朝、彼女は片手に牛乳を入れている小瓶と小皿を持って外に出る。そして入口近くに小さな影を見つけたら彼女はその小皿を玄関から少し離れた地面に置き、皿の中にミルクを注ぐ。それから少し距離を取り、腰を下ろしてそれに近づく小さな影を見守っている。
 その小さな影は白く艶やかな毛並みを持っている。くるりと丸い瞳は青みがかっていて、そのすらりとした肢体を優雅に動かしながら小皿の元に近寄る様は実に余裕がある。ちょっとずつ、確かめるようにミルクを飲む姿に彼女はふっと肩の力を抜いて、微笑んだ。

「うちにきたら、毎日ミルクをあげるし、あなたのための寝床を用意するわ」

 その言葉を理解したのかはわからない。猫は不意にミルクを飲むことをやめ、じいっと彼女を見つめていたかと思えば小さく一鳴きした。







「こら、メローネ、お風呂に入るわよ」
「……オレはいつから猫になったの?」
「あなたのことじゃない。猫よ」

 で、どうして君はその猫にオレの名前をつけたの。
 メローネの問いかけは綺麗に無視され、彼女は白い毛並みのその猫を捕まえると泣き喚かれながらもバスルームへと去っていった。人間のメローネは置いてけぼりである。

「久しぶりに来たのに随分だよ」
「久しぶりだからよ」

 聞いていないのかと思えば聞こえたらしい。一言だけ返した彼女はその後は猫を洗うのに一生懸命らしくメローネが声をかけても返事はなかった。
 最近詰まっていた仕事がひと段落し、少しは自由のきく身になったところでメローネは不意に彼女のことを思い出し、ふらりと今夜立ち寄ることにした。
 そうすると彼女は以前と変わらぬ様子で出迎えてくれたのだけれどあまり相手ができなくても文句を言わないでねと言いながら家の中に先に入っていた。首を傾げたメローネを出迎えたのは彼女と、そして猫のメローネだった。今の彼女にとって人間のメローネは猫のメローネより優先順位が低いらしい。
 仕方が無いと、彼女の家を彼は我が家のように歩き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すとグラスに入れて飲んだ。そのまま飲もうとすると彼女はとても怒るのだ。そのまま一日口をきいてくれないこともある。
 喉の渇きを潤すとそのまますぐにグラスを洗ってふきんで水気をふき取ると元の場所に戻してしまう。そしてソファに身を沈めるとテレビをつけて適当にチャンネルを回してなんとなく気になったところで手を止めた。
 最近街で話題の商品や店を紹介するという番組を見ながらもメローネの視線は部屋に以前はなかった餌用の皿や猫が住処にしているらしいブランケットを敷かれたスペースに泳ぐ。物が少ない家で急に増えたそれらは妙に目についた。

「君って浮気したらすぐバレるでしょう」
「そもそも浮気をしないからそんな心配は無用よ。あなたとは違って」
「ヘェ?」

 猫を洗い終え戻ってきた彼女を、振り向きもせず声をかけてきたメローネに彼女はもう驚きもしない。最初は随分不思議がって、後ろに目でもついているのかと聞いてきたのだが今はもう、何も聞いてこない。そういうものだと認識したらしい。
 猫のメローネは乾かすところまですべて終えたらしく、ブランケットに収まると主人も客人も無視してその瞳を閉じた。洗われることに疲れたのか人間のメローネのことはどうでもいいらしい。

「お客さんに愛想のない猫だ」
「メローネはいつもこうよ」
「……」
「なに?」
「いや、なんでもないよ」

 そう、と彼女は台所で何かを火にかけた。彼はそれを見なくても、彼女がソファの隣に落ち着く頃にはそれを飲む準備ができている。
 そしてやはり彼女はメローネの考えていた通り、マグカップを二つ手にしてソファに腰掛ける。片方は彼の手に。並々と注がれた白い液体。小皿と違うのはそこにほんの少しのブランデーが入っていることだろうか。彼女は夜、いつもそれを飲む。

「もしかしてもう寝ちゃうつもり?」
「私、明日仕事よ」
「嘘。君明日は定休だろう?」

 メローネの言葉に彼女はほんの少し口の端を持ちあげた。そうだったかもしれないわ、と一言添えて。
 一口飲んだホットミルクは彼の分だけほんの少しブランデーが多い。それを彼女にお願いしたから。前回飲んだ時と変わらない分量のホットミルク。
 まるで昨日の続きみたいに彼女はメローネにそれを渡し、メローネも当たり前のように飲んでいる。

「私、明日はメローネのことで忙しいの」
「オレのことじゃないか」
「猫のことよ」

 うん、とにこにこ顔でメローネが頷けば彼女は目を細めて睨んでいた。目で人を威圧するのは彼女の癖だった。言葉にする前に目で彼女は訴えかけてくる。果たしてどういった抗議の視線なのかメローネには正確なところはわからない。しかし彼の言動で彼女は揺れている。メローネにとってはそれだけで十分だった。

「オレは君の前では捨て猫も同然だよ」
「怪我した野良だっただけでしょう」
「怪我の治った野良猫はどこへでも行けばいい? じゃあそいつもいつかは?」

 その声が、瞳が、口の端が、すべてを楽しんでいた。彼女の一挙一動を、己の言動を、なにもかもを。

「………気まぐれで居座ったくせに」
「また気まぐれだと思ってる?」

 覗き込むメローネの髪がゆらゆら揺れる。青い瞳が揺れる。面白がって、楽しみたがって、それははっきりとわかるのにその奥にあるものはなかなか見えない。
 問いかけに彼女は沈黙と視線を返す。熱のない、ただまっすぐに伸びる瞳。

「気まぐれであればいいと思ってるの」
「どうして? オレがあんたを忘れられなくて戻ってきたとは考えてくれない? 運命を感じたとは?」
「それをさも本気のように言ってしまうからメローネ、あなたのこと近くにおきたくない」

 口に運ばれていくマグをメローネは目だけで追いかける。彼の分のマグは空になっている。
 彼女は少しずつ、時間をかけてホットミルクを飲み干す。味わいを確かめている間にホットミルクはぬるくなってしまうのに、いつもそうだった。
 彼女と座るこのソファはメローネの寝床だった。ベッドは他にはないからと、彼女は自らリビング以外の場所にメローネを案内することはなかった。
 怪我の手当をし、食事を与え、時折眠っているメローネの頭を撫でる。
 あっという間だった。傷は動けるほどになるのは本当にすぐで、ただまだ本調子じゃないんだよという言葉でメローネはソファで夜を迎えたし、その間ホットミルクは二つ用意された。
 仲間に連絡は入れていた。メローネの気まぐれはいつものことだったけれど、拠点と距離があるからと対面の連絡を逃れるにも限界があった。

「改めてサヨナラなんて、言えなかったんだよ」
「じゃあ改めて、今日こそサヨナラよ」

 つきつけられた別れの言葉に、眼差しに、彼はゆるりと口を弧に描く。その瞳がどれだけの慈しみを持っているのか、彼自身は恐らく気づいていない。彼のその瞳の奥にある獣のように荒々しい光に、彼女は気づいていない。

「君の目の色、好きだよ」
「なんなの」
「君の瞳の中が一番正直にオレを見てる」
「何を、」

 二人の間の距離がぐんと近づいた。彼女の瞳の中には目を細めて笑いかけるメローネがいる。メローネの瞳の中には目を細めて睨みつける彼女がいる。
 触れ合いそうな気がするのに、そこから距離は縮まらない。

「ほら、目が一番素直だろう?」
「意味が分からないわ」

 近づいてくる瞳の色を、彼女は見つめていた。一瞬だけ触れる間も、頑なだった。
 それでも少し顔を離した彼はふわりと微笑んだ。彼女の家に来て、安っぽいドラマみたいに彼は穏やかさを見せた。それは彼を蝕んで、忘れがたいと脳内で叫ばせ、陳腐な小説みたいに彼を走らせた。

「オレね、信じてもらえなくてもいい。この仕事についてから初めて、君を欲しいと思ったんだ。誰でもない、君自身を。運命なんて言ってしまえば簡単だけど、でも運命みたいだよ」

 彼女の見つめる先には青。
 アパート前で行き倒れていた男の瞳の色が、どうしようもなく瞼の裏にまで焼き込まれてしまったのか。間近に見える青に彼女はふっと笑う。
 手を伸ばして、その手で頬に触れる。
 メローネは真っ直ぐに彼女を見つめてきた。

「オレに君を頂戴。君にオレをあげるから」
「……私、趣味が悪いわ」
「オレは最高にイイ女を見つけたけど」

 信じられないわ。
 そう言って啄む彼女にメローネは青の瞳をゆらゆらと揺らして包み込んだ。




(Un gatto ed una tazza)