美しいと言える曲線を描いて「真ちゃん」のシュートはゴールネットをくぐる。
 何度見ても飽きないそれを、彼女はいつまでも見つめている。






「真ちゃん、私真ちゃんのシュート好きだよ」

 夏休みの最中でも進学校の秀徳では課外授業がある。当たり前のようにお盆もあけた頃に組み込まれたスケジュールに生徒は文句を言いながらも参加する。一応、夏休みの課外授業という名目なのもあって午前中だけの授業で、午後は散り散りだ。
 そんな課外授業のある日の朝、彼女は駅に向かう途中でぽつりとそうこぼした。
 昨日は練習試合で、彼女はそれを見ていたからその余韻だったのかもしれない。
 それでも何の脈絡もなくふと伝えられた言葉にも緑間は少し答えるのに間を要した。

「オレのシュートは落ちんからな」
「それもあるのかも」

 歯切れの悪い返答だった。
 ではなんだと、彼の目が彼女に問いかけているが答える様子はないらしい。楽しげに微笑むばかり。
 彼女が中学の頃から試合を見に来ることを彼は知っていた。自主練習も通りがかれば覗いていることも。そしてその度になぜか部内の他の選手に話しかけられては見に行った試合や練習のことを話し、多少は仲良くなることも、知っていた。
 時折たちの悪い輩がいたが大抵は緑間が睨めば怯むような類だったし、そうではない、緑間の少しだけ鋭い視線に耐える神経の図太さを持っている類の人間は彼女に普通に接していた。そして彼女と知り合った後、なぜかそういう面々は総じて緑間を見て妙に笑うのだ。一体何を話されているのか、未だに緑間は知り得ない。

 緑間は自分が決して愛想が良いとは思っていない。むしろ悪いことを知っている。
 それなのに八年も前から彼女はずっと一緒にいる。一緒にいて、そして誰になんと言われても彼女は怯まず、ただ照れくさいねと笑いながらも真ちゃんと呼び続けた。からかわれても緑間くんって呼ぶのは慣れなくて、と初めて出会った時からの呼び方を続ける彼女に緑間もなんとなく変わらず名前を呼んでいる。


「なあに、真ちゃん」
「どうしてオレのシュートが好きなのだよ」

 今度は彼女が答えに窮している。
 乗り込んだ電車は高校生は夏休みでも大人は働いていて、休み前と変わらない景色だ。

「真ちゃん怒らないでね」
「聞かずには言えないのだよ」
「……真ちゃん、昔からなんでもできたでしょ? 勉強も運動も。でも、昔生まれて初めてあんなに悔しそうな顔をしたから」

 真ちゃんのシュートはね、高く高く上がるでしょ。室内なのに一瞬、屋根を越えて飛んで行っちゃうかと思ったの。でも昔、そのシュート、外したんだよ。外したんだけど、でも。
 外したそのシュートが、一番記憶に残ってると、彼女は笑った。
 絶対に外さない。それが中学生時代のある日を境に生まれた緑間真太郎だった。彼女はその前の、絶対ではない、シュートを外した時の緑間を真っ先に口にした。本当に、もう誰も覚えていないであろう緑間のその姿を。悔しいと思ったその顔を。

「それから、あとね、真ちゃんボールを構えてゴールを捉える瞬間、ゴールだけしか見えてなくて、綺麗だから」

 真ちゃんと名前を呼んで、笑いかけて、近寄って、すぐに隣にいる彼女は決して緑間に触らない。
 小さな頃はそんなことはなく、ことあるごとに手を繋ごうと言い張った女の子は年を経るごとに言わなくなり、パタリと触ろうとすらしなくなった。
 それは、中学生の途中からだっただろうか。

「真ちゃんは、とってもきれいだから、触るのがこわいのかもしれないなあ」
「……」

 それから緑間は黙りこみ、彼女はそっと緑間を窺っては顔を伏せて声をかけるのを諦める。
 それを数駅分。学校の最寄駅に着いてしまった。

「真ちゃん、降りよう」

 降りなければいけないのに緑間は動こうとせず、真ちゃん、と急かす声も聞こえぬ振り。
 知らないからねと彼女が降りようとする瞬間、ふざけるなと声がしたかと思えば腕をぐんと引っ張られていた。
 目を見開く彼女に緑間はお構いなしだ。
 音と共に扉は閉まり、二人はそのまま次の駅へ。

「いたいよ真ちゃん」
「知らん」

 そう言いながらほんの少しだけ緩まる手の力に彼女は思わず笑ってしまう。それでも離してくれないのは先ほど彼女がこぼした言葉のせいなのだろうか。緑間にしかそれはわからない。
 窓を過ぎる景色を見て、そして緑間を見て、彼女は不安と期待の入り混じった瞳をしている。

「真ちゃん、学校通りすぎちゃったよ」
「ああ」
「……真ちゃん、サボタージュだよ」
「そうだな」
「…………真ちゃん、噂になっちゃうよ」
「好きにさせればいいのだよ」
「真ちゃん」
「何度も呼ばなくてもわかってるのだよ」
「真ちゃん、海に行こうよ」
「嫌なら帰るぞ……海?」
「真ちゃん、海に行こう」

 夏の空は窓の向こう、青く青く広がっている。


***


「きれいだねえ」

 堤防から海を眺めてソフトクリームを食べているは課外授業をさぼってしまったことに冒険心がくすぐられているらしい。緑間の知る彼女よりも陽気で、そわそわと落ち着きがなかった。
 学校への路線の続く先に海沿いの街はあった。定期の乗越料金を払い、降りたそこは夏休みだからか制服の二人が午前中から海沿いにいても咎められることはなかった。
 潮風は二人の間を通り、痛いほどの日差しは体に降り注ぐ。
 少し先の浜辺は海水浴場らしく人で賑わっている。

「今年はまだ来てなかったんだ、海」
「ああ」

 ふと隣を見た緑間は彼女がソフトクリームを片手に自分を見ていることに気がついた。

「溶けても知らないのだよ」
「真ちゃん」
「何だ?」

 言われた忠告を守るように残り少しのソフトクリームをあっという間に食べてしまった彼女は手に着いたかけらを払ってもう一度緑間を見ていた。
 スカートが風に揺られて、彼女の前髪もふわりと流れた。

「真ちゃん」
「聞こえている」
「真ちゃん、手、繋ごう」

 そう言われたのにぎゅっと握り拳を作ったその手を緑間は一歩距離を詰めて持ち上げた。

「拳を作って手は繋げないのだよ」
「……うん、そうだね」

 ゆっくりと、握られていた拳はほどかれる。

「いつまで経っても危なっかしいのだよ」
「……もう、高校生だよ、私」
「ああ」

 暑さのせいか、はたまた別の理由か、二人はぎこちない腕の振り方で海沿いの道を歩き出す。
 触れ合う手が陽ざしとは別の熱さを生み出している。

「真ちゃん」
「今度は何なのだよ」
「好きだよ」

 答えはない。

「真ちゃん、手、痛いよ」
「手を離そうとするからだろう」
「……だって」
「好きでもない限り海に来たりしないのだよ」

 その瞬間、半ば引っ張られるようにしていた彼女がピタリと止まってしまった。
 絶え間なく聞こえるさざなみは、二人に聞こえているのかいないのか。

「真ちゃん、今なんて」
「午後は練習があるからそろそろ戻るのだよ、

 ぐいと、繋いだ手ごと引っ張られるけれど彼女の歩みは遅い。
 のろのろと、ぐんぐん前を歩く緑の背中を穴が開くほど見つめている。

「真ちゃん」
は黙って俺のシュートをいつも通り見ていれば、それでいいのだよ」

 彼女はいつもいつだって緑間のシュートを見ていた。外しても、外さなくなっても、いつだって。
 彼女は気が付けばいつも隣にいた。彼にとってそばにいることを考えるまでもなく当たり前の、幼馴染だった。
 振り返ればそこにいる。

「真ちゃん、私と同じ気持ち?」
「……」
「真ちゃん」
「好きだ」

 緑間がくるりと振り返った瞬間、真っ直ぐに届けた言葉はだからどうしたと言わんばかりに飾り気もなく、それだけにわかりやすく、彼の本心だった。

「真ちゃん」
「何だ」
「顔、赤いよ」

 同じように顔を赤くして笑いける彼女を見て繋いでいる手が少しだけ動いて、それから勢いよく緑間は前を向いてぐんぐん早足で歩き出した。背の高い彼がそれをすると自然と彼女は小走りみたいになる。

「真ちゃん待って早いよ」
「部活に遅れる」
「それはまずいけど、ふふ、真ちゃん待って、ねえ」

 次第に彼女は何が面白いのか明るく笑って、駅まで二人の足取りは軽かった。
 背中には、光を浴びてきらきらひかる青空が広がっている。


(真ちゃんと私の夏のある日)