに不憫が過ぎて徹夜用に買い込んでいた栄養ドリンクやらゼリー飲料を袋に詰めて渡してあげる。
ザップのような身勝手な男に振り回される善良な少年はほんの少しだけ過去の自分に似ている気がしていた。能力ゆえに都合よく人に振り回されていたあの頃の自分と。まあ、彼は私よりも選びながら己の道を進んでいるし私よりもよほど運は良い。ライブラはやってることはとんでもないが人自体は基本的に一部を除けば善良なのだ。私もレオ君にとっての善良であれたらいいなと思う。
「お大事にね」
ぽんぽんとその頭を撫でてあげれば照れ臭いのか小声でお礼を言われる。それがまたかわいらしいものだからもう一度頭を撫でてしまった。20歳近い男の子をかわいがり過ぎた気はしないでもなかったが最近は仕事が詰まりつつあったのでそのぐらいの戯れは許されたい。
そうしてレオ君は無事早退し、事務所の中はさらに静かになる。頭脳戦よりも現場が多いこの事務所では完全内勤の私とスティーブンが残ることは少なくない。温厚な人たちは外交や家庭や隠密活動にも忙しいのである。そういうものに縁がないワーホリ気味の私たちは時折クラウスさんに強制退場させられるけれど本日はそういったこともなく、人がいなくなれば仕事は淡々と進んでいった。順調のはずだった。気づけば机の端に置き逃げされているザップの書類を見るまでは。
ザップが溜めて遅れた書類の確認を投げられるのは大抵私である。そもそもあの男に書類仕事は土台無理なのに甘やかしてはならぬと取り組ませた結果しわ寄せは私にやって来るのは理不尽だと思う。たまたま昔面倒を見ただけだったのにここまで尾を引くとは思いもよらなかった。
今日はまとめて出された書類の不備をチェックしてはあまりにひどいものは修正をかけ、不正経費の申請は経理に通す前に突っぱねる作業に勤しんでいる。
レオ君は書類関係は不慣れだけれどわからないことは私なりスティーブンなりわかりそうな人間に聞いてくれる。他の人も特に問題もなく締め切りを守ってくれる。あの人間のクズだけが特段ひどいのだ。もう少し不能のまま道端で転がっていてもよかったのではとすら思えてきた。
「タイプ音が激しくなっているようだが」
「すみません。ザップへの憎しみが溢れ出ました。あれに事務処理させるのやめましょう。杜撰な不正しかしません」
「それでもいいがそれはそれで君苛立つと思うぞ」
「どちらにしても地獄なのは知ってますよ」
とうとう舌打ちまで出てきた。連日の過重労働にザップの捜し物まで結果的に手伝って疲れていた。当の本人は挨拶もそこそこに飛び出したのだからなおさら。私のささやかな労働を返してほしい。
ため息を落としながらザップ関連の書類を片付けてしまう。これが終わればとりあえず今日終えたい仕事は最低限済ませたことになる。
「スティーブン、今日そちらの仕事で急ぎは?」
「ないね」
「では今日は早めに帰ります。なんだか疲れました」
「はは。おつかれ」
知ってはいたけれど淡白な上司はその一言ですべてを片付けた。そう、おつかれです。
別に労われていないわけではない。あくまでも私にできると思うことしかこの上司は振ってこないのでできると思われたくて部下は働く。こうして人間は労働の歯車に組み込まれ疑問を抱かなくなる。
まあ、私の場合仕事をする分同じ空間で過ごせることが多いのでそれもあって甘んじているところはあるのだけれど。
明日のために書類を整頓して、あとは明日の私に託すのみと立ち上がる。
「じゃあ、おつかれさまでした」
「おつかれ。……エレナ」
「はい?」
部屋を出るまであと少し。名前を呼ばれたので立ち止まり振り返る。
スティーブンのつけた第二の名前は耳に慣れたものだ。なぜエレナなのかということは未だに理由は解明されないままだったけれど気にしない。スティーブンの気まぐれがない限りは全ては闇の中である。
声をかけてきた割にすぐに話し出さないのは彼にしては珍しい。
「何か急ぎの仕事でもできましたか? それなら今からやりますよ」
「いや。君、僕が風邪を引いても同じようにするのかなと思っただけ」
「? 同じって、レオ君に何かしまし、たっけ……」
脳が全力でその可能性を否定する。まさか、そんなことはあり得ないだろう。相手はなにせスティーブン・A・スターフェイズだ。あり得ない。
レオ君と同じように、というそれが、風邪を引いた時という限定されたそれが何を指すかなんて。
「なんでもないさ。早く帰らないと仕事が舞い込むかもしれない」
「同じようにしますよ。なんならあなたの方が休まなさそうですから、休むまで見届けましょうか?」
「それはありがたい。無茶してたら止めてもらおうか」
「そもそも倒れる前に休むことをおすすめします。では、おつかれさまでした」
「ああ。帰り際に悪かったね。おつかれ」
私の脳みそは思考停止して妙なことを口走った。口走ったことに外に出た後に気づいたけれど取り返しはつくわけもない。動揺のあまり気づけば家に帰ってシャワーを浴びていた。どうやって家に帰ったかは覚えてない。アルコールもないのに人は記憶を飛ばせるのだと初めて知った。
兎にも角にも恐ろしくて具体的な言葉に出して確かめることは出来なかったけれど私は彼が風邪を引いたら頭をなでて気遣うフラグを立ててしまった、らしい。
なのでそんなことが起こらぬよう、今後上司の体調には今まで以上に気遣おうと心に決めたのだった。
スティーブンもおそらく徹夜だったけれど私もそういえば徹夜だったと、半日近く寝てから気が付いた。